を引き、頭の中にメモをします。その方が語りたいこと、訴えたいこと、くつろいだ気分で語 れることから会話を始めると、その後が淀みなく流れるでしよう。 上手なインタビューとは、相手が話しながら、自分でも想定していなかった一一一一口葉を見いだし、 その言葉の発見に思わず心を動かすような場面を引き出す対話です。下手なインタビューとは、 これまでのインタビュ 1 記事をなぞるような定型の問答に終始し、相手も自分も、何の発見も なく終わる対話です。 相手が能弁、多弁な方なら、二、三の質問項目を準備するだけでよいでしよう。しかし、人 によっては、おそろしく寡黙な方もいます。そうなると、事前に多数の質問を準備しておかな ければ、質問が途切れて、お手上げになってしまいます。 九〇年代の初め、ニューヨークでお目にかかった映画監督のウッディ・アレンさんがその例む っ でした。奥さんと別れた直後でスキャンダルの餌食になった時期ということもあったのでしょ を う。事務所の暗い部屋の片隅で、怯える小動物のような目をした監督は、私の質問に一言一一言、報 短く一言葉を返すだけで、なかなか会話が成り立ちません。あらかじめ数十の質問項目を準備し 章 ておいたおかげで、何とか四〇分のインタビューを乗り切ることができました。アレンさんの第 趣味のクラリネットの話題や、欧州で広がる反ユダヤ人問題に話を振ったときに、ようやく 滔々と話すアレンさんに出会うことができました。このように、相手の言葉を引き出すために
「情勢分析や予測にあたっては、明確な結論や断定は避ける」。どうやらこれが、世の中の多く の人の「常識」であり、「知恵」であるようです。自分が得ている情報には限りがあり、情勢 分析はつねに誤る可能性があります。結果を断定して予断をもっと、引き返しができない誤っ た方向に突っ走る恐れもあるでしよう。つねに事態の変化に敏感であるためには、結果の予測 は慎重であらねばならないでしよう。 その反面、こうした分析態度は、「あとで結果責任を問われないための保身」という側面が あることも、また否定できません。 私がそのことに気づいたのは、何度かご紹介した軍事評論家の田岡俊次さんから、「分析の 精度をあげるには、ともかく結論を出せ」と教えられたからです。田岡さんは、ある情勢を分 析する際、最終的に、黒白の結論を出すことを自分に課しているといいます。 む これは、たとえば旧ソ連によるアフガニスタン侵攻にあたって、現地の地勢や派遣兵力、士よ 気、兵站能力などの要素を分析し、その結果、「旧ソ連軍はいすれ撤退せざるを得ない」とす報 るか、「当面は首都制圧を維持する」とするか、自分で明快な結論を出してみる、ということ 章 です。その分析結果を、他人や上司、公に発表するかどうかは、また別の問題です。 第 「日本人の情勢分析は、後で責任を問われないよう、どうしてもあいまいで、どう転んでもい い結果しか出さない傾向がある。しかしそれでは、どこで情報評価を誤ったのか、自分でもわ
力」の意味です。しかし、今の新聞は、「権力のチェック」という本来の役割を放棄し、それ 自体が権力と一体になって、読者に本当のことを伝えていないのではないか。「不信」の根元 にある感情は、「期待」が裏切られたことへのこうした深い失望に根ざしているように思えます。 では、ど、つしたらよいのか 私自身は、まずメディアが、無条件に特権や保障を与えられているわけではないということ を自覚すべきだ、と考えています。先に触れましたように、メディアがある種の権限を与えら れるとすれば、それは読者に代わって権力をチェックし、恣意や専横を監視するからという理 由以外にはありません。その役割を果たさなければ、おのずと権限を失うのも道理です。 しかし、以前のように時の政権を批判したり、「反政府」を掲げるだけで、権力を監視して いるということは難しい時代になりました。「権力」自体が分散化し、その姿は流動的になり、 見えにくくなっています。また「権力」は、グロ 1 バル化の時代にあって、一国内だけでは完 結しておらず、時には外国政府であったり、産業の連合体であったりもするでしよう。 人々の個人的な問題をつなぎ合わせ、構造をとらえることで社会的な論点に高める。そうし た過程のなかで、「権力」を改めて定義し、どのようなメカニズムでその「権力」が動いてい るのかを明らかにする。メディアには、そうした作業が、いよいよ問われるような時代に入っ たのだ、と思います。 243 おわりに
るような報道をしてから、後に釈明や反論の機会を与えるようでは、取り返しのつかない結果 になりかねません。名指ししての批判には、本人の釈明や反論の場が、本来欠かせない記事の 一部を構成しています。このときに問題になるのは、批判される人物が死去していたり、反論 できない立場 ( たとえば拘留中や、受刑中、あるいは入院中など ) にいる場合です。こうした際 には、人物を匿名にして過大な信用失墜を防いだり、その人物を擁護する立場にいる人 ( 弁護 士や親族など ) に取材することも欠かせないでしよう。名指しした相手が個人であっても、そ の所属する政党や組織、団体などの釈明や弁明が必要です。かりに個人の責任においてやった 行為にせよ、その人物の任用・監督責任が問われたり、結果として所属団体の信用失墜を招く こともあるからです。 もし取材源が公権力であったとしても、その報道の責任をすべて公権力に帰すことはできま せん。たとえば警察や検察の担当者が、ある参考人について、疑惑を語ったとしましよう。結 果としてその指摘が間違いだった場合、「公権力がそういったから」という言い訳は、誤報を 免責する釈明にはなりません。法的には「真実と信じるに足る相当の理由」があれば「名誉棄 損罪」にはなりませんが、報道する道義的・職業的責任からいえば、大きな過ちを犯したこと になるからです。取材源から独立して責任を取るためには、徹底してある情報の「ウラ」を取 る努力が欠かせない。それが第三の理由です。 106
な考え方、哲学、価値観の違う世代が共存していかねばならない時代に入るのです。 構想力と分析力が問われる では、以上のような問題点を踏まえて、これからの革命時代に際しては、どのような心 構えで情報を扱っていけばいいのでしよう力不ー : ムよ、革命の時代だからこそ、旧来のメデ ィアで記者が果たしていた役割は、強まりこそすれ、弱まることはないだろうと考えています。 最も大切なことは、情報量が膨大になるほど、何が必要で役に立つ情報かを選別し、情報の 優先度に重みをつける役割が求められるということです。検索エンジンがどれほど便利になっ ても、検索で引き出される情報は、すでにウェップ上に入力され、しかも自分の関心度や、他 の人々の関心度の高い情報ということが多いでしよう。今はさほど関心はないけれど、その人る え 伝 にとって実は必須だという情報や、いずれは役に立つ情報、警告となる情報などもあります。 を しかし、「伝達装置」に裏打ちされていたかってのようなマス・メディアの権威や影響力は、報 これからはどんどん低くなっていくでしよう。権威を重んじる人はいまだに、「ウェップ上の 章 意見や感想は、ゴミのようなものだ」といいます。たしかに経験や学殖を重ねた批評家や評論 第 家にくらべれば、一人一人の「素人」の意見は、他愛ない独り言が多いように見えるかもしれ ません。しかし、専門家の「玉」と、素人の「石」を比べるのでは公平とはいえません。素人
士気を保っている」といった情緒的な報道しかできなくなってしまうでしよう。 第二は、「利敵行為」を防ぐための「検閲」が、「自軍に不利な情報」を遮断するための手段 に使われがちだということです。たとえば味方による残虐行為や国際法違反行為があったとき、 「敵のキャンペーンに利用される」とか、「味方の士気低下を招く」といった拡大解釈によって、 事実を隠蔽する場合がこれにあたります。 第三は、「検閲」が「軍は報道機関に事実を知らせ、報道する側は特定の事項に限って報道 しない」という一般原則を超え、軍が「報道機関に対して事実そのものを知らせない」とか、 「事実の公開を制御する」といった報道統制につながりかねない、という問題です。 第四は、「検閲」が批判を受けないまま浸透すると、その原則が内在化し、報道する側が当 局にいわれないまま「自主規制」をしがちになる、という問題があります。 む よ を 報 事前規制の注意点 情 こうした弊害を防ぐために、報道する側はいくつかのことを念頭に置く必要があるでしよう。 章 最も大切な点は、自分が誰のために情報を収集し、発信するのかという姿勢の問題です。これ第 は、新聞であれば読者、放送であれば視聴者であり、軍や情報機関とは違って、政府や当局が 顧客ではありません。フォークランド戦争にあたっては、自国軍を「我が軍」と呼ばず、
「のれん分け」をすることもあります。 ある時期にロンドン市長がユダヤ人問題で失言をして、大きな波紋を広げたことがあります。 その前には、ハ 丿ー英王子がナチス兵士の制服で仮装をして国際問題にもなりました。私は 「政治」のジャンルにあった「政治と一一一〔葉」のファイルから、「失一言」のファイルを「のれん分 け」し、そのファイルにロンドン市長と王子の仮装の記事を入れました。そうしてみると、こ れまでは見過ごしてきた関心領域がくつきりとした輪郭を結ぶようになり、それから後は、政 治家の失言に注目することが多くなったのです。政治家の発言は、社会のタブーに触れるから こそ、問題視されます。タブ 1 とは、ふだんは明示されず、その境を越えた時に初めてあらわ れる社会の禁忌といえます。外国人にはかんたんには見えません。だからこそ、特派員にとっ ては格好の素材であり、理解を深めるいい機会なのです。王室のスキャンダルを調べるうちに 私は、英国でも戦前、ヒトラーを賛美する貴族がおり、王室の一部にも、その動きを見せた人 物がいたことを知りました。そうした背景があったからこそ、英国王子の悪ふざけが欧州全体 に想像以上の波紋を広げたのです。 私がファイルを作った理由は三つありました。第一は、ファイルに記事を分類する場合、あ る程度は記事を読まざるを得ません。概要を把握しなければ、そもそも、どのファイルに入れ るか決められないからです。六紙を毎日読み続けるために、自分へのプレッシャーとして切り
からないことになる。次の分析で精度を高めるには、自分の情報分析力の欠点を自覚する必要 がある。そのためには、無理とわかっても、自分で一定の結論を出しておいた方がいい」 田岡さんはそういいます。この場合、その結論を出すにあたって自分が判断した理由、論拠、 そのもとになる事実や情報を、箇条書きに列挙しておくことが大切だといいます。そうしてお かなければ、後で結論が間違っていた場合に、 1 「正しい情報はあったのに、見過ごしていた」 2 「正しい情報はあったのに、評価が誤っていた」 3 「間違った情報をもとに判断していた」 4 「そもそも情報が取れていなかった」 など、それぞれ判断を誤った理由が、わからなくなるからです。つまり、結論にいたる判断 のプロセスをあらかじめ記録し、あとで検証することが大切なのです。正しい情報があったな ら、分析や評価のレベルで欠陥があったわけですし、情報が誤っていたり、もともとなかった りした場合は、情報収集のレベルで問題があることがわかります。このように、次のステップ に向けて分析の精度をあげるには、どこに問題があるのかをまず把握することが近道になりま 132
ただし、一部雑誌が煽る「売らんかな」のスキャンダルや、業界が裏で仕掛ける疑似医薬品 や健康食品、ダイエットなどの「流行」に、うかうかと乗せられてはいけません。そうした広 告や、広告とすれすれの記事が載り始めると、雑誌は媒体としての勢いを失っていることが多 一般の記事も、みるみるうちに痩せ衰えてしまいます。 「からくり」を知るプロセス ここで、私が八七年の家庭面企画「根ほり葉ほり」に書いた記事、「同じサイズで、なぜ洋 服が体に合わないのか」を引用します。これは、暮らしの中の小さな疑問を記者が解いてみる、 という趣向の企画でした。少々長いのですが、「からくりの奥」を取材する一例としてご参考 にしてください ( 取材相手は記事に実名で掲載しましたが、月日が経ったので、匿名にします ) 。 かねてから疑問に思ってきたことの一つに、既製服のサイズの問題がある。 「つるし」が、体に合わないのである。自分のひが目かと思って同僚に尋ねると、待ち構 えたように衣料サイズへの不満が出てきた。 ( 日本工業規格 ) の規格から一部、も しくはほとんど全部外れている、というのだ。しかも、同じサイズなのに、メーカーによ って著しく大きさが違う。これは、何か、問題があるのではないか。自分のサイズを棚に 164
ました。 第四は、デジタル・デバイドの問題です。これはふつう、デジタル技術を使える人と、使え ない人の格差を指す一言葉ですが、私はむしろこの言葉で、「デジタル以前を知る世代」と、「デ ジタルしか知らない世代」の断絶を指摘したいと思います。 〇五年秋にのリチャード・サムプロック前報道局長と会って、記者教育の話をうかが ったことがありました。その際に報道局長が、「昔のやり方を押しつけても効果はない。私た ちはデジタル移民だが、彼らはデジタル原住民なのだから」と語ったのが印象的でした。 デジタル技術が浸透する以前は、コミュニケーションは対面が基本で、電話はその補完手段 にすぎませんでした。私が記者の仕事を始めたころは、電話で取材先に話を聞こうとすると、 「そんな暇があったら、直接会、 しにいけ」とデスクや先輩から怒鳴られたものです。見す知ら ずの人間に電話で本音を話す人はいない。直接会えば、その表情や仕種で、電話では得られな い多くの情報が得られる、という理由からでした。まして、メールで初対面の人に連絡をとっ たり、取材をしたりなどということは、当時はまったく考えられないことでした。 しかし、対面コミュニケ 1 ションが主で、デジタルが従という世代とは違って、デジタルの コミュニケ 1 ションが主という世代が主流になれば、こうした考え方にも変化が出てくるに違 いありません。いすれがいいか、という問題は別として、コミュニケーションに対する基本的 238