相手 - みる会図書館


検索対象: 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学
94件見つかりました。

1. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

46 である。 それにもかかわらず , 他人が「腹が痛い」 , 「頭にくる」などと発言するの をきくとき , われわれはついそれを , 自分がかってそのような状態にあった ときの体験と重ね合わそうとする。けれども , 言語行為論の立場からするな ら , 相手の発したこれらの言葉は , 私の腹痛や怒りよりも , 私がいま目にし ている相手の身振り , つまり「腹をおさえて脂汗を流している」とか「真赤 な顔に青すじを立てて , 大声を出している」といった相手の身振りに近縁な もの ( 正確に言えば , 同一レベルにあるもの ) と言うべきである。子供の怪 我を目撃した際に母親が感じる痛みも , 「痛み」という同一の言葉をあてが われるからといって , 子供が感じているであろう痛みと同一と言うことはで きない。気温の低い冬のある日に , 相手が「寒い」と言い , 私も「その通り だな」と感じたとしても , 私は相手と同じ寒さを体験しているわけではない。 相手の発した言葉は , 彼の吐く白い息や池に張った氷と同一レベルにあるの である。 われわれは , このような考え方が唯一正しい言語観・世界観であるとは主 張しない。しかし , 論理的にみてもわれわれ自身の体験に照らしてみても , 十分可能な考え方であり , 境界例患者の発話にみられる多義性や身振り ( 身 体表面 ) へのとらわれの根拠と問題点を剔抉するのに適切な言語観であると 思う。患者が , 自他の発話を通常人よりも強く「行為遂行的なもの」ととら えがちである , すなわち用法的意味に過敏であることは , 臨床的事実のよう に思われる。 境界例患者の問題点は , 同一の言葉がもっ用法的意味と体験的意味との間 にあるこの次元の差異を維持できない点にある。彼らは , 相手が表出する怒 りや悲しみの言葉 ( と身振り ) を相手の身体表面にとどめえず , 即座に自分 の体験したそれと同一視してしまう。また , 相貌知覚の鋭さが自己の表出作 用にも向けられるという前述の事態も , 自己の言葉に関する用法的意味と体 験的意味の無差異化 ( 自分が内的に体験している「腹痛」そのものが , 自分 の身体表面にそのままあらわれているという考え方 ) に由来すると考えるこ とができよう。さらに , 境界例患者の「内的」体験がおしなべてある種の

2. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

0 各人の性格によるのかも知れない。けれども , 解法の内実を真に身につける ためには , 時々は後者のような姿勢をとることが必要だろう , と私は考える。 とくに精神療法における技法の場合は , 幾何学の定理ほどに普遍性をもたな いことが普通だから , それを沢山詰め込んで頭を固くしていたのでは , 補助 線一本で事態が一変して見えるといった貴重な発想と視点変更の芽をいたず らに摘むばかりではないだろうか。 技法は , 規則と考えられるべきではなく , 囲碁やチェスでいう定石に比せ られるべきものである。囲碁における規則とは , 白と黒とが交互に打っこと , 周囲をすべて相手の石に囲まれれば取られること , コウやセキについてのき まり等々であって , これらはゲームを成立させる上で絶対に守られねばなら ない客観的な取り決めである。これに対して定石とは , 不動の客観性をもつ ことなく , 常に相手が放つ手との相互関係の中で作り出される。それは単に おばえても意味がない。相手が定石からはずれた場合にこちらがその欠陥を 突かなければ , 相手の悪手は妙手に変じてしまうから。さらに定石は , 多か れ少なかれ局所的なものであってゲームの全体を占め尽くすことはなく , 実 戦では全体との絡みから , さまざまな程度にいつも破られる必要がある。そ のような限界あるいは流動性があるとしても , 定石は , それを知らなければ 確実に敗れるほどに検証されたパターンである。また , 定石には , 時代とと もに革命的な変化があり , それ以前と以後とではゲームのスタイルが一変し てしまう。最後に重要なことは , ゲームを制御する上位原理としての定石が , ゲームの規則という下位の原理に違反できないのは当然の話だが , だからと 言って前者が後者から導出されるわけではない。定石の働きをゲームの規則 によって説明することはできないのである 11 , 15 ) 上の段落における。定石 " という言葉を“技法 ' という言葉に置き換える ならば , 精神療法における技法のあるべき姿が明瞭になってくると思う。 技法は規則ではない。私がこの発言を繰り返すのは , 技法をあたかも規則 と受け取っているかのような構えを示す人が , 精神療法家 ( を志す人 ) の中 に少なくない , と感じるからである。治療の現実は , ( 多くの技法論が暗黙 のうちに前提しているような ) 規則としての絶対的客観性をもって進行する ものではない。その事実を見えなくするような技法論は有害であり , その責

3. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

176 また , 「自己主張は , どうやったらできますか ? 」 , 「団体生活の仕方がわからなくて , 自分勝手になってしまうので困る」といった自明性に関する訴えが顕著になった。 A 子は , 病的体験が軽快した時点で一度退院したものの , 3 週間後には「死ね ! 」 とか「お前のせいだ」という幻聴に圧倒されて自宅の 2 階から飛び降り , 大腿骨を骨 折して再入院し , 現在に至っている。 現在は , 幻聴や希死念慮が高まる不穏・活発な時期と , 好褥的でポーツとした不活 発な時期とが交代する経過をとっている。同郷出身の看護学生が実習で A 子に付いた り , 骨折後のリハビリ開始が告げられたときなど , うれしいことがあった際に 短期間 , 自然で子供っぽい活発さをみせるけれど , 幻聴や空笑がほぼ恒常的に続いて おり , 総じて破瓜型分裂病の慢性経過とみなしうる状態にある。 〔症例〕 B 男。初診時 26 歳 身長は約 180Cm , 痩せており , 猫背でトボトボ歩く無力型体格の男性。 58 年 3 月に「ロにするのも恥かしい三流大学」を卒業して , 郷里である H 市のスー ーに就職する。 3 年目から , あるチェーン店の魚売場の主任となった。しかし , 店 長はかけもちのため不在がちであり , 部下とパートのおばさんたちはきちんと働かな い。そのため B 男が彼らの分まで働かなければならず , ストレスがたまっていたとい う。 62 年 3 月 6 日に休日出勤して夜 9 時まで働き , 帰宅して 11 時に就床したものの入 眠できず , 次第に寒気・胃痛・動悸が激しくなってきて , 「助けてくれ / 」と叫んだ ために , 両親が救急車を呼んだ。その晩は注射 1 本でおさまり , 2 日後に筆者が勤務 する病院の消化器科を受診した。そのさい , 内科医の目にも奇異に映ったらしく , 精 神科へ紹介されてきた。 初診時 , ェアコンの音をしきりに気にする。同僚や上司や父親に対する被害念慮と 体感・心気的な訴えが多い。ため息をついたり , 力のない笑いを浮かべたり , いかにも 疲れ切ったような様子を見せる。一方的にしゃべっては , 「先生だって , そうでしょ ? 」 , 「そう思いませんか ? 」と相手の同意を求めたり , 「こうやって , 話す相手があるとい いですねえ」といった一人合点気味のなれなれしさがある。 prepsychotic state と仮 診断して , 診断書を渡し , 休養させていたところ , 2 週間後に聴覚過敏・指先のしび れと冷感・室内の徘徊・父母への攻撃・奇異な言動が強まり , 亜昏迷状態に陥ったた めに入院とした。入院にさいしては , 一人で歩けず , 消え入るような小声で「先生 , 助けて下さい」 , 「出世したい」 , 「体が大事」などと断片的な発話を繰り返すのみで , 緊張感や腱反射の亢進など神経学的な異常所見は認められなかった。

4. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

52 ターナー 10 ) , 山口昌男 11 ) といった文化人類学者は , ヒッピー , 司祭 , 僧 侶 , 占い師などを , コミュニタス ( 規範の共同体であるコミュニティないし 構造一般と対立するとともに , それを潜在的に規定している感性的関係様式 ) あるいは「周縁性」 marginality にかかわりやすい存在だと言う。彼らの挙 げた「周縁的存在者」に精神科医を付け加えることもできるであろう。もち ろん , きわめて規範的なありかたを示すヒッピーや精神科医も数多く存在す る。従って , われわれがここで「境界人」と呼ぶものは , 身分的・階級的な 規定ではなくて ( この点で , 前記の人類学者たちとは観点をやや異にする ) , 原理的にはすべての人間に潜む一つの心的傾向を指している ( この点は , 前 述の「規範人」についても同様である ) 。そのような「 ( 空間的 ) 周縁性 11 ) 」 , 「 ( 時間的 ) 境界状況 10 ) 」 liminality の立ち現われやすい場 , 社会的規範が 自己の正統性を主張しえない現実の一領域に生きる者を「境界人」と総称す るならば , そこに包含されるのは境界例患者とその相手になりやすい人物た ちである。 多少とも境界的心性をもっ相手に対しては , 境界例患者は , 1 カ月以内に 「礼儀正しい , あるいは表面的っき合いの人」 ( 第 1 段階 ) から「面白い , 機知に富んだ人」 ( 第 2 段階 ) へ変貌する。患者は生き生きと楽しげに振舞 い , ューモアを多用し , 相手をも楽しくさせる。この「ふざけぶり」は , 対 人防衛と快楽充足が半々といったところであるが , この態度が結果的には相 手に自分の懐深く入り込むきっかけを与えることになる。やがて ( ふつう半 年後くらいから ) , 今までの調子で患者に接近してゆく相手に対して , 患者 は不安と怒りを表出しはじめる。しかし , この攻撃は , そのたびに「仲直り」 によって補償される。かくて患者は , 「感情変化の激しい気分屋」 ( 第 3 段階 ) とみなされるようになる。 ふつうの人が自分の所属する共同体の中で「親しい間柄」と感じる対人的 距離が , この段階の「近さ」にほぼ相当しているために , この評価がもっと も患者の社会的レッテルとなりやすい ( 例えば stable in his instabiIity33))0 それは , 対人恐怖症者が苦手とする対人的距離 20 ) よりもずっと「自己の近 く」にある。このレッテルは同時に , 堅苦しいほどの規範人ではなく程ほど

5. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 2 章生活史と言語 77 るので , 面接試験にはすぐ合格してしまう。けれども寮に入るとじきに , 夜中に同僚 を起こしたり冷蔵庫をあさったりするので辞めさせられる。親が何度か連れもどしに 行って逃げられた末に , 知人の助けを借りてようやく連れもどし , 精神科へ入院する ことになった。 入院後も数カ月間は , 盗食・残飯あさり・嘔吐・過活動を繰り返し , 周囲とのトラ プルが絶えなかった。相手によって態度が激変する。同一の相手に対しても笑顔と怒 りが瞬時に切りかわる。ずっと臥床していたかと思うと , へトへトになるまで卓球を やり出す。そして面接場面では , 冒頭で述べたような作り物の態度を決して崩そうと しなかった。 入院のきっかけを問われると , 「失恋してしまってメチャクチャだったから。失恋 というよりも , ある方を信用できなくなってしまったから。ウフッ」と答える ( 失恋 の相手は P 氏 , 信用できなくなった相手は Q 氏と , 別人物であることが後日判明する ) 。 Q 氏は指圧師を営む 10 歳年長の妻子ある男性で , 断食道場を追い出された B が最終 的に居候として住みついた家の主である。 B は入院中 Q 氏宛に果物・化粧品・下着類 ( それも , 銘柄・寸法などを克明に記したもの ) の送付を頼む手紙を頻繁に書ぎ , 何 度か大量の現品を受け取っていた。夏に果物を送らせたり , 男性に下着や化粧品を依 頼する奇異さを問われても , 「でも , 特別の友達ですし , 果物は必要ですもの」と答 えるのみであった。 p 氏は , B が 28 歳のときから肉体関係をもっている 15 歳年長の男性で , Q 氏の友達 でもある。少林寺拳法・キックボクシング・指圧師・漢方の勉強などを経て , 現在は 僧侶になる修業のために寺に入っているという。定職に就いたことはなく , B に収入 があったときにはしばしば無心していた。入院中に一度大量の食物を携えて来院し , 面会室で全量食べさせた上に , B の願いに応じて近くの売店でさらに食物を買い求め , B を数時間のあいだに 6k9 太らせた人物でもある。「将来は結婚して , 一緒に道場を 開く約束をしていた」けれども , B は退院後自分の意志で P と別れた。 入院 6 カ月ころから , B は肥満して不活発・無化粧になるとともに表情や態度が自 1 カ月後に法律関係の出版社 然で落ちついたものとなり , 11 カ月で退院していった。 に就職し , 校正の仕事を始めてすでに 1 年余りになる。ほとんど休むこともなく , 職 場への適応は良好である。同人雑誌に参加して文学趣味を満足させ , 結婚相談所に登 録して時々見合いをしているようである。食事は , 内容に若干の偏りを残すものの規 則的となり , 嘔吐や下剤の濫用は見られなくなった。

6. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 1 章自己表出と対人関係 45 る。われわれは , 日常使っている言葉のほとんどを , 辞書などにはよらず , あれこれの具体的状況に合わせて多様な形で用いる実践行為を通じて習得し てきたのである。それは , 大森 32 ) のいうように , 実際には「意味」なるも ・のの習得ではなくて , 相手の身振り・声振りに触れてどう動かされ , 自分の それを調整することによって相手をどう動かすかということの習得である。 国語をマスターするとは , 言語を一種の身振りとして慣習化することに他な らない。 このような言語習得の道で , 境界例患者が普通人に比べて遅れをとってい るとは到底思われない。実際 , 彼らの生活史を調べてみると , 幼少時期から 活発で大人を笑わす才気をもった「自己表出の豊かな子」として周囲の人物 に可愛がられていることが多いのである。それでは , どこに陥穽があるのだ ろうか。 言葉を習得された身振りと考える言語観にとっても , 少なくとも自分の使 う ( 表出的 ) 言葉については , 身振りとは次元を異にするもうーっの側面が あることを認めないわけにはいかない。例えば「喉が渇いた」という言葉は , 相手に水を要求したり , 自他の気持をビャガーデンへと誘う身振りである一 方 , 自分がいま体験しているこのロ渇を自分に対して端的に標示する言葉で もある。そして , この体験そのものは言語の習得に先立っており , 他人の存 在ともさしあたり無関係である。自分の用いる ( 表出的 ) 言葉のこの二側面 , つまり主として他者へ向かう身振り的側面 ( 用法的意味 ) と自分自身に向か う体験標示的側面 ( 体験的意味 ) とは , 同一の言葉がもっ通約不可能な二つ の次元に属する。 他者の発する言葉についても , その背後に他者自身の体験的意味を想定す ることはかまわない。しかし , それを , 同一の言葉によって標示される自分 自身の体験的意味と類比的に考えることは許されないのである。私も他人も 「止まれ」の信号を「赤」という言葉で呼ぶことによって意思疎通できてい ることは , 両者の知覚内容が同一であることをいささかも保証しない。全く 異なっていたとしても対話に支障が生じないのは , 容易に理解しうるところ

7. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

第 4 章母親のコミュニケイション 153 で説明を聴くことによって , はじめて納得する。 f ) 相手の返答や言動に注文をつけて , 自分の望む方向に固定化しようとする傾向 と言って欲しかった」 , 「一一一のように振舞って欲しかった」 , 「どうし 〇「相手に てあの人は , あんな言い方をしたのか ? 」といった発言が多い。たとえば , レクリ ェーションに一緒に行った看護婦さん〔ちょっと太った人〕が昼食のパンを残した。 「私も残したけど , その看護婦さんにはすっかり食べて欲しかった。」 〇真代「こんな色のトウモロコシあるんですか ? 」 看護士「今は , あるんだよ」 真代「あっ , それじゃあ奥さんの手料理で食べたんですね。」 看護士「こんな物 , 手料理と言えるかどうか・ この最後の発言に , 「私は自分の存在そのものを否定された感じがして , すごくショッ クだった。。恥ずかしながら手料理で食べました " , と言って欲しかった。」 。面接場面で時どき , 主治医に対して「私 , いま怒れました」と述べる。 [ 面接中に 怒りの感情が生じたときには , すぐその場で直截にそう言って欲しい , とあらかじ め主治医が真代に伝えてあるせいもあるだろう。 ] そのぎつかけを問うと , 以下の ような主治医の応接態度が挙げられる。「尋ねなくてもわかって欲しいと思うこと を , いま先生が尋ねられたから」 , 「私が言おうとしたことをさえぎって , 同じこと を先生が言われたから」 , 「別の話題に移る前に , 。今は努力しないでいいんだ " と いうことを先生の口からはっきり言われなかったから。〔つまり , 主治医は真代の 発言を単に肯定しただけだった , あるいは真代の方から言わせた形になった , とい うことに怒っている〕」 。相手が自分の思ったとおりに行動してくれないと , 「怒ってるんじゃないか」 , 「無 視された ( 嫌われた ) んじゃないか」といった考えが自分の肩のところに黒雲のよ うに浮き出してきて , 私を悩ませる , という。 次に夏江の母親と主治医とのコミュニケイションを取り上げよう。と言 ても , 私はこの母親に二度しか会ったことがない。主治医が来院を求めても , 身体の不調や用件の存在を理由に面接に現われないのである。夏江の病歴は 20 年以上に及び , その間に主治医を 10 回ほど交代しているが , 母親のこの姿 勢はどの主治医に対してもほぼ同じであったようだ。入院中の夏江に面会に 来ることも , ほとんどなかった。

8. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

326 との間で体験した対人関係パターンがやがて患者の中に内在化されることを 期待する。最後に分離する不安に抗して患者が治療者から巣立っことができ れば , 治療は完了する。 上に述べた一般的な治療図式を外来で完遂するには , 種々の困難がっきま とう。患者の性別や性格や知能 , 自我の発達程度 , 患者を囲む家族の状況 , 治療者が使用できる施設と時間など , いろいろな側面で好条件が揃わない限 り , 上述の治療過程を完うすることは難しい これらの条件のうち , 性差の問題は比較的論じやすい。一般的に言って , 異性の治療者の方が , 患者と陽性関係を作ることは容易である。しかし , そ のことは同時に , 異性間の組み合わせでは治療関係が浅くなりがちなことを 意味している。治療者自身が患者の性の青年期を体験していないこと , それ ゆえ本当のところは実感できないという意識が , 患者との間に距離をとらせ るのであろう。それが , この組み合わせの短所でもあり , 長所でもある。い ずれにせよ , 青年期境界例に対する個人精神療法の難しさは , 何と言っても 同性の患者との治療関係に現われてくる , と筆者は考えている。 0 ニ一 4. 青年期境界例に対する私の治療的立場 最初から断っておくと , 私は自分の資質が , 青年期患者の治療にあまり向 いていないと , 自分では考えている。その理由を二 , 三挙げておく。 まず私は , 中学・高校生くらいの患者と面接するとき , 決まって自分のこ とを何と称するべきか , 自称詞の選択に困惑してしまう。相手への呼びかけ は , 「君は 」くらいで済ませることができる。しかし , 自分を呼称する のに「私は一一一」「僕は一一一」というのは , 相手に対してやや冷たい感じが してしまう。児童・青年期を専門とするある精神科医が , 20 歳には達したと 思われる女子大生に向かってしきりに「先生は一一一」と自称している面接記 録を読んで , 私は驚嘆したことがある 5 ) 。私は最初。先生 " という言葉が誰 を指しているのか見当がつかなかった。私が自分のことを。先生 " などと称 することができる相手は , せいぜい小学生までである。“先生 " という自称

9. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

284 する必要がある。この点に関しては , 御賛同頂けるでしようか。 これ以上のこと , つまり 4 ) の具体的な他者人格に対する個々の評価内容 とか , 5 ) その評価に使用される言葉などは , もはや大いに主観的なもので あって , 共通の了解を欠くという前提から考えはじめるべきであろう , と私 は考えております。ところが , 〔この表では〕下へいくほど人格概念の主観 的な働きや体験の内容面に重きが置かれてきますので , それだけ実際生活の うえで目前の他者の人格像を得るために欠かせない役割を果たします。上の 方の項目は , どちらかいうと人格の客観的・形式的な抽象に力点があるので , 個々の他者人格像に関しては具体的な情報をあまり与えない , ということに なります。 間違うかもしれないけれど , 実践生活上行わざるを得ない行為 , それが人 格判断であります。私は , 知人の誰彼について「あの人は , ああいう人だ」 という理解を , 漠然とであれ , 明瞭に意識された形であれ , 持っております。 交際が密になるにつれて , 「ああいう人だ」の内容が詳細になってくる。そ れとともに , 相手の行動や反応に対する予測も可能となり , また相手の言動 が大抵ひっかかりなく一一 -- - 場合によっては , 大抵いつも反感を催すといった 形で一一私に受け容れられるようになります。これが私の目に映る相手の人 格です。それは , 私に取り込まれた他者ですから , 実は主観的なものです。 実際 , よく見れば , 彼の行為はしばしば私の予想を裏切っているのですが , 私の方ではそれを些細なこととして見すごすか , 「それもまた彼の一面だ」 という形で彼についての評価を拡張・修復するという , 前述の自律の運動に よって同一人格の中へと包摂してゆきます。次に表 2 を御覧下さい。 1 ) 2 ) 3 ) 0 ) 表 2 他者人格の把握形式 類型的な把握 ( 役割理論的・客観主義的・共同主観的など ) 想像的同一化 ( 鏡像・対他存在・ synchronicity など ) 超越論的な把握 ( ? ) 構成の破綻・把握の放棄 ( 他者としての他者 )

10. 境界例vs.分裂病 : 言語と主観性の臨床精神病理学

132 い感情のこもった声で多弁かつ一方的に話しまくって , 相手に口を挾ませな い。話題は次々に飛躍して観念奔逸的であり , それまで抑制していた感情や 欲求や猜疑心が , 一気に放出された感じがある。 烈火のごとく怒ったかと思うと , 次の瞬間には窓外を見て「きれいですね」 と徴笑んだり , 主治医に対して疑惑を表明した直後に突然友好的となって , 「どうか支えになって下さい」と握手をもとめたり , あるいは一転して素気 ない態度をとったり , 主治医への攻撃を「水鉄砲をかけちゃうぞ」といった おどけた形で中断してみせたり , とにかく態度の変化の激しさに呆気にとら れてしまう。 夏江の言動がわかりづらいのは , 彼女が相手の言動を妄想的に解釈してお り , しかもその部分を伏せて陳述しようとするからであろうか ? 一方 , ちらが驚くほどヌケヌケとのろけてみせたり , 露出的であったり , 冗談を文 字通りに受け取って動揺を示したりする。基本的に相手に心を開いていない から , おどけてものろけても対話場面の緊張は緩和しない。投射機制や他責 傾向が濃厚に認められる。 この症例が通常の非定型精神病と異なるのは , いま述べた病的体験や対人 コミュニケイション様式が , 薄められた形で病間期にもほぼ一貫して持続し ていると見える点である。錯覚や妄想的邪推の萌芽は , 平生の面接場面で言 動のはしばしに垣間見られる。しかし , 患者はその表出をほば抑制できてい るし , 妄想的思考の端緒をそれ以上展開することを自分から避けてもいるよ うだ。母親を否認はしても , 全面的に否認し尽くして妄想的確信に至ること は巧妙に回避している。「本当のお母さんはどこにいるの ? 」といった質問 には決してのってこようとしない。 けれども , 自分の疑惑や感情を表出したいという患者の欲求は相当に強い のであって , これを我慢していることが , 腹立たしさや腑に落ちなさ , 気の 変りやすさなどの入り混じった特有の緊張感を周囲に伝えることになる。患 者が発するこの雰囲気こそ , われわれが境界例的印象と感じるものに他なら ない。 夏江は , もっとも , 2 年遅れで大学を卒業し , 資格試験に合格して 6 年間就労した。 就労期間の半分以上は休職している。働き出すと , 途端に緊張が