事の成り行きを窺っていた五、六人のクルーが、一斉に気をつけをして視線を中空に向け る。上官に怒鳴られた時の条件反射だった。まん中に立っ田所が「はっ ! 自分でありま す」とこちらに負けない大声で言った。 訊くまでもなくわかっていたことだが、当人の前で上官の悪口を一一一一口う者を放っておくわけ にはいかない。上の権威がなくなったら、軍組織は終わり。常識以前の話だ。部下の前で風 間をコケにしすぎたと反省しつつ、仙石は「タ飯食い終わったら先任海曹室に来い。他の者 はさっさと持ち場に戻れ」と先任伍長の声で言った。 びしりと敬礼すると、一同は号令もないのにびったり息のあった右向け右をして、小走り にその場を去ってゆく。田所を筆頭に、怒られ馴れた連中だからこそできる所作だった。や れやれと見送る間に、風間も決まり悪く 0—0 に戻る道をたどっていった。 戦闘訓練は続いている。自分も全壊したターターの消火訓練に戻ろうとした仙石は、ふと >}--Äco 管制室から出てきた人影に気づいた。 行だった。さっきの騒ぎなど気にも留めていない涼しい顔がこちらを見、すぐに視線を外 章して反対側の通路に歩いていってしまった。 第 訓練要具収めに奔走し、哨戒配備が解除されて通常の航海直に戻ったのは、午後四時半の 課業終了時を少し回った頃だった。《うらかぜ》との合流も果たし、紀伊半島に向けてタ凪
もねえ間違いだったけどな」と付け足した。苦笑混じりの声に、行もちょっとだけ頬を動か しておいた。 きしよう 「でもさ、よかったと思ってんだ、今は。これ知ってるだろ ? , 振り返り、田所は胸の徽章 を示した。「防衛記念章。先任伍長が推薦してくれたんだ。このおれが表彰されるなんて、 ガキの時に『虫歯がないで黨ってのをもらって以来だぜ。おまけに昇任試験に受かった ら、米軍で研修だって・ : 。なんか夢みたいだよ。笑っちまうよな。親からも見放されてた おれが、国の金でアメリカに留学するなんてさ」 そう言って笑うと、田所は「・ : ・ : 多分、おれにはここ以上の居場所はねえよ」と言って、 背中を向けた。どう応じていいのかわからず、行も黙って目を逸らした。 「だけど、おまえは違うんだよな。なんかおれたちと雰囲気が違うんだよ。幹部ってわけで もないし、なんていうのかな、その、みんなでなんかやろうってタイプじゃないんだよ。芸 術家つばいっていうか」 要は、浮いているということか。内心に呟いて、行は他意のない田所の背中をちらとだけ アンダーカバー 章振り返った。言われるまでもない、自覚はしている。どだい、自分は潜入向きの人材で 第はないのだ。「・ : : ・そんなこと、ないです」と絶望的な抵抗を言ってから、行は床を濡らす モップの先に目を落とした。 「別にいけないって言ってるわけじゃないんだぜ ? だけどおまえには、絶対におれたちに
はきっちり引き移しているというわけだ。無論、当の沢ロはそんなことはまったく知らず、 判で押したような役人生活を続けており、 805 もそれにつきあって、満員電車に揺られる 日々を今日も続けていた。 いつもと違う点があるとすれば、新聞を開かずにばんやり窓を見つめていることぐらいだ ゞ、特記事項に記すほどの行動ではない。電車は示湾沿いを走っており、倉庫や工場が立 ち並ぶくすんだ風景の中に、時おり思い出したように海が姿を見せる。真夏の晴天日、通勤 電車に押し込められた奴隷たちを笑うかのごとき海の輝きを見れば、誰だって現実で埋め られた新聞を遠ざけたくなる。に根を下ろした海上自衛官には、あるいは捨ててきた海に 対する特別な感慨でもあるのかもしれなかったが、いずれにしろウォッチャ 1 が気にすべき しんうらやす 805 はいつものように新浦安で下車した沢口に続い ことではなかった。乗車から十分、 て、ホームに降り立った。 ここで快速に乗り換える。三分の待ち合わせ時間があるのを知っているので、 805 は沢 口を目の端に捉えながら喫煙コーナーに向かった。肛門科の医者になえるよう言われていた が、タバコでも吸わなければこんなバカな仕事はやっていられない。マイルドセプンに火を つけ、ひと吸いしてから、列の中ほどで電車の到着を待っている沢口を見た。 少々顔色が悪い。首をやや横に傾け、薄く唇を開けて、ばんやりとした視線を前に並ぶ O の後頭部に向けている。身体の具合が悪いのかもしれない。これは特記事項に記す価値が
172 そのまま受け入れれば、梶本政権は空中分解。凍結すれば有一言実行の政治家として国民の 信頼を得るが、国際世論からは袋叩きにされる。どっちを向いても地獄ですが : 「アメリカが擁護すれば、話は変わってくる。日崟女保を外交カ 1 ドに使うわけか」 杉浦が再び先回りをする。頭の回転の速さは、欠点を補って余りある杉浦の美点だった。 もっとも、わかっていながらあえて口にしない竹中の方が、人間としては信頼が置けるが。 「そういうことです。在日米軍を無価値にする全護衛艦のイージス化計画をちらっかせて、 日本がビッグバン施行を凍結した時、アメリカに擁護の論陣を張ってもらう。向こうの経済 宀工名や政府関係者たちに、梶本の決断は正しかったと一一一一口わせるわけです。そうすればイージ 、とね。今回の計画 ス化計画を中断して、そちらの都合のいい形でに参加してもいし には、状況に応じて改変する旨の条項があらかじめ含まれてるようですし」 「じゃあ、最初から途中でやめるつもりで始めた計画だってわけかい ? 駆け引きのためだ けに、全護衛艦のイージス化計画を発表したと。途中で放り出して、国民にはどう説明する んだ」 長の酒井一尉が口を挟む。横田と同期の部内幹候上がりだが、禿げ上がった頭は実年 齢より老けて見える。横田は「誰も気にせんさ」とあっさり酒井の弁を退けた。 「ミニ・イージスが搭載された直後は、マスコミもよく《いそかぜ》の写真を撮りにきてた けどな。この間の出港の時には、マニアか広報部のカメラマンしかいなかった。大方の国民
47 序章 : という危惧がないではなかったが、それこそ老婆心だと思って、宮津はなにも言わずに 隆史を送り出した。自分だって、自衛官である限り宿命的につき当たる矛盾を自己処理し て、ここまで来た。息子にできないはずはない、と信じて。 海上自衛隊は軍拡時代の遺産であるイージス艦四隻の配備も完了して、着実に艦の大型 化、装備の近代化を進めていた。不況の風が吹き下ろす中、国民がすんなりそれを見過ごし たのは、北朝鮮から漂う不穏な空気に、有事という一 = 暴を身近に感じるようになっていたか らか、あるいは無関心も極まったからか。いずれ、従来のミサイル護衛艦をはるかに凌ぐ探 知・追撃能力を誇るイージス艦が四個護衛隊群に一隻ずつ配備されたからといって、海上自 衛隊の質が変容したわけではなかった。 防空能力が向上したとはいえ、頭越しに撃ち込まれる弾道ミサイルを迎撃することはでき ない。そうした攻撃に対する唯一効果的な対策は、先制で相手のミサイル基地を潰すか、こ ちらも撃ち返す準備があると相手に知らしめることなのだが、イ 1 ジス艦には発射台はあっ ても、肝心の長距離ミサイルが備わっていない。現有ミサイルの最長射程は、百キロと少 し。専守防衛の自衛隊に長距離ミサイルなどは不要、反撃と成は安保条約に基づいてアメ リカに期待するというわけで、そこがクリアできない以上、自衛隊装備中もっとも高価なイ ージス艦は、艦隊防御用のハエ叩きか、敵弾道弾の発射を知らせる出張レーダーの役にしか 立たない代物なのだった。 しろもの しの
言って、仙石は染み出してくる弱気を内奥に押し戻した。 「おまえがそう一一一一口うなら、おれは信じる。おまえはつまらん嘘をつくような奴じゃないから な」 完全に理解できないなら、せめてわかる範囲で他人を信頼してゆくしかない。自分にはそ れくらいしかできないと思いながらも、先任伍長の立場として、仙石は「ただし」と付け足 すのも忘れなかった。 「クルーの安全を預かるのがおれの仕事だ。勝手な行動を許すわけにはいかん」 取り戻しかけたいつもの笑顔を消して、菊政は再び肩を落とす。仙石はその目を正面に見 つめた。 「おまえが見た通りだったとしても、それにはなにか理由があるはずだ。おれたちが首を突 っ込んじゃならない理由がな」 「防衛秘密 : : : ですか ? 」 「わからんがな。とにかく、この件に関してはこっちから探りを入れてみるから、おまえは もう近づかないこと。 いいな ? 」 若狭たちにも言って、今晩中に幹部の誰かと話し合う必要がある。防衛秘密のべ 1 ルを剥 ぐ気はないが、立ち入れない事情があるならあるで、明確な説明を受ける権利が自分たちに はあるはずだった。演豈夜に面倒な話だが、先送りできるレベルの問題でないことを肝に
を願うもんだ。だから代表になった者は一等を取るために頑張るし、みんなも応援する。そ れがチ 1 ム綿ってもんだ。この稼業でいちばん大切なもんだ。艦は、ひとりのカで動くも んじゃないんだからな」 目の前で話していても、その不可知な本質は近づくどころか、ますます遠のいてゆくよう に仙石には感じられた。つつばっているのでもなければ、いじけているわけでもない。捉え どころのない現代の若者というのとも違う。そこにあるが、近づけないのだ。いったいなん なんだ ? 整った行の横顔をまじまじと見つめていると、話が途切れたのを誑た若狭の目 が突き刺さった。仙石は咳払いして、 「おまえはまだ配転されて間もない身だ。特艇員に誘って、兵長はこの艦に馴染むきっかけ をくれようとしたんだ。その気遣いがわかっていれば、卞に断るなんて真似はできないは ずだ。よく考えろ」 歯切れの悪さを感じながら言い終えた後、仙石は間を置かずに、「それから田所 ! 」とが なった。行の隣で、我が意を得たりとばかりにニャニヤしていた顔がさっと硬くなると、び 章んと音の出るような気をつけをする。こちらは実にわかりやすい 「さっき呼び出しをくらったばかりで、出頭前にもう一発騒ぎを起こすとは、やってくれる 第 な。ええ ? 「申しわけありません ! 以後気をつけます」
348 「スリ 1 1 を狩り出し、追尾中の潜水艇をおびき寄せて〃あれ〃を奪還する。それが本作 戦の骨子です」 顔を上げ、決然と言いきった溝口に、振り上げた拳の下ろし場所がなくなった。なにも言 えずに、仙石はその顔を睨みつけた。 「陸の上ではできない、周囲になにもない海上だからこそ可能な作戦なのです。彼らが切り 札にしている″あれ〃には、それだけの破壊力がある。使いようによっては一千万都民を皆 殺しにして、啝を人の住めない死の街にしてしまうだけの力だ。我々だって、好きでこの ような作戦を実行したわけでは : 逆に詰め寄るようにした溝口がそこまで言った時、「おためごかしはやめようじゃないか」 の声が割って入った。苦渋の刻まれた顔を床に向けて、宮津は静かに言葉を継いだ。 「保険定理というやつだよ。大を生かすためには、小 の犠牲もやむをえんという考え : : : 戦術の基礎だな。〃 あれ〃とかいう魔物を取り戻すために、《いそかぜ》のクルーは全員人柱 にされたんだ」 苦い声で言った後、「 : : : 息子も、その論理で殺された」と付け足した宮津は、ロを閉ざ した。クルーを欺き、危険の渦中に置かなければならなかった艦長の呵責はもちろん、それ 以上に根深い別の苦悩を感じ取った仙石は、これから自分が味わう絶望もそこに重ね合わせ て、ぎゅっと唇を噛み締めた。
87 序章 く分かれの号令が出るのを祈るしかない立場だ。 「幹部の総入れ替えで、プリッジもまだ慣れてないんだ。勘弁してやれ」 若狭に同清しながらも、仙石はそう言っておいた。田所は「そうスかねえ : : : ? 」と意味 ありげな目を火す。 「なんだよ ? 」 「とっちゃん覆出の五人、宮津学校の出身なんだって聞きましたよ」 とっちゃん幹候とは、海曹が試験を受けて入学する部内幹部候補学校のことだ。生徒の平 均年齢が高いことからそのあだ名がついた。仙石は、「宮津学校 ? , と聞き返す。 「宮津艦長が昔、海曹向けの勉強会を開いてて、そこで勉強して覆に入った連中なんだっ て。だからフク : : : フクスケの部下じゃなくて、え 1 と、なんだっけ」 「腹心の部下、か ? 」 「そう、それ ! だから慣れてないなんてことはないっスよ。海幕が、初任幹部ばっか押し つけた代わりにわざわざ配置したんスから」 「おまえ、どこでそんな清報を仕入れてくんだ ? 「そりや、人望ってやつですよ」と田所は胸を張る。「生意気いうな」とその頭を小突きな がらも、今回の人事にそんな因果が含まれていたのをまったく知らずにいたのは、先任伍長 の立場としてはちょっとしたショックだった。
282 「あ、か、艦長 ! おはようございます ! 」 慌てて気をつけをしながら、午後六時の時刻を忘れて大声で一一一一口う。微笑して、宮津は聞か なかったことにしてくれたようだ。 「昨夜はご苦労だった。酔いがひどいようだったら、上甲板に出て遠くを見ているといい」 「はいー もう平気です。ありがとうございました ! 」 ガチガチの敬礼をした田所は、仙石が見ていたことに気づくと、途端に顔をニマニマさせ た。船酔いも忘れた様子で、「今の聞きました ? おれのこと兵長だって」と言いながら近 づいてくる。 「ああ。ちゃんと覚えてくださってるんだな」 「初めてですよ、おれらのことまでちゃんとわかってる艦長なんて。ああいう艦長なら、お れもなってやってもいいな」 腕を組み、さも感服したというふうに何度も頷く頭を、「こっちがお断りだよ」と小突い てから、仙石は洗身室の先にある後部デッキに向かった。宮津が優れた艦長であると再確認 したところで、胸のわだかまりが解消するわけではなく、それを心苦しく思いながら、デッ キを隔てる水密戸を開いた。 畆色の光が目に飛び込んできて、室内の明かりに慣れた体をくらくらさせた。西に傾いた 太陽はちょうど水平線に差しかかったところで、暗いオレンジに照らされ、複雑な波の縞模