「そなたが心から降参して参ったのに、わしが心から受けいれぬという法はない。わが軍が困って ひょうろう おるのは、兵粮だけじゃ。糧秣はいま国境まで運んであるのじゃが、そなたが祁山まで運んでき てくれぬか。さすれば、わしは一気に祁山に攻めかかろう」 姜維がいたく喜んだので、王瓏はしてやったりとばかり、欣然として承知した。 「糧秣を運ぶのに五千もいりはすまい。三千騎だけひきいて、二千はわが軍が祁山を攻める時の案 内役に残してゆけ」 言われて王瓏は、姜維の疑いを買うのを恐れ、三千騎だけをひきいて打ち立った。姜維は二千の ふせん か第、うは 死 魏の兵士を傅僉の手に繰りいれる。ところへ夏侯霸が来たとの取次ぎがあった。 ととく 南「王瓏の申すことなそを信じられるとは、都督とも思われぬなされよう。それがし魏におりまして、 っ寡聞ではござりましたが、 ついそ王瓏が王経の甥であるなぞとは、耳にいたしませんでした。彼の を 降参には何か企みがある様子ゆえ、ご再考のほど願わしゅう存じます」 車 髦夏侯霸の言葉に、姜維はからからと笑い 「王璢の企みを見抜いたからこそ、彼の兵を分け、彼の企みの裏をかこうとしておるのじゃ」 回 四「それは」 第「司馬昭は曹操と並ぶしたたか者じゃ。王経を殺し、彼の一門を皆殺しとしたというのに、その実 の甥を外地において軍勢をあたえておくはずがないではないか。それで企みを見抜いたのじゃ。そ なたも同じ考えであったとは思わなかったぞ」 ′、冖 ' ギ、んルい きんぜん
ずきんあかぎ 黄色の頭巾、藜の杖をついて、『われこそは民の王なり。ここにそなたたちに告げる。天下は王を こっぜみ 換えなば、立ちどころに泰平とならん』と申し、町を歩きまわること三日、忽然として姿を消しま りゅう ずいちょう したが、これそ殿下にとっての瑞兆にござります。殿下には十二旒の冠 ( 王冠 ) をいただき、天子 きんこんしゃ けいひっ の旗を建て、出入りには警蹕をつけ、金根車に乗り、馬は六頭とし、王妃を皇后に、ご世子を太子 しにお立てになるがよろしゅうござります」 成 大臣が言ったので、司馬昭は心中いたく喜び、王宮にもどって食事をとろうとしたところ、とっ を ぜん口がきけなくなった。あくる日には、すでに命のほども知れなくなったので、太尉王祥・司徒 じゅんぎ み何曾・司空荀顗および大臣たちが見舞いに参上すれば、司馬昭は物がいえず、ただ太子司馬炎を指 かのとう をさして死んだ。時に八月辛卯の日である。 ーし 「天下の大権は晋王に集まっている。太子を立てて晋王としたうえで、葬儀をおこなおうではござ 投らぬか」 じようしよう しばばう 何曾の言葉で、この日ただちに司馬炎が晋王の位につき、何曾を晋の丞相に、司馬望を司徒に、 ぶん ちんけんしやき - 仮せきほうひょうき 石苞を驃騎将軍に、陳騫を車騎将軍に封じ、父司馬昭に文王と諡した。 回 九葬儀のすんだあと、司馬炎は賈充・裴秀を王宮に召して尋ねた。 しゅうぶん そうそう 第「曹操はかって『もし天命がわしにあるとすれば、わしは周の文王となるであろう』と言ったとい 昭うが、これは本当か」 賈充、 おくりな
147 第百十三回丁奉計を定めて孫を斬り・・ でんたん 昭王の死後、かねて彼を快からず思っていた王が立つにおよんで、斉の田単が間者を放って、楽毅 が斉王として自立しようとしているとの流言を飛ばした。恵王はこれを信じて彼を召還しようとした が、彼は危険を感じてついに趙に亡命した。 なんそう きん しんかい 岳飛は南宋 ( 一一二七ー一二七九 ) の大将。金人の侵略に抵抗して大功を立てたが、秦檜に讒言せら れて死んだ。ここは講釈師のロ振りを模写しているので、三国時代以後の故事を引用しているのであ る。
- っとう 引かれてきたので、王経が叩頭して泣き泣き、 新「母上までかような目にお会わせいたすとは、それがし、この上もない不孝者にござります」 と一言うと、母親は笑って、 「人は誰でも死ぬるもの。ただ恐ろしいのは死に場所が得られぬことです。このようなことで命を 棄てることができるからは、少しも思い残すことはありません」 とうし あくる日、王経の一家は東市に引き出され、王経母子は微笑を浮かべながら首を刎ねられたが、 城内の人々は、役人より庶民にいたるまで、涙せざるはなかった。後の人の詩に、 漢初剣に伏せるを誇るに 漢末王経を見たり 真烈の心異なるなく 堅剛の志更に清し 節は泰・華 ( 山名 ) の如く重く ′一と 命は羽毛の似く軽し 母子の声名の在ること ま寺、 応に天地の傾くに同じからん かん 一ら ′一と おやこ
124 趙・韓・魏 ) 併立せし時のごとし。ゆえに文王たるべく、高祖たり難し。動くべき時の至るを待 って動き、事を挙ぐべき天機に合してのち挙ぐるをよしとす。ゆえに ( の ) 湯王・ ( 周の ) 武王 いんちゅう は、一戦にして ( 夏の桀王、殷の紂王に ) 勝つ。これまことに民の労を重んじて、天の時をはかる つまび こと審らかなればなり。もし征伐をのみ事として武徳をけがし、不幸にして難にあうことあらば、 智者ありといえども、これを救うすべなからん。 読み終えた姜維は大いに怒り、 「腐れ儒者めが、何をぬかす」 りようせん と地面にたたきつけるや、両川の兵をひきいて中原に攻め上ろうとし、傅僉にはかった。 「そなたの考えでは、どこへ出たらよいと思うか」 らく - 一く 「魏の糧秣は、すべて長城にたくわえてござります。一挙に駱谷より沈嶺を越えて長城をつき、ま しんせん ずかしこの糧秣を焼き払ったのち秦川を抜きますれば、中原は容易に取ることがかないましよう」 「それこそ、わしの考えていたところじゃ」 かくて、ただちに出陣し、駱谷より一路、沈嶺を越えて、長城目指し押し進んだ。 し、はばう ここに長城を固める将軍司馬望は、司馬昭の従兄であったが、城内には糧秣ばかりあって、軍勢 おうしんりほう はきわめて僅かであった。この時、司馬望は蜀兵来ると聞き、急ぎ王真・李鵬の二将とともに、兵 をひきいて城外二十里のところに出陣した。あくる日、蜀の軍勢が押し寄せるや、司馬望は二将を ちょうかんぎ きた ちんれい ふせん とう
158 とうがい 時に鄧艾は祁山の陣中で軍勢の調練に当たっていたが、蜀の軍勢が三方から殺到し来るとの知ら おうかん せに、諸将を集めて協議するところ、参軍王瓏が言った。 「それがしに考えがござりますが、あからさまに一一 = ロうことはできませぬゆえ、ここに書き物にして 持参いたしました。なにとぞご覧下されませ」 鄧艾は受け取って目を通したが、からからと笑って、 いかにも妙計じゃが、果たして姜維がこの手に乗るかどうかな」 「それがし命がけで参ってみます」 「そなたの心さえ固ければ、必すしおおせるであろう」 と言って、鄧艾は彼に五千騎を与えた。王璢が夜を日についで斜谷に馳せつければ、おりよく岡 の先手の物見の兵に出会ったので、 「それがしは魏より降参して参った者でござる。大将にお取り次ぎ下されい」 物見の者が姜維に注進すれば、姜維は兵士たちを控えさせておいて、大将だけを引見した。王瓏 は彼の前に平伏して、 「それがしは王経の甥の王瓏と申す者でござります。このほど、司馬昭が天子を弑し、叔父の一 を皆殺しといたしましたので、いたく恨みに思っていたところ、このたび幸いにも将軍が征伐の軍 しつか をおこされたと聞き、手勢五千をひきいてご膝下に馳せ参じました。おさしずに従って奸賊を打ち 滅ばし、叔父の恨みを晴らしたく存じまする」 さきて きた
152 「司馬昭が簒奪の心を抱きおることは、もはや知らぬ者もないほどじゃ。朕はこのうえ手をこまぬ はずか ちゅう いて、廃位の辱しめを受けることはできぬ。朕は彼を誅しようと思うが、そなたも力を貸してくれ ろしよう 「それはなりませぬ。むかし魯の昭公が季氏に対して短気をおこし、敗れて国を失うにいたったよ こんにち うな例もござります。今日、大権すでに司馬氏の手に帰して久しくなり、朝廷内外の臣下たちの中 かんぞくおも で順逆の道理をわきまえずに奸賊に阿ねる者も、数多くおるありさま。しかし陛下をお守りする者 どもは数も少なく、ご下命に応する者もござりませぬ。ここで短気をおこされては、容易ならぬ 禍いを招くことになりまするゆえ、しばらく自重されることが肝要。軽率なことはお控え下さり まするよう」 これ はちいっ 「『是をしも忍ぶべくんば、いすれをか忍ぶべからざらん』 ( 『論語』八价篇。これが我慢できるくらいな ら、我慢できぬということは何もない ) 朕の心はもはや決まっておる。命なそ惜しくはない」 と言いすてて曹髦は奥にはいり、太后にこれを告げた。王沈・王業が、王経に向かい、 やかた 「もはや一刻の猶予も許されぬ。みずから一門を滅ばされるのを待つより、司馬公の館に訴え出て 死を免れようではござらぬか」 と言うと、王経は血相を変えて、 「主憂うる時は臣辱しめられ、主辱しめらるる時は臣死す、というではないか。二心なぞ持たぬ」 二人が王経が従おうとしないのを見て、急ぎ司馬昭に注進におもむいた。 わざわ さんだっ
さか 打ち立とうとするおりしも、にわかに吹き起こった西北の風に、呉の旗さし物はすべて舟の中に逆 さまに突き立った。兵士たちは船に乗ろうとせずに四方へ逃げ散り、残ったのは張象と兵士数十人 だけであった。 さんギ一ん さて晋の大将王濬は、帆をいつばいに張って攻めくだって来たが、三山の横を通りかかるおりし も、船頭が言うのに、 「波が高くて船をやれませぬ。風が少しおさまるまでお待ち下されませ」 王濬は大いに怒り、剣を引き抜くなり、 せきとう 。しま石頭城を取ろうとしておるのじゃ。とどまろうとは何事か」 しった と叱咤し、太鼓を打ち鳴らして進み出る。呉の大将張象が手勢をひきいて投降してきたので、 さきて 「もし本心より降参してきたのなら、先手となって功を立てよ」 と言えば、張象は船をもどして石頭城下にいたり、城門を開けさせて晋の軍勢を迎えいれる。孫 こちゅうこうろくくん 皓は晋の軍勢がすでに入城したと聞いて、みずから首を刎ねようとしたが、中書令胡沖と光禄勲の 薛瑩が、 あんらくりゅうぜんなら 「陛下、安楽公劉禅に効われたらよいではござりませぬか」 きゅうしゃ と言ったので、孫皓はこれに従い、柩車をそなえ自して、文武諸官をひきい、王濬の陣頭に とうひと 降参した。王濬はその縛めを解いてその柩を焼き、王を遇する礼で迎えた。唐人が嘆じた詩に せつえい
242 に上奏文を奉った。時に曹奐は天子とは名ばかりで、なに一つ思うにまかせず、大権はすべて司馬 すべ せん 氏の手に握られていたから、いなやを言う術もなく、晋公司馬昭を晋王に封じ、その父司縣懿に宣 おくりな おうしゆく しばえん 王、兄司馬師に景王と諡した。司馬昭の妻は王粛の娘で、二人の男児をもうけた。長男は司馬炎 力しし ひざ といい、人物魁偉、立てば髪は地にとどき、両の腕は膝の下に達し、聡明にして武勇抜群、豪胆無 しばゅう - 一うてい 類の男であった。次男は司馬攸といし 、温和にして、孝悌であったから、司馬昭はいたく彼を愛し、 子のなかった兄司馬師の跡目をつがせていた。司馬昭はまた日ごろから、「天下は、わしの兄者の ものだ」と言っていたが、晋王に封ぜられるにおよんで、司馬攸を世嗣に立てようとした。しかし キ一んとう 山濤が、 「兄を棄てて弟をとるのは、しここ ; 、、、 み↑しオカし不士口にごギ、ります」 かじゅうかそう まいしゅう・ と諫め、賈充・何曾・秀も、 きだい 「ご長子には文武両道をかね備えられた稀代の英才におわせられ、天下の人望を集めておられます。 そう 正に帝王とならるべきお方にして、臣下の相ではござりませぬ」 たいいおうしよう しくうじゅんぎ と諫めたので、司馬昭が心を決めかねているところ、太尉王祥・司空荀顗からも、 「これまで、弟を立てて国を失うに至った例は少なくござりませぬ。ご考慮のほど願わしゅう存じ まする」 と諫められ、ついに長子司馬炎を世嗣としたのであった。 じようぶ あまくだ 「本年、襄武県に、身のたけ二丈余り、足の跡が三尺二寸、白髪白髯の人が天降り、黄色の単衣、 はくぜん ひとえ
せいしんろうせん 西晋の楼船 ( 兵船 ) 益州に下り きんりよう あんぜん 金陵の王気黯然として収まる 千尋の鉄鎖江底に沈み 一片の降旗石頭に出す いくたび 人生幾回か往事を傷み 山形旧に依り寒流に枕す ド」 献 今四海家と為るの日に逢い を こるいしようしようろてき 謀 故塁蕭々蘆荻の秋 新 老 て かくて東呉の四州八十三郡、三百十三県、戸口五十二万三千、軍吏三万二千、兵二十三万、男女 薦老幼二百三十万、米穀二百八十万斛、舟船五千余艘、後宮の女五千余人は、すべて大晋に帰した。 ろうや かいめつ を 預大事すでに定まり、国家の庫をすべて封印した。あくる日、陶濬の軍は戦わずして潰滅する。瑯堺 しばちゅうおうじゅう 王司馬仙と王戎の大軍も相継いで到着し、王濬の成功を見て心中、大いに喜んだ。あくる日には 回 + 杜預も到着して大いに三軍をねぎらい、穀倉を開いて呉の人民に振る舞ったので、呉の人民もはじ 第一も けんべい 第めて安堵した。建平の太守吾彦だけは城に立て籠って降参しようとしなかったが、呉の滅んだのを 聞いてはじめて降参した。王濬が上奏文を奉って勝利を知らせれば、朝廷では、呉の平定が成った と知り、君臣ともに祝いあったが、晋主は杯を手にして、はらはらと落涙した。 えき