王 - みる会図書館


検索対象: 三国志演義 8
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1. 三国志演義 8

「そなたが心から降参して参ったのに、わしが心から受けいれぬという法はない。わが軍が困って ひょうろう おるのは、兵粮だけじゃ。糧秣はいま国境まで運んであるのじゃが、そなたが祁山まで運んでき てくれぬか。さすれば、わしは一気に祁山に攻めかかろう」 姜維がいたく喜んだので、王瓏はしてやったりとばかり、欣然として承知した。 「糧秣を運ぶのに五千もいりはすまい。三千騎だけひきいて、二千はわが軍が祁山を攻める時の案 内役に残してゆけ」 言われて王瓏は、姜維の疑いを買うのを恐れ、三千騎だけをひきいて打ち立った。姜維は二千の ふせん か第、うは 死 魏の兵士を傅僉の手に繰りいれる。ところへ夏侯霸が来たとの取次ぎがあった。 ととく 南「王瓏の申すことなそを信じられるとは、都督とも思われぬなされよう。それがし魏におりまして、 っ寡聞ではござりましたが、 ついそ王瓏が王経の甥であるなぞとは、耳にいたしませんでした。彼の を 降参には何か企みがある様子ゆえ、ご再考のほど願わしゅう存じます」 車 髦夏侯霸の言葉に、姜維はからからと笑い 「王璢の企みを見抜いたからこそ、彼の兵を分け、彼の企みの裏をかこうとしておるのじゃ」 回 四「それは」 第「司馬昭は曹操と並ぶしたたか者じゃ。王経を殺し、彼の一門を皆殺しとしたというのに、その実 の甥を外地において軍勢をあたえておくはずがないではないか。それで企みを見抜いたのじゃ。そ なたも同じ考えであったとは思わなかったぞ」 ′、冖 ' ギ、んルい きんぜん

2. 三国志演義 8

ずきんあかぎ 黄色の頭巾、藜の杖をついて、『われこそは民の王なり。ここにそなたたちに告げる。天下は王を こっぜみ 換えなば、立ちどころに泰平とならん』と申し、町を歩きまわること三日、忽然として姿を消しま りゅう ずいちょう したが、これそ殿下にとっての瑞兆にござります。殿下には十二旒の冠 ( 王冠 ) をいただき、天子 きんこんしゃ けいひっ の旗を建て、出入りには警蹕をつけ、金根車に乗り、馬は六頭とし、王妃を皇后に、ご世子を太子 しにお立てになるがよろしゅうござります」 成 大臣が言ったので、司馬昭は心中いたく喜び、王宮にもどって食事をとろうとしたところ、とっ を ぜん口がきけなくなった。あくる日には、すでに命のほども知れなくなったので、太尉王祥・司徒 じゅんぎ み何曾・司空荀顗および大臣たちが見舞いに参上すれば、司馬昭は物がいえず、ただ太子司馬炎を指 かのとう をさして死んだ。時に八月辛卯の日である。 ーし 「天下の大権は晋王に集まっている。太子を立てて晋王としたうえで、葬儀をおこなおうではござ 投らぬか」 じようしよう しばばう 何曾の言葉で、この日ただちに司馬炎が晋王の位につき、何曾を晋の丞相に、司馬望を司徒に、 ぶん ちんけんしやき - 仮せきほうひょうき 石苞を驃騎将軍に、陳騫を車騎将軍に封じ、父司馬昭に文王と諡した。 回 九葬儀のすんだあと、司馬炎は賈充・裴秀を王宮に召して尋ねた。 しゅうぶん そうそう 第「曹操はかって『もし天命がわしにあるとすれば、わしは周の文王となるであろう』と言ったとい 昭うが、これは本当か」 賈充、 おくりな

3. 三国志演義 8

147 第百十三回丁奉計を定めて孫を斬り・・ でんたん 昭王の死後、かねて彼を快からず思っていた王が立つにおよんで、斉の田単が間者を放って、楽毅 が斉王として自立しようとしているとの流言を飛ばした。恵王はこれを信じて彼を召還しようとした が、彼は危険を感じてついに趙に亡命した。 なんそう きん しんかい 岳飛は南宋 ( 一一二七ー一二七九 ) の大将。金人の侵略に抵抗して大功を立てたが、秦檜に讒言せら れて死んだ。ここは講釈師のロ振りを模写しているので、三国時代以後の故事を引用しているのであ る。

4. 三国志演義 8

- っとう 引かれてきたので、王経が叩頭して泣き泣き、 新「母上までかような目にお会わせいたすとは、それがし、この上もない不孝者にござります」 と一言うと、母親は笑って、 「人は誰でも死ぬるもの。ただ恐ろしいのは死に場所が得られぬことです。このようなことで命を 棄てることができるからは、少しも思い残すことはありません」 とうし あくる日、王経の一家は東市に引き出され、王経母子は微笑を浮かべながら首を刎ねられたが、 城内の人々は、役人より庶民にいたるまで、涙せざるはなかった。後の人の詩に、 漢初剣に伏せるを誇るに 漢末王経を見たり 真烈の心異なるなく 堅剛の志更に清し 節は泰・華 ( 山名 ) の如く重く ′一と 命は羽毛の似く軽し 母子の声名の在ること ま寺、 応に天地の傾くに同じからん かん 一ら ′一と おやこ

5. 三国志演義 8

124 趙・韓・魏 ) 併立せし時のごとし。ゆえに文王たるべく、高祖たり難し。動くべき時の至るを待 って動き、事を挙ぐべき天機に合してのち挙ぐるをよしとす。ゆえに ( の ) 湯王・ ( 周の ) 武王 いんちゅう は、一戦にして ( 夏の桀王、殷の紂王に ) 勝つ。これまことに民の労を重んじて、天の時をはかる つまび こと審らかなればなり。もし征伐をのみ事として武徳をけがし、不幸にして難にあうことあらば、 智者ありといえども、これを救うすべなからん。 読み終えた姜維は大いに怒り、 「腐れ儒者めが、何をぬかす」 りようせん と地面にたたきつけるや、両川の兵をひきいて中原に攻め上ろうとし、傅僉にはかった。 「そなたの考えでは、どこへ出たらよいと思うか」 らく - 一く 「魏の糧秣は、すべて長城にたくわえてござります。一挙に駱谷より沈嶺を越えて長城をつき、ま しんせん ずかしこの糧秣を焼き払ったのち秦川を抜きますれば、中原は容易に取ることがかないましよう」 「それこそ、わしの考えていたところじゃ」 かくて、ただちに出陣し、駱谷より一路、沈嶺を越えて、長城目指し押し進んだ。 し、はばう ここに長城を固める将軍司馬望は、司馬昭の従兄であったが、城内には糧秣ばかりあって、軍勢 おうしんりほう はきわめて僅かであった。この時、司馬望は蜀兵来ると聞き、急ぎ王真・李鵬の二将とともに、兵 をひきいて城外二十里のところに出陣した。あくる日、蜀の軍勢が押し寄せるや、司馬望は二将を ちょうかんぎ きた ちんれい ふせん とう

6. 三国志演義 8

158 とうがい 時に鄧艾は祁山の陣中で軍勢の調練に当たっていたが、蜀の軍勢が三方から殺到し来るとの知ら おうかん せに、諸将を集めて協議するところ、参軍王瓏が言った。 「それがしに考えがござりますが、あからさまに一一 = ロうことはできませぬゆえ、ここに書き物にして 持参いたしました。なにとぞご覧下されませ」 鄧艾は受け取って目を通したが、からからと笑って、 いかにも妙計じゃが、果たして姜維がこの手に乗るかどうかな」 「それがし命がけで参ってみます」 「そなたの心さえ固ければ、必すしおおせるであろう」 と言って、鄧艾は彼に五千騎を与えた。王璢が夜を日についで斜谷に馳せつければ、おりよく岡 の先手の物見の兵に出会ったので、 「それがしは魏より降参して参った者でござる。大将にお取り次ぎ下されい」 物見の者が姜維に注進すれば、姜維は兵士たちを控えさせておいて、大将だけを引見した。王瓏 は彼の前に平伏して、 「それがしは王経の甥の王瓏と申す者でござります。このほど、司馬昭が天子を弑し、叔父の一 を皆殺しといたしましたので、いたく恨みに思っていたところ、このたび幸いにも将軍が征伐の軍 しつか をおこされたと聞き、手勢五千をひきいてご膝下に馳せ参じました。おさしずに従って奸賊を打ち 滅ばし、叔父の恨みを晴らしたく存じまする」 さきて きた

7. 三国志演義 8

152 「司馬昭が簒奪の心を抱きおることは、もはや知らぬ者もないほどじゃ。朕はこのうえ手をこまぬ はずか ちゅう いて、廃位の辱しめを受けることはできぬ。朕は彼を誅しようと思うが、そなたも力を貸してくれ ろしよう 「それはなりませぬ。むかし魯の昭公が季氏に対して短気をおこし、敗れて国を失うにいたったよ こんにち うな例もござります。今日、大権すでに司馬氏の手に帰して久しくなり、朝廷内外の臣下たちの中 かんぞくおも で順逆の道理をわきまえずに奸賊に阿ねる者も、数多くおるありさま。しかし陛下をお守りする者 どもは数も少なく、ご下命に応する者もござりませぬ。ここで短気をおこされては、容易ならぬ 禍いを招くことになりまするゆえ、しばらく自重されることが肝要。軽率なことはお控え下さり まするよう」 これ はちいっ 「『是をしも忍ぶべくんば、いすれをか忍ぶべからざらん』 ( 『論語』八价篇。これが我慢できるくらいな ら、我慢できぬということは何もない ) 朕の心はもはや決まっておる。命なそ惜しくはない」 と言いすてて曹髦は奥にはいり、太后にこれを告げた。王沈・王業が、王経に向かい、 やかた 「もはや一刻の猶予も許されぬ。みずから一門を滅ばされるのを待つより、司馬公の館に訴え出て 死を免れようではござらぬか」 と言うと、王経は血相を変えて、 「主憂うる時は臣辱しめられ、主辱しめらるる時は臣死す、というではないか。二心なぞ持たぬ」 二人が王経が従おうとしないのを見て、急ぎ司馬昭に注進におもむいた。 わざわ さんだっ

8. 三国志演義 8

さか 打ち立とうとするおりしも、にわかに吹き起こった西北の風に、呉の旗さし物はすべて舟の中に逆 さまに突き立った。兵士たちは船に乗ろうとせずに四方へ逃げ散り、残ったのは張象と兵士数十人 だけであった。 さんギ一ん さて晋の大将王濬は、帆をいつばいに張って攻めくだって来たが、三山の横を通りかかるおりし も、船頭が言うのに、 「波が高くて船をやれませぬ。風が少しおさまるまでお待ち下されませ」 王濬は大いに怒り、剣を引き抜くなり、 せきとう 。しま石頭城を取ろうとしておるのじゃ。とどまろうとは何事か」 しった と叱咤し、太鼓を打ち鳴らして進み出る。呉の大将張象が手勢をひきいて投降してきたので、 さきて 「もし本心より降参してきたのなら、先手となって功を立てよ」 と言えば、張象は船をもどして石頭城下にいたり、城門を開けさせて晋の軍勢を迎えいれる。孫 こちゅうこうろくくん 皓は晋の軍勢がすでに入城したと聞いて、みずから首を刎ねようとしたが、中書令胡沖と光禄勲の 薛瑩が、 あんらくりゅうぜんなら 「陛下、安楽公劉禅に効われたらよいではござりませぬか」 きゅうしゃ と言ったので、孫皓はこれに従い、柩車をそなえ自して、文武諸官をひきい、王濬の陣頭に とうひと 降参した。王濬はその縛めを解いてその柩を焼き、王を遇する礼で迎えた。唐人が嘆じた詩に せつえい

9. 三国志演義 8

242 に上奏文を奉った。時に曹奐は天子とは名ばかりで、なに一つ思うにまかせず、大権はすべて司馬 すべ せん 氏の手に握られていたから、いなやを言う術もなく、晋公司馬昭を晋王に封じ、その父司縣懿に宣 おくりな おうしゆく しばえん 王、兄司馬師に景王と諡した。司馬昭の妻は王粛の娘で、二人の男児をもうけた。長男は司馬炎 力しし ひざ といい、人物魁偉、立てば髪は地にとどき、両の腕は膝の下に達し、聡明にして武勇抜群、豪胆無 しばゅう - 一うてい 類の男であった。次男は司馬攸といし 、温和にして、孝悌であったから、司馬昭はいたく彼を愛し、 子のなかった兄司馬師の跡目をつがせていた。司馬昭はまた日ごろから、「天下は、わしの兄者の ものだ」と言っていたが、晋王に封ぜられるにおよんで、司馬攸を世嗣に立てようとした。しかし キ一んとう 山濤が、 「兄を棄てて弟をとるのは、しここ ; 、、、 み↑しオカし不士口にごギ、ります」 かじゅうかそう まいしゅう・ と諫め、賈充・何曾・秀も、 きだい 「ご長子には文武両道をかね備えられた稀代の英才におわせられ、天下の人望を集めておられます。 そう 正に帝王とならるべきお方にして、臣下の相ではござりませぬ」 たいいおうしよう しくうじゅんぎ と諫めたので、司馬昭が心を決めかねているところ、太尉王祥・司空荀顗からも、 「これまで、弟を立てて国を失うに至った例は少なくござりませぬ。ご考慮のほど願わしゅう存じ まする」 と諫められ、ついに長子司馬炎を世嗣としたのであった。 じようぶ あまくだ 「本年、襄武県に、身のたけ二丈余り、足の跡が三尺二寸、白髪白髯の人が天降り、黄色の単衣、 はくぜん ひとえ

10. 三国志演義 8

せいしんろうせん 西晋の楼船 ( 兵船 ) 益州に下り きんりよう あんぜん 金陵の王気黯然として収まる 千尋の鉄鎖江底に沈み 一片の降旗石頭に出す いくたび 人生幾回か往事を傷み 山形旧に依り寒流に枕す ド」 献 今四海家と為るの日に逢い を こるいしようしようろてき 謀 故塁蕭々蘆荻の秋 新 老 て かくて東呉の四州八十三郡、三百十三県、戸口五十二万三千、軍吏三万二千、兵二十三万、男女 薦老幼二百三十万、米穀二百八十万斛、舟船五千余艘、後宮の女五千余人は、すべて大晋に帰した。 ろうや かいめつ を 預大事すでに定まり、国家の庫をすべて封印した。あくる日、陶濬の軍は戦わずして潰滅する。瑯堺 しばちゅうおうじゅう 王司馬仙と王戎の大軍も相継いで到着し、王濬の成功を見て心中、大いに喜んだ。あくる日には 回 + 杜預も到着して大いに三軍をねぎらい、穀倉を開いて呉の人民に振る舞ったので、呉の人民もはじ 第一も けんべい 第めて安堵した。建平の太守吾彦だけは城に立て籠って降参しようとしなかったが、呉の滅んだのを 聞いてはじめて降参した。王濬が上奏文を奉って勝利を知らせれば、朝廷では、呉の平定が成った と知り、君臣ともに祝いあったが、晋主は杯を手にして、はらはらと落涙した。 えき