祁山を助けに向かったもの。鄧忠は城にとってかえす。姜維は諸将を呼んで、 「鄧艾が夜戦を仕かけるかの如く見せかけてきたのは、祁山の陣地を救いにいったものに違いな と言い、傅僉に命じた。 「そなたはこの陣地を守っておれ。決して討って出るではないそ」 かくて、みすから三千騎をひきいて張翼の加勢に馳せ向かう。 し一ん 、。もはや破れるかに さて張翼は祁山に攻めかかったが、留守の大将師纂は無勢ゆえ防ぎきれなし 思えたとき、忽然として鄧艾の軍勢が現われ、さんざんに蜀勢を駆け散らして張翼を山かげに取り こめ、退路を絶ってしまう。張翼があわてふためくところへ、にわかにどっと鬨の声がわき、笛・ 太鼓の音が天をゆるがせるとみるや、魏の軍勢がばらばらと引きさがり、左右の者が、 「大将軍姜伯約さまがお出で下さりました」 と注進したから、張翼は勢いに乗り兵を駆って進み出た。前後から揉み立てられた鄧艾はさんざ んに討ち崩されて祁山の陣地に逃げこみ、ひたすら守りを固める。姜維は四方からひしひしと取り 囲んで攻めたてた。 か・れがん - 一′ - 一ら・ 話かわって、ここに後主は成都にあって、宦官黄皓の甘言にまどわされ、またも酒色にふけって、 りゅうえん まつり ) 一と 政事をないがしろにしていた。時に大臣劉璞の妻胡氏は、生まれつききわめて美しかったので、 ふせん こっぜん せいと とき
148 め、、うか さて、姜維が陣払いを下知したところ、廖化が、 みことのり 「『大将は外にあらば、君命をも受けざるところあり』と申します。たとい詔をいただいたとは いえ、今は動くべきではないと存じます」 ちょうよく と言ったが、張翼は、 しよく こんにち 「蜀の人民は大将軍が連年、出兵されていることを恨んでおります。今日、勝利を得たのはかっこ ・一う・と うのおりゆえ、 いったん引き揚げて民心を安んじ、改めて後図を策したほうがよいと存じます」 と言う。姜維は、 とうなすき、各車、順々に引き揚げるよう下知し、廖化・張翼に後詰を命じて、魏軍の追討ちに 備えさせた。 そうばう か 曹髦車を駆って南闕に死し ロきようい かてす 第百十四ロ 姜維糧を棄てて魏兵に勝っ きようい なんけっ
おうけい ちんたい 雍州の刺史王経・副将軍陳泰に注進したから、王経はとりあえす歩騎七万の軍勢をおこして、迎え 撃った。姜維は張翼にかくかくと命じ、夏侯霸にも何事か命じた。二人が承知して打ち立っと、 おのれ 己は大軍をひきい、溌水を背にして陣を取った。王経は部将数人をしたがえて出馬し、 ていそく 「魏と呉・蜀とは、すでに鼎足の形をなして定まっておる。貴様は、なにゆえ、たびたび攻めいっ たりするのか」 おのあるじ 「司馬師はいわれもなく己が主を廃した。隣邦として当然、黙って見逃すことのできぬことじゃ。 きゅうてき しかも仇敵の国ではないか」 ちょうめい かえいりゅうたっしゅほう 王経は張明・花永・劉達・朱芳の四将を顧みた。 「蜀の軍勢は水を背にして陣を取っている。いったん敗れたら、一人残らず溺れ死ぬばかりじゃ。 姜維は剛の者ゆえ、そなたたちは四人していっせいにかかれ。彼がもし一歩でも退いたら、すかさ す追い討て」 四人は左右に討って出て、姜維に挑みかかった。姜維は数合も渡り合うや、不意に馬首を返し、 本陣目指して逃げ出したから、王経は大軍に下知していっせいに追討ちに出た。姜維は軍勢をひき いて溌水の西岸へ逃げて来たが、流れに近づくや、将士に叫んだ。 「これでは死あるのみだ。しつかりせぬか」 ひるがえ 諸将は一時に奮い立ち、身を翻してどっとうちかかれば、魏の軍勢はさんざんに斬り立てられ る。ところへ、張翼・夏侯霸がその背後にまわりこんで、左右から討って出るなり、ひしひしと取 いど
194 聞き、それがし一存で兵をおこし、加勢に参りましたが、陽安関はすでに鍾会に奪われており、将 軍も囲まれておられると聞き、加勢に参ったのでござります」 はくすい と言うので、兵を合わすと白水関へ向かおうとした。すると廖化の言うのに、 「もはや四方敵に囲まれ、糧道も絶たれておりますゆえ、 いったん剣閣まで退いて後図を策するが よいと存じます」 姜維が思いまどって心を決めかねているところへ、鍾会・鄧艾が兵を十手余りに分けて押し寄せ てくるとの知らせ。張翼・廖化と手分けして迎え撃とうとしたが、廖化が、 「白水はせまい道ばかりで、合戦をする場所ではござりませぬ。ともかく剣閣に退いて守りを固め るがよろしゅうござります。もしかしこを失えば、帰る道もなくなりますぞ」 と言ったので、ついにこれにしたがい、兵をひきいて剣閣へ退いてきた。関に近づくところ、に わかに笛・太鼓の音がいっせいに鳴りひびき、どっと喊声がわいて、旗さし物が林立するとみるや、 一手の軍勢が関の前に立ちふさがる。正に、漢中の難所すでに落ち、剣閣に風波まき起こる、とい うところ。さてこの軍勢は。それは次回で。 注一相国参軍相国に属する参軍。司馬昭は元元年相国となる。 一一左将軍張翼前に「左車騎将軍」とある方が正しい。廖化も同じ。
後主はこれを聞き届けて、姜維に魏討伐の軍をおこすことを命じ、姜維が漢中に至って軍勢をと ちょうよく とのえるところ、征西大将軍張翼が言った。 「わが蜀は国土狭く、銭糧も豊かではなく、遠征は不利と存じます。むしろ分を守って要害を固め、 軍民をいたわってやることこそ、国を保つ万全の計と存じますが」 さんぶん じようしようばうろ 「それは違う。むかし丞相は茅廬にいながらにして、すでに天下三分の大計を定められたが、し たお しし仆れ、つ かも六度まで祁山に出陣して中原回復を意図せられた。しかるに中道にして不幸、病、 いに望みを達することができずに終わられたもの。わしは丞相のご遺命をいただいた者として、尽 すき 忠報国、ご遺志を継がねばならず、たとい死すとも思い残すことはない。今、魏に乗ずべき隙がで けきておるというのに、みすみす見逃してしまっては、またとおりはあるまいか」 か、一うは を姜維が言えば、夏侯霸も、 ろうせい ふかん 雄「さよう。まず軽騎をもって枹罕に出で、水の西の南安を落とすことができれば、隴西の諸郡を 単一挙に手中にできましよう」 文すると張翼が言った。 回「これまで勝っことができずにもどったのは、いずれもわが方の出陣が立ち遅れたからでござりま 百す。兵法にも『その備えなきを攻め、その不意に出する』とござりますが、これよりただちに兵を 5 進めて、魏の者どもに備えるいとまを与えませねば、勝利は疑いござりませぬ」 ふかん かくて姜維は、兵五万をひきい、枹罕目指し打ち立った。水まで至ると、国境を守る軍勢が とう なんあん ・、一」ギ、かい
仰天した姜維が、夏侯霸を呼んで諮ると、 「それがし、たしか前に申し上げたはずでござりますが、鄧艾は弱年の頃より兵法に明るく、地理 に通じておった者。彼が大将となって参ったからは、なかなかの強敵にござりますそ」 「敵は遠路はるばるやって来たものゆえ、息つく間を与えずに揉み立ててやろう」 と、姜維は、張翼を留めて城攻めに当たらせ、夏侯霸には陳泰を迎え撃つよう命すると、みすか ら兵をひきいて鄧艾を迎え撃った。ゆくこと五里たらず、とっぜん、東南の方にあたって石火矢の 音一発、笛・太鼓、地をゆるがせ、天に沖する狼煙があがる。 はか 「鄧艾め計りおったな」 と、あわてた姜維は、夏侯霸・張翼に狄道を棄てて退くことを命じ、全軍、漢中に向けて引き退 退 けんかく ごづめ を がって来た。姜維はみずから後詰をしたが、背後の太鼓の音は、いつまでもついてくる。剣閣道ま 雄で退いた時になって、はじめて二十余力所の狼煙や太鼓が疑兵の計と知ったのである。かくて姜維 しようてい 単は軍をまとめ、鍾提に屯営した。 さて後主は、姜維が溌水の西岸で大功をあげたので、詔を下して彼を大将軍に封じ、姜維はこれ 文 回を受け、上奏文をのばせて礼を述べるとともに、ふたたび魏討伐の軍議をもよおす。正に、手柄立 十 百てるに蛇足はいらぬ、逆賊討つに虎威を惜しまず、というところ。さてこのたびの北伐はどうなる 9 か。それは次回で。 ちゅう かた
り囲んだ。姜維は勇躍して魏の勢の中に斬りいり、右に左に駆け散らせば、魏の兵士たちは総崩れ となり、押し合いへあいして半ば以上が踏み殺され、水に追い落とされる者、数知れず、首を ししるいるい 取られた者は一万余、死屍累々と重なって数里におよんだ。王経は討ち洩らされた兵士百騎余りを てきどう ひきいて、ようよう斬りぬけ、一散に狄道城へ逃げこむと、固く門を閉じた。姜維が大勝を収め、 ねぎら 兵士たちを犒ってから、狄道城へ攻めかかろうとすると、張翼が諫めた。 とどろ 「将軍にはすでに大功をあげられ、ご威名を天下に轟かせたのでござりますから、これでおやめに なるがよろしゅうござりましよう。このうえ進んで、万が一、不覚をとるようなことがあったら、 蛇を描いて足を添えるようなことになりますそ」 「なにを馬鹿な。先には、戦いに敗れながらも、なお進んで中原を馳せめぐらんと思ったはどであ 退 をつここ、 オ。今日の溌水の一戦では、魏の者どもの胆をとり挫いでくれたのじゃぞ。狄道ごとき、わし 雄 よりすればひと押しで取れる。気の弱いことを言うものではない」 単張翼はなおも再三、諫めたが姜維は耳もかさず、ついに兵をひきいて狄道城へ寄せかけた。 文 さて雍州にあった征西将軍陳泰は、おりしも兵をおこして王経の敗戦の仇を討とうとしていたと えん 回ころ、思いがけなく州の刺史鄧艾が軍勢をひきいて到着した。陳泰が迎えいれて挨拶を終わると、 百鄧艾の言うのに、 「このたびは大将軍の命を受け、ご加勢に参上っかまつりました」 陳泰が計略を尋ねると、 ひし
と、長嘆した時、副将甯随が言った。 「魏の軍勢が陰平の橋のたもとをさえぎったとは申せ、雍州に残っている軍勢は数少ないに違いご ・」うかん・一く ざりませぬ。孔函谷より一挙に雍州をつきますれば、諸葛緒が陰平の軍勢を引き払って雍州を救いに け′れ・鶸・、 もどるは必定。そこで剣閣に馳せもどって立てこもりますれば、漢中も取りもどせると存じます」 し , い、ただちに軍勢をひきいて孔函谷に向かうと、雍州攻めの構えを見せた。間者が 姜維これこ従 これを諸葛緒に注進すれば、仰天した緒は、 「雍州はわしが守らねばならぬところ。もし取られでもすれば、重いおとがめをこうむるであろ 分 と、わずかな軍勢を橋のたもとに残し、大軍をあげて南の道から雍州を救いにおもむく。姜維は 道 中北の道にはいって三十里ばかりもいったが、魏の軍勢が打ち立っころを見はからってただちにとっ を てかえし、後詰を先手として橋のたもとに殺到した。案の定、魏の大軍は去ったあとで、ひと握り 兵 会の軍勢が守っているばかりであったから、ひと押しに駆け散らして陣屋を焼き払う。諸葛緒が橋の たもとに火の手があがったと聞いて引き返してきた時は、姜維の軍勢が通った半日もあとのこと。 回 六仕方なく追うのをあきらめた。 百 ここに姜維が同勢をひきいて橋を渡り、はせもどってくるおりしも、行手に一手の軍勢が近づい 第 た。これそ左将軍張翼、右将軍廖化である。どうしたのかときくと、張翼が、 ・一う - 一うみ , 一 「黄皓は巫女の言葉なそを信じて、軍勢を出すことを承知いたしませぬ。このたび漢中が危ういと
太傅司馬孚は王の格式をもって曹髦を葬ることを願い出で、司馬昭はこれを許した。かくて賈充 らが魏の禅りを受けて、天子の位につくよう司馬昭に勧めると、彼が、 「むかし ( 周の ) 文王は天下を三分してその二まで有しながら、殷に臣事したゆえ、聖人も至徳の そうそう 人としてたたえたのじゃ。魏の武帝 ( 曹操 ) が漢の禅譲を受けようとしなかったのは、わしが魏の 禅譲を受ける気のないのと同じ心からじゃ」 しばえん と言ったので、彼が子の司馬炎を天子にする心でいるのをさとり、二度とこれを勧めようとはし ナいげーれ じようどうきようそうこう いなかった。この年の六月、司馬昭は常道郷公曹璞を立てて帝とし、元元年と改元した。曹瑣は じようしよう えんう あざなけいしよう 死 即位して奐と改名した。字は景召、武帝曹操の孫、燕王宇の子である。奐は司馬昭を丞相・晋公 びき 南に封じて、銭十万貫、絹一万疋を賜い、その余の文武百官にもそれぞれ加増の沙汰をした。 っ ようりつ を この由は早くも間者によって蜀に報じられた。姜維は司馬昭が曹髦を弑して曹奐を擁立したと聞 髦くや、 「これで魏を征伐する名目ができた」 回 あるじ 四 と小躍りし、ただちに呉に書面を送って、司馬昭が主を殺した罪をただすための軍をおこすよう 十 りようまっ 第促すとともに、後主の裁可を仰いで十五万の大軍をおこし、車輛数千に糧秣の箱を積みこみ、廖 や・一く らく - 一く せんほう 療化・張翼に先鋒を命じ、廖化を子午谷に、張翼を駱谷に差し向けて、おのれは斜谷に出で、祁山の 前で集まることを約すと、三手の軍勢、いっせいに祁山目指して急行した。 かん
りようか↓っト - うよく きようい しよくかんえんき 奇蜀漢の延熙十六年 ( 二五三 ) 秋、将軍姜維は二十万の大軍をおこし、廖化・張翼を左右の先鋒、 ようへい ん 2 、 : つは ・ちトうぎよくうんりようしりようまっ 響夏侯霸を参謀、張嶷を運糧使 ( 糧秣輸送の指揮官 ) として、陽平関より魏へ向かった。姜維が、 よう 漢「前に雍州を攻めた時には、ついに取れずに引き揚げたが、今度またわれらが出てゆけば、敵も備 何かよい考えがあろうか」 れえているに違いな、。 困 と夏侯霸に諮ると、 ろうじよう ひょうろう 可「隴上の諸郡のうち、兵粮の豊かなのはます南安でござります。かしこを攻め取りますれば、こ 回の上もない足掛かりとなります。前回むなしく帰らねばならなかったのは、羌兵がこなかったがた ろうゆうろうせい 百めにほかなりませぬゆえ、このたびはます人をやって羌人と隴右 ( 隴西 ) にて合流し、その上で石 営に出で、董亭より一挙、南安を衝くがよろしかろうと存じまする」 いかにもそれは妙計じゃ 百 九 回 ・曹弩司し 芳馬ば 廃困 さま れれ てて 魏ぎ漢 家将 報 果 た奇 さな とうてい っ なんあん はかり 1 ) と きよう せんほう せき