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検索対象: 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学
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1. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 10 章家族と社会 313 可分の関係にあるという形式的事実 ( Dasein ) から生じるのであって , これ 以外の要件ーー対をなす相手の出自や性格 (Sosein) とか血縁の有無 , 社会 的な役割関係などーーはすべて二次的な問題とみなし得る。文化・社会論的 な家族因説が限界につき当たるのも , このためであろう。 吉本 50 ) は家族の本質を対幻想という概念によって把握し , 対幻想が共同 幻想 ( 集団の心 ) から分離析出したときにはじめて , 対幻想の中に自己幻想 ( 個人の心 ) の問題が登場するようになったと指摘している。また , 小浜の 定義によれば 19 ) , 家族とは工ロス的共同性のことであり , 「エロス的とは , 人間が一つの個体から二つの個体への分離として自己の生をもたらされると いう発生的事情を , 根本的矛盾 ( 主題 ) として生の課題のうちにくりこみ , そしてその課題の解決 ( 解消 ) を , 対なる関係の展開のうちにもくろもうと する営みのいっさいを指している。」「人間というものは , 個体からの分離と いう事実をェロス的共同性への飢えという形でくりこむことによって自らの 生の時間を消化してゆく存在なのだ。」 筆者は , 吉本や小浜の唱える対なる関係への欲求という考え方こそ , 家族 論の要諦をなすものと考える。原初に失われた対なる関係に対する基本的欲 求が , 私という存在の本質的なー契機を構成していればこそ , 家族形成の問 題は , 血縁や父母像や社会制度に還元できないし , また友人や治療者との対 なる関係の中にも生じてくるのである。前者の対関係を一次的とし , 後者を そのコピー ( 転移 ! ) とみなすような把え方は , 人間の生をあまねく規定し ている対幻想の実在を過少評価するものであろう。 家族とは , 決して自然的・血縁的・制度的等々の結びつきではなくて , 何 よりも対幻想が営まれる場に他ならない。そうである以上 , 現代社会がいか に家族的結びつきの外在的な条件を喪失しようとも , この対幻想は強まりこ そすれ , 決して消失することはないだろう。。歪んだ人格 " 同士のヒステリー 婚やアルコール婚は , 客観的立場からどれだけ糾弾されたところで , 彼らを 内在的に結びつけるものがある限り , ビクともせずに存続し続けることだろ う。その家族が , 部外者の目にはいかに不幸なものに映ろうと , 彼らの歓び も生き甲斐もその苦悩の中にあるとしたら , 各個人が形成する家族の是非は , 窮極のところ為政者や精神科医が口を挾むべき事柄ではないだろう。

2. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

312 化 ' といった病理 40 ) は , 自己や目前の他者をどこかに実在する本物のコビー としてしか把えられない類型化志向の果てに出現してくるもののように筆者 には思われる。 3. 家族の存在論ー結びに代えて 私にとって家族とは , いったいどのような存在なのだろう ? それは本論 で , 1 ) 生物学的次元における同一血縁者として , 2 ) 法・社会学的次元にお ける社会制度として , 3 ) 対人コミュニケーションの次元における共同居住 者として , 4 ) 対象関係論の次元からの内在化された重要他者像 , 記述精神 医学的次元からの父母類型として把えられたが , そのいずれにも一・一それど ころかそれらの総和にも一一還元し尽くせない基底的な領域を占めるものの ように思われた。 私にとって家族とは , 私が成立した後で , 私の外部から私を規定するよう な条件ではあり得ない。家族は , 私の発生にあたってその根幹を成しており , 私が生を終えるまで私を構成し続ける この規定は , 天涯孤独の人にとっ ても欠如という形であてはまる - ーーー基本的な契機である。誤解を恐れず言う ならば , 家族とはほとんど私の別名に他ならない。 家族をめぐる基本問題は , 私という存在が , a) 父母という [ 私が関与しない ] 一対の結びつきと b ) 母子という [ 私が子として関与しながら失われる運命にある ] 一対の結 びつき とを既定事実として生を享けつつ , その後は自らの意志によって代償的に c) 夫婦 [ 恋人関係・内縁関係・同性愛関係など , 夫婦関係に類似した 同世代間の , 原則的に対等な対関係のすべてを含めて ] という一対の結び っきの相手と , d ) 親子 [ 養子縁組や心理的な依存ー支配関係など , 親子関係を原型とする 異世代間の非対称的な対関係のすべてを含めて ] という一対の結びつきの 相手とを選択できる可能性の中に一生涯立たされ続けることの中にある。 家族の問題は端的に言って , 人間の基本的なありかたが対をなす欲求と不

3. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

38 軽症の非妄想型分裂病 ( 神田橋の亜型分類 14 ) でいう境界例第三群 ) に対し て , その種の試みを適用してみた 25 ) 。このような試みにとって境界例は好 個の素材に見えるにもかかわらず , 安永 5 ) , 神田橋 6 ) , 村上 26 ) らの研究を別 にすれば , その種の境界例論はほとんど行なわれていないように思われる。 この概念の発祥以来とりざたされてきた分裂病との関連の問題については , われわれは単純に次のように考えている。すなわち , 疾病学的見方に立っと きには , 現在のところ境界例に独自の臨床的単位を与えておくのが適当であ ろう。そして , それとは別の文脈で境界例をとらえ直してゆこうとする前述 のような努力の途上で , 分裂病者との異同が自ずから浮かび出てくることこ そありうべき姿であろうと。というのも , 境界例に関連の深い疾病学的概念 , つまり分裂病 , 神経症 , ヒステリー , 人格障害などは , 今日それら自体が不 分明化している概念である。従って , 境界例を単にこれらの概念の一つに包 含せしめてみても , それだけでは何の進歩ももたらさない。精神医学の領域 に限らず , 境界的事象はすべて , 硬直化した構造の打開と新たな妥当性 9 ) ( relevance ) の体系を作り上げるための原動力を含むと言われる 11 , 12 ) 。と すれば , 今日求められる境界例の精神病理学は , そのまま同時に「分裂病」 や「人格障害」概念の明確化にも寄与するものであらねばならないだろう。 分裂病にせよ , ヒステリーにせよ , 症状が軽症化し , 輪郭不鮮明になって きた今日 , 診断の根拠を症候学のみに求めることは , ますます困難になって きている。個々の患者に診断を下す際には , 「思考伝播」 , 「もうろう状態」 といった , すでに抽象され孤立化させられた症状の存在よりも , その症状に っきまとっている何ものか ( 「分裂病らしさ」や「ヒステリー臭さ」と呼ば れるもの ) が潜在的な決定力となっていることが多い 一方 , 人間学的「診断」 27 ) の立場からこの「何ものか」を問題にするとき には , 往々それ以外の相違点に対する着眼が一挙に取り払われてしまう。例 えば木村は , ある種の境界例や真正の強迫病者はアンテ・フェストウムとい う時間構造を共有する点で分裂病者と本質的には変わらない存在だと主張す る 28 ) 。確かに , 彼らの感性的体験面や基底にあるよるべなさに照準する限

4. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

136 機制 (splitting) と本質的に変わりはない。太古的な二元論思考 ( dualism ) の 賦活というトッド ( J. T 。 dd ) の説明 1 のや , 乳幼児期における ( 対象恒常性を 確立する以前の ) 対人知覚様式の再現とする西田の説 6 ) をとったところで , 境界例患者におけるアニミズム的心性や属性的相貌知覚との類似は明らかで ある。従って , 境界例患者にカプグラ症状が出現することは驚くに当たらず , むしろ人物変換症状は境界例概念が慢性妄想病へと接近する橋渡し的な位置 にある , と考えられる。また , 近年 , 器質性疾患に発生するカプグラ症状が 続々と報告され , カプグラ症状の基礎に器質的な因子を想定する見解が高まっ ている 3 , 6 ) 。このことに関連して , 中枢神経系の機能不全といった広い意味 ーーに提〒した症例はもちろんのこと , 境界例患者一般 での器質的要因は , に広く存在しうると , われわれは考えている。 ここでわれわれは , 人物変換や妄想的邪推の対象となる他者の性質につい て注目してみたい。妄想の対象となるのは , いま・ここに現前している他者 に限られており , 目前から消えた△・一一にいない他者はいつもほとんど 問題にならない。われわれの患者にあっては , 現在が過去や将来とのつなが りから , この場が空間の無限な広がりから離断し突出しているのに対応して , 目前の他者もまた , あらゆる超越性・背後性を失って , そのつどそこに存在 している。患者が , 目前の他者 A の多様な属性知覚にいちいち翻弄され , っ いには A の同一性を否認するに至る ( カプグラの錯覚 ) のも , 必要とあらば目 前の A に対して既知なる別の個体 B の名前を付与すること ( フレゴリの錯覚 ) ができるのも , ひとえに彼らが , 目前他者の背後にそれ以上のもの一一一他者 A の歴史性や社会性 , さらにはそれらを統一するものとしての個別・固有性 を見ない限りにおいてである。目前他者 A の身体を借りて表象的に現前 ここではその背後性を奪われた目前他者と化してい している他者 B もまた , る。 分裂病患者が出会う目前の他者は , 超越的意味のたんなる代理人にすぎな い不特定で無名な他者か , あるいは逆に , 唯一的で交換不可能な全くの個別 的存在か , のいずれかであるように思われる。他方 , 境界例患者にとっての 目前他者は , 母親や主治医にしても決して唯一的な存在ではなく , 赤の他人 であっても全く不特定というわけではない。すべての目前他者は属性的相貌

5. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 2 章生活史と言語 97 それ自体の独立した価値をもってはいない〈註 3 〉 丸山によれば , ソシュール言語学の最大の眼目は言語が物理的・生物学的 所与とは全く次元の異なった , 純粋に非実体的・関係的な存在でしかないと いう見方のうちにある。すなわち , 物理的・生物学的世界における個々の事 物は , 実体性をもった単位として他の事物全体から独立して存在でき , それ 自身の絶対的な特性に従った ( 「・・・・・・である」という形での ) ポジティヴな 価値を有しており , 人間の視点とは無関係に存在している。。即自的 en soi とは , 「実体として」・「個として」・「自らの絶対的特性に従ってポジティヴ に定義される」等々といった事物的な在りかたを表現する形容詞である。 これに対して言語においては , 個々の語の価値は自らの特性によってポジ ティヴな形で定義されるのではなくて , 同一体系内の他の語との間に保っ関 係によって ( 「・・・・・・でない」という ) ネガティヴな形でしか決まらない。要 するに ーっーっの辞項はそれ自体では何の意味も担わず , 全体との関係に おいてただ他の辞項との差異だけを表現している。主体が意識するのは , 実 際には実体的な単位としての観念のようなものではなくて , 対立化された差 異の束でしかないのである。もし言葉がそのようなものでないならば ( 意味 とは実体ではなくて差異の網目の間の空間にすぎないのでないならば ) われ われが既存の言葉を組み合わせることによってこれまで存在しなかった表現 を無限に作り出すこともできないし , 子どもが事物への命名によってそのっ ど知覚世界全体を再編成することもありえないのだという。。即自的 " とは 対蹠的な , この種の辞項の在りかたが。示差的 différentiel " と形容される。 ちなみに , このような考え方が非常に理解しにくいのは , われわれの心中に 深く根ざした実体論的・要素主義的思考法のためだとされる。詳細は丸山の 同掲書を参照されたい。 く註 3 > この段落における議論と用語法は , 丸山圭三郎のソシュール解釈“ ) に多くを負ってい る。なおゼロ記号とは , 例えば h Ⅲ ( 丘 ) とⅢ ( 病気の ) との間の発音上の相違 Ch] 対 [ ーゼ ロ ] が , pill ( 丸薬 ) と bill ( 勘定書 ) との間の相違 CpJ 対 Cb] と同一レベルの弁別機能を果 していることから , ill における最初の子音の不在 ( ゼロ ) も記号として機能しているのだとい う考え方による。同様の理由で , ドイツ語やフランス語名詞の男性形は女性形に対してゼロの語 尾をもつものとみなしうるし , 省略された関係代名詞もゼロ記号と考えられる。

6. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

52 ターナー 10 ) , 山口昌男 11 ) といった文化人類学者は , ヒッピー , 司祭 , 僧 侶 , 占い師などを , コミュニタス ( 規範の共同体であるコミュニティないし 構造一般と対立するとともに , それを潜在的に規定している感性的関係様式 ) あるいは「周縁性」 marginality にかかわりやすい存在だと言う。彼らの挙 げた「周縁的存在者」に精神科医を付け加えることもできるであろう。もち ろん , きわめて規範的なありかたを示すヒッピーや精神科医も数多く存在す る。従って , われわれがここで「境界人」と呼ぶものは , 身分的・階級的な 規定ではなくて ( この点で , 前記の人類学者たちとは観点をやや異にする ) , 原理的にはすべての人間に潜む一つの心的傾向を指している ( この点は , 前 述の「規範人」についても同様である ) 。そのような「 ( 空間的 ) 周縁性 11 ) 」 , 「 ( 時間的 ) 境界状況 10 ) 」 liminality の立ち現われやすい場 , 社会的規範が 自己の正統性を主張しえない現実の一領域に生きる者を「境界人」と総称す るならば , そこに包含されるのは境界例患者とその相手になりやすい人物た ちである。 多少とも境界的心性をもっ相手に対しては , 境界例患者は , 1 カ月以内に 「礼儀正しい , あるいは表面的っき合いの人」 ( 第 1 段階 ) から「面白い , 機知に富んだ人」 ( 第 2 段階 ) へ変貌する。患者は生き生きと楽しげに振舞 い , ューモアを多用し , 相手をも楽しくさせる。この「ふざけぶり」は , 対 人防衛と快楽充足が半々といったところであるが , この態度が結果的には相 手に自分の懐深く入り込むきっかけを与えることになる。やがて ( ふつう半 年後くらいから ) , 今までの調子で患者に接近してゆく相手に対して , 患者 は不安と怒りを表出しはじめる。しかし , この攻撃は , そのたびに「仲直り」 によって補償される。かくて患者は , 「感情変化の激しい気分屋」 ( 第 3 段階 ) とみなされるようになる。 ふつうの人が自分の所属する共同体の中で「親しい間柄」と感じる対人的 距離が , この段階の「近さ」にほぼ相当しているために , この評価がもっと も患者の社会的レッテルとなりやすい ( 例えば stable in his instabiIity33))0 それは , 対人恐怖症者が苦手とする対人的距離 20 ) よりもずっと「自己の近 く」にある。このレッテルは同時に , 堅苦しいほどの規範人ではなく程ほど

7. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

338 なるのはこのためなのである。 第二の現実を形成するものを具体的に列挙してみよう。治療者側の問題と しては , 彼がどのような医療施設の中でどういう立場にあるのか , ( 若い医 師ならば ) 適当な指導者やスタッフが身近かにいるか否か , 彼がどういう形 で ( その患者から ) 収入を得ているのか , 自分の家庭内に面倒な問題を抱え ていないか , 昨晩はよく眠れたか , といった治療の場の背景をなす , 現実的 な条件が挙げられる。このような世俗的条件は , 境界例理論への精通度や治 療技法への習熟度 , さらには治療に対する彼の熱意以上に , 境界例治療の成 否を左右する要因となる。同様の条件は患者の側にも存在する。例えば , 本 人の社会的地位 , 経済的事情 , 家族環境 , 友人関係といった外的な枠組みの 安定度がそれである。そして , 第二の現実領域を問題にする場合に大切なこ とは , これを常に第一の現実とのつながりの中で考えてゆく姿勢である。わ れわれが第二の現実だけを独立に問題としたり , またそれによって第一の現 実領域の存在を隠蔽したりするようなことがあれば , 記述や治療の場の奥行 きと品位がたちどころに失われてしまうことだろう。 端的に言って , 境界例治療の要諦は , 表に顕在している図柄 (Figur) よ りも , むしろ背景的な地 (Grund) への着目にある。第二の現実領域におい ては , 定式化された理論や技法への精通度以上にその背景をなす世俗的な条 件への目配りが大切であった。同様に , 第一の現実領域においては , 実際に 目に見える形で起こった出来事自体よりも , その背景となった治療の場の 腐空気 " (BaIint のいう一次物質 ) が問題にされねばならない。境界例治療 を成功に導くものが , 何よりも地の領野の安定だとすれば , 治療者に求めら れるのは , 鋭い解釈や整合的な構造化ではなくて , 空気あるいは元素のよう に目立たず可塑性のある存在と化すことである 1 ) 。世俗的な条件を確保し , 元素のような雰囲気を患者の前で発し続けることーーー決して容易ではないこ のことに耐えられさえすれば , あとはささやかな技法が , いっか突然の転換 を可能にしてくれる機会を待つばかりだろう。人間学的と称するアプローチ は , それがこの背景的・元素的な支えを患者と治療者に提供し得る限りにお いて , 境界例治療の大きな力となるはずである。

8. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 10 章家族と社会 307 間に種社会の形成にあずかるある種の communication が働いているとす る今西の主張 13 ) などは , 個体が種社会から脱落することなしに目前の関係 の場からおりられることを生物社会学的に保証する発言のようにみえる。 要するに , コミュニケーションの病理は , 基本的には生物 ( としての人間 ) が社会を形成することから派生する問題なのだ。この基礎事実を自覚するこ とは , 問題を徒らに家族内の心理的葛藤や血縁性や意味充満的記号論などへ 還元することによって新たな問題を作り出すよりもはるかに治療的と言わね ばならない。 こでは , 家族とは単に視野に入る頻度の高い共同生活者を意味するにす ぎない。それにもかかわらず , 血縁の同一性という余分な観念の混入が , 家 族共同体の内部に他人との共同生活以上の複雑・陰微な意味充実を作り出し てしまう。けれども , 現代社会の動向は , 人と人との間の親密な関係を血縁 関係や社会的関係から分離する方向へと進んでいる。われわれは今日 , 銀行 から融資を受ける際に連帯保証人を求められないし , 縁談を得るために仲人 を頼る必要もない。信用保証会社や結婚紹介所に一定の金額を支払いさえす れば , 連帯保証人や仲人のような血縁的ないし社会的つながりの上に個人的 親密さを上塗りしたような煩わしい関係を目上の人物との間に作らないで済 む。従来このような人間関係は実際生活に有利な反面 , しばしば頭の上がら ぬ目の上の瘤のごとき存在でもあった。社会自体が , 自らを円滑に機能させ るために , かってメランコリー型社会の全盛期までは大いに利用したこの種 の人間関係に , 今日では大きな存在価値を認めていない。これは同時に , 血 縁関係や社会的関係が必ずしも親密さを意味するものでないことが常識化し ていった過程でもある。今日では , 血縁ある家族とよりも気の合う他人との 同居を選ぶ人々が確実に増えつつある。これからの血縁家族は , 共同生活に 必要な成員間の契約性や無関係性を , 親密な他人同士が形成する擬似家族か ら見習う必要があるのではないだろうか。 4 ) 内在化された家族像 ( 対象関係論的立場 ) と類型化された家族 ( 記述精 神医学的立場 ) 1950 , 60 年代の分裂病家族研究では , 患者自身の陳述による。内在化され

9. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

224 乏しい記述にとどまっていた。これに対して , 残遺概念は , 寛解過程論に組 み込まれることによって , 一見目だたない患者の病像把握や内面理解や治療 方針の設定に役立っ積極的な規定を達成しつつある。いわゆる欠陥状態が , 決して何の変化も起きない静止した状態ではなく , 挿間的に種々の病理現象 が出没する , 寛解と再燃への萌芽を含んだ動的状態であることは , 永田が豊 富な実例によって明らかにしている 48 ) 。そのような臨床精神病理学的明細 化の努力は , 新たな科学的意匠を次々と皮相的に導入すること ( 最近では情 報処理理論や辺縁系の生化学 ) によって Defekt 論を改訂し続ける Huber の 。理論的 " 試み 20 ) などよりも , はるかに重要であるように思われる。 残遺と欠陥とのもうーっの相違は , 前者が postpsychotic にもたらされた 状態を意味するのに対して , 後者は急性精神病の位相とは無関係に想定され る状態像である。残遺概念を支持するあまり , 欠陥病像のすべてが精神病シュー プの後に , そのシュープを原因としてもたらされる 51 ) という先入見をもつ とすれば , それは危険なことである。 Janzarik が昔から vorbestehende (oder vorauslaufende) Defizienz の概念をもって主張しているように , 「欠 陥病像は , 必ずしも精神病 Schub の結果もたらされるものではなくて , 初 回発病以前から存在しており , むしろ精神病を発生させる一要因となりうる ものだ」 , 「分裂病は , あらかじめ存在していた疾患非特異的なカ動不全を単 に露わにするきっかけを作ったにすぎない」という , Schub と Defekt の時 間的前後関係および因果関係を逆転させた考え方 24 ) も , 理論を離れて素直 な臨床観察に身を委ねる限り , postpsychotischer Defekt という考え方に 劣らず検討する余地がある。精神病の顕在化に先立って何らかの欠損を認め ること自体が , 反治療的であるわけではない。その場合 , 病前から存在する 欠陥病像に対する発達史的 , ならびに臨床精神病理学的な探究が , さらに要 請されているのである。 ⑧発病ー寛解過程論 精神病理学の歴史からみると , これは単一精神病論の系譜に属し , 臨床単 位の設立にはむしろ対立するものである。古い歴史はさておき , 分裂病領域 におけるこの種の考え方の現代的なモデルを提供したのは , conrad, K. 6 )

10. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 11 章青年期例について 321 含んでいるためなのである。 3 ) 社会病理の側面から 境界例概念の抬頭が , 精神医学にもともと含まれていた治療的観点や反分 類的な傾向に関連したものであるにしても , 今日の社会に生じた境界的な事 象の蔓延化 13 ) ーー価値観の多様化 , 社会規範の相対化 , 一枚岩的な正常概 念・現実概念の崩壊 , 個の確立要請の弱体化 , 一般的に言って平均的市民へ の境界人心性の浸透ーーーなしには , 境界例概念がこれほどまでの隆盛をみる ことはなかったであろう。現代の日本人は , 境界人的な生き方を単に許され ているどころか , 半ば強いられてさえいる。 境界例患者の客観的な諸特徴 , すなわち感覚主義・刹那 ( 現在偏重 ) 主義・ 巧みなおしゃべり・変身性・非自立性・虚実のけじめのなさなどは , そのま ま現代日本社会一般を特徴づけるものでもある。実際 , このような性格特徴 を有利に役立てて現代社会で活躍している境界人は決して少なくない。それ なのに , どうして境界例患者だけが , 。境界例社会 " の中で失調をおこして しまうのであろうか ? 境界例患者は , しばしば誤解されているように , 単に規範から外れた存在 なのではない。発症後の彼らは , 現代では失われつつある類型的な規範をむ しろ理想化して , これに強く頼ろうとする。巻き込みや行動化といった治療 上の困難の多くは , 彼らのこの傾向と関連して生じてくる。つまり , その時 どきの現実場面で無原則的な対応を繰り返す生活に自足している限りは , そ の人が境界例患者になることはない。そのような生き方に虚偽や不満を感じ て耐えられない者一一安永のいう中心気質者 16 ) だけが , 臨床例となっ てしまうのである。 社会と個人との間に介在する家族が , 個人に社会的な訓練を施す。類社会 的 " 機能と , 個人を社会の圧力から庇護する。抗社会的 " 機能とを共に弱め ていることも , 家庭における両機能の厳格さが分裂病中核群の発生と親 和性をもつのと対照的に一 -- ー今日における境界例患者の多発に至適な条件を 提供しているように思われる 14 ) 。