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検索対象: 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学
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1. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

序章 29 産出したわけだが一 - ーーむしろ人間の自由を損ねる , 鈍感で画一固定的な価値 感にしばられた不具の文化だということになるだろう。内田によれば , アメ リカにおける生産社会から消費社会への最初の移行は、すでに 1920 年代に始 まっている。単一車種の大量生産という近代的な生産様式が作り出した傑作 車 ( T 型フォード ) が , 「見かけで売る」戦略のもとに製品を差別化し , 消 費者の多様な欲求を創出した GM 車に敗れて生産停止に陥ったのが 1927 年の ことであった。内田は , ーこに高度大衆消費社会の初まり , つまり , 近代的 な合理性の型が消減し , 異質な構造と布置をもった実定性の形態が出現しは じめたことをみるわけだが , 1930 年代以降 40 年間頓挫していたこの文化変容 が , 70 年代以降再び広く先進産業社会を襲っていることは , 今や明らかなこ とだろう。 のうちで絶えず脱落させられてゆく反構造的な契機の中にも , 境 つまり整合的・体系的・無時間的・固定的な知識への収束を目指 さらに , 社会構造論を離れても , 人間の思考一般につきまとう構造化への す思考 欲求 , われわれが今日なし得ることは , 自分の経験から得た主観的見解を開陳する の分野で客観的妥当性の存在を前提してかかることの不当性を唱えている。 った。私の境界例論は , 客観的妥当性を主張するものではなく , むしろ , おいて探り , その背景をなす地平をいささかなりとも明らかにすることであ 動を解明するための手がかりを , 。正常者 " や分裂病患者の言動との対比に 本書に所収した諸論文で , 私が一貫して追求したことは , 境界例患者の言 手が届かないというべきだろう。 再現のみを見るような境界例観は , 境界例問題がはらむ奥行きの深さに到底 ー化したり , 境界例患者に。現代社会の申し子 " や , ( 逆に ) 過去の遺物の したがって , DSM ーⅢにおける境界性人格障害のように境界例概念を画 すものである。 類史に繰り返し現われてくる。構造化と構造解体との相克 " と表裏一体をな 念的な一般性を可能にする前提のところに関わっており , 精神医学の疾病分 も境界例的な切断や個物への執着が出現し得る。境界例概念の流動性は , 概 有名的なものが一般性や因果性の中に吸収されようとするところでは , いっ 界例的な事象の一つの発生源を認めることができる 1 ) 。個別的・いま的・固

2. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

26 当初はこういった風潮に批判的であった人々も , なしくずし的にこの。軽薄 短小 " の波に呑まれて , 今ではかっての主張など忘れた素振りをしている。 われわれは , そのように無反省な形でこの流れをやり過ごすのではなく , 70 年代以来 , わが国には善きにつけ悪しきにつけ , 境界 ( 例 ) 文化といったも のが存在したのであり , それが社会に深く浸透した結果 , 今日自明化するに 至ったことをはっきりと認めなければならない。前述した名市大精神科とい う下位文化の中にさえ , ある意味では前時代の医局文化と異なる境界的なも のを認めることができるかも知れない。 こで論じていることは , 決して患者の治療から懸け離れた文明批評など ではない。境界例患者は , 自己形成力や抵抗力に乏しく自己が稀薄なために 時代の文化社会構造を他の誰よりもそのままに反映してしまう。したがって , われわれが , 自分の生きている文化社会をきちんと認識することは , 境界例 患者の在りかたとそれに対する治療姿勢を探究する上で欠かせない前提とな るのである。それを無視した人格構造論や治療論は , しばしば境界例患者 ( の弱味 ) に対して不当に酷なものを要求してはいないだろうか。 たとえば , 内田隆三は , 現代人に生じた身体の断片化 , 拡張 , 遍在 , 非人 称性の意識などを , 身体にもともと存するメディア性の , 権力による操作活 用から解釈する説得的な議論を展開している。現代消費社会に生きる人々の 身体感覚や身体図式の変容は , 18 世紀末以来の主体 = 身体という形象が , 今 日では非構造的な差異の戯れのうちに解消されてしまったことを物語ってい る。われわれの身体諸器官は , 移植に利用される臓器はもとより , 手足耳目 のごとき運動・感覚器官でさえ , 今や部分に分離され , その機能は電磁メディ アを通じて身体外へと大規模に移し変えられている。われわれが , 身体の外 に肥大化したエレクトロニクス装置を通じて身体意識をさまざまな時空間に 遍在させればさせるほど , 身体空間は多重化され , 身体そのものは限りなく 模像に近いものとなってしまう。近代工業化社会では , そこに生きた人々の ノ、 / プティコン 身体空間に対して人称的まとまりと内面性の隠れ家を与えてきた ( 一望監視施設 や告白制度に象徴される ) 牧人 = 司祭型の制度が , 今日の消費社会では廃棄 され , 今や制度側の操作対象は , 個体や人称性のレベルよりもミクロな , 素 材物質 , 微小部分 , 臓器などに焦点を結んでいる。現実世界がそのようなも

3. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

精神経誌 , 88 ; 383 , 1986. 7 ) 野坂昭如 : 赫奕たる逆光 . 文藝春秋 , 1987. 8 ) 鈴木茂 : 成人境界例の記述精神病理学的研究 . 精神経誌 , 書第 2 章 ) 9 ) 鈴木茂 : 境界事象と精神医学 . 岩波書店 , 1986. 10 ) Todd , J : The Syndrome of Capgras. 尸 s ん厩 0 , 31 ; 250 , 146 6 ) 西田博文 : カプグラ症状に関するいくっかの考察ーー成り立ちと構造を中心に 86 ; 167 , 1984. 1957. ( 本

4. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

58 第 2 章 生活史と言 1 はじめに 臻五 * 著者は先に , 軽症非妄想型分裂病者の人格 (personality) と言語構造に ついて詳細な病歴呈示を通して検討する試みを行った 35 ) 。その際すでに境 界例人格との対比が念頭にあったものの , 前論文ではそれにほとんど触れな かった。今回の論文の目的は , 成人境界例の人格を記述的に描出する一方 , その生活史と言語構造に認められる非妄想型分裂病人格との対蹠性をきわだ たせることによって , この人格障害 (personality disorder) の位置づけに 示唆を与えようとするものである。 境界例に関する論文は「 1970 年前後から爆発的に増え」 9 ) て , 今日に至っ ている。しかし , その概念や治療についての考え方は実に多種多様であって , 研究者間の不一致が著しい。その要因の一部は , 明らかに患者の側にあろう。 すなわち , この種の患者が示す不安定で多面的な表出がそれである。しかし 他方で , この不一致は精神医学の方法論や疾病学自体に内在する非一貫性と 根拠の薄弱さに基因する部分もある。患者の示す多面性が , 研究者間に潜む 分裂病概念や治療観の齟齬をことさら顕在化させてしまうのである。加えて , この分野ではわが国に自前の研究が乏しく , 「しかも , それらは 1960 年代で ストップしてしまい 40 ) 」 , それに代って米国における経験や理論の受け売り に終始する論文が増加していることも混乱の一因となっているであろう。境 界例のように , 文化的・社会的に規定された正常性との対比が直接その中核 部分をなすような疾病概念の場合 , 文化や時代や言語の差異に留意すること はことさらに大切なように思われる。 * 原題 : 成人境界例の記述精神病理学的研究 . 精神神経誌 86 , 167-203 頁 , 1984 年 .

5. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

134 の試みには , 編者の村上によるものがある 4 ) 。拙著と合わせて参照し , 比較 検討して頂ければ幸いである。 1 ) 知覚異常 幻視 " や。動く犬の視覚イメージ " , 夏江における大視症・小視症や。赤ん この種の症例では , 分裂病と違って幻聴が稀である。真代における。文字 いうか , 人 ( = 私 ) の弱味を見てそれに酔っているという顔つきをしてました」 ( 真 しば現われる。「先日の面接のとき , 先生の顔が , 邪悪なものを見て笑っていると 主治医や家族に対する猜疑心あるいは妄想的相貌感受が , これらの症例ではしば は無関係に生じる場合も決して少なくない。 二人関係的な相手との間でのみ生じている。この種の妄想的解釈が , 知覚と ない。けれども , それは , 原則としてかなり限定された状況において , 妄想知覚に似た体験が , われわれの患者に全く認められなかったわけでは 2 ) 妄想解釈傾向 裂病体験よりもアニミズム心性に近い , ということである。 的特性に即して論じたことがある 8 , 9 ) のでここでは繰り返さないが , 要は分 られているわけではない。この問題は , 境界例患者における相貌知覚の構造 想知覚を生じた分裂病患者のように , 知覚の背後に隠された意味に震撼させ 「気味が悪い」「うれしい」といった形で反応しているのであって , 幻聴や妄 すなわち , 境界例患者は , 現前している表象や相貌知覚そのものに「こわい」 界例患者の豊かな相貌知覚が妄想知覚と異なるのと , 構造的には同質である。 視覚表象の活発化による前記の諸症状が分裂病性の幻聴と異なるのは , 境 が , これらの症状については別項で扱うことにする。 る ) 体感幻覚が , この活発な視覚表象活動と関係するのは見やすいところだ 覚表象に近いと考えるべきだろう。人物誤認 ( = 変換妄想 ) や ( 内部知覚であ 空間とは別の空間に見える , といった特徴から , 幻視・錯覚というよりも視 しめることができる , 細部をよく見ようとすると形が崩れてしまう , 客観的 れらの異常な視覚は , 疲労時や不快時に見えやすい , ある程度能動的に生ぜ 坊の空想幻視 " など , 視覚領域における症状の方がはるかに優勢である。

6. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

分裂病と構造 岐阜大学助教授小出浩之著 A 5 判 200 頁定価 3 , 800 円 ( 本体 3 , 689 円 ) 分裂病の構造はその基本障害をラカンの「排除」の理論が説明 するとする見解が , 境界例の「不安」のラカン的解釈とあわせて 述べられ , 続いてフロイトの「置き換え」と「圧縮」に当たるラ カンの「換喩」と「隠喩」が , 分裂病の症状の理解をつうして検 討される。最後に著者の臨床の技法に導入されたラカン理論が , リハビリを考えるうえでも有力であることが説かれる。最新の分 裂病理論を詳述した本書は , 恰好のラカン入門書ともなっている。 分裂病者の行動特性 針生ヶ丘病院昼田源四郎著 A 5 判 235 頁定価 3 引 4 円 ( 本体 3800 円 ) 分裂病者の行動に , 著者はいくっかの印象深い特性を見出し , その精神状態をも彼ら独自の人格特性をもとに説明が可能である , と主張する。 本書は分裂病に造詣深い著者が , 精神病理学のはかに近年発展 した精神生理学と実験心理学の成果をもとりいれて , 精神医学関 係者に分裂病の全体図を提供し , 治療と接し方への方途をも示し た , 得難いガイドブックである。 分裂病の症状論 東京大学助教授安く ~ 告著 : A 5 判ロ 0 頁定価 2884 円 ( 本体 2800 円 ) 「ファントム仮説」で知られる著者の『精神医学の方法論』に 続く論文集。本書は精神医学者の理解をもっとも拒む分裂病 , お よび分裂病と並んで臨床家を手こすらせている境界例の本質に迫 った論考である。著者は , 分裂病の妄想や幻覚など , その症状の ひとつひとつに鋭利な論理のメスを当て , 同時に境界例について はその、、あいまいさ " から , 時代の影響を受けやすい、、中心気質 " の考え方を提唱する。

7. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 2 章生活史と言語 87 外見をとるタイプ ( 表 1 に提示した 8 症例はすべてこのタイプに属する ) と 考える点で安永と一致している。一方 , 単純型分裂病者や軽症破瓜型病者を 人格障害の延長線で考えようとする神田橋の姿勢にも賛成である。本論の目 的の一つは , 安永の第 3 群と神田橋の第 3 群 ( 安永の第 4 群 ) とを人格障害 の対蹠的なあり方として提示することにある。 今日の境界例診断は , Kernberg, 0.8 ) や Modell, A. H. 20 ) のいうよう に , 単なる印象や症候学レベルを越えて , 一種の structuraldiagnosis たる ことを要請されている。ただわれわれは , 「構造」なるものを自我や人格に 関する何らかの理論から演繹するのではなくて , 患者の語る言葉と生活史に 即して取り出してゆきたいと考えるのである。 ②言語構造 本論における著者の主張の一つは , 成人境界例に特徴的な病理の一部が , 自ら用いる言葉との間に患者が作り上げた関係に由来しているということで ある。以下に四つの項目にわけて患者と彼の言葉との関係を考察してみるが , もちろんこれらの項目は密接に関連し合っており , 完全に独立したものでは ありえない。 ( i ) 感性的・表出的用法の優越 著者はかって , 寡症状性分裂病に関する研究 35 ) の中で , 言語に二つの機 能を区別した。ーっは話し手のあり方とは無関係に対象的事態を客観的に叙 述する「指示機能」であり , いまーっは話し手が自己の意識・感情・判断等 を表現することによって聴き手を動かす「表出機能」である。日常言語はす べてこの二つの機能を合わせもっているけれど , どちらの機能が優位を占め ーこに提示した症例群の発話に るかは発話ごとに異なっている。ところで , 認められる特徴は , 表出機能が指示機能に比べて不釣合なほど優越している ことである。 すなわち , 症例 B の話しぶりは流暢・滑脱で陳述内容に相応した感情が声 の調子にも表われ , 時にはその感情にひきずられて客観的要素さえあいまい にされる ( しかし , 全くの虚偽を述べることはまずない ) 。 A や C の場合 , B に比べて身振りに乏しく口調も比較的平坦なために , 表出的要素は一見し

8. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 4 章母親のコミュニケイション 161 あるまいか。子ども的立場を占有しようとする嗜癖的な姿勢は , 彼女らがヒ トの母親となった場合に , とくにはっきりと露顕してくる。幼いわが子を 。お人形 " として可愛がる一方で , 時には自分の母や姉に見立てて甘えよう とする姿勢 ( とその挫折 ) は , 臨床上稀ならず認められる事柄である。母子 関係ということを , このように象徴的・構造的な意味にまで拡張して用いる ならば , 境界例の中心問題は母子関係の病理にある , と言ってよいだろう。 4. 境界例患者の母親類型 境界例患者の母親については , 牛島 7 ) ( 1966 ) , Masterson4) ( 1972 ) , Zin- ner8) ( 1975 ) , Shapir09) ( 1978 ) , Gunderson10) ( 1980 ) , Feldman11) ( 1984 ) などによる類型化がある。彼らの結論は , 異ロ同音に次の二つのタイプの母 親 , つまり子どもに依存して共生的関係を強いる分離不安型の母親と , 子ど もの依存願望をはねつける無視・排斥型の母親とを提唱している。前者の典 型が Masterson の borderline mother であり , 後者に多いのは , 強い夫と 。仲良し連合 " を作って子どもを排除する母親や , 無力な夫をも支配して家 庭内に君臨する強い , しかし感情貧困で共感性に乏しい母親だと言われてい これに対して筆者は , 境界例患者の母親に , むしろ人格的な歪みが多くな いことを強調した 12 , 13 ) 。とくに , 夜群患者の母親には , 主婦や職業人・社 会人として安定した女性が多く , 冷静・客観的なうえに子どもに対する愛情 にも欠けていないので , 娘の治療に際して key person としての役割を果た し得ることも決して少なくない。境界例的な対話様式が母子間で生じるとし ても , 母親がそれを第三者との対話にまでもちこむことは稀であって , 子ど もの境界例化は母親個人の態度に起因するというよりも , むしろ家庭構造全 体 14 , 15 ) や治療状況の反映である場合の方がはるかに多い。問題を母親個人 の特性に帰せしめたり , 過大な愛情供給を母親に求めたりすることは , 患者 と主治医の側の嗜癖的な欲求の現われであるようにも思われる。 しかし , 精神病症状を反復するß群境界例患者の母親となると , やはり諸 家が指摘するような依存や無視の問題が出てくることは疑い得ない。従来の

9. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

310 利性に匹敵するものがある。 実際 , いったん親に不満をもった場合 , 子どもの目には親が自分に及ぼす 行為のほとんどが干渉や拒絶と映るだろう。親は子どものこの。邪推 " に関 して一一 - 客観的第三者には弁明できるにしても一一 - 当の子どもに対しては抗 弁する権利を最初から奪われている。個々の問題をめぐる親子間の論争は , 親がそのことを基本的に承知した上で行われない限り , 境界例家族の治療過 程でしばしばみられるように , 事態をますます悪化させる危険がある。これ は同時に , 親との論争における自分の主張の正当性が , 必ずしも内容の正し さに由来するのではなくて , 親子関係におけるアプリオリな不平等構造に根 ざしたものであることを子どもが理解するときにはじめて , 本質的な治癒が 生じ得ることを物語っている。 父母像に関する子どもの陳述は , 社会的に通用する成人言語のレベルで発 せられているわけでない。結局のところ , その親子間でしか妥当しない私的 な意味を担っているにすぎない。外部から父母を類型化する観察者の言葉は , 患者の言葉の次元と明確に区別されねばならないし , 親子関係における上記 の不平等構造に思いを致したものでなければならない。分裂病家族論の時代 には , 外的観察者による親評価が主流であって , 患者や親自身が積極的に親 を評価することは少なかった。そういう分裂病ケースは , 非定型ないし境界 例的とみなされていたのである。今日では逆に患者や家族のほうがこの種の 父母像や類型論をしきりに述べる一方 , 治療者のほうはその疑わしさや限界 を意識しはじめているのではないだろうか。実際 , 。父親の不在 " , 。母親の 過保護 " , 。社会のアノミー化 " といったキャッチフレーズは , 時代によって 次々に追い越され無効化してしまった感がある。 ところで , この種の類型化がある程度の確からしさで可能であったとして , それは精神医学の理論や治療に何らかの新しい道を切り拓くであろうか ? 否 , このような類型化は , 先述の境界例患者との非生産的な問答にも似た , 発展 性も発見的評価もない行きづまりの具体化を与えるにすぎない , と筆者には 思われる。境界例を手がかりとして精神科治療をより豊かなものにするため には , われわれはむしろ , 普遍的な父母像や夫婦類型が存在するという先人 見からもっと解放される必要があるのではなかろうか。今日の社会において ,

10. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 2 章生活史と言語 59 このような状況認識から著者は , ①既存の理論にとらわれることなく , 自己の臨床経験に基づいて , ②客観的・外面的な尺度によってある程度選択・限定した境界例患者 , すなわち大方の研究者 (Grinker, R. R. 5 ) , Gunderson, J. G. 6 ) Hoch, P. 7 ) , Kernberg, 0.8 ) , DSM-III など ) が認める症候学的特徴 に基づいて診断した年齢・性・受療形態に共通性をもっ症例群 ( 30 歳以 上の , 入院歴をもった女性患者 ) に対して , ③その人格構造を一定の局面 ( 生活史と言語構造 ) から浮き彫りにする , ことにした。 従来の境界例研究は , 青年期に厚く成人期に薄いきらいがある。しかし , 成人を題材にした境界例研究には次のような利点が考えられよう。 ①青年期の精神科患者はすべて多少とも「境界例的」であるために , 青 年期患者を境界例の本質研究に用いることは , この概念をいっそう曖昧 にする要因となりかねない。換言すれば , 境界例的障害の本質部分を通 常の青年期心性に由来する諸問題と無反省に同一視する予断を避けるた めには , まず成人例を対象とした方がよい。 ②成人患者のもっ言語化能力と「行動化」の穏やかさは , 患者自身の言 葉を通じて彼らの内面を考える手立てをわれわれに与えてくれる。 ③境界例を慢性の疾患ないし人格障害とみなす限り , 成人例を対象とす るのが本筋と考えられる。いまだ発達途上にある青年期に「慢性」の精 神科疾患や多少とも固定的な「人格」を想定することは , 避けた方がよ いであろう。 また , 資料を女性例に限った理由は , 境界例における理論と治療の展開が , 少なくとも現時点では患者および治療者の性に大きく依存しているためであ り , 男性患者をも対象に含めた場合には議論が拡散し薄められてしまう恐れ があるからである。従来の境界例論の大半は , 男性治療者が女性患者または 若年男性患者を扱った経験に基づいている。それはこの組合せが , 転移感情 や症状の流動性といった境界例的特徴をもっとも顕在化させやすい 2 人関係