王平 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 7
298件見つかりました。

1. 三国志演義 7

きようき と言えば、部将襲起が言下に進み出たから、彼にもまた三千騎を与えて打ち立たぜたうえ、城内 の邦昭が討って出るのを警戒して、二十里退いて陣を取った。 さて謝雄は兵をひきいて進み出たところを王双と出会い 、三合とせす、彼の大薙刀にかかって截 ち割られた。蜀の兵士がどっと引きさがれば、王双は勢いこんで追い討ち、襲起が迎え撃ったが、 上これまたわずか三合で斬り落とされた。逃げもどった兵士の知らせに、仰天した孔明は、あわてて を おうへいちょうよく 表廖化・王平・張嶷の三人に迎え撃たす。両軍、相対峙して、張嶷が出馬し、王平・廖化が左右に 再立てば、王双が馬を飛ばせて張嶷に打ちかかってきたが、数合しても勝負がっかぬ。それとみて王 ュ矢 双は負けた振りをして逃げ出し、張嶷は逃さじとこれを追う。王平は張嶷が計られたと知ってあわ て てて、 「追うな」 ん と叫び、張嶷も急いで馬を返したが、その時早くも飛来した王双の流星鎚が背中にめりこむ。張 を 国嶷は鞍にうつぶせになって逃げ、王双が追い迫るところ、王平・廖化が討って出て彼を救い出した が、すかさず王双が手勢を駆って押し寄せたから、蜀兵はさんざんに討ち崩された。張嶷は数回も 回 七血を吐き、帰陣して、「王双は天下無敵であり、今二万の軍勢をもって陳倉城外に陣取りし、四方 第に柵を張りめぐらして、城を築き深い濠を掘って物々しく固めている」と報告した。孔明は部将二 きようい 人が殺され、張嶷までが傷を受けたのを見て、急いで姜維を呼んだ。 「陳倉道はとても通れそうにない。他になにかよい法があろうか」

2. 三国志演義 7

「蜀の大将王平これにあり」 と叫ぶ。魏の兵士たちはあわてふためき、大半が蜀の兵士に斬り殺された。岑威は討ち洩らされ た兵士たちをひきいて立ち向かったが、王平のためただ一刀に斬りすてられる。他の者どもは八方 に逃げ散り、王平は兵をひきい、奪い取った木牛・流馬を駆ってもどってくる。討ち洩らされた兵 かく - わい 士が、北岸の台地の陣屋に駆けこんでこれを知らせれば、郭淮は兵粮が奪われたと聞き、急ぎ兵を ひきいて討って出た。王平が兵士に木牛・流馬の舌をひねらせ、道に置きざりにして戦いながら引 き退がれば、郭淮は追うのをやめさせ木牛・流馬を駆ってとって返すよう命ずる。兵士たちはいっ めせいに弓いて帰ろうとしたが、どうして動くものではない これはどうしたことかと郭淮がうろた をえるところへ、天にとどろく笛・太鼓の音とともに四方に喊声がわき、二手の軍勢が討って出た。 渭これそ魏延・姜維で、王平も兵をひきいてとって返す。三方から揉み立てられ、郭淮がさんざんに 討ちなされて逃げ去れば、王平は兵士たちに命じて牛馬の舌を元にもどさせ、ふたたびこれを駆っ 懿て進み出す。はるかにこのありさまを眺めた郭淮が、兵をひきいて再度、追い討とうとするおりし 司も、山かけし こもうもうたる煙が立ちのばるとみるや、手に手に旗や剣を持った異様な姿の神兵が躍 回り出し、木牛・流馬を取り囲んで風のごとく立ちのいてゆく。 百「これは神の助けだ」 郭淮は仰天し、見ていた兵士たちも、誰一人驚かぬはなく、追って出るのを諦めた。 さて司馬懿は北岸の台地で味方が破られたと聞き、みずから軍勢をひきいて加勢に出たが、中途 あきら

3. 三国志演義 7

と孔明が嘆息する。その言葉も終わらぬうち、進み出た一人の大将、 「それがしが参りまする」 ちょうよく 見れば張翼である。 ばんぶふとう 「張部は魏の名将で、万夫不当の剛の者。そなたの手におえる相手ではない」 「もし仕損ずるような時はこの首を差し上げます」 「ではそなたは王平と精兵一万ずつをひきいて山あいに伏勢せよ。魏の軍勢が追って参ったなら、 やり過ごしておいて、うしろから打ちかかるのじゃ。司馬懿があとから追いついて参ったなら兵を を二手に分け、張翼は後からきた勢にあたり、王平は前の勢の退路を絶て。両軍とも決死で戦うよう。 のわしが必す加勢する」 きよ、フい りト ` うか 二人は計を受け、兵をひきいて打ち立った。孔明はそこで姜維と廖化を呼んで命じた。 にしき 大「そなたたちにはこの錦の袋を渡しておく。精兵三千をひきい、敵に気取られぬように前の山の頂 葛にひそんでおれ。王平・張翼が敵に囲まれて危うくなっても、救いにゆくにはおよばぬ。この袋を 開けば王平たちの急を解く策がはいっている」 回 ばちゅうちょう一よく 九 二人が承知して、軍勢をひきいて打ち立っと、次に呉・呉懿・馬忠・張嶷の四人を呼び寄せ、 十 第その耳もとにささやいた。 「明日、敵が参ったなら、初めは英気、盛んであろうゆえ、正面きって戦わずにほどほどにして逃 かん・う げよ。関興が討って出たなら、取って返して揉み立てるのじゃ。加勢を別に考えてある」

4. 三国志演義 7

かくて兵を分け、あくる日、張郤・戴陵は副将数十人と精兵三万をひきいて勇んで出陣し、途中 までいって陣を取った。司馬懿は陣中に大軍を留めおき、わずか五千の精兵をひきいてそのあとに 続いた これより先、孔明はひそかに物見の者を出していたので、魏の軍勢が途中に宿営したことを探知 していた。その夜、孔明は大将たちを呼んで、 「いよいよ魏の軍勢が追って参ったが、彼らは命がけで戦うに違いない。そなたたちも一人で十人 に当たるほどの覚悟でいてくれ。わしは伏勢して退路を絶とうと思うが、この役目は智勇兼備の大 将でのうてはまかせられぬ」 と言うと、魏延に目配せしたが、魏延は頭をたれて答えない。 「それがしに仰せつけ下さりませ」 王平が進み出た。 「仕損じたらどうするか」 「この首を差し上げます」 やだま 「ううむ、王平の身を棄てて矢石の中へはいろうとの志、まことに見上げたものじゃ。さりながら、 、しいかに智勇があろうと、一方に当 敵は二手に分かれ、味方の伏勢を逆に囲もうとしておる。王平 , たれるだけで、まさか身体を分けて戦うことはできまい。もう一人いってくれたらよいのじゃが、 残念ながらここには命を棄ててもゆこうというような者はおらぬのか」

5. 三国志演義 7

の様子を聞いた。 「しからば、今夜、魏の陣地へ夜討ちをかけ、街亭を取りもどそうではござらぬか」 高翔の = = ロ葉で、三人は山かげで手はすを定め、日の暮れかかるのを待って軍勢を三手に分けた。 魏延が手勢をひきいて真っ先に進み、街亭に至ったところが人影もない。不審に思ったので進むの みちばた を控え、ひとまず道端にひそんで待ち受けるところへ高翔の軍勢がやって来た。二人は互いに魏の ありか と、と 軍勢の在所を語り合ったが、い っこうにわからす、またどうしたことか王平も現われない ちゅう いしびや っぜん石火矢の音一声、火の手、天に沖し、太鼓の音、天をゆるがして魏の軍勢が討って出るや、 失 を 二人を真ん中にひしひしと取り囲んだ。二人は右に左に突きまわったが脱け出ることができぬ。と 街 ころへ山かげに雷の落ちるがごとき鬨の声がわき、一手の軍勢が駆けいってきた。これぞ王平で、 て 拒高翔・魏延を救い出すや、列柳城目指してまっしぐらにのがれた。城下までくれば、城には今しも ぎととくかくわい め一手の軍勢が押し寄せているところ。旗じるしには『魏都督郭淮』と大書されている。これは、郭 謖淮と曹真が話し合い、司馬懿に手柄を一人占めにされるのを恐れて、郭淮が街亭を取りに出たが、 馬 司馬懿・張部がすでに取った由を聞いて列柳城に襲いかかったもの。三人と出会ってはげしく揉み 五合った。蜀の軍勢はすでに大半が傷ついたため、陽平関を奪われることを恐れた魏延は、王平・高 九翔とともにあわてて陽平関へ引き揚げた。 さて郭淮は軍勢をまとめて、左右の者に、 「わしは街亭こそ取りそこなったが、こうして列柳城を取ったのじやから大手柄じゃ」 とき

6. 三国志演義 7

186 る」 と一言うおりしも、王平からの使いが、魏の軍勢がすでに引き揚げたと知らせてきたので、その者 「わしには魏を破る策があるゆえ、決して追ってはならぬ」 と、王平に伝えさせる。正に、魏の兵、伏勢しようとも、漢の丞相その手に乗らぬ、というとこ ろ。さて孔明、 いかにして魏を破るか。それは次回で。 注一鞠躬『後出師の表』 ( 第九十七回 ) の最後に、「鞠躬尽瘁」とあるのを引いたもの。したがってここ では、国に尽くそうとする自分、というような意になる。なお、第三句の「西風」は、西よりの便り ふはう の意。すなわち祁山の西の漢中よりの張苞の訃報。 一一司馬懿が上京した嘉靖本では、曹真よりの上奏文が奉られたとき、彼は荊州に左遷されていたので、 きゅうきょ 曹叡が急遽、呼びもどしたとなっている。 りさしゃ ちょうちんよ 三「千里の遠き道 : : : 」漢の三年、趙の陳余が遠来の項羽を迎え撃った時、李佐車が項羽の糧道を絶っ わいいんこう ようすすめた時の言葉。『史記』淮陰侯伝に見える。「史書」は原文「前志」。

7. 三国志演義 7

と一言うと、鄧芝が、 しりよう Ⅱ「それがしが軍勢をひきいて先行いたし、子竜殿がみすから後詰をされて敵将を斬り、敵の心胆を 寒からしめられたので、輜重も何一つ棄てすに済んだのでござります」 と言ったので、 「まことの将軍とは貴公のことでござろう」 と、黄金五十斤を取り寄せて趙雲に贈り、また絹一万疋を配下の兵士たちに分け与えようとした ところ、趙雲はこれを辞退して、 さた 「三軍、何らの功も立てず、敗軍の罪を負わねばならぬわれらに、かえって恩賞の沙汰なそ賜わる のは賞罰の道をみだすものでござります。これはひとます国庫にお収めいただき、冬にはいってか ら兵士たちに賜わられるがよろしかろうと存じまする」 と言ったので、孔明は、 「先帝はご在世のみぎり、常々、子竜の徳をたたえておいでであったが、今にしてそれがわかっ と感嘆し、いよいよ敬慕の念をあっくした。 ばしよくおうへい ぎえんこうしよう かかるとき馬謖・王平・魏延・高翔の帰着が取り次がれたので、孔明はます王平を幕中に呼び いれて、きびしくなじった。 「馬謖と街亭を守るよう申しつけたのに、なぜ彼を諫めすに、こんな失態を仕出かしたのか」 びき たま

8. 三国志演義 7

しばしよう と命じゃった。諸方への下知を終わると、司縣師・司馬昭の二人に兵を授けて先手の陣屋へ加勢 四にゆかせ、おのれは一軍をひきいて北岸の台地へ加勢に向かった。 ばたい さて孔明は魏延・馬岱に渭水を渡って北岸の台地へかかるよう命じ、呉班・呉懿には筏の兵士を おうへいちょうぎよく ばちゅう りようか↓っトうよく ひきいて浮き橋を焼くことを命じ、王平・張嶷を先手、姜維・馬忠を中軍、廖化・張翼を後詰と して兵を三手に分け、渭水の岸の敵本陣に向かわせた。この日の午の刻 ( 昼の十二時前後 ) 、兵馬い っせいに打ち立ち、渭水を渡って陣形をととのえると、しすしすと進み出た。 ここに魏延・馬岱が北岸の台地に近づいた時は、すでに日も暮れ方。孫礼はこれをはるかに眺め ただけで、陣を棄てて逃げ出した。さては敵が備えていたかと、魏延が急ぎ軍を退こうとするおり かんせい しも、四方に喊声どっとわきおこり、左から司馬懿、右から郭淮が討って出る。魏延・馬岱は死に 物狂いでようやく斬り抜けたが、蜀の兵士たちは大半、川に落ちて死に、他の者たちは退路につま って右往左往するばかり。ところへおりよく呉懿が加勢にきて、討ち洩らされた兵士たちを対岸に 運んで陣を取った。呉班は呉懿に半ばを分けて残った者どもをひきい、筏を流れに浮かべて下って きたが、張虎・楽継に岸から矢を雨のように射かけられた。呉班は矢に当たって水中におばれ死に、 兵士たちは水に飛びこんで逃げたので、筏はことごとく魏の軍勢に奪われた。この時、王平・張嶷 は、北岸の台地へ向かった味方の敗れたのも知らず、魏の本陣へ押し寄せてきた。すでに二更ごろ であったが、四方から喊声が聞こえてくる。王平が張嶷に 「北岸の台地の方はどうなっているのだろう。南岸の本陣は目の前にあるが、ここまで来ても、敵

9. 三国志演義 7

と一一 = ロい 「街亭の近くにほかに軍勢があるか」 ときけば、物見の者の返事に 「十里ばかりのところに王平が陣を取っております」 いちょう - 一う しんたんしんぎ とのこと。司馬懿は張部に一軍をひきいて王平の進路をさえぎるよう命じ、また申耽・申儀に は二手の軍勢をもって山を囲み、まず水をくむための道を絶ったうえ、蜀の軍勢が騒ぎ出したなら すかさす攻めかかるよう命じた。かくて、その夜のうちにいっさいの支度を整え、あくる日、夜が 失 を明けるとともに張部がまず手勢をひきいて打ち立ったあと、司馬懿みすから大軍をひきいて押し出 街 て し、山を四方から取り囲んだ。馬謖が山上から眺めれば、魏の軍勢は野山を埋め、旗さし物・隊伍 み 拒 に一糸の乱れもない。蜀の兵士たちはこれを見て一同、胆をつぶし、斬り下る元気もない。馬謖が め赤旗を振ったが、 部将たちが互いに譲り合って誰一人、動こうともしないので、怒った馬謖がみず 謖から部将二人を切って棄てれば、震え上がった兵士たちはいやいやながら山を下りて魏の軍勢に斬 馬 りこんだ。しかし、魏の軍勢が小ゆるぎもしないのでふたたび山上へ逃げもどる。馬謖は思うよう 五に事のはこばぬのを見て、兵士たちに陣門をきびしく固めるよう触れ、加勢の到着を待った。 九 さて王平は、魏の軍勢が押し寄せたのを見て手勢をひきいて討って出たが、張部と出会って数十 第 合も打ち合ったすえ、カ尽き兵士たちの数も少なくなったので、やむなく退いた。魏の軍勢が麓を ひょうろう 囲んで辰の刻より戊の刻 ( 朝の八時より夜の八時ごろ ) に至ると、山上の水は一滴もなくなって兵粮 たっ きも

10. 三国志演義 7

すことができる。誰が攻め取りにゆくか」 「それがしが参ります」 おうへい と姜維が言えば、王平も、 「それがしも参りとう存じます」 と願い出たので、孔明はいたく喜び、姜維に兵一万を与えて武都へ、王平に同じく兵一万を与え て陰平へ向かわすこととし、二人は兵をひきいて打ち立った。 ここに張部は長安に立ち帰るや、郭淮・孫礼に会って、「陳倉はすでに奪われて、那昭は死に、 散関も蜀軍に乗っ取られた。いま孔明はまたも祁山に出陣し、兵を分けて進んでいる」と伝えた。 郭淮は、 「さらば雍城・鄙城に攻めかかるに違いない」 と仰天し、張部に長安の留守をゆだね、孫礼を雍城に差し向けると、みずから兵をひきいて邯城 らくよう へ馳せ向かい、同時に上奏文をもって洛陽に急を告げた。 そうえい さて魏主曹叡が朝廷に出て政事をみているとき、近臣が、 「陳倉城はすでに奪われて、邦昭も死に、諸葛亮がまたも祁山に出陣して、散関も蜀の軍勢に奪わ れました」 まんちょう と奏上したので、いたく驚くところへ、また満寵らの上奏文が奉られて、「東呉の孫権は帝号を まつり′、と