兵士 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 8
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1. 三国志演義 8

せいそうえんしよう いよいよ鍾会が出陣すれば、司馬昭は城外十里のところまで見送って帰城したが、西曹の掾の邵 悌がひそかに言うのに、 「このたび殿には鍾会に十万もの軍勢をお授けになって蜀を討たせられましたが、それがしの思う ところ、鍾会は大望を抱く者ゆえ、彼一人に兵権をゆだねるのはよろしくないと存じます」 「そのくらい、わしはとうに承知しておる」 と司馬昭が笑ったので、 じ「ご存じなら、誰かをいっしょにつけてやられたらよいではござりませぬか」 を と言えば、司馬昭、一言もって邵悌の疑念を解く。正に、軍勢堂々出陣の日、早くも見抜く大将 讒 主の心、というところ。さてその一言葉は。それは次回で。 て 詔 を 師 回 五 十 百 第 みようぶ 注一時に大臣劉璞の妻胡氏 : : : 当時、「命婦」、すなわち、重臣の妻や母、および天子より位を賜わった 婦人は、年賀に参内することになっていた。ここにあげられた事件は、『蜀志』によれば、建興十二 年 ( 二三四 ) 正月のことである。嘉靖本ではこの挿話を「姜維祁山に鄧艾と戦う」 ( 第二百二十六回。 毛本の第百十三回後半に相当 ) にいれている。 さんとう 二登・莱二州後漢の東莱郡に属す。登州は唐、莱州は隋の時に置かれたもの。山東半島の北岸、渤海 に臨む。 ばっかい

2. 三国志演義 8

ぎばく て将軍魏遞、武衛の武士施朔がうちそろって、 「孫継は武昌に軍勢をそろえ、武庫の兵器をすべて運び出してござります。近々のうち、謀反をお こす所存と見えます」 と密奏したので、仰天した孫休が、急ぎ張布を召し寄せて諮ったところ、張布は、 「老将丁奉は智略秀でて、大事をおこなうことができますゆえ、お召出しになられるがよろしいと 存じまする」 と言う。孫休はそこで丁奉を召して、これを告げた。 「陛下、ご懸念にはおよびませぬ。臣に国賊を除く計略がござります」 孫休がどんな計略かときくと、 ろうじっ ( 注三 ) 「明日は臘日につき、これにことよせて百官をお集めになり、孫淋をもお呼び寄せ下さりますれば、 臣がよしなに取り計らいまする」 聞いて孫休はいたく喜んだ。丁奉は魏遞・施朔に外の軍勢をそろえ、張布に宮中の兵をととのえ るよう命じた。 この夜は、はげしい風がおこって砂石を飛ばし、大木を根こそぎくつがえした。夜が明け、風が ちよくし おさまるとともに、勅使が孫淋の館に到着し、宮中での酒宴に招いた。孫継はこれを聞いてようや く床を離れたが、不意に人から突き飛ばされたように感じてばったり倒れたので、不快に思った。 使者の一行十数人が取り囲んで、宮中におもむこうとする時、家の者が、 ていほう このえ

3. 三国志演義 8

する ) 、二子を亭侯に封じて、おのおの千戸を領せしむるものなり。 かんぐんえいかん 鄧艾が詔を拝受すると、監軍衛瓏が司馬昭の親書を取り出して彼に見せた。それには鄧艾の言う ことは、すべて朝廷に奏上して指示を仰ぐよう、みだりにおこなわせてはならぬ、とある。 「『大将は外にあらば、君命をも受けざるところあり』と言うではないか。わしは詔を奉じて出陣 したものじゃ。そのような面倒なことをしていられるか」 鄧艾はただちに書面をしたためると、都より下向した勅使に持ち帰らせた。時に朝廷では、鄧艾 死 むはん が謀反の心を抱いているとの噂がしきりに取りかわされていたので、司馬昭はいよいよ彼に対する 孝 王疑いを深めていた。かかるところへ勅使が帰着して、鄧艾の書面を差し出したので、封を切れば、 て 哭 艾、命を奉じて西征し、元悪すでに服せるをもって、便宜の道をとり、もって帰順せし者ども 廟を安堵せしめたり。もし、国命を待た、ま、 しいたすらに往復に時を費やさん。『春秋』に、『大夫、 しやしよく もつば 疆を出で、もって社稷を安んじ国を利すべきあらば、これを専らにして可なり』とあり。今、 回 呉いまだ降らざるも、勢い蜀と連なる。瑣事にかかずらって、機を失すべきにはあらす。兵法に、 十 百 『進みては名を求めず、退きては罪を避けす』と一言えり。艾、古人の節なしといえども、国家の 第 計をそこなうことなしとみすから認むるものなり。まずここに一言申し述べ、施行するものなり。 くだ

4. 三国志演義 8

瞻も涙ながらに、 おやこ 「臣ら父子は先帝陛下のご恩顧にあずかり、陛下のご殊遇をかたじけのうしたもの。肝脳を地にま みらすとも、このご恩の万分の一もお返しできませぬ。なにとそ成都の軍勢をあげて、臣が決死の いくさにゆくことをお許しいただきとう存じまする」 いとま 1 」 後主はただちに、成都の軍勢七万を瞻に与えた。瞻は後主に暇乞いして、軍勢をととのえると、 諸将を集めてきいた。 「先鋒となる者はおらぬか」 と、言下に進み出た若年の大将、 「父上が大権をおとりになったからは、それがし、先鋒をいたしとう存じます」 しよかっしよう 一同が見やれば、瞻の長子諸葛尚である。尚はこの時とって十九歳、数々の兵書を読み、武芸 百般に通じていた。瞻はいたく喜んで彼に先鋒を命じ、この日のうちに成都を打ち立って、魏の軍 勢を迎え撃ちに出る。 さて鄧艾は馬遞から一冊の地勢図を献じられたが、それには浯城より成都に至る三百六十里の山 ・道筋の広さ高さなどが、克明に書きしるされていた。見終わって、 「なんと、この浯城にこもっていて、蜀勢に前の山を取られたら、一歩も進めなくなるではないか。 こんなところにぐずぐずしていて姜維が参ったら、わが軍は生きて帰れまい」 せんばう しゅぐう

5. 三国志演義 8

暮れ時より夜が明けるまで泣きつづけて、ついに何も考えをまとめることができなかった。桓範が まかり出て、 「殿には一昼夜も考えておられて、まだご決心がっかぬのにござりますか」 と詰め寄られ、剣を投げ棄てて嘆息した。 や 「わしは兵はおこさぬ。野に下って一生、安楽に過ごせればそれでよい」 桓範は声をあげて泣き、外に立ち出でて、 おのれ したんそうしん 「曹子丹 ( 曹真 ) は己の智謀に誇りをもっておったが、この兄弟三人はまるで豚だ」 つう、一く と、痛哭してやまなかった。 いんじゅ 許允・陳泰が、ます印綬を司馬懿に引き渡すように言うと、曹爽は一も二もなくそれを差し出し しゅばようそう たが、主簿楊綜が泣き泣きその手にすがって、 「殿、今、兵権を棄ててみすから降られるようなことをされては、東市 ( 仕置場 ) にお果てになる よりほか、道はござりませぬぞ」 と一一 = ロ , っと、彼は一一 = ロった。 「太傅は決してわしを裏切るようなことはしまい」 かくて曹爽が印綬を許允・陳泰に渡して、司馬懿に届けさせれば、軍勢は大将軍の印が返還され たと知ってたちまち四散し、彼のもとに残ったのはわずか数名の文官だけ。浮き橋までもどってく さた ると、司馬懿は曹爽ら兄弟三人にひとまず館に引き取るよう命じ、他の者たちは捕えて沙汰の下り

6. 三国志演義 8

第百十六回鍾会兵を漢中道に分け・・・ 187 びげ 乗 と て 、ま 、怒 馬 と 蜀 も 取 と 恩 わ と 罵 : の知叫 し蒋 と寄っ も 絶 の十 り 寧 2 千 倒叫臣人囲 は舒 ろ 秋 日 ま せ た り ら ぶ つ手傅 、す 。魏 カ れす と のむ の 傅 義 . っ 。馬 市 る 生 の 大し 、て た 攻 不 い降 兵力 僉名 憤 ち右首 や ま の を 義 に 参 た蒋 に め と を を で 、れ ノ、 かち舒 者怒 な仰抒の た 、左返 し 、ふ か 九 に し っ た り く。 み た へ ら 人 。て そ る いあ 、て て す た て ま死魏天 死 び は っと か 傅せを の下 ら 馬 、で に に死 が物 軍の 僉 首 いま ん し傷狂勢者 を む が と に 関退せ 刎はち も つ い に で斬恥 ね っ も い つ蜀 て あ り 退 たみ 死 のず は、 の し い て ん斬鬼 ま っ し っ でか だ っ ま た く と り と す勢三 が い な た わ は 彳麦 る い千 っ ろ ク ) つ に騎 時 た 魏し の た で っ 、乗を 人 、も がそ の か の兵 天 が つひ 嘆数 て き を の士 の 々 仰斬オ 上 じ い り ち に れ い て た の はを駆 詩槍 で抜カ 早追け 、け 四 も と れ か 魏こ ば と ら つ が寄 む の ろ 旗 、鍾 で き て か が ずけ る の し軍戦 は が勢わ 血 がず づひ ひ 染 ら ふ し 者 ま め た て ひ り

7. 三国志演義 8

174 「それがしは朝晩お上にお仕えいたしているだけで、政事にロ出ししたことなそ一度もござりませ ようしゃ ぬ。他人の言葉に惑わされて、それがしの命をお召しになるようなことは、なにとそご容赦下さり かんじよ ませ。それがしの命は、すべて将軍のお心ひとつにかかっております。ご寛恕のほど願い上げます」 と、額を地面に打ちつけて涙を流した。 げきせい 姜維は憤然として退出するや、ただちに郤正を訪ねて事の次第をつぶさに話した。すると郤正の 一一一口 , つのに、 わぎわ 「将軍、近々のうちに禍いがふりかかりましようぞ。将軍に万一のことがあっては、この国も滅び るばかりでござります」 「なにとそ、国家を保ち、かつおのれの身をも安んずる策をお教え下されい」 ろうせい とうちゅう とんでん 「隴西に沓中と申し、地味豊かなところがござりますが、将軍も武侯が屯田された例にならい、 天子のお許しを得てかしこに屯田されたらよいではござりませぬか。これ一つには、麦が熟せば兵 ろうゆう 粮にあてることができ、二つには隴右諸郡を手中にすることができ、三つには魏の者どもに漢中を うかがうことをできなくさせ、四つには将軍が外にあって兵権を握られることになるゆえ、誰も手 出しができなくなって、禍いを未然に防ぐことができようもの。これこそ国家の安泰をはかり、か っ将軍ご自身を守ることのできる策でござります。一日も早く実行に移されますよう」 「まさに金一一 = ロでごギ、る」 いたく喜んだ姜維は、あくる日、さっそく後主に上奏文を奉って、武侯の例にならい沓中に屯田

8. 三国志演義 8

舅が死人と言ったわけをきくと、 すじ 2 「鄧颶の立居を見ますと、筋が骨を離れ、脈が肉から浮いて、あたかも手足のないかの如く、真直 きそう そう ぐ立っていられませぬ。これは『鬼躁』の相でございます。何晏の目つきを見ますと、魂が宅 ( 身 きゅう 体 ) を離れ、血は色を失い、精も尽きて影薄く、あたかも枯木の如くです。これは『鬼幽』の相で ございます。二人は近々のうち命を奪われますゆえ、別に恐れるわけはないのでございます」 舅は、管輅を気違いだとさんざんに罵って出ていった。 ここに曹爽は、しばしば何晏・鄧颶らと巻狩に出かけていた。弟の曹羲が、 あにじゃ 「兄者は国家の大権を握っておられるお方。余りたびたび巻狩にお出かけになって、万一お留守の 間に異変でもおこったなら取り返しがっきませぬそ」 と諫めたが、彼は、 「兵権はわしの手にある。何をびくびくしておるのか」 しりぞ かんはん いっこうにきかない。時に魏主曹芳は、正始十年を改元して と一喝に退け、司農桓範の諫めも、 嘉平元年とした。曹爽は大権を握って以来、たえて仲達の様子を知らないでいたが、たまたま魏主 が李勝を荊州の刺史に任じたので、おりやよしと、仲達のところへ暇乞いにゆき、かたがた彼の様 子をさぐってくるよう命じ、李勝が司馬懿の館を訪ねると、門番からの取次ぎを聞いて、司馬懿は 二人の息子に言った。 ののし

9. 三国志演義 8

「それがし、殿に蜀討伐のお心のあるを知り、絵図面を持参いたしてござります」 司馬昭がひろげてみれば、それには途中の陣取り、糧秣屯積の地が細かに書きいれてあり、攻め いるべき場所、引きさがる時の場所など、いちいち兵法にかなっているので、大いに喜び、 「まことに立派な大将じゃ。そなたに鄧艾と兵を合わせて蜀に攻めいってもらいたいが、どうじゃ」 「蜀に至る道筋は数ござりますゆえ、ただ一方より攻めるのはよろしくござりませぬ。鄧艾殿と兵 を分けて進むがよいと存じまする」 じよえんよ ーしよう ちんせい かんちゅう す ドし かくて司馬昭は鍾会を鎮西将軍に任じ、関中の軍勢を統べさせて、青・徐・・予・荊・揚各 信 ろうじよう せいせい を州の軍勢を集めるとともに、使者を鄧艾のもとに遣わして征西将軍に任じ、関外・隴上の軍勢を 主統べさせて、鍾会と手はずをきめて蜀に攻めいるよう命じゃった。あくる日、司馬昭が朝廷に出て はか ぜん とうとん てこのことを諮ると、前将軍鄧敦が、 し ただいま 詔「姜維にしばしば攻めいられたため、わが軍は多大の損害を出しております。只今は守るだけでも を 師なかなかむずかしいところ、わざわざ危地に深入りして、みすから禍いを求めるようなことをする 。し力がかと思われます」 回 五 と言ったので、怒った司馬昭は、 十 あるじ さか 第「わしが仁義の軍をおこし、無道の主を討とうとしておるのに、貴様は逆らう気か」 と、刑手に、引き出して首を刎ねるよう命じれば、たちまち彼の首が差し出されて、一同は色を 失った。

10. 三国志演義 8

したいと願い出た。後主がこれを許したので、漢中にもどると、大将たちを集めて言った。 「わしは、これまで数度、出陣したものの、いずれも兵粮がたりなかったばかりにむなしく帰らね ばならなかった。よってわしは、これより八万の軍勢をひきいて沓中に屯田し、麦をまいてゆるゆ ると魏を討っこととしたい。そなたたちは、長のいくさに疲れてもおろうゆえ、ひとまず兵をまと め兵粮を集めて、ここを守っておれ。たとい魏の軍勢が攻め寄せようと、糧道長く、山を越えてや しりぞ ってくるものだから、疲れきっておろう。疲れれば必ず退く。そこをすかさす追討ちすれば、決し し て負ける気遣いはない」 信 かんじゅ おうがんらく しようひんかん しようじよふせんようへい を かくて胡済に漢寿城を、王含に楽城を、蒋斌に漢城を、蒋舒・傅僉に陽平関を守らせることと 讒 主し、万端の手配を終わると、みずから兵八万をひきいて沓中に至り、麦をまいて持久の計をとった。 て 詔 さて鄧艾は、姜維が沓中に屯田し、道筋に四十余の陣屋をかまえて一分のすきもなく、あたかも を 師長蛇のごとき態勢をとっているとの知らせを聞くや、ただちに間者を放って様子をさぐらせ、絵図 しんしばしよう 面を作って上奏文とともに朝廷に送った。晋公司馬昭がこれを見て、 回 五「姜維がたびたび中原に攻めいって参るのを、今もって片付けることができぬのは、実にわしの わずら 第患いのたねじゃ」 かじゅう と大いに怒り、賈充が、 ・一うめい 「姜維は孔明の兵法をくまなく心得ておりますゆえ、早急には追いのけることはできませぬ。智勇 きづか