阿久津 - みる会図書館


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1. 亡国のイージス 下

肥け、上空からこちらを見下ろす一一一尉に引き揚げの合図を送った。 ホイストが巻き取られ、隊員の体が海面から引き揚げられてゆく。それを見送ることはせ ず、阿久津は次の漂流者を引き寄せるために泡立っ海をかき分けた。サプ・ベストの下から 血を滲ませ、蒼白な顔を空に向ける隊員に取りついた阿久津は、カなく投け出されたその手 をしつかり握った。「しつかりしろ ! 」と叫ぶと、瞼が反応して微かに動いたようだった。 「いま助けるからな。もうちょっとの辛抱だ」 裂けた潜水服から覗く腹の傷は、決して浅くはない。ダメか : ・ : と思いかけた陵隊員の 手がわずかに動いて、阿久津の手を握り返してきた。 「・・・・ : ありがとう」 隊員のロがはっきりそう動き、ローターの音に遮られることなく、阿久津の心に響いた。 おれは、間違えずに済んだのかもしれない。その実感が悪でんだ胸を癒して、阿久津は 隊員の手をぎゅっと握りしめた。 一人目の回収を終えたペープ・ロウから再びホイストが降下し、それを手繰り寄せるのが 阿久津の仕事になった。三人目の漂流者に目を走らせる阿久津の頭からは、もう宮津も《い そかぜ》も消えていた。

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「その必要はないと思います」 暴走する《いそかぜ》を追尾し、湾奥部に進入した《ひえい》の 0—0 は、最悪の事態に 備えて対艦攻撃の準備が進められている時だった。張り詰めた緊張の中、合間を見つけて吉 井第一護衛隊群司令に声をかけた阿久津は、「そうかもしれんが : : : 」と語尾を濁した吉井 が、テッパチの下の顔を曇らせるのを見た。 「賭けであることに代わりはない。宮津艦長が無電で伝えた通りの行動を実施しなかった場 合、即座に攻撃できるよう準備しておけというのが艦隊司令部からのヘ哭だ」 そう一一一一口う吉井の口調は、自分も信じたいのだという思いを隠しもしなかった。結果的に制 圧部隊の生き残りを救出したとはいえ、自衛隊機をハイジャックした阿久津を拘束しようと もせず、 0—0 にも出入りさせてくれている。啝湾のど真ん中にいて、どこに逃け場があ るわけでもあるまい、というのが吉井の論法だったが、並大抵の度量でできることではない と阿久津は思う。このような時に、このような司令と巡り会えた幸運に感謝しながらも、 「そうはなりませんよ」と阿久津はくり返した。 えんさ 章明確な論理などあるはずもなく、勘と一言われればそれまでなのだが、怨嗟に狂った数時間 五 の反動のように、異様なほど平静になった頭で振り返れば、宮津が暴走する《いそかぜ》か 第 ら電文を送って寄越した事態の推移は、ごく自然なものと阿久津には思えた。結局、《いそ かぜ》は宮津が指揮する艦で、宮津は艦長という職責から離れられない男。それが阿久津の

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わせてしまったからだった。心臓がひとつ大きな音を立て、顔の筋肉をこわ張らせたが、や るだけだ、と内心に呟いた阿久津は、そのまま機内に乗り込んでいった。 バックミラーに映るパイロットの顔が、微かにしかめられる。許可なく飛行甲板に出たペ 1 プ・ロウを見て、《ひえい》の飛行長が怒鳴り込んで来たとでも思っているのか。すぐに 愛想笑いを浮かべ、こちらに振り返った中年のパイロットの顔を視界に入れた阿久津は、目 を合わせることなく操縦席の後ろに歩み寄った。 一一尉の肩章をつけたパイロットの脇腹に、シグサワー P226 自動拳銃を収めたホルスタ ーがぶら下がっているのが見える。他のなにも見えなくなり、表情がますますこわ張るのを 自覚した途端、パイロットの顔から愛想笑いが消えた。ほとんど同時に腕をのばした阿久津 は、次の瞬間にはその手にシグサワ 1 のグリップを握りしめていた。 夢中でスライドを引き、初弾を装填する。三尉の肩章をつけたコ・パイロットが自分の銃 に手をのばすのが目の端に映り、阿久津は咄嗟にその首筋に銃口を押し当てた。「動くな ! 」と怒鳴った低い声に、一一人のパイロットの体が硬直する。 章最低限の扱いは習っているとはいえ、人に銃口を突きつけた経験などない。気を抜けば真 五つ白になってしまいそうな頭を律し、こちらを睨み上げるパイロットの目を見据えた阿久津 は、「《うらかぜ》艦長、阿久津だ」と渇いた喉から搾り出した。 「《うらかぜ》の艦長・ : ・ : ? 」

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なる現実を示唆していた。護衛 艦という莫大な国家資産を預かる者として、阿久津艦長の判 断は適切なものであったか否か。に戻った途端、法律の辻褄合わせにしか興味のない者た ちの餌食にされる阿久津の身を気遣って、吉井は艦隊司令部に虚偽の報告をしてくれたのだ った。阿久津は、「お心づかい、身に染みます」と頭を下げるしかなかった。 上の判断とはいえ、増援も出せずに《うらかぜ》を見殺しにしてしまった。 我々もその責任は痛感している」 略帽の前つばに手をやりつつ、吉井は呻くように言う。押し殺した感情が噴き出しそうな 果に駆られた阿久津は、「その後、《いそかぜ》の動きは ? ーと努めて事務的な口調で言っ 「九時に市ヶ谷と交信して以来、沈黙している。艦内で爆発音らしきものが感知されたとい う話だが : ・ 「爆発音 ? 擎か我々が、なんらかの行動を仕掛けたということですか ? 」 「まさかな。市ヶ谷が情報をしているとはいえ、そうならこちらにもなにか連絡があっ 章てしかるべきだ」 第六面の外周監視モニタ 1 のひとつに、錨泊する《いそかぜ》を左後方から見た映像が映し 出されていた。やや艦尾の喫水が下がっているように見えるが、気のせいか ? 十九インチ のモニターに映る、縦十センチにも満たない艦影を凝視した阿久津は、「海幕も混乱して えじき

5. 亡国のイージス 下

よんそうこう 間る。綷創膏だらけの自分の顔に触れ、「 : : : 大丈夫です。ご心配をおかけしまして」と答え た阿久津は、吉井から目を逸らして外周監視モニターを見た。 応急長には安静を言い渡されていたが、目の前に《いそかぜ》が錨泊しているというの に、おちおち寝ていられる気分であるはずもない。自分には、衣笠司令から託された仕事が ある。それを為し洋けるために沈没する《うらかぜ》を後にし、今も生き恥を晒しているの だと自覚する阿久津は、周囲の者に対して演技する術を身につけていた。 今ここで騒ぎ立てれば、鎮静剤を打たれて眠らされるのがオチだろう。ならば極力、平静 に振る舞い、前線に留まり続けてチャンスを窺うのが得策だ。そう考え、実行している自分 は、その時がくれば海上自衛官の枠組みを踏み越えて行動してしまうのではないかという予 感もあったが、それを危険と感じる神経は今の阿久津にはなかった。 「気持ちはわからんでもないが、艦隊司令部には絶対安静が必要と報告してあるんだ。あま り元気に歩き回ってもらっては困るな」 そんな気分を読み取ったかのような声が吉井司令の口から発して、阿久津はどきりとしな がらも、「そうなのですか ? ーと聞き返した。 「事務屋という人種は、くだらん口を挟みたがるもんでな。しばらくはここですること だ。君は、海上自衛官として最善の行動を取ったのだから」 吉井の言葉は、今後、事態がどう動くにせよ、阿久津の立場が被告人のそれに近いものに

6. 亡国のイージス 下

た一一一一口葉であると、それだけは信じてもらいたい衝動に駆られて、阿久津はパイロットの目を 凝視した。 しばらく視線を合わせた後、パイロットは歪思に正面の風 ' に向き直った。「 : : : 責任は 取ってもらいますよ」と呟いた声がその肩から発し、阿久津が聞き返すのを待たずに、エン ジンのイグニッション・スイッチを入れた。 三基のターポシャフト・エンジンの力を受けて、七枚のプレードが轟然と回転を始める。 機首に張り出した機外用パックミラーに、 =coO から慌てて飛び出してくる管制官の姿が映 ったようだったが、その時にはカーゴハッチを閉鎖したペ 1 プ・ロウの機体が離床してい 機体が前のめりになり、操縦席に左手をついて体を支えた阿久津は、コ・パイロットの首 筋に銃口を突きつけながら、パイロットの表情をミラ 1 越しに窺った。操縦に専念する顔か らはなんの感情も読み取ることはできず、キヤノピーの向こうに広がる濃紺の海原に視線を 移した阿久津は、パイロットがなにを思おうとどうでも ) しいことだ、と自分に言い聞かせ これですべてにけりが付く 。宮津に近づく第一歩を踏みしめ、余分な思考がそげ落ち てゆくのを感じた阿久津は、その言葉だけを頭にくり返した。《ひえい》の飛行甲板上をつ かの間ホバリングしたペープ・ロウは、《いそかぜ》に向けて速度を上げていった。

7. 亡国のイージス 下

時にホイストのベルトを外し、救命胴衣の浮力に支えられた体を漂流者に近づけた。大声で 呼びかけ、代わりにホイストをかけるよう促したが、負傷した仲間を抱いたサプ・ベストの 背中は振り返ろうとしなかった。 ロ 1 ターの爆音で声が届かないらしい。片手にホイストのベルトをつかんだまま、隊員の 背中を強引に引き寄せた阿久津は、その腕に抱かれた別の隊員の顔を肩越しに見て、声を失 った。右腕を根一兀から失ったその若い隊員は、血の気の失せた顔に穏やかな笑みを浮かべ て、絶命していたのだった。 阿久津が肩をつかんでも、隊員は仲間の遺体を手放そうとはしなかった。「あきらめろ ! 早くこれにつかまれ ! 」と怒鳴り、ホイストのベルトを手繰り寄せた阿久津は、隊員がなに か言っているのに気づいて、顔を近づけた。「こいつ、ついさっきまで息をしてたんだ。っ いさっきまで : と呟く声が、ロータ 1 の轟音の中にどうにか聞き取れた。 それは、昨晩の自分の姿そのものと映った。胸からこみ上げてくるものを辛うじて押し留 めた阿久津は、「しつかりせんか ! 」と隊員の耳兀に怒鳴った。 章「だったらその分も青様が生きろ。生きて、生き抜いて、こんなことで人が死なないで済む 五 ように努力しろっ ! 」 第 その言葉が聞こえたからなのかはわからなかったが、うなだれる隊員の肩からカが抜け た。その隙に隊員の体を遺体から引き剥がした阿久津は、ホイストのベルトを彼の胸にか

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ぶまい。そう思えた途端、胸のつかえがすっとおりて、自然に阿久津はロを動かしていた。 パイロットが機体の速度を上げたのか、ひときわ高まったロ 1 ター音を頭上に聞きながら、 「墜とすなら墜とせ」と阿久津はヘッドセットのマイクに続けた。 「おれは自衛官の道は踏み外したが、シ 1 マンシップだけは捨てない。救援を求める者がい れば、なにを捨ててでも助けるのが海で生きる者の。そう教えてくれたのは、部屋長、 あんただ」 言った後、ロ前に下ろしたマイクを手で押さえた阿久津は、「すまないな、つきあわせて」 と二人のパイロットたちに告げた。今さら一一一一口えたことではなかったが、パイロットは「かま わんです」と言ってくれた。 「おれたちも同じ気持ちだ」 正面のキヤノピ 1 を見据え、ローターに負けない野太い声で言ったパイロットは、そうだ な ? というふうにコ・パイロットを見やった。まだ若いコ・ハイロットが力強く頷いたの を見た阿久津は、銃口をその百肋から離して、了解の意志を伝えた。 章一瞬後には撃墜されるかもしれない空を、速力を上げたペープ・ロウの機体が飛翔する。 第《いそかぜ》は黙してそれを見つめているようだった。

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着艦指揮所にいるはずの管制官の姿も見えない。格納庫のシャッターの戸口に身を潜め、飛 行甲板が完全に無人であることを確かめた阿久津は、それをなぜとは考えなかった。 この数時間、ひたすら待ち続けた機会がようやく訪れた。それだけを確信して、白熱した 太陽光が降り注ぐ飛行甲板に足を踏み出す。略帽を目深にかぶり直した阿久津は、巨大なテ ールロ 1 タ 1 をこちらに向ける大型ヘリに急ぎ足で近づいていった。 《いそかぜ》の魚雷が瀑布のような水飛沫を上げた直後から、《ひえい》の 0—0 と、市ケ 谷 ZOOCO とを結ぶ通信回線はパンク状態に陥った。お互いに状況がわからないまま交わさ れる通信は悲鳴と怒号の応酬でしかないのだが、《いそかぜ》制圧作戦が失敗に終わり、突 入部隊が全滅の憂き目に遭ったらしいことは、断片的に耳に入ってくる音声から阿久津にも 理解できた。失敗と聞かされてもなんの感想もわかず、ただ自分の使命を実行する条件が整 ったと機械的に判断した阿久津は、通信の応対で立っ 0—0 をひとり後にしてきたのだ 全滅という一語に、多大な人命の損失が含まれるのだろうと想像はしても、その痛みを思 章いやることはできない。どこか重要な部分が麻痺していると自覚しないではなかったが、大 五破した《うらかぜ》の o—o で嗅いだ電気配線の焼ける臭い、海図台に潰された衣笠司令の 指などの光景が、それ以上の思考を遮断しているようだった。触れると火修しそうな飛行甲 板を走り、機体後部のカーゴハッチを開放したペープ・ロウに身を寄せた阿久津は、暑さと

10. 亡国のイージス 下

282 眉をひそめて、わからないというようにパイロットは呟く。勝手に喋らせてはまずいと考 えた阿久津は、親指でシグサワ 1 の撃鉄を引き上げた。コ・パイロットの肩がびくりと動く のを銃ロの先に感じつつ、阿久津はロを閉じた中年パイロットの顔を正面に見下ろした。 「すまないが、自分を《いそかぜ》まで運んでもらいたい。そうしてくれれば、一一人の身の 安全は保証する」 声をうわずらせながらも、阿久津は何度もイメージトレ 1 ニングした通りの言葉をパイロ ットに伝えた。コ・パイロットの肩が動揺を示して再び動き、「冗談じゃないー と叫んだ パイロットの声がそれに続いた。 「《いそかぜ》を中心に、半径十キロの空域は封鎖されてるんだ。下手に入ったらどんなこ とになるか : 「いいからへリを飛ばすんだ ! 《いそかぜ》がどんな最終兵器を持っているのかは知らな いが、自分が乗っているとわかれば、宮津はそれを使いはしない」 予定外のセリフだった。なんでそう思うんだ ? 言った後に自問した阿久津は、「 : : : な ぜ、そんなことが一 = ロえる」と、心を読み取ったかのように尋ねたパイロットの顔を、まじま じと見返した。 「奴には、それだけの貸しがある」 その言葉は、やはり思考とは別の深い部分から自然に綾ぎ出されてきた。虚をつかれた顔