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検索対象: 亡国のイージス 下
137件見つかりました。

1. 亡国のイージス 下

のかもしれないが、結局は消えてしまった。母との生活や、祖父の離れで絵を描いていた時 間がそうであったように、つかんだ瞬間に手のひらをすり抜けて消えてしまった。 なにかを期待すれば、そこには必ず手ひどい裏切りと痛みが待っている。昔からわかって いたことだ。どうせすべては幻。確かなものなんてこの世には存在しない。この一週間《い そかぜ》で過ごした日々、出会った人たちの笑顔、触れ合った感情、やさしさ、厳しさ。夜 の海面に浮かび上がる夜光虫の神秘的な美しさ、照りつける太陽の下で見る青い海の解放 感、それを必死に描き取ろうとしていた人の情熱と、それに触発されて再び筆を握りかけた 自分。すべては、一瞬の幻影でしかない : 疲れた。そう思い、行は独りに戻った体を床に横たえた。天井に非常灯の赤色ランプが灯 っているのが視界に入り、それが滲んで見えるのが、悔しかった。 ぎようこう 作業に必要な道具が、ひと通り揃っていたのは僥倖としか言いようがない。それに電源が まだ生きているというのも、仙石にとっては天に感謝の一一 = ロ葉を並べたいほどありがたいこと 」っ」 0 作業そのものは単純だが、道具をかき集めたり、爆風で倒れた工作台を立て直したりで、

2. 亡国のイージス 下

404 発とない。無駄弾を使わず、確実に仕留める必要があると自動的に判断した行は、火線が途 切れるのを見計らい、息を詰めて壁から飛び出した。 通路を横切り、反対側の壁の陰に転がり込む一瞬に、敵の位置を把握する。非隲をあげて クルツを乱射する同年代の男の顔が見え、まずいな、と反射的に思った行は、なぜそう思っ たのかわからないまま反対側の壁に身を寄せた。 風間だ。田所たちと年甲ぶつかりあっていたヒステリーの初任幹部。クル 1 まで動員して いるとは、敵の人手不足はかなり深刻らしい。相手が素人なら制圧も容易だと踏んだ行は、 壁の陰から手首だけ出して、クルツを壁と天井に向けて一一射した。 再び悲鳴が発し、乱射される銃声がそれをかき消す。この調子で弾丸を撃ち尽くさせてし まえば、マガジンを交換する隙に一射で仕留められる。風間は蔽枷がなにもない通路の真 ん中に突っ立っているのだ。壁に身を寄せ、火線が唸り終わるのを待った行は、軈モ ードに設定したクルツを構えて通路の前に出た。 膝を曲け、中腰の姿勢で敵に銃口を向ける。必死にマガジンを交換しようとしている風間 の顔が引きつり、その恐布に見開かれた目を見てしまった行は、自分がなぜまずいと感じた のかを、瞬間的に理解した。 撃っ時は、決して相手の目を見てはならない。見れば必ずためらいが生まれ、その一瞬に こちらが殺されることになる。訓練キャンプで習った基礎中の基礎を、この時に限って無視

3. 亡国のイージス 下

いることを確かめた瀬戸も、慌ててそれに続いた。 「 : : : 皆さんの意見は、宣房長官と他の閣僚にも伝えて、今後の協議の指針にさせてもら う。では申しわけないが、わたしはこれで中座させていただく」 会 ~ 主の扉を開けた途端、そう言った梶本総理の声を聞いてしまった瀬戸は、頭が真っ白 になった。早すぎる、と内心に罵った次の瞬間、「お待ちください ! 」と、隣のコマンドル ームにまで届きかねない大声で叫んでいた。 中腰になりかけた総理を始め、出席者たちがぎよっとした目を向ける。さあ、どうする ? 意見陳述に横槍を入れて引き延ばすつもりでいたので、頭の中はまるで空つば。なにを言っ たらいいのか、まったく考えていない。「瀬戸内調室長、なにか ? 」と、不快けな目を寄越 した曾根内閣宀女全保障室長の顔を見ないようにした瀬戸は、内心の冷汗を隠しつつ、ゆった りとした動作で席に戻った。 「もう一度、宮津一一佐らの叛乱行動を心理学的見地から再考する必要があると考えます。こ れは事件の根幹に関わる重要な事柄ですから、総理にも同席していただいた方がよろしいか と」 数秒の間に思いついたことを言うと、一同はばかんとした顔で瀬戸を見つめた。「心理学 的見地 : : : ? 」「それはつまり、どういうことかね ? , といった声があちこちからあがり、

4. 亡国のイージス 下

ん中だ。水深は約十四メ 1 トルで、沿岸との距離は一キロ未満。普段は貨物船やら観光船や らがひっきりなしにハ仼来しているところだ」 ぶつきらばうな竹中の説明に、「そんな場所に護衛艦が現れれば、さぞかし驚かれるでし ような」とヨンフアが茶々を入れる。竹中はにこりともせずに、 「体験航海の客を乗せるんで、晴海埠頭には年に何度か寄港している。別に珍しいことじゃ ないさ。まして今は、機雷掃海で港が封鎖されてるって時だ。海自艦艇が出入りしても不目 然じゃない」 「結構です。晴海の隣にはがある。示ガスや火力発電所、鉄鋼所が集まっている場所 だ。ここならプラスも使えない。仕切り直しができるというものです」 そう一 = ロうと、ヨンフアは海図を映すディスプレイから顔を上げた。こういう作為的な 発一一 = 口をした後は、必ず痛烈な皮肉や警告の言葉を出してくる。その目がちらとこちらを見、 宮津は反射的に身構えたが、ヨンフアはなにも言わずに背を向けた。 らしくない態度だった。その背中が疲れているように見えたのは、気のせいか ? それま 章で発していた匂い立つような精気が失せ、どこか弱気を漂わせるようになったヨンフアの後 五 ろ姿を見送った宮津は、ふと竹中と視線を合わせた。 第 先刻の会話以来、必要最低限のロしかきかなくなっている副長は、この時もすぐに目を逸 らしてその場を離れていった。もう、尽かす愛想もないということか。独り取り残された間

5. 亡国のイージス 下

こんりんぎ、 「日本政府が、ああも本気で抵抗を示すとはな : : : 。要求を呑むつもりは金輪祭ないと見て もろ 沿岸に近づけばプラスの使用は封じられるが、制圧部隊の突入に対しては脆くな る。弱り目になる前に、《いそかぜ》は捨てよう」 予期していたことだったので、ジョンヒは驚かなかった。そのつもりがなければ、盗聴器 捜しと出航準備を同時に言いつけて、いたずらにクル 1 を忙しくさせる必要はない。この喧 噪を利用して、生き残った同志に計画変更を伝えようとしている兄の目論見を納得したジョ ンヒは、あの二人はどうするの ? とだけ尋ねた。 ジョンヒにとって、目下の懸案事項はそれ以外になかった。艦を捨てる前に決着をつけよ うとするだろう兄の返答を待ったが、返ってきたのは、「もう相手にしている時間も価値も ない」という素っ気ない一一一一口葉だった。 「放っておけばいい。 それよりも脱出が優先だ。艦が沿岸に近づけば、チャンスはいくらで もある。『』さえこちらの手にあれば、再起は可能だ」 そう言って、兄は沿岸に近づけた《いそかぜ》に時間を稼がせつつ、自分たちだけが離脱 章する計画の草案を説明したが、ジョンヒは聞いていなかった。如月行を放っておけ、と言っ 第たヨンフアの言葉が信じられず、手ひどく裏切られたように感じたからだ。 自分を傷つけた者を、兄は決して許さなかった。そうすることで無用の損害を被り、不利 芻な状況に置かれたとしても、兄はその者をどこまでも追い詰め、必ず報復を為し遂げてき

6. 亡国のイージス 下

り剤を取ってきたいところだったが、席を離れられる状況であるはずもない。戦闘配食の時 に配られたナプキンで何度も染みをこすり、気を落ち着けるしかなかった。 こういうところが、几帳面、神経質と嘲笑われる脈既なんだろうなと考えはしても、杉浦 はズボンをこする手を止めなかった。それのなにがいけない、むしろ神経質ぐらいでなけれ ば、何十億円もする国家資産、強大な破壊力を持っ兵器を扱う資格はないと思う。親が幕僚 まで務めた海上自衛官だからという理由だけで、ほとんど他の選択肢を与えられずに海上自 衛隊に入った杉浦にとって、それは唯一、自分の頭で考え、組み立てた論理だった。 あるいは、父親の語る海上自衛隊と、自分の目で見たそれとのギャップを埋めるために、 必然的に生み出していった自己欺瞞と一一一一口うべきか。父の話が、しよせんは一線を退いた者の 常で、過去を美化したものでしかないと悟るのにそれほど長い時間はかからなかった。特 に、べテラン海曹からのリコメンドという風習。これは父の話にはまったく語られていなか ったし、直面した後も、どうしてこんな理不尽なことが軍組織の中で罷り通るのか、なかな か理解できなかった。 下位であっても、長い経験を積んだ者には教えを乞う必要があるのはわかる。が、先任海 曹たちの知識はあくまでも下士官のものであって、自分たち士官がその意見に左右されるな どあってはならない。それで事故が起きるなら、それはその士官の責任であり、時には巻き 添えになるのが自分たちの役目と割り切る謙虚さが下士官にもなければ、軍隊とは一一一一口えない

7. 亡国のイージス 下

我々は、いったいここでなにをやっているんだ ? 言葉になりきらない、抑えようのない 怒りが急速に膨れあがってきて、渥美は考えるより先に、「お待ちください ! 」と叫んでい 「公安委と監視委を招集する時間がない以上、作戦の実施には総理と公安委員長双方の認可 が必要です。ご決断を」 総理はすでに重要な会合をいくつもキャンセルしている。これ以上こ 「渥美本部長・ : こにお引き留めすることは、国の運営にも支障をきたす。自重したまえ」 歩みを止めた梶本の前で、痩身を立ち上がらせた曾根安全保障室長が一 = ロう。「一千万人の 命を危険にさらしておいて、国家の運営もあったものではないでしよう ! 」と怒鳴り返した 渥美は、あんぐりと口を開けた曾根を無視して席を離れ、梶本の前に立った。 感情を押し殺した目を向けて、総理は身じろぎもせずに渥美を見返してきた。「無礼だぞ。 退がりたまえ」と口を挟んだ明石警察長官に、渥美は気を孕んだ目を向けた。 「公僕たる者が、仕えるべき国民をないがしろにして、自分たちの組織の論理だけを振りか 章ざす。その方がよほど礼だとは考えないのですか」 五 一瞬、呆然となった明石は、みるみる顔を紅潮させていった。入庁以来、かしずかれるの 第 を当たり前にしてきた警察キャリアは、人から非難されることに直れていないのだろう。 自分たちのしたことを棚に上げて、よくも言えるな」と吠えた警察長官は、 「青様 :

8. 亡国のイージス 下

この事件のロ火は市ヶ谷が切って 「多少では困る。完全に効いてもらわんとな。だいたい、 しまったようなものだ」 思わずというふうにそう言った梶本は、不自然な咳払いで語尾を濁した。《いそかぜ》を めぐって、ダイスがなにごとか動いていた気配は瀬戸も察している。運転席を隔てる防音ガ ラスに映り込んだ梶本の無表情をた瀬戸は、「わたしはなにも聞いておりませんが : ・・ : 」 と意地悪く一一一口った。 「そう一 = ロうな。彼らは、あれはあれで使いでのある連中だ。民主主義を標榜する国家にあっ て、彼らの存在を否定するのは当然だが、完全な民主主義を実践しえた国家は、歴史上存在 しないものでな」 梶本の口癖だった。「日本の民主政治の不備を補うためには、彼らのような汚れ役が必要 である : : : というわけですか ? 、と相手をした瀬戸に、梶本はこの日初めて微かな苦笑を返 した。 過半数の同意を得なければなにもできない民主主義の構造は、政治の本質を国民の意志で はなく、央 = 工作に置く歪みを必然的に生じさせる。日本においては、伝統的に培てきた 。はかりを巧妙化させ、政策が票田たる企業体のためだけのもの 四談合体質が派閥間の利害調驚 になった結果、党や派閥の利益に直接績びつかない外交や防衛問題については、無難で最大 公約数的な、その場しのぎの政策しか打ち出せなくなっていったという節がある。そうした

9. 亡国のイージス 下

ことに気づいた仙石は、履き古した革靴に砂が入るのもかまわず、そちらに近づいていっ 左手に見える岬と灯台を構図に取り入れ、目の前に広がるタ暮れの海をキャンバスの上に 封じ込めた油彩画が、そこにあった。まだ未完成のようだったが、単に事象を描き移したの ではなく、描き手というフィルタ 1 を通して再構成された世界の色には、無条件で人の心を 揺さぶる力が溢れている。そこに行の匂いを感じ取った仙石は、砂浜に腰を下ろして待っこ とにした。荒てる必要はない。行は必ずここに戻ってくる。そう信じて、日の名残りを水平 線に見つめた。 老婆のロが語った断片的な過去の出来事は、行の苛酷な少年時代を想像させるのに十分な ものだった。そして、父親の普通ではない死に方と、直後に姿を消した行という一一つの現実 を繋ぎあわせた時、仙石には思いつく残酷な仮説もあったのだが、もうそんなことはどうで もいいと思えた。 なにがあったにせよ、行はここに帰ってきた。もういちど絵を描けるようにもなった。そ 章れでいいじゃないか。それ以上、なにを望むことがある : : : ? そう思うから、仙石は黙っ て待っことにした。島影のひとつもない、どこまでも広がる海を見つめ続けた。怒りや恨 終 み、哀しみさえもすべて呑み込み、その懐の中で溶かしてしまう。世界の始まりの時から、 同じ顔を人間たちに向けている海を・ :

10. 亡国のイージス 下

尉は、この数時間、必要最低限のものしか映そうとしなくなった瞳を動かして、戸口に立っ 背広の男の顔を見た。 「決定だ。ミサイルの準備ができ次第、飛んでもらうことになる」 事務口調で一一一一口う四十がらみの男は、最初に会った時に情報本部の所属と名乗っただけで、 名前や階級はいっさい口にしていない。一応、第七航空団司令からのム哭事曰を携えてはいる ものの、自衛官であるのかどうかさえ怪しかった。形式ばった態度で応じる必要があるとは 思えず、そんな気分にもなれない宗像は、軽く頷いて了解の意志を伝えた。 一瞬、目を鋭く細めた男は、それでこちらの精神状態を確かめたのか、小さく息を吐い た。そのまま部屋を出て行こうとして足を止め、「 : : : なにか、欲しい物があるか ? 」と決 まり悪そうに言った男に、宗像は虚をつかれた思いで顔を上げた。 百里基地に帰還して、十一時間と少し。着陸後の雑務いっさいを免除され、所属の 204 飛行隊のメンバーと会うこともなくこの待機室に隔離された宗像が、それは初めて耳にした 男の人間的な声音だった。都合よく利用できるから、という理由だけで選んだパイロットで ゝえと答え 章あっても、長い不安な時間を一緒に過ごせば、多少の情が移るということか。いし 五 ようとして、しばらく話していない喉が詰まるのを感じた宗像は、首を横に振ってみせた。 第 男は再び探る目を向けたが、すぐにわかったというふうに頷くと、部屋を後にしていった。 欲しい物なんかない。必要なものはすべて揃っているーーひとり残されたパイロット待機