第 10 章家族と社会 307 間に種社会の形成にあずかるある種の communication が働いているとす る今西の主張 13 ) などは , 個体が種社会から脱落することなしに目前の関係 の場からおりられることを生物社会学的に保証する発言のようにみえる。 要するに , コミュニケーションの病理は , 基本的には生物 ( としての人間 ) が社会を形成することから派生する問題なのだ。この基礎事実を自覚するこ とは , 問題を徒らに家族内の心理的葛藤や血縁性や意味充満的記号論などへ 還元することによって新たな問題を作り出すよりもはるかに治療的と言わね ばならない。 こでは , 家族とは単に視野に入る頻度の高い共同生活者を意味するにす ぎない。それにもかかわらず , 血縁の同一性という余分な観念の混入が , 家 族共同体の内部に他人との共同生活以上の複雑・陰微な意味充実を作り出し てしまう。けれども , 現代社会の動向は , 人と人との間の親密な関係を血縁 関係や社会的関係から分離する方向へと進んでいる。われわれは今日 , 銀行 から融資を受ける際に連帯保証人を求められないし , 縁談を得るために仲人 を頼る必要もない。信用保証会社や結婚紹介所に一定の金額を支払いさえす れば , 連帯保証人や仲人のような血縁的ないし社会的つながりの上に個人的 親密さを上塗りしたような煩わしい関係を目上の人物との間に作らないで済 む。従来このような人間関係は実際生活に有利な反面 , しばしば頭の上がら ぬ目の上の瘤のごとき存在でもあった。社会自体が , 自らを円滑に機能させ るために , かってメランコリー型社会の全盛期までは大いに利用したこの種 の人間関係に , 今日では大きな存在価値を認めていない。これは同時に , 血 縁関係や社会的関係が必ずしも親密さを意味するものでないことが常識化し ていった過程でもある。今日では , 血縁ある家族とよりも気の合う他人との 同居を選ぶ人々が確実に増えつつある。これからの血縁家族は , 共同生活に 必要な成員間の契約性や無関係性を , 親密な他人同士が形成する擬似家族か ら見習う必要があるのではないだろうか。 4 ) 内在化された家族像 ( 対象関係論的立場 ) と類型化された家族 ( 記述精 神医学的立場 ) 1950 , 60 年代の分裂病家族研究では , 患者自身の陳述による。内在化され
第 11 章青年期例について 321 含んでいるためなのである。 3 ) 社会病理の側面から 境界例概念の抬頭が , 精神医学にもともと含まれていた治療的観点や反分 類的な傾向に関連したものであるにしても , 今日の社会に生じた境界的な事 象の蔓延化 13 ) ーー価値観の多様化 , 社会規範の相対化 , 一枚岩的な正常概 念・現実概念の崩壊 , 個の確立要請の弱体化 , 一般的に言って平均的市民へ の境界人心性の浸透ーーーなしには , 境界例概念がこれほどまでの隆盛をみる ことはなかったであろう。現代の日本人は , 境界人的な生き方を単に許され ているどころか , 半ば強いられてさえいる。 境界例患者の客観的な諸特徴 , すなわち感覚主義・刹那 ( 現在偏重 ) 主義・ 巧みなおしゃべり・変身性・非自立性・虚実のけじめのなさなどは , そのま ま現代日本社会一般を特徴づけるものでもある。実際 , このような性格特徴 を有利に役立てて現代社会で活躍している境界人は決して少なくない。それ なのに , どうして境界例患者だけが , 。境界例社会 " の中で失調をおこして しまうのであろうか ? 境界例患者は , しばしば誤解されているように , 単に規範から外れた存在 なのではない。発症後の彼らは , 現代では失われつつある類型的な規範をむ しろ理想化して , これに強く頼ろうとする。巻き込みや行動化といった治療 上の困難の多くは , 彼らのこの傾向と関連して生じてくる。つまり , その時 どきの現実場面で無原則的な対応を繰り返す生活に自足している限りは , そ の人が境界例患者になることはない。そのような生き方に虚偽や不満を感じ て耐えられない者一一安永のいう中心気質者 16 ) だけが , 臨床例となっ てしまうのである。 社会と個人との間に介在する家族が , 個人に社会的な訓練を施す。類社会 的 " 機能と , 個人を社会の圧力から庇護する。抗社会的 " 機能とを共に弱め ていることも , 家庭における両機能の厳格さが分裂病中核群の発生と親 和性をもつのと対照的に一 -- ー今日における境界例患者の多発に至適な条件を 提供しているように思われる 14 ) 。
第 10 章家族と社会 301 氏族のような共同体であっただろう。原初の人々は , 氏族的共同体を生産や 居住や子どもの養育活動をともにする単位として暮らしていた。小浜の考え によると 19 ) , この氏族的な共同性が戦争や交易や内部構成の複雑化などの 過程に晒され膨化・拡散していった結果 , やがて血の観念に替わる新しい統 合の原理が必要になってきた。そこに , 宗教や法の観念を介して , 血縁を同 じくしない者同士をも同じ一族として包括し得るような , 国家という共同体 原理が析出してきたというわけである。家族の発生は , このような国家の成 立と同時実現的であった。その際 , 家族の本質規定にとって決定的なことは , 国家的共同性の成立にあたってそこから排除された血縁的な同一性の観念が , 一対の男女が形成する ( 家族という ) 共同性の中へと一挙に封じ込められて しまったことにある。氏族的な共同性が国家と家族とに分裂して以降 , 一対 の非血縁的な男女が血縁の観念を核に形成する小共同体が , 個人の生を強く 規定する一領域として自立化してきたのである。 その後の家族の歴史は , 客観的・外面的にみるならば , 類社会的な諸機能 の喪失の歴史である。生産の機能は企業共同体へ , 養育の機能は学校や保育 所へ , さらに近年では病人や老人の介護機能を病院や福祉ホームへと移し終 えて , 今や家族は実質的な共同体機能のほとんどを自らの外部へ移管してし まっている。未だに残っているのは , 消費共同体としての役割くらいではあ るまいか。わが国の近代に限ってみても , 明治以来の家制度は家庭の内部に 類社会的な働きを持ち込むものであったが , 近年の核家族化は , 家族が社会 性度の側からの外的な規定をいよいよ失ってゆく過程であった。要するに 今日の家族は , 類社会的な諸機能を , 自らをまとめるための条件とはなし得 なくなっている。 しかし , そのことは , 家族内への社会の不可侵を意味するものではない。 それどころか , テレビの存在に象徴されるように , 社会は今日 , 家族の中枢 部にまで堂々と入り込んでくる。昔との相違と言えば , 社会の働きかけが , 全体としての家族に向けられるよりも , 各家族成員の個人的欲望に狙いをつ けていること , したがって家族内への社会への侵入は , 家制度時代のように 家族をミニ社会としてまとめる働きをせず , むしろパラバラの個人の集まり へと解体する方向で遂行される点にある。すなわち , 個人を社会から庇護す
準は甘すぎる一一一面接した対照 ( 精神科受診歴のない ) 養子群 23 名のうち 12 名 が , また , その実父母家系ならびに養父母家系と分裂病養子群の養父母家系 においては実に家族の 30 % 前後が人格障害者と判定されており , 正常とみな された者の数を上回っている一一一ので , これは参考にならないように思われ る。 いずれにせよ , 分裂病者の一親等家族の 1 割ーーーどんなに甘くとっても 2 が , 考えられる限り広くとった分裂病スペクトルの中に位置づけられ るに過ぎない。臨床的実感からすれば , これは低すぎる数字ではないだろう か。一親等家族の 8 割が , 分裂病的要素とは全く無関係なところで生きられ るという。分裂病や SPD の発生に関与する家族的要因は , 果たしてそれ ほど小さいものなのだろうか ? 家族という関係を遺伝素因にまで縮減してしまえば , おそらくこの程度の 数字にしかならないのかも知れない。遺伝生物学的研究者が考える家族とは , 血縁の同一性から推定される素因の同一性に他ならず , 夫婦や養父母のよう な , 血縁を欠く者同士の関係は家族関係から排除されている。けれども , 素 因をもった ( とされる ) 者が , 陰性症状として評価されるような対人関係様 式や社会的役割機能上の不全を示すようになるか否か , さらには紛うかたな き分裂病として発症するか否か , またいかなる機縁が彼を発症に導くのか , といった現実問題には , 非血縁者間の家族的要因も決定的に関与しているこ とは言うを俟たないだろう。遺伝生物学的研究者が提示する数値と臨床的実 感との間の落差は , おそらく家族研究が生物学的要因に還元し尽せない事情 に由来している。 2 ) 社会制度としての家族 ( 法・社会学的立場 ) 家族という私的共同体は , 国家あるいは社会という公的共同体に対立する 概念である。家族は , 一方で社会が個人に課する諸要求を社会に代わって執 行するミニ社会制度であり , 他方では個人を社会の圧力から庇護する閉鎖的 な場でもある。家族が果たすこの二つの対立的な働きのうち , こでは前者 を類社会的 , 後者を抗社会的な機能と呼ぶことにしよう。 歴史的にみて国家と家族の成立に先立つのは , 緩い血縁関係を基盤にした
302 るための閉鎖的な空間を提供する抗社会的な働きのほうも , 今日の家族では 著しく弱体化してしまっているのである。 筆者の臨床経験を大幅にモデル化していうならば , 分裂病中核群の家族で は , 類社会的・抗社会的な両機能が , 当の家族成員たちには意識化されない ほど厳格に遂行されている。一方 , 境界例家庭では , 両機能が単に弱体であ るばかりか , この欠陥が患者によって強く問題にされ , 社会的機能が理想化 される傾向にある。つまり , 父親は家長としての規範と権威を体現し , 母親 は主婦として忍従しつつ子どもを保護するといった類社会的な家族観が , 分 裂病中核群の家庭では戯画的なまでに硬直化した役割分配構造となって浸透 している一一それゆえ , 父や母が離別・死別などによって失われている場合 , のに対して , 境界例家庭では その役割機能を補填する者が出て来にくい 父母が一一 -- そのような類社会的規格に沿う形であれ , 逆らった形であれ はっきりとした役割分割化を果たしていないように見える 40 ) 。抗社会的機 能に関して言えば , 分裂病家庭が外観的には整い , その家族病理を外部から 容易に窺わせない閉鎖的なまとまりを作って発病前の子どもをそれなりに庇 護・幽閉しているのに対して , 多くの境界例家庭は外部に対して過剰に開か れており , 抗社会的な庇護性・閉鎖性に乏しい傾向がある。自分の家庭を振 り返って , 「小さい頃からお客や使用人が大勢出入りしていて , いつも他人 がウロウロしているような家だった」と恨みをこめて述懐する境界例患者や , 小児期に一家離散を体験したり , 家の中の砂ぼこり ( 外から侵入する異物 ) をいつも苦にして ( 母親に代わって ) 強迫的に掃除を繰り返していたケース などを , 筆者はかって報告したことがある 39 ) 。 もちろん , 上に述べたのは , あくまで極型的なモデルにすぎない。分裂病 の場合でも , 非定型的ないし境界例的なケースになれば後者のニュアンスを 帯びてくる。実際 , 1960 年代の家族研究では , その種の非定型的な 般的に言って , 感情表出能力があり転移治療の可能性を抱かせる , 心因性要 素の大きな - 一分裂病症例が , 好んで対象とされていたような印象を受ける。 他方 , 境界例の場合でも分裂病に近いような症例の家族には , 前者のニュア ンスが加味されてくるだろう。 筆者の考えに従えば , 分裂病中核群の発生は類社会的・抗社会的な両機能
序章 25 てられ抑うつ」といった言葉を患者の状態を記述する際に使いはする。けれ ども , これらの。概念 " をもとにして分析理論家が展開する大理屈の方は , ほとんど信ずる気になれないのである。 それでは , 私は現在いかなる方向に境界例論を考えてゆこうというのか。 それを以下に述べておこう。 境界例に関する論文が爆発的に増加した 1970 年代は , わが国が本格的な消 費 = 情報社会に突入する一方 , 人間を自律的・個別的な自我の主体とみなす 近代的人間像の破綻が , 誰の目にも明らかになった時代である。社会の変化 と人間像の変化とは相即する。主体化された人間という形象は , 決して時代 を超えた普遍性をもつものではなく , フーコーによれば 10 ) , 18 世紀末に発 明された歴史的な形成物に過ぎない。それは , 近代の資本主義国家が , 法と 契約に基づく社会構造を維持するために必要としたメカニズムであったが , 今日の高度消費 = 情報社会は , 自らを円滑に機能させるために , 主体化され た個人という相関項をもはや不可欠とはしなくなっている 11 ) 。境界例患者 に限らず , 今日われわれ。正常人 " の間にも蔓延している自己同一性感覚の 稀薄化や身体図式の変容は , 結局のところ人間主体の終焉という歴史的な事 態と深く関連しているように思われる。 1970 年代以降は , 企業が物の生産よりもマネーゲームで利益を上げるばか りか , 一般市民でさえも家や土地を居住のため以外の投機的な意識でみるよ うになりはじめた。人の発言は , 科学者のそれをも含めて , もはや客体的事 象を叙述するだけの中立的発言にはとどまりえず , 言及対象への干渉を不可 避的に含んでしまう。皆がそのことを知り , 自他の発言をそのように受けと ることが一般化すればするほど , いそう中立的発言は存立ぐた くなった。 人々は当初 , このような。悪しき風潮 " は一過性の現象に過きず , やがては 解消されて , 以前の。責任ある社会 " にもどるはずとみなしていたように思 う。精神科医が境界例患者の自己同一性拡散や感覚優位性を治療すべきもの と考えたのも , その一環と言ってよいだろう。 しかし , この 20 年間のわが国の社会で , この文化変容は不可逆的であった。
序章 29 産出したわけだが一 - ーーむしろ人間の自由を損ねる , 鈍感で画一固定的な価値 感にしばられた不具の文化だということになるだろう。内田によれば , アメ リカにおける生産社会から消費社会への最初の移行は、すでに 1920 年代に始 まっている。単一車種の大量生産という近代的な生産様式が作り出した傑作 車 ( T 型フォード ) が , 「見かけで売る」戦略のもとに製品を差別化し , 消 費者の多様な欲求を創出した GM 車に敗れて生産停止に陥ったのが 1927 年の ことであった。内田は , ーこに高度大衆消費社会の初まり , つまり , 近代的 な合理性の型が消減し , 異質な構造と布置をもった実定性の形態が出現しは じめたことをみるわけだが , 1930 年代以降 40 年間頓挫していたこの文化変容 が , 70 年代以降再び広く先進産業社会を襲っていることは , 今や明らかなこ とだろう。 のうちで絶えず脱落させられてゆく反構造的な契機の中にも , 境 つまり整合的・体系的・無時間的・固定的な知識への収束を目指 さらに , 社会構造論を離れても , 人間の思考一般につきまとう構造化への す思考 欲求 , われわれが今日なし得ることは , 自分の経験から得た主観的見解を開陳する の分野で客観的妥当性の存在を前提してかかることの不当性を唱えている。 った。私の境界例論は , 客観的妥当性を主張するものではなく , むしろ , おいて探り , その背景をなす地平をいささかなりとも明らかにすることであ 動を解明するための手がかりを , 。正常者 " や分裂病患者の言動との対比に 本書に所収した諸論文で , 私が一貫して追求したことは , 境界例患者の言 手が届かないというべきだろう。 再現のみを見るような境界例観は , 境界例問題がはらむ奥行きの深さに到底 ー化したり , 境界例患者に。現代社会の申し子 " や , ( 逆に ) 過去の遺物の したがって , DSM ーⅢにおける境界性人格障害のように境界例概念を画 すものである。 類史に繰り返し現われてくる。構造化と構造解体との相克 " と表裏一体をな 念的な一般性を可能にする前提のところに関わっており , 精神医学の疾病分 も境界例的な切断や個物への執着が出現し得る。境界例概念の流動性は , 概 有名的なものが一般性や因果性の中に吸収されようとするところでは , いっ 界例的な事象の一つの発生源を認めることができる 1 ) 。個別的・いま的・固
28 正期との類似を指摘した柄谷行人の論考 15 ) や , 大正期の作家 ( 谷崎潤一郎 , 佐藤春夫 , 芥川龍之介など ) の , 境界的とも形容できるかのような病的に繊 細な感覚 , 自己分裂 ( 分身体験 ) , 脱社会指向などを取り上げた川本三郎の文学 論 16 ) が示唆的である。柄谷や川本が述べているように , 大正期の作家は , 明治期 , つまり彼らの父親世代の近代国家形成を目指した重厚長大な価値観 を嫌って国家社会や家制度との真向対決を避け , 小さな内面世界に閉じこも って幻想的な自己を作り出す。この時代の日本社会は , 70 年代と同じく , よ うやく西洋と同時代的な域に到達したという達成感とともに外国に対する異 質性の認識を切り捨てて , 自己の内部に同一性を希求しはじめたのである。 しかし、大正も末期 , 関東大震災以降になると , 出版・広告プーム , ラジ オ放送や無声映画の流行といった大衆文化の抬頭がおこり , それ以前の大正 教養主義や私的な内面的同一性の秩序を押し流してしまう。映画という視覚 的メディアが , たとえ目前のスクリーンに憧憬の西洋世界を展開し , 暗闇の 中に私個人的な幻想空間を提供するものであったとしても , その流行は , や はり大衆文化的な猥雑さと結びつかないわけにはいかなかった。また , ラジ オ放送の開始 ( 1925 年 ) は , 外部世界との距離を , 感覚レベルで一挙に つまり , それ以前の観念レベルを超えて , はるかに肉感的に一一一縮めたこと だろう。マスメディアの拡大とともに生じた知の大衆化が境界例多発の苗床 となり得ること , つまり , 私的内面に自足を求めた秩序ある社会から混沌と した大衆社会への急激な移行が , 以前の文化秩序の中で育った階級に境界例 的な内的空虚をもたらしかねないこと , これは大正末期から昭和初期にかけ てと 1970 年代とに共通した状況とみなすことができる。こういった文脈で考 えるとき , 大正期に人格を形成した太宰治を境界例患者とみなしたり , 芥川 龍之介の自殺 ( 1927 年 ) や三島由紀夫の自決 ( 1970 年 ) に境界例的文化変容 に染まりつつ反発する形の行動化をみることも , あながち牽強附会とは言え ないだろう。 1920 年代は , 世界的に見ても , 前衛芸術表現ーー山口昌男 17 ) が好んで論 じるような猥雑な祝祭精神ーーーが開花した時代である。これに価値をおく見 方に立てば , 1930 年代から 60 年代までを支配した産業社会の秩序の方こそー ーそれが , 精神医学領域においてはメランコリー型という人間類型を大量に
26 当初はこういった風潮に批判的であった人々も , なしくずし的にこの。軽薄 短小 " の波に呑まれて , 今ではかっての主張など忘れた素振りをしている。 われわれは , そのように無反省な形でこの流れをやり過ごすのではなく , 70 年代以来 , わが国には善きにつけ悪しきにつけ , 境界 ( 例 ) 文化といったも のが存在したのであり , それが社会に深く浸透した結果 , 今日自明化するに 至ったことをはっきりと認めなければならない。前述した名市大精神科とい う下位文化の中にさえ , ある意味では前時代の医局文化と異なる境界的なも のを認めることができるかも知れない。 こで論じていることは , 決して患者の治療から懸け離れた文明批評など ではない。境界例患者は , 自己形成力や抵抗力に乏しく自己が稀薄なために 時代の文化社会構造を他の誰よりもそのままに反映してしまう。したがって , われわれが , 自分の生きている文化社会をきちんと認識することは , 境界例 患者の在りかたとそれに対する治療姿勢を探究する上で欠かせない前提とな るのである。それを無視した人格構造論や治療論は , しばしば境界例患者 ( の弱味 ) に対して不当に酷なものを要求してはいないだろうか。 たとえば , 内田隆三は , 現代人に生じた身体の断片化 , 拡張 , 遍在 , 非人 称性の意識などを , 身体にもともと存するメディア性の , 権力による操作活 用から解釈する説得的な議論を展開している。現代消費社会に生きる人々の 身体感覚や身体図式の変容は , 18 世紀末以来の主体 = 身体という形象が , 今 日では非構造的な差異の戯れのうちに解消されてしまったことを物語ってい る。われわれの身体諸器官は , 移植に利用される臓器はもとより , 手足耳目 のごとき運動・感覚器官でさえ , 今や部分に分離され , その機能は電磁メディ アを通じて身体外へと大規模に移し変えられている。われわれが , 身体の外 に肥大化したエレクトロニクス装置を通じて身体意識をさまざまな時空間に 遍在させればさせるほど , 身体空間は多重化され , 身体そのものは限りなく 模像に近いものとなってしまう。近代工業化社会では , そこに生きた人々の ノ、 / プティコン 身体空間に対して人称的まとまりと内面性の隠れ家を与えてきた ( 一望監視施設 や告白制度に象徴される ) 牧人 = 司祭型の制度が , 今日の消費社会では廃棄 され , 今や制度側の操作対象は , 個体や人称性のレベルよりもミクロな , 素 材物質 , 微小部分 , 臓器などに焦点を結んでいる。現実世界がそのようなも
222 のを抑えなければならない」は , 読む者に治療者側の価値観や規範意識の表 われを感じさせずにはいないだろう。能動型が受動型と比べて , 社会適応の 悪い類型であるという指摘を見れば , なおさらのことである。 生活臨床の理論と技法に内在するこのような問題点を修復すべく , その延 長上に登場したのが自己啓発型と , それに対する役割啓発的な接近法であろ う。宮内らによると 42 , 43 ) , 分裂病者の中には従来の生活臨床が強調した , 具体的・断定的な指示的働きかけに良く反応する一群 ( 他者依存型 ) とそれ に反発し拒否的となる一群 ( 自己啓発型 ) とが存在する。後者に対しては , 生活臨床の技法が禁忌であり , むしろこの種の患者が「自分で考え , 自分で 判断して行動しようとする性質」を尊重し , 実際の経験を積み重ねさせるこ とによって社会的な判断基準を自分で体得してゆくのを見守る姿勢が要求さ れる。 社会生活レベルに現われる実際行動に焦点を合わせ , 治療的働きかけに対 する反応の相違によって臨床単位を類型化しようと構想する点で , この二つ の試みに大差はない。宮内らは明言していないけれど , 自己啓発型がカバー する患者群は , 生活臨床の能動型患者と大幅に重なり合うであろう。しかし , 治療者の態度と記述の仕方は , 正反対と言えるほど異なっている。生活臨床 では矯正されるべきものとされた能動型患者の「自分の考えに固執し , 他人 の助言を聴かずに判断して , 実際行動で失敗を重ねなければ気が済まない性 質」は , 自己啓発型では前記のようにむしろ positiv な評価を受ける。この ような 180 度の転換の蔭には , 能動型症例に対する生活臨床技法の適用失敗 という経験や , 能動的・境界例的な患者の近年における増加といった事情が あるのだろう。 価値観が多様化し , 一枚岩的な規範が力を失いつつある今日 , かっては異 常とみなされた事柄の多くが社会に許容されるようになってきた。それとと もに , 治療者の価値観や。平均的 " な社会規範に患者を合わせようとするの ではなく , 逆に患者側の心的構造とニーズに合わせた接近法を考えなければ 破壊的であるという認識が , 近年ようやく一般化しつつあるように思われる。 Blankenburg が述べるように 3 ) , 分裂病者のリハビリは , 彼らの構造的特 性や仕事というものの背景を考慮して行われねばならない。そのためには ,