後主 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 8
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1. 三国志演義 8

士玉ーしよ、つ」 後主はしかと胸に畳みこんで席にもどった。酔いがいくらかまわった時、司馬昭がまた、 「蜀がおなっかしいことでござろうな」 後主は郤正に言われたとおり答え、泣こうと思ったが涙が出てこないので、瞼を閉じていた。と ころへ、司馬昭から、 成「これは、郤正の一言葉にそっくりでござるな」 と言われ、はっと目を瞠って、 て いかにもさよ , つにごギ、る」 巧 を と言ったから、司馬昭や左右の者たちはどっと吹き出した。以来、司馬昭は後主の愚直さに心を 1 = 一口 しゆるし、たえて警戒の心なぞ抱かなかった。後の人が嘆じた詩に、 降 投 しようがん 歓を追い楽を作し笑顔開く 仮 おも 危亡を念わず半ば哀しみを点す 回 九 異郷に快楽して故国を忘れ 十 百 ガめて知る後主の是れ庸才なるを 第 そうかん さて朝廷の大臣たちは司馬昭が蜀を平定した功績をたたえて彼を王に昇らせようとし、魏主曹奐 みは まぶた

2. 三国志演義 8

218 君臣甘んじて膝を屈せしに 一子独り悲しみ傷む せいせん 去れり西川のこと 雄なるかな北地王 す 身を捐てて烈祖に酬い きゅうそう 首を掻きて穹蒼に泣く りんりん 凜々として人在ますがごとし かんすで 誰か言わん漢已に滅ぶと 後主は北地王が自尽したと聞き、人をやって葬らせた。 あくる日、魏の大車が到着すると、後主は太子や諸王、臣下六十余人を従え、みずから後ろ手に きゅうしゃ ( 注こ たす 縛し、柩車をそなえて、北門外十里のところに出て降参した。鄧艾は後主を扶けおこして、みず からその縄を解いてやり、柩車を焼き棄てて、車を並べ入城した。後の人が嘆じた詩に せんきたい 魏兵数万川に来り入り めす 後主生を偸みて自裁 ( 自決 ) を失す 第」う第一うつい 黄皓終に存す欺国の意

3. 三国志演義 8

はんけんしようしゅうげきせい し、絹一万疋と下僕下女百人を与え、また子の劉瑤や旧臣の樊建・誰周・郤正らを侯爵に封じた。 かんしん 幻劉禅は恩を謝して退出する。司馬昭は黄皓が国を損い民を害した奸臣と知り、刑手に命じて市に引 き出させ、五体ばらばらに斬りはなさせた。この時、霍戈も後主が安楽公に封じられたことを探知 し、部下を引き連れて投降した。あくる日、後主は親しく司馬昭の館を訪ねて礼を述べる。司馬昭 は宴席を設けてもてなし、まず魏の音楽を奏して舞をまわせれば、蜀の官僚たちがひとしく悲痛な がくじん 面持ちでいるのに、ひとり後主だけは満悦の様子。次に蜀の楽人に命じて蜀の音楽を奏させれば、 ほお 供の者たちはみなはらはらと落涙しているのに、後主はますます喜んで頬をゆるませる始末。酒も ほどよく回ったころ、司昭は賈充に、 しよかっこうめい 「情けないにもほどがある。これではたとい諸葛孔明が生きていたとて、国を全うさせることはで きなかったであろう。姜維ではなおさらのことじゃ」 と言い、後主にたずねた。 「蜀がおなっかしいことでござろうな」 「ここが楽しいので、蜀のことなそ思いもいたさぬ」 げきせい 間もなく後主が更衣に立っと、郤正が回廊までついてきて言った。 「陛下、なぜ蜀を思わぬなどと仰せられたのでござりますか。もし、ふたたびたずねられましたな ら、泣いて、『祖先の墳墓が、遠い蜀にあるゆえ、西のことばかり悲しく思い出されて、一日とし しん て思わぬ日もござらぬ』とお答えなされまするよう。晋公は必ず陛下を蜀に帰してくれるでござり びき ・一う - 1 う そこな かくか ( 注七 )

4. 三国志演義 8

172 姜維は漢中まで急いで引き揚げてくると、軍勢を休ませておいて、使者とともに成都におもむい て後主に謁見しようとした。しかし、後主は十日たっても朝廷に出ない。いたく不審に思っていた ひしよろうげきせい が、たまたまこの日、東華門のところで秘書郎の郤正とゆき会ったので、 「貴公は天子がわしを召還された理由をご存じかな」 ときくと、郤正は笑って、 - 一う、一う えんう 「なんと、大将軍にはまだご存じなかったのでござりますか。実は、黄皓めが閻宇に手柄を立てさ とうがい せようと思って天子に奏上し、詔を出して将軍を呼びもどしたのでござりますが、鄧艾がなかなか の智将と聞き、そのまま沙汰やみとなっているのでござります」 かんがん 「ううむ、あの宦官めをぶち殺してくれる」 と、姜維がいきりたっところ、 「あいや、大将軍は武侯なきあとの大任を引き継がれたお方、さような軽率な振舞いはお控えあそ ばされますよう。もし天子のお許しがおりなければ、かえって大事になりましようそ」 言われて姜維は頭を下げ、 「、かにも先生の仰せのとおりでござった」 あくる日、後主が黄皓とともに後園で酒盛りをしていたところ、姜維が数人の者を従えてはいっ てきた。これをいち早く黄皓に知らせた者があったので、彼は急いで築山のかげに身を隠す。姜維 は亭の下まで来て、後主に拝謁すると、泣きながら、 つきやま

5. 三国志演義 8

さんだい 宮中に参内して皇后に謁見したところ、皇后はそのまま宮中に引き留めて、ひと月してはじめて帰 ばっか ( 注こ 宅を許した。劉璞は妻が後主と私通したのではないかと疑い、幕下の兵卒五百人を呼んで並ばせる くっ と、妻を縛り上げ、兵卒一人一人に、履でその顔を何十回もなぐらせたので、妻は何度も気を失っ た。後主はこれを聞いて大いに怒り、係りの者に命じて劉璞の罪を定めさせたが、係りの役人より、 兵士に己の妻をなぐらせたのはよくない、顔をなぐらせたのはよくない、斬首して市にさらすべき みようぶ であるとの答申があった。かくて劉璞を打ち首とし、以来、命婦の参内をいっさい禁じた。しかし、 じ 時の官僚たちは後主の淫乱の所業に恨みを持つ者が多く、かくして賢人は次第に朝廷より少なくな 信 えんう をつて、小人が日ましに力をもつようになってきた。時に右将軍閻宇といって、身に寸功もないのに、 主黄皓にへつらうことで重職にありついた者があったが、姜維が祁山に出陣していると聞くと、黄皓 てをそそのかして後主に奏上させた。 詔「姜維はたえて勝ったためしがござりませぬゆえ、閻宇に代わらせるがよろしゅうござります」 ちよくし 師後主はこれに従い、勅使を遣わして姜維を呼びもどした。姜維はおりしも祁山にあってきびしく 攻めたてていたが、引揚げを命ずる詔が日に三通ももたらされたので、勅命にそむくわけにもゆか 回 五す、まず溌陽の軍勢を退かせておいてから、張翼とともにしずしずと引き揚げた。鄧艾は陣中にあ 第って、ある夜、夜どおし笛・太鼓が鳴り響くのを耳にして、何事ならんと思っていたところ、夜が たくら れ明けると、蜀勢が一兵あまさず引き揚げて、陣地だけが残っているとの知らせがあったが、企みが あるのではないかと疑って、追討ちをかけるのを差し控えたのであった。 おのれ えつけん

6. 三国志演義 8

「臣が鄧艾を祁山に取り囲んでおりましたところ、つづけて三通も詔をたまわってお呼びもどしな いかなるおばしめしにごギ、りますか」 されましたは、 後主は押し黙ったまま答えない じようじ ろう うわ・ヘ 「黄皓は上面ばかりの男にて、彼が大権を弄するのは、霊帝の御代の十常侍といささかも変わりま ちょうこう ちょうじよう せぬ。近くは張譲 ( 後漢末の十常侍の一人 ) 、遠くは趙高 ( 秦の滅亡をまねいた宦官 ) の例がござりま す。早々に彼を殺されれば、朝廷はおのずから安泰となり、中原を取りもどすこともかなうように じ↓なり , きーしょ , つ」 を 後主は笑って、 讒 とういん 主「黄皓は走り使いの小者じゃ。大権をまかせたとて、ようできるような能もない。前に董允が彼の ちん かたき てことを目の仇にしていたのを、朕はまことにおかしなことと思っておったが、そなたまでそのよう ーし 詔なことを一『戸っことはなかろう」 第一うとう を 師姜維は叩頭して、 こんにち 「今日、黄皓を除かれなければ、国家の禍いを招くことになりますそ」 回 がんえん 五「『これを愛してその生きんことを欲し、これを悪んでその死せんことを欲す』 ( 『論語』顔淵篇 ) と 第かたかが宦官一人ぐらい、許してやってもよいではないか」 と言って後主は、近侍の者を築山のかげにやると、黄皓を亭の下に呼び出し、姜維に詫びるよう 命じた。黄皓は泣き泣き平伏して、 わぎわ れい しん

7. 三国志演義 8

しよくかんけいよう きようい ひょう さて蜀漢の景耀五年 ( 二六一 l) の冬十月、大将軍姜維は、人をやって日夜、桟道を直させ、兵 ろう かんちゅう 粮・武器をととのえるとともに、漢中の川筋より船を調達した。こうして用意がいっさいととの うと、後主に上奏文を奉った。 すでぎ 臣、しばしば出陣いたし、 いまだ大功を収めずとはいえ、已に魏の者どもの心胆をくじき動か せり。今日、已に軍勢を養うこと久しきにおよぶ。戦わざれば怠惰の心おこり、怠惰の心おこら ば、病いおこる。いわんや今、兵は一死奉公の念にもえ、将は命の下るを待つ。臣、もし勝たざ る時は、甘んじて死罪を受けん。 しようしゅう 後主がこれを見て心を決めかねているとき、讌周が列中より進み出て言った。 やま ひきあげみことのり ぎん 班師を詔して後主讒を信じ 第百十五回とんでん 屯田に託して姜維禍を避く きようい 、んレ」う

8. 三国志演義 8

じよう ぼく ( 注六 ) りくこうちんとう 孫休はこれを聞きいれて、陸遜の子陸抗を鎮東大将軍に封じ、荊州の牧として、襄江の川口 ( 襄 なんじよ 陽付近。魏よりの進攻路に当たる ) を守らせ、左将軍孫異に南徐の各難所を固めさせ、また長江一帯に す 軍勢を置いて数百の陣屋を連ね、老将丁奉にこれを統べさせて、魏の軍勢に備えた。 かた けんねいたいしゆかくか 建寧の太守霍戈 ( 正しくはで ) は、成都が落ちたと聞くや、喪服をつけ西の方を望んで三日泣き つづけたが、諸将が、 成「天子がすでに位を失われたうえは、早く降参されるがよろしゅうござりましよう」 と言うと、泣き泣き一言った。 とだ み「便りも跡絶えて、天子の安危すらわからぬ今じゃ。魏主が陛下を礼遇しているとわかったら、城 はずか ををあけて降参もしようが、万一、陛下に危害を加えたり辱しめたりしたなら、君辱しめらるれば臣 し死すとか、断じて降りはせぬ」 降 投 一同もこれに同意し、人を洛陽へやって、後主の消息をさぐらせた。 さて後主が洛陽に着いた時には、司馬昭はすでに朝廷にもどっていて、 ちゅうさっ 仮 「そなたは酒色におばれ、賢者を退けて国政を乱したのであるから、誅殺する」 回 九 となじった。後主は血の気を失って、ただおろおろするばかり。この時、文武百官が、 十 第「蜀主は国政を乱した罪ありとは申せ、これを悔いて降参いたしたものゆえ、おゆるしなされます , つ」 りゅうぜんあんらく と取りなしたので、司馬昭は劉禅を安楽公に封じ、住居を与えて月ごとに入費を給することと くだ りくそん

9. 三国志演義 8

ここに鄧艾は兵をひきいて追ってきたが、行手に蜀の軍勢が旗さし物も整然と、一分の乱れもな くしずしずと退いてゆくのを眺めて、 「あれは武侯の兵法そのままじゃ」 と嘆急し、そのうえ追うことをあきらめて祁山の陣に引き取った。 せいと えつけん さて姜維は成都にもどると後主に謁見し、召還の理由を尋ねた。 ちん 「朕は、そなたが辺境に出陣して久しくなるゆえ、兵士が疲れはせぬかと思ったので、呼びかえし したまでじゃ。別に他意あってのことではない」 死 「臣はすでに祁山の敵陣を奪って、勝利も目前と思っておりましたに、中途でもどらねばならぬと 南は思いもかけませんでした。これは鄧艾の離間の計にかかったものにござります」 っ 後主がはたと黙りこむところ、 を「臣は誓って逆賊を打ち平らげ、国恩に報いる所存に存じまする。小人の言葉なそに耳を傾けて 髦疑いを抱かれるようなことは、切にお控え下されますよう」 後主はややあって、ようやく言った。 かんちゅう 四「朕もそなたを疑ったことなそない。そなたはひとまず漢中にもどり、魏の国内に異変のおこる 第のを待って攻めいるがよかろう」 姜維は嘆息して退出し、漢中へ去った。 と・つがい

10. 三国志演義 8

と言ったが、後主が耳もかさないので、声を放って泣きだし、 「先帝にはなみなみならぬご苦心のすえ、この国をお興しになられたもの。むざむざ棄てて降参す るくらいなら、それがし、死んだ方がましでござります」 と一言うところ、後主は近臣に命じて彼を外へ連れ出させ、ついに讌周に命じて降参の国書をつく いとうりよう ししよじちゅうちょうしようふばと ぎよくじ らせると、私署侍中張紹・射馬都尉鄧良を謙周と同道せしめて、玉璽を捧げ、雛城に降参申し いれに遣わした。 時に鄧艾は数百の騎馬武者を成都に物見に出していたが、この日、降参の旗が立ったのを見てい たく喜ぶところ、間もなく張紹らが」 着したので、すぐさま人を出して迎えいれさせた。三人は庭 先に平伏して降参の国書と玉璽を差し出す。鄧艾は国書をひろげて目を通すや、大いに喜んで玉璽 を受け取り、張紹・誰周・鄧良らを手厚くもてなしたうえ、返書を三人に与えて成都にかえし、 しよく 蜀の人々の心を落ち着かせようとした。三人は鄧艾の前を辞去すると、急ぎ成都にもどって後主 えつけん に謁見し、返書を差し出すとともに鄧艾の手厚いもてなしぶりをつぶさに報告する。後主は返書を たいばくしようけんちよくし 読んでいたく喜び、ただちに太僕蒋顕を勅使に立てて、姜維に即時降参するよう命じゃるととも しようしよろうり - 一 に ( 尚書郎李虎を遣わして、鄧艾に国の帳簿を届けさせた。それによれば、戸数二十八万、男女 にしきあやめきいとねり 九十四万、将士十万二千、官吏四万、国庫にある糧穀四十余万、金銀二千斤、錦・綾絹・生糸・練 ぎめ 絹それそれ二万疋、その他、国庫に収められたもの無数である。かくて十二月一日に、君臣ともに 降参して出ることとした。 びき