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検索対象: 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学
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1. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

96 ( ⅳ ) ラング化の乏しさ 感性的な言葉に対する感覚にはすぐれた成人境界例患者も , 論理的な言葉 や社会慣習に根ざした言語の理解には少なからずずれたところが見受けられ る。例えば , 症例 A は病棟医が職能上の意味で使った「責任」という言葉に 腹を立てて「その人のためならば死をも厭わないというようなものが責任で あって , ( 主治医以外の者が ) 軽々しく使う言葉ではない」と泣いて抗議し た。また , 他人からみた自己像について , 「私は他人に当り障りなくするの で , やさしい人・まじめすぎる人と思われてきた」などと述べる。「責任」 という社会契約的な言葉に個人間の信義のごとき意味を強く要請したり , 「当り障りなくする」という言葉を「やさしい」「まじめな」といった肯定 的他者評価につながる振舞いを意味するものとして用いるなどは , 共同体の 慣習的言語体系 ( 社会的コード ) からみてややずれた言語理解と言わねばな らない。 このように境界例患者の言葉は , 共同体成員による平均的言語使用が沈澱 して生じるラングに対して辺縁的な位置にある。しかし , 彼らの言語に認め られる「ラング化の乏しさ」はこれにとどまらない。丸山圭三郎はそのソシュー ル解釈においてラングに二つの次元を区別している 14 ) 。その一つは上述の 「社会制度としてのラング」であり , いまーっは以下に述べるような「記号 学的価値体系としてのラング ( = 形相としてのラング ) 」である。 すなわち , 言葉は自然界に存する事物のようにそれ自身の絶対的な特性に よって定義される即自的・積極的な価値をもつものではなく , 同じ言語体系 内に共存する他の言葉との対立関係から消極的に規定される示差的な価値し か担っていない。例えば「恐れる」という言葉のもっ価値は日本語体系の中 でそれを取り巻く「こわがる」 , 「気づかう」 , 「恐怖」等々の言葉との差異と してのみ決定され , 他の言語体系におけるいかなる言葉 ( 例えば , 英語の fear, 仏語の craindre ) とも同じ意味範囲をもつものではない。「犬」という 言葉は , 「狼」なる言葉が存在しなかったならば恐らく狼をも含めて指すこ とになろうし , 。形として現われない記号 " が形相的には示差的意味をもち うる ( ゼロ記号 ) ことがあるのもそれを含んだーっの言語体系が前提されて いるからである。ラングにおいては一つ一つの言葉が体系に依存しており ,

2. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

262 釈に他ならない。この読解行為は , 自己の信念や感情の , 数学命題への投射 ではなく , 新たな世界の指示と自己理解を可能にする解釈なのである。そこ に単なる病的体験との相違があり , また新しい「生の形式」の確立をめざし て次節で検討するような言語変遷へと Y を連れこむ言動力があったと言えよ 「解釈」に関するこのような考え方を , Ricoeur は「隠喩」のもっ力の解 明に転用する。彼は , 辞書の中に並べられている , 語のアレコレの意味を 「字義通りの意味」と総称し , それに語の「隠喩的意味」を対置させる。隠 喩的意味とは , 語の多義性の中から潜勢的意味の一つを現勢化することでは なくて , その文脈の中だけで存在する , 文脈の働きによって発生してくる新 しい意味のことである。しかし , 隠喩的言表の中で創造される新しい意味も , 共同体の多数者によって採用されると , 今度は慣用的な意味となり , 語 【コロロ、 彙的多義性に付加されて「死んだ隠喩」となってしまう。本来的な隠喩だけ が , 同時に「出来事」événement にして「意味」なのである。 すでに明らかなように , Ricoeur は「隠喩」と「指示」という言葉を , 他 の論者とはやや異なった意味合いで用いている。すなわち , 解釈において指 示されるのは , 対象ではなくて世界つまり自己自身であり , 本来的な隠喩の 行使によって表出されるのは , 既製の自己であるよりも , むしろーっの 出来事なのである。この観点に立っとき自己表出と対象指示の二元性は止揚 され , Y のごとき一見自己表出に乏しい人間の表出性について語ることが可 能になる。 それとともに , ラングとパロールに関する通り一遍の区別は棚上げにされ て , 「パロールによるラングの革新」 , 「発生機におけるラング」さらには 「ついにラングとなりえなかったパロール」といった問題への視点が開けて くる。このような問題設定は , 精神医学と言語学に共通する重要課題であり , Saussure 自身の論述の中にも , ラングとパロールの峻別への要請とは別に 十分見てとられるものである。

3. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

264 の生を営む結果 , ある時間の後には関係のゆるみ , ズレが生じる」 , これは「記 号的結びつきの恣意性からの帰結の一つ」であり , 言語の変遷 altération とは 「つねにこの関係のズレのことであって , 能記の受けた音韻変化や指された 概念の意味の変化を言語変遷と考えるのは , ゆきとどかぬ見方である」と述 べている 37 ) 。われわれは , 患者のパロールに認められる能記と所記との結 合や解体 , 再結合に対しても , Saussure の意味での言語変遷という考え方 が適用できると考える。 Saussure が , 対象をラングに限定して獲得した共 時言語学上の成果を , パロールの領域に適用することは , Merleau-Ponty, M. をはじめとする現象学者が試みている 20 ) 。いったん能記 ( 所記 ) との結 びつきを失った所記 ( 能記 ) , 結びつきの相手を代えた能記 ( 所記 ) は , 不安 定な放射性物質のように , 安定した結合状態に達するまで自然に変化してゆ く傾向にある。この自然変化の過程に , 治療状況を含めた患者の世界経験・ 他者経験が介入しうるのはもちろんのことである。 ラングとパロールの区別について , われわれは , この対概念を一貫して自 己論的に使用してきた。すなわち , これまでの議論に従って定式化するなら パロールの所記とはわれわれの本来的自己あるいはその体験であり , ラ ば , ングの所記とは自己の内なる大衆・制度のことであり , ラングとしての能記 とは Ricoeur のいう「字義通りの意味」で用いられた記号表現であり , ロールとしての能記とは「隠喩的意味」で用いられた記号表現ということに なる 34 ) 。 ラングとパロールの区別は有用なものであるが , われわれはこれ を絶対視するつもりはない。この区分を虚構と主張する , 時枝の Sausssure 批判 41 ) は , いくっかの点では正鵠を射ているように思われる。 収束命題の読解は , ラングとしての能記による限定が不十分なために混沌 となりがちな自己の体験〔パロールの所記〕を , 数学的能記によって限定し , 明確化する試みであると同時に , 新たなーっの世界と自己を Y に開示するも のでもあった。このような世界の開けに直面した Y が , これ以後身のまわり におこる事柄に対して同じ方法を広く適用しようと試みたのは , 当然の帰結 と言ってよいだろう。 しかし , 数学的能記との性急な結合も決して安定したものとなりえなかっ

4. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 8 章単純型分裂病者の成長と言語変遷 263 Saussure は例えば , 現代ドイツ語の ich war, wir waren という活用が , 16 世紀 までのラングであった ich was , wir waren という活用から新しいラングとして確 立してくる発生機には , wir waren に影響された少数の人達による , ich war とい う誤まったパロール的使用があったはずだといった例を挙げて , ラングにおける変化 の萠芽が見出されるのはいつもパロールの中であると明言している 37 ) このような誤 まったパロール使用と分裂病者のパロール使用とは , 発生機状態のラングに対して各々 いかなる関係にあるのか , またこの二つのパロール使用の間にはいかなる構造上の差 異があるのかといった問題設定は , 精神医学にとっても言語学にとっても等しく有意 義な比較研究と言えるだろう。 ③病像の変化と言語変遷 Y の疾病経過は , 以下のように要約されるだろう。 幼児期以来培われてきた表出機能の乏しさ , 能記と所記の不安定な結びっ きに対応した自己不確実感や他者からの圧迫感は , 高校時代以来 10 年近く , Y に無為・自閉的な状態をもたらしてきた。 25 歳の時点で Y を襲った収束命 題の読解という出来事が , Y に新たな世界を指示し , その後約 2 年間にわた るメタ言語化の経過をもたらした。メタ言語化の過程は , 一種の自律性と普 遍性をもって変遷する。それが Y の病像変化の中によく現われていることを , 以下に順を追って示してみよう。 はじめに , 以下の議論の前提となる , 2 , 3 の一般的事柄について確認し ておく。 メタ言語化の努力が , 言語の代行機能に従って , 言語と日常的事態とのっ ながりを次第に稀薄化してゆく傾向を内蔵していることは , すでに述べた。 メタ言語は , むしろすすんで現実世界との関連を断ち切るべきだと考える 人もいる。 Y が 2 度目の入院中に見せた , 「他人とか経験とかは , 僕にとっ てどうでもいい。数学さえあればいいのだ」という発言と態度も , このよう な傾向の表われであろう。 ラングにおける能記と所記の結びつきについて , Saussure は , 「いったん 生じたこの結合は決して不易なものではなく , この 2 要素がそれぞれに固有

5. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 8 章単純型分裂病者の成長と言語変遷 253 出的用法を修得する機会にも恵まれないことになる。このようにして , 身振 りの乏しさと表出的言語表現の乏しさとは等根源的とみなされる。 「表出の乏しさ」を分裂病患者の生活歴上に遡って確認した実証的研究 には , 大橋秀夫ら 30 ) による通知表の行動記録の分析に基づく研究と , Süll wold-StrÖtzel, L. と Kisker, K. p. による幼少時期の発達と家族環境 に関する詳細な調査に基づいた研究とがある。前者は , 18 例の分裂病者 ( 彼 らのいう「陰性特徴群」 ) が小学生時代から「自己を表現することの少なさ と活気のなさ」を示していたことを , また後者は 9 例の分裂病者 ( 彼らのい う「第 3 群の患者」 ) が乳児期からすでに「表情や動きの活発さに乏しい」 とに言及している。このような実証的・発生的研究は , 「表出の乏しさ」が きわめて早期から認められるという事実を確認することでそれの重要性を暗 示するものであるとはいえ , この「症状」の本質についてはほとんど何も教 えてくれない。これに対して , われわれの議論の目的は , 「表出の乏しさ」 の意味と構造を考察することにある。 言語の表出的用法を身につけそこなった子供も , 学校に上がれば , その指 示的用法を体系的に教えこまれることになる。 こで習い覚える言葉は , ラ ング langue の主体としてわれわれの内なる平均人 (Saussure の masse parlante37) , Heidegger, M. の das Man) 13 ) による経験を背後に担った , ラングとしての能記である。しかし , 公共世界の中での表出的用法によって , たえず私的な言葉 parole の , 共同体の言語 langue による校正を受けてこな かった子供には , 学校で習うラングとしての能記が自己の体験 ( パロール的 所記 ) を表現する役割を十分に果さない。かくして , ラングがパロールの道 具となると同時にその所産となる 37 ) という , 通常の子供の言語発達にみら れるラングとパロールとの間の弁証法的展開が , このような子供には開かれ てこないのである。そのため , 能記と所記との不安定な結びつきが , 彼の言 語活動の全般 ( パロールとラングの両面 ) にわたって長期間続くことになる。 それが最終的にもたらす三つの可能的方向は , 非妄想型分裂病における三つ の亜型に対応するように思われる。

6. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

98 しかし , 子供の通常の言語習得は言葉を事物 ( 指向対象 ) とーっーっ関係 づけて認識することからはじまる。これは言葉を , 事物と同様の積極的な価 値をもつ相互に独立した実体として認識することに他ならない。それを上述 のような相対的・消極的言語理解に 180 度転換させることこそ「形相的次元 でのラング化」なのであるが , 子供がそれを学ぶ最良のきっかけとなるのは 数学・論理学的な言語体系との接触であろう。この言語体系にあっては , つ一つの記号が公理系による相互規定以外には無内容であって記号間の差異 しか表現していないというラングの形相的本質が , もっとも明瞭に表われて いるからである。 しかし境界例患者は , 概して平均を越えたその知能にもかかわらず , 数理 的な課目を毛嫌いする。それは , その無機的な言葉と抽象的一義性が , 彼ら がそれまで親しんできた表出的な言語の具体的多様性に真向から対立するた めであろう。しかし , 青年がいつまでも表出的言語にしがみつくことは , 単 に数理的理解を妨げるといった問題を越えて , 自らの言葉を ( 形相的次元と 社会制度の次元という ) 二重の意味でラング化するきっかけを失うことに他 ならない。言語体系に再布置化をもたらすようなすぐれた比喩的・感覚的言 語能力は , 子どもの表出的言語能力のそのままの延長として生じてくるもの ではなくて , この二重のラング化による汚染との対決を通してはじめて可能 になるものと言わねばならない。 ③家族と生活史 この種の患者の家族と生活史に認められる特徴を , A ~ C の 3 症例を主軸 とし他の 5 症例にも適宜触れながら取り出すことによって , その平均的な生 活史像を再構成してみたい。 同胞数は 3 例とも 4 人で , 同胞順位は A が末子 , B が第 1 子 , C が第 2 子 である。他の 5 例を考慮に入れても同胞数と同胞順位に大きな特徴は認めら れないので , これらの症例に存する類似点が同胞順位に関連したものとは言 えそうにない。 まず両親の特徴から述べてゆこう。母親は一般に患者の陰性感情がもっと も強く向けられる対象である。彼女らにとって自分の母親は , 愚鈍で即物的

7. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

112 寡というよりも , むしろ出来事を。ェヒ。ソード化する能力 " の差異に基づい 劇的な鮮明さを備えている。このことは , 特殊な出来事に遭遇する機会の多 その輪郭も曖昧であるのに対して , 境界例患者のそれはエピソードに富み , にはやや歪んだ個性の発現と受けとられる一方 , 患者自身には「いつでも裸 の主観が否応なくまぎれこんでしまう。患者によるその種の評価は , 第三者 の言及がある ) 。これに対して境界例患者の自己評価や他者評価には , 患者 る ( この点に関しては , Wyrsch41) や Blankenburg2), それに中井久夫 22 ) るために , 他者に対する彼らの判断や評価は驚くほど公平・中立的でありう 対人状況へ介入させることを極力回避し無機的・外在的な尺度に頼ろうとす 次に両者の自己ー他者関係をみるならば , 単純型分裂病者は自己の個性を syntagma 形成を回避する傾向から生じる曖昧さである。 して , 境界例言語の曖昧さは多様な意味の重なりにひき裂かれ , かっ 単純型分裂病者の言語の曖昧さは , 意味の稀薄に基づくそれであるのに対 うことになる。 理的コードによる統合化の可能性を秘めた , 無内容性の確保された言語とい する結果 , 画一的・常同的な抽象化を被り , ④ラング化に乏しいけれど , 論 越し , ②新奇な表記の採用によって意味拡張をはかり , ③範列的選択を回避 これに対応する単純型分裂病者の言語特徴は , ①指示的・対象的機能が優 事物と同様の即自的相貌を備えた意味にあふれた言語である。 が交代して現われ , ④社会的コード・論理的コードによるラング化に乏しく , ことなく比喩的・伴示的に意味拡張をはかり , ③範列をなす varints 境界例患者の言葉は , ①表出的・感性的機能が優越し , ②表記を変更する ( ⅲ ) 言語的特徴と自己ー他者関係 るだろう。 る無機性と範列的選択の回避がそれを抑止する方向に働くことは当然と言え 性と範列的選択の優越がェビソード形成的に働き , 単純型分裂病心性におけ 一面を強調する傾向によって成立するものとすれば , 境界例心性における感 エピソードというものが , 体験によって震駭される感覚の強さと出来事の 験をしているように映るであろう。 ているように思われる。第三者の目には , 単純型分裂病者も相当に奇異な体

8. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

108 表出豊か ( 動きあり・個性的・ 流暢 ) , 了解感→異質感 多彩。従来の精神科用語で名づ けがたい特有のニュアンスあり。 転移関係の顕在化。 早期の稀薄さ ( と時にあとから の二重拘束的濃密さ ) 。母親代 理者との濃密な感情関係 エピソードの数の多さと鮮明さ , 周囲の大人にひいきされる子。 表出的・感性的用法の優越 , 伴 示的・比喩的所記拡張。範列成 分の交代的な出現。ラング化の 乏しさ。無意味性の乏しさ。接 ぎ穂の過剰。 個性の発揮による不確実感の増 大。他者に関する判断の主観的 歪み。役割 ( 対称詞 ) 混乱。役 割パターンの未分化と再布置化 の難しさ。 antisyntagmatism 境界例人格 症 母 生 状形 子関 活 全体的印象 態 係 史 自己 = 他者関係 記号学的評価 言語上の特徴 単純型分裂病人格 表出に乏しい ( 寡動・寡黙・ぎ こちなさ ) , 異質感→了解感 乏しい。分裂病性自我障害を表 わす症状名でほぼ代表できる。 転移関係が顕在化しにくい。 一貫して稀薄。時に父子関係に よる代償があるが , 母親代理者 とはならない。 ェビソードの乏しさと輪郭のあ いまいさ。「可愛がられ体験」 の欠如。 指示的・無機的用法の優越。新 奇な能記の採用 ( 新作・減裂 ) 。 常同的・画一的抽象化。論理的 コードによるラング化の可能性。 無意味性 ( 素白性 ) の確保。接 ぎ穂の寡少。 自己主張の回避による安定。他 者に関する判断の中立性・客観 性。役割の単純化と固定ー一変 化するときは全体が変化し再布 置される。 antiparadigmatism 例は彼ら自身によって単純型分裂病と診断されている 7 ) し , schmideberg, M. による境界例記述の中には単純型分裂病の特徴が数多く混入してい る 28 ) 。また , 境界例類型化の試みにおいてもしばしば単純型分裂病的な症 例に一つの煩型が充てられてきた。しかるに今日の境界例研究は , その種の 患者を全く対象から外してしまっている。 このことは , 結論だけをみるならば , われわれの見解と一致する。しかし われわれは , そのように単純型分裂病を単に無視し脱落させるだけでは不十 分だと考える。言動に認められる一種の曖昧さや briefpsych 。 sis の発現と

9. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

260 心理学的な意味を読んだとしても , あながち不当な行為とばかりは言い切れ ーのような事柄を確認した上で , 次に収束命題に対する患者の読解自 ない。 体の検討に入りたい。 個々の用語に対する患者の読解は , 誰にでも通じるような , その用語の属 性を言い当てている。「収束」は美しく , 「発散」が不安定で無気味なことは , 数学的用法であると否とにかかわらず , これらの言葉が主体に与える印象の ーっだろう。また , 不等号が抑える , 抑えられるの ( 人間 ) 関係を , 「」が , 他者 1 , 他者 2 ・ 一般に他者れを , 「極限値」が窮極的な落ちっき場所 を意味するという解釈も , 出鱈目というよりはむしろ成程と思わせるもので あろう。正数 E を「負でない = 負けない」と読んだことも , 単なる語呂合わ せを越えて , 漢字表記による意味の変化という , ラングに普遍的な機能に則っ ていると考えられる。 勝ち負けの「負」という表記がマイナスという派生的意味を生じたのは , 例えば 「商人が客との折衝に負けて , 値を引く ( マケル ) 」 , 「賭事に負けて , 借金を背負い込 む」といった , この言葉のもっ二つの意味が一体となった現実場面での用法に端を発 しているのであろう。一般に , 漢字による表記を媒介として言葉に新たな意味が生じ るのは , 決して珍しいことではない。時枝は , そのような例として , モノサワガシを 表記した「物騒」がブッソウという意味を , ミモノを表記した「見物」がケンブッと いう意味を生じた事実を挙げている。 41 ) 個々の用語に対する Y の読解をこのように分析的にみてゆくならば , これ らは決して単なるナンセンスや牽強附会ではなく , 共人間的に妥当する 隠喩的言語使用の線に沿ったものである。しかもそれらは , ーっの数学命題 の中に同時に読みこまれることによって , 指示的な相互規定をも受けている。 このことが , この読解行為に全体としてのまとまりと「形態水準の高さ」を 保証しているのである。 ところで , この行為が単なる妄想着想と異なるのは , それがその後の Y の

10. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 2 章生活史と言語 99 な人物 ( 症例 A , C) あるいは冷静・客観的で太刀打ちのできない人物 ( 症 例 B ・ D ・ E) と映っている。これはいずれも , 幼児に一方的な依存を許す 母性に富んだ母親像からは程遠い。患者が乳幼児期に母子一体感を味わう体 験に乏しかったらいしことは , 患者および母親の陳述からも十分に窺える。 しかし , これら 3 症例の母親が , 彼女ら自身境界例的な不安定さを抱えた borderline mother (Masterson, J. F) 16 ) でないことは , 群の母親との 相違点として確認しておきたい。 娘に対する彼女らの心的距離は幼児期以来一定しており , 彼女らの方から 娘に強い両価的感情を向けることはない。彼女らは , 母親としては疎遠な存 在かも知れないけれど , 妻としてあるいは職業人としてならば , 娘の手本と なりうる。また , 母親のこの非感性的な姿勢が , 家族治療の上で現実的なカ になる場合がある。患者がこのことを認め , 母親に対する評価を変えてゆく ことは , 症例 A , B, D において患者自身の良好な経過につながった。 幼児期に実母の代わりとして特定の母親代理者が存在すること ( A では叔 母 , B では父 , C では祖母など ) も , 多くの症例にみられる特徴であろう。 この母親代理者は , 患者のその後の人生に繰り返し現われ , 患者が憎むと同 じに依存せざるを得ない。ひいき筋 " の最初の形態とみなされる。 父親は 3 例とも , 客観的・社会的にみるならば問題の多い人物である。に もかかわらず , 患者はすべて父親に著しい陽性感情を示し , ほとんど批判を 口にしない。それに見合う愛情を娘に注いだのは B の父親くらいであって , A と C の父親は子どもに無関心であり , 内に向かって家長としての責任を果 すよりも荒々しく自己流の生き方を通した男たちである。ところが患者たち は , 父のそのような生き方を愛すべきものと肯定しているかのようである。 一般に子供に対する父親の役割は , 社会規範の担い手として現われる最初 の他者と考えられる。父親の体現する規範に歪みがある場合 , 息子はエディ プス期以降の ( 父および父が担った規範に対する ) 対決を通してその歪みを 顕在化させうる。しかし , 娘の場合にはそのような対決が生じにくいために 規範の歪みははっきりと気づかれぬまま内在化されやすいであろう。これは , 言語レベルで指摘した「ラング化の乏しさ」に対応する観念レベルでの事態 と考えられる。