謡曲集 四番目物 雑物 ( 狂 ) 五番目物 切能鬼物 ( 鬼 ) 右のように三通りの基準による名称が存し、内容を略称して「神・男・女・狂・鬼」と言ったりする。これらの言い方は並存して いるが、ふつうは太字で記した名称を用いているので、本書もそれにしたがうこととし、五分類法に基づいて所収各曲を配列した。 この第一冊には、脇能・修羅物・鬘物および四番目物の一部を収める。以下、各類について略記しておく わきのう おきな 初番に置かれる曲は脇能とよばれる。神をシテとするものが多い。脇能という名称は、「翁」に続いて演ぜられるからともいい 「翁」を第一の役者が演じ、それに次ぐ第二の役者 ( ワキの為手 ) がこれを演じていたことから出たともいうカ ・、、よっきり・したことは * 、るが・、 たかさ′一 おいまっ わからない。ただ、すでに世阿弥の時代にこの類型は成立しており、「脇の申楽」「脇の能」とよばれている。「高砂」「賀茂」「老松」 つるかめ いわふね 「鶴亀」など祝言を主眼とするもので、大半は夢幻能形式である。なお、前述の正式な番組の最後につけられる祝言の能は、「岩船」 くれは 「金札」「呉服」など夢幻能形式の脇能の後シテの部分だけを演ずる。 二番目に置かれる曲は武将をシテとする。これらは修羅道に堕ちて苦しむ場面を描いた曲があるので修羅物とよばれる。現行曲は、 ともえ 「田村」を除けばすべて源平の武将がシテで、「巴」のように女武者をシテとするものも存する。大半は典型的な夢幻能形式である。 かつらもの 三番目に演ぜられるのは女性をシテとするので鬘物と呼ぶ。原則としてシテは優美な舞を舞う。「熊野」「大御幸」「関寺小町」 はごろも のような現在能や、「羽衣」のように夢幻能といいにくい曲もあるが、多くは典型的な夢幻能形式である。 よばんめもの ぞう 四番目物は、他の四類に人れこ くいものを集めた観があり、雑の能とでもいうべきものである。「神・男・女・狂・鬼」というけ うんりんいん さいよう早、くら かげつ れども、物狂の能だけではなく、「雲林院」「西行桜」のような三番目物に準ずる曲、〔神楽〕を舞う「三輪」のような曲、「花月」 あしかり う・とう かよいこまち きめたこいのおもに まくらじどう かんたん あおいのうえ 「蘆刈」のような遊狂物、「通小町」「善知鳥」などの執心物、「砧」「恋重荷」などの怨霊物、「枕慈童」「邯鄲」「葵上」「卒都小 まち じねんこじ あたか こそでそが ようちそが かげきょ しゅんかん 町」「自然居士」「安宅」「小袖曾我」「夜討曾我」「景清」「俊寛」などさまざまな曲がこれに含まれる。その多くは現在能である。 きんさっ たむら ものぐるい しんなんによきようき しゆらもの みわ 0 せきでらこまち
謡曲集 のと同じ、 一以下は「夫無レ始輪廻以降、死レ此シテ气鳥の林に遊ぶに似たり。 生レ彼之間、或時鎮堕ニ三途八難之悪 ぜんじゃう 江口の君「鳥が林に遊ぶのに似ている。 趣一所」碍 = 苦患一而既失 = 発心之媒一或地謡前生また前生。 地謡「前世の前にはまた前世があり、 時適感二人中天上之善果「顯倒迷謬而 江口の君「ついに最初の世を知ることなく、 未」殖 = 解脱之種一先生又先生、都不」シテ气かって生々の前を知らず。 知二生々前一来世猶来世、全無レ弁二世 地謡「来世の後にもなお来世、まったく 世終こ ( 愚迷発心集 ) に基づく。 世の終りを知るということもない。 地謡气来世なほ来世、さらに世々の終りをわきまふる事なし。 ニ六道の中の人間・天上。 江口の君「あるときは善い果を受けて、人間 にん・チうてんじゃうぜんくわ 三うろたえて倒れ、心に迷いをもっ こと。 シテ气〈サシ〉あるいは人中天上の善果を受くといへども、 界や天上に生まれることがあるけれども、 四煩悩を離れること。 てんだうめいまう げだったね 地謡「そのときにも道理をあやまり煩 ( 江口の君 ) 五亡者が行くべぎ三つの途。火途地謡气顛倒迷妄していまだ解脱の種を植ゑず、 悩に迷って、悟りの因を作ることをせす、 五 六 ( 猛火に焼かれる所 ) 、血途 ( 互い さんずはちなん さん・つはつなんあくしゅ 江口の君「あるときは三途八難の悪道に堕ち、 に相食」む所 ) 、刀途を ( 刀・杖などシテ气あるいは三途八難の悪趣に堕して、 地謡 で強迫される所 ) の称。 くわんさ ほッしんなかだち ( 江口の君 ) 「その苦患にさまたげられて菩提 〈仏を見ることや法を聞くことを妨地謡患に障へられてすでに発心の媒を失ふ。 心を起こすきっかけをもち得ない。 げる八種の障難。地獄・畜生・餓鬼・長 もら・ろう ・鬱単越い・世 寿天・盲聾瘠痘、んあ 江口の君「ところでわたくしどもは、たまた シテ气しかるにわれらたまたま受けがたき人身を受けたりと 智弁聡・生在仏前仏後をいう。 ま、まれにしか得にくい人として生まれ 七悪事の報いによって死後に行く苦 ることができたのだけれども、 いへども、 しみの世界。 地謡「罪深い女の身として生まれ、こと ^ 苦しみ。なお、下掛系は「苦患」。 ためし 九「何況人身難」受、仏法難」遇」 ( 六地謡气罪業深き身と生れ、ことに例少き河竹の流れの女とな にまたそのなかでも数の少ない、罪のさ 道講式 ) 。人の身に生まれることは さぎ らに深い遊女の身となった、これは前世 容易にはあり得ないことというのが る、前の世の報まで、思ひやるこそ悲しけれ ( シオリをする ) 。 の報いであろうと、そのったなさまでも 仏教の考え方であった。 こうくわ あしたこうきんシう 思いやられ、まことに悲しいことである。 一 0 罪深い者。女人のこと。仏教で地謡气〈クセ〉紅花の春の朝、紅錦繍の山、よそほひをなすと くれない にしき は女は罪深いと説かれる。 地謡「紅の花の咲く春、朝は紅の錦に イふ・ヘくわうかうけっ ( 江口の君 ) = 浮き沈みの定めのな」遊女、の意。見えしも、タの風に誘はれ ( 立 3 、黄葉の秋のタ、黄纐纈飾られているかと見えた山も、夕方には あした 錦繍、天ニ当ッテハ遊織れしス碧羅 風に誘われて花は散り、黄葉の秋、タは の林 ( 扇でさしまわす ) 、色を含むといへども、朝の霜にうつろ 綾ら」 ( 和漢朗詠集・春興小野篁 ) 。 黄色のし・ほり染めのような林が、美しい 一五※ しゃうふうらげつ ひんかく 一三「纐纈」は古代に行なわれた絞染 めの名。林がもみじによ。て黄色にふ ( 下を見る ) 。松風蘿月に、言葉をかはす賓客も、去って来色を見せているけれども、朝には霜によ って色はあせてしまう。松に風が吹き、 染まった様子をいう。参考「黄纐纈 まくら すいちゃうこうけい ノ林 ( 寒ウシテ葉有リ、碧瑠璃ノ る事なし、翠帳紅閨に、枕を並べし妹背も ( 頭をさす ) 、 いっ月の光が蔦かずらの間から漏れてくるこ ざいごふ 一 0 いもせ かはたけ にんじんノ
謡曲集 四三四 ごらん もののあわれを感ずる折々には、好む道 よき女のなやめるところあるに似御覧候へ。 、おり すずり たり。・つよからぬは、女の歌なれば はばか とてこの粗末な庵の中で、硯をすって、 なるべし」 ( 古今・仮名序 ) に基づく。 シテ「いやいや老女が事は憚りにて候ふほどに ( ワキ〈向く ) 、思筆を染め、歌を書くのであるが、そのこ なお、「婦彎」は「をみな」の音便。 三一※底本は、以下一一行のせりふをワ とばもとだえがち。『しみじみと趣深い ひも寄らす候。 ( 正面を向く ) キツレとするが、現行観世流により ようであって強さに欠けている、強くな なに おんニ 改めた。なお、現行宝生流は、底本 いのは女の歌であるから』とかって評さ ワキ「 ( ワキは立って ) 何の苦しう候ふべき、ただただ御出で候へ と同じくワキツレ。下掛系はこのせ れたが、今はいよいよはなはだしく年老 りふなし。 とよ。 ( ワキは作リ物へ寄り、シテを立たせる。シテは扇を胸にさし、右 いた身であって、弱り衰えてゆく末は悲 一糸を竹にかけて願いをこめ。 手に杖を持って立っ ) しいことである。 ニ※下掛系は、「織る糸竹の手向草」 たなばた ニ※ いとたけたむけぐさ 住僧たちは小町を誘って七夕の祭りの関 と繰り返す。 三影のようにやせ衰える意。大和国地謡气〈上歌〉七夕の、織る糸竹の手向草、幾年経てかかげろ 寺にもどる。 吉野山中の地名「蜻蛉鑄の小野」によ 、ももとせ 児「申しあげます。七夕の祭りがおそくなり り「小野」の序ともなる。 ふの ( ワキはシテを作リ物より連れ出す ) 、小野の小町の百年に ( シ ます。老女をもお連れ申してください。 四※下掛系は「小野の小町が百年に」。 五二星の逢うこと。「天せは「及ぶ」 テは作リ物の前に立つ。ワキはワキツレの前に下がり着座する ) 、及ぶや住僧「もうし、老女、寺までお出かけになっ の縁語なので、「及ぶ」を受ける。 あまほしあひ そで あさごろも て七夕の祭りをごらんください。 うへびとな 「天っ星合の」は「雲」の序ともなる。 天っ星合の、雲の上人に馴れ馴れし、袖も今は麻衣の ( 左袖小町「いえいえ、わたくしのような者が参る 六粗末な着物。「あさまし」と重韶。 ことは遠慮すべきことでありますから、 を見つめる ) 、あさましゃいたはしゃ ( 杖にすがって着座する ) 、目 思いもよらぬことであります。 ありさま も当てられぬ有様。 ( ワキはシオリをした後、立ってもとの座にもど住僧「なんのさしつかえがありましようそ。 さあおいでになってください。 たなばた かんげん り着座する ) 地謡「七夕の五色の糸を竹にかけ、管絃の ( 住僧 ) 楽を奏して一一星に手向ける、その手向け 子方は立ってシテに酒をつぎ、続いて地謡に合わせて舞い、脇 も何年経たことか。小町もまた何年生き 座に着座する。シテは子方の舞に見とれている。 続けてきたのだろうか、かげろうのよう にやせ衰えた小野の小町の百歳にも達し てんじようびと 地謡气とても今宵は七夕の、 ( 子方は立 0 て扇を開き、シテに酒をつぐ。ようという姿。かっては殿上人となれ親 しんだ花やかな袖も、今は粗末な麻衣で、 かず シテは扇を開き、それを受ける ) とても今宵は七夕の、手向の数あきれるほどひどいこと、おいたわしい こよひ いくとしへ たむ
謡曲集 四〇四 みもすそがは 一五十鈴川の別名。「流れ」に子孫地謡气御裳濯川の流れには、波の底にも都ありとはと、これ天皇は『それではわかった』と、東にお あまてらすおおみかみ の意を含める。 さい・こ ちイろ たま 向かいなさって、天照大神においとまを ニ※下掛系は「続きて沈みしを」。 を最期の御製にて、千尋の底に入り給ふ ( シオリをする ) 。み 申しあげなさり、 , 「恥かしき」と、花帽子のたれてい る部分を両手で取ってシオリをする づからも ( 立 3 、続いて沈みしを ( 着座する ) 、源氏の武士取 ( 女院一「また十念をおとなえなさるために西 演出もある。 へお向かいなさって、続いて、 りようがんあ 《庵室留矼》の場合、シテは作リ り上げて、かひなき命ながらへ、再び龍顔に逢ひ奉り ( 法皇女院「『今そ知る、 みもすそがは 物の内へ入り、膝をついて、シオリ そで 地謡「御裳濯川の流れには、波の底にも都 をして留める。 を見つめる ) 、不覚の涙に袖をしをるそ恥かしき ( 右手で左袖を , 《寂光院》の場合は、「まことにあ ありとは』とお詠みになり、これを最期 りがたき事どもかな」以下終曲まで のお歌として、海底深くお入りなさる。 取ってシオリをする ) 。 じゅすい の詞章が、以下のように変わる。 わたくしも続いて入水したのであるが、 地謡气〈ロンギ〉げにいたはしき物語、 一同立ち、法皇・輿舁・ワキは退場する。シテは法皇を見送り、 同じくは先帝の、御ご最期語りお 源氏の武士が海から取りあげたので、生 シオリをして留める。 はしませ。 きるかいのない命をながらえて、ふたた おんなごり シテ問ふにつらさのまさり草、忘 びこうしてお目にかかり、覚えずこ・ほれ れんと思ふものを、何と問はせ給地謡气いつまでも、御名残はいかで尽きぬべき ( ワキ、法皇〈向 くわんかう る涙によって袖を濡らしてしまうとは、 ふぞ。 いて礼をする ) 、はや還幸と勧むれば、はや還幸と勧むれば ( 一 地謡气よしなや何事も、夕日かげろ 恥ずかしいことでございます。 ふ西の空、よし遠くとも一声の、 じゃッくわうゐんノい 時も過ぎ、法皇は還幸なさり、女院は柴 あんしつ 弥陀の称名時ぞとて、 同立 3 、お輿を早めはるばると、寂光院を出で給へば ( 法 の戸でお見送りの後、庵室にお入りにな シテ气〈一セイ〉笙歌遙かに聞ゅ、 っこ。 孤雲の上、 皇・輿舁・ワキ退場する ) 、 地謡气聖衆れ来迎す、落日の前。 にようゐんナしば 地謡「いつまでも、このような有様でお名残 シテ气ここも即ち、極楽の地ぞや、シテ气女院は柴の一尸に ( シテは作リ物の柱に手をかけて法皇を見送る ) 、 はどうして尽ぎることがあろうそ。『も 地謡气ここも即ち、極楽の地ぞや、 おんナんじっ シテ气己身の弥陀如来、唯心 3 」の地謡しばしが程は見送らせ給ひて、御庵室に入り給ふ、御はや還幸を』とお勧め申すので、廷臣が 浄土の、 ナんじっ 『もはやお帰りなさいませ』とお勧め申 地謡庭の植樹は、 庵室に入り給ふ ( シオリをして留める ) 。 したので、お輿を早めてはるばるの都へ シテ气七重宝樹、 の道にと、寂光院をお立ちなさると、 地謡气八功徳池鬱馭の、清き色の、 草木も異なり囀る鳥の、おのづ 「女院は柴の庵の門で、 から極楽の、仏法僧の、妙なる声 地謡「しばらくの間はお見送りなさって、や と、聞けば鐘の音ねも、ほのぼの がてご庵室にお入りなさる、お部屋にお と夜は明け、ありつる夢人蹣の、 帰るも知らずなりにけり。 入りなさったのである。 ごせい そで いおり によういん
しのぐるま一九 いつまであるが、汐の引いた跡に残っている溜り しのために涙によっても濡れると表忍び車を引く汐の、跡に残れる溜り水 ( 下を見る ) 、 現されることが多い。 水の澄んだままでいないように、いつま 当思ひを干さぬ心かな」でシオリを住みは果つべき。野中の草の露ならば ( シテは脇正面〈向く ) 、 でこの世に住み通すことができようそ。 する演出もある。 ひかげ 野原の草の露ならば、日の光によって消 一四「かくばかりへがたく見ゆる世の 日影に消えも失すべきに ( 見まわす ) 、これは磯辺に寄り藻掻 中にうらやましくもすめる月かな」 え失せるでもあろうに、こちらは浜辺に ( 拾遺・雑上藤原高光 ) による。 く、海人の捨て草いたづらに ( 正面を向く ) 、朽ちまさりゆく寄せる藻をかき集める海人でさえもが、 一五「住む」と掛詞。一六月の出とと 捨ててしまうような雑な海草と同じ身で、 ニ五※ もに満ちてくる汐。 一七この〈上歌〉の部分は『閑吟集』に袂かな、朽ちまさりゆく袂かな ( 面を伏せる ) 。 その海草がむなしくくさってゆくように、 採用されている。「影」は、水に映る わたくしの袂は涙で朽ちてゆくことだ、 〈サシ〉・掛合いの謡があって、地謡となると、シテは車へ近寄 影。一 ^ 忍び忍びに引く汐汲車。 涙によっていよいよ袂は朽ちてゆくこと り汐を汲む。〈ロンギ〉の掛合いの謡となり、その末尾で、シテ 一九「 ( 車を ) 引く」と「引く ( 汐 ) 」とを である。 掛けた。ニ 0 「澄み」と掛詞。 は汐汲車を引く。 三はかなく消えゆくもののたとえ な こゑ 二人の汐汲女は、気持を変えて、須磨の としてしばしば用いられるもの。 シテ「〈サシ〉面白や馴れても須磨の夕まぐれ、海人の呼び声 浦の景物を眺めながら、うち興じつつ汐 ニニ浜にうちあげられる藻。 おけ を汲む。そして折しも桶の中に映った月 ニ三海人でも捨ててしまうような藻。 かすかにて、 影もろともに車にのせて、家路につく。 自分の境遇のたとえ。一西「捨て草」 ニ九 の「面白いことだ、住みなれていてもこ と「袂」との両方に掛かる。袂が朽ちテ气冲に小さき漁舟の、影かすかなる月の顔、雁の姿や友汲女 の須磨の夕暮れは。海人の呼びかわす声 ちどりのわき , 「朽ちまさりゆく袂かな」でシオリ 千鳥、野分汐風いづれもげに、かかる所の秋なりけり、あ をする演出もある。 が遠くに聞こえ、 ニ五※下掛系は、このあとにシテの 汐汲女「沖には小さな漁舟の影がかすかに見 「月の夜汐を汲んで家路に帰り候は ら心凄の夜すがらやな。 ( シテ・ツレ向かいあう ) える。ほんのり浮かぶ月の形、雁の姿や 三四 ん」が入る。 しほごろも みぎはみちひ 群れをなす千鳥、野分の風といい汐風と 十「面白や」で始まるのでわかるようシテ气いざいざ汐を汲まんとて、汀に満干の汐衣の、 に、これからは気持が高揚して汐汲 、どれも皆、まことにこの須磨の浦 を楽しんでいるような趣がある。こツレ气袖を結んで肩にかけ、 の秋にふさわしいものばかり。ああおそ こまでの「憂き世の業」としての叙述 ろしいまでにさびしさの身にしみる夜で と対照的に作られている。 シテ汐汲むためとは思へども、 ニ六「 ( 馴れても ) 住む」と掛詞。 あること。 ニ七漁師が互いにかけあう声。「沖よ 渺如「さあそれでは汐を汲もうと、波寄せ ツレ气よしそれとても、 り舟どもの、うたひののしりて漕ぎ る浜辺に出て、汐汲み衣の、 行くなども聞こゅ」 ( 源氏・須磨 ) 。 をんなぐるま ニ ^ 「月の顔」「雁」「友千鳥」はいずシテ气女車 ( ツレヘ一歩出る ) 、 如「袖を結んで肩にかけ、 松風 こころすごよ 三五 くさ のなかニ一 イふ いそべ ニセ なが いさりぶね のわき
かすみ ツレは一ノ松、シテは三ノ松に立ち、向かいあって〈一セイ〉 姥「寄せる波は磯辺の霞に隠れ、 すぎうき さらえ みちひ を謡う。ツレは右肩に杉箒、シテは右肩に竹杷 ( 熊手 ) を担げる。 老人「波の音が潮の満干を知らせてくれるこ 続いて〔アシライ〕の囃子で、ツレは中央、シテは常座に行き、 とだ。 〈サシ〉以下を謡う。〈上歌〉の終りに、シテは中央へ、ツレは すみ 九「高砂の松」「高砂の尾上の鐘」は 老人「いったいだれを知り人としようそ。こ 角へ謡いながら行く。 ともに高砂の景物。↓注一一・五九ハー の年を経た高砂の松も、わたくしにとっ 注一一 0 。「春風」「暮れて」で、季節・ て昔からの友ではないのであって、 〔真ノ一声〕 時刻を示す。「尾」は山の頂きの稜線 老人「過ぎてきた年月はもはやわからぬくら の意。 ノテ气〈一セイ〉高砂の、松の春風吹き暮れて、尾上の鐘も、 一 0 「波」「磯」で海辺を示し、春の霞ツレ い久しく積み重なり、頭には雪のような のたちこめた中に波の音のみ断続し 白いものが積もり積もって老人となり、 ありあけ て聞こえる光景を描き出す。 響くなり。 老鶴のねぐらに残る暁方、空には有明の = 「誰をかも知る人にせん高砂の松 一 0 かすみいそ 月の残る春の霜夜に起きたときにも、松 も昔の友ならなくに」 ( 古今・雑上藤ツレ波は霞の磯がくれ、 原興風 ) を引用して、自らの長寿の おと しほ 吹く風をのみ聞きなれる境遇。ほかに話 シテ 述懐とする。 ~ \ 音こそ潮の、満干なれ。〔アシライ〕 ( シテは竹杷を肩より下 相手もなく、わが心を友として、思いを 三「 ( 世々は ) 知らす」と掛詞。「白 述べるばかりである。 雪」を白髪のたとえとして、次に続 ろし右手に持っ ) ける。 老人「訪れるものは、松に吹いて音立てる浦 たれ 一三上句を「老」で受ける。「鶴」は シテ〈サシ〉誰をかも知る人にせん高砂の、松も昔の友なら風ばかり。松の落葉のふりかかる衣の袖 「白」と連想が通う。参考「高砂の松 ほうぎ のねぐらや折れぬらん雪の夜鶴の浦 を添えて箒を持ち、木陰の塵を掻こうよ、 に鳴くなる」 ( 壬二集藤原家隆 ) 。 木陰の松の落葉を掃こうよ。 一四「 ( ねぐらに ) 残る」「残る ( 有明の 老人「ここは高砂、ここ高砂の尾上の松も年 月 ) 」と上下に掛かる。 ( 向かいあって ) 過ぎ来し世々は白雪の、積り積りて老の鶴姥 を経て、老木となったことだ。この老松 一五「 ( 心を友と ) す」と掛詞。「延ぶ しもよ まっか・せ 一四ありあけ を」の縁語で、「述ぶる」の序となる。 の下陰の落葉を掻くわれらも寄る年波、 の、ねぐらに残る有明の、春の霜夜の起居にも、松風をの 「菅筵」自体は意味をもたない。前後 このようになるまで命ながらえて、これ すがむしろ の句をなめらかにつなぐためのもの。 み聞き馴れて、心を友と菅筵の、思ひを述ぶるばかりなり。 からさきいつまで生きることだろうか。 一六「待っ」を掛けていると考えられ - 」し」と おちばごろもそで そういえば『生きの松』というのも、こ る。待っていても、訪れるものは松シテ レ〈下歌〉おとづれは、松に言問ふ浦風の、落葉衣の袖添 吹く風ばかり、の意。 の高砂の松同様、年久しい名所である、 こかげちり 一七風によって松葉が落ち、衣にふ これまた古くから名高い松である。 へて、木蔭の塵を掻かうよ、木蔭の塵を掻かうよ。 りかかる、その松葉のふりかかった 神主が問いかけて問答になり、相生の松 とし 袖を箒の柄にさし添えて、の意。 のいわれが述べられ、御代をことほぐこ 入「高砂の松」の木陰。 冖〈上歌〉所は高砂の、所は高砂の、尾上の松も年ふりて、 五五 砂 シテ で、 ちひ こ しらゆ、 おきゐ の をのヘ あかつぎがた そで
たれつげ な」 ( 続千載・恋一一藤原忠定 ) 。なおシテ气灘の汐汲む憂き身そと、人にや誰も黄楊の櫛。 汲 3 「その伊勢の海の一一見の浦の名のよ 九※下 「雄島」は松島湾内の島の一。 うに、ふたたび世にも出たいもの。 掛系は「をしまぬ海人の月をだに」。地謡气さし来る汐を汲み分けて、見れば月こそ桶にあれ。 ( ッ 女「松がむらがって立ちそろう姿が・ほん かす 十『申楽談儀』に、「このろんぎ、昔の やりと霞んでいる春の日、汐の道筋のか 『藤栄』のろんぎなり」とある。「浦づ レは車に寄り、桶を車にのせる ) なるがた くし」の形であり、汐汲みのための、 なた遠くに見えるのは鳴海潟。 おわり 地謡 一種の労働歌と考えてよい ( 汐汲女 ) 「それは尾張の鳴海潟のこと、ここ シテ气これにも月の入りたるや ( シテ、車へ近寄り桶を見る ) 。 なるお 一 0 「松島」の縁から「陸奥の千賀の塩 ひきひも は津の国の鳴尾。この鳴尾の松陰にある、 竈」と続けた。「近」の意を含ませて 「遠き」と対させている。「千賀の塩地謡气うれしやこれも月あり ( ツレはシテに車の引紐を渡して常座に立 月の光のさし入るのがさまたげられて、 あしぶ 竈」は宮城県塩竈市。松島湾の西南 ぐあいのわるい蘆葺きの家。 の浜。源融が都六条河原の院に塩竈 3 。 汐汲女「ここ蘆屋の里の灘で汐を汲むつらい の景を模して庭を作ったことは有名 である ( 謡曲「融」 ) 。なお「塩竈」は、 境遇にあることを、だれも人に告げては シテ气月は一つ ( 空を見あげる ) 、 以下の「賤」「塩木」「汐」と頭韻。 くれまい 一一賤しい海人。三海水を煮「め地謡气影は二つ ( 桶を見る ) 、満っ汐の、夜の車に月を載せて ( 紐地汲」「満ちて来る汐を桶に汲んで、見る て塩をつくるために燃やす木。 と月が桶の中に映っている。 一三三重県津市阿漕町のあたりの海 シテの 岸。伊勢神宮の神饌のための漁場でを引いて大小前へ行きかかり、車をふり返って見る ) 、憂しとも思は 汐汲女「こちらの桶にも月が入っている。 あった。「伊勢の海あこぎが浦に引 ( 汐汲如 ) 「うれしいこと、ここにも月がある。 く網も度重なれば人もこそしれ」 ( 源ぬ、汐路かなや ( 大小前で立ちどまり、。紐をはなす。後見、汐汲車を、 , テ 0 「月は一つだが、 名で、謡曲「阿漕」が作られている。 地謡「その影は二つある。汐の満ちて来 かたづける ) 。 なお「阿漕が浦」の古歌には「塩木」の しようぎ た夜に、汐汲車に月をのせて、この仕事 詠み込まれているものが多い。参考 シテは大鼓の前で床儿に腰をかける。ツレはシテの右後方に着 をつらいとも思わず、汐水を運ぶことだ。 「冬深ぎ阿漕の海人の藻塩木に雪積 座する。ワキは脇座に立ち、シテ・ツレに問いかけて、問答と みそへてさゆる浦風」 ( 続千載・冬津 帰宅した一一人の女に旅の僧は一夜の宿を なる。許しを得て、ワキは塩屋に入った態で着座する。 守国助 ) 。一四前掲の歌の「引く網」 乞い いったんは断わられるが、許され あるじ て家に入る。 を転じて「引く汐」とした。一 = 三重ワキ「塩屋の主の帰りて候。宿を借らばやと思ひ候。 県度会郡一一見町。日の出の名所。 旅僧「塩屋の主人が帰って来ました。一夜の 頭韻により「一一度」の序の形となる。 ワキ「いかにこれなる塩屋の内へ案内申し候。 一六「たまくしげ一一見の浦の貝しげみ 宿を借りたいと思います。 たれ まきゑにみゆる松のむら立ち」 ( 金 旅僧「もうし、この塩屋の方へご案内申しま ツレ「 ( 脇正面へ出て ) 誰にてわたり候ふそ。 葉・雑上大中臣輔弘 ) によって「松 す。 のむら立ち」と続けた。一七「 ( 遠く ) いッけん いちゃ なる」と掛詞。今はすっかり陸地にワキ「これは諸国一見の僧にて候。一夜の宿を御貸し候へ。 村雨「どなたでいらっしゃいますか。 松風 なだ よる おん くし シテの
謡曲集 と謡の詞章とによって、装置のまったくない舞台の上にその場の情景をあらわしてゆこうとするのである。月ノ扇は、扇を左肩にあ てて右上を望むものであるが、月を見るという行為によって月の存在をあらわす。シオリは演技する者のその行為に焦点があてられ ていたが、叙景的な型は、月を見るという行為のみに中心があるのではなく、月を見ることによって、舞台に月の光がさしてこなけ ればならない。月ノ扇という型は、それだけでは月を見るのか花を見るのかわからないが、謡の詞章に助けられて、あるいはその具 現として、行為を示すばかりでなく情景をも描き出すのである。 うち これらのなんらかの意味で具体的な内容をもっている型がある一方、まったく具体性をもっていない抽象的な型がある。左右・打 込・ヒラキなどがそれである。しかし、これらの型であっても、場合によっては具体的な内容をもっことがある。足拍子を踏むとい うことは、抽象的な型として舞のなかで多くみられるものであるが、ときには、舟に乗ることをあらわしたりもする。脇能の後シテ が終末において必ずする両袖を巻きあげる型などは具体的な意味をもっていないともいえるが、また、両手をかかげることによって 神の威力を強調しているのだともいえよう。シテが、一歩前へ出る、一歩後へ下がる、この一歩のうちにシテの想いが深くこめられ ている場合もあるのである。 居グセと呼ばれているものがある。脇能の前の場などにみられるもので、前述の舞グセと反して、〈クセ〉の謡われている間、シテ は舞台中央に着座してほとんど動かない。 これも一つの型であり、演技である。目でみえる演技というものがなくても、能では演技 をしているのである。世阿弥は、このような場合にも心が演技をしているのだといっている ( 『花鏡し。心の働きに重点をおいた場合、 写実的な型は無限の可能性をもたないがゆえに、むしろ、しないほうがよいということにもなるであろう。能には、古く写実的な演 技が多く存したと思われるのであるが、それを次第に抽象的な型に圧縮してきた傾向がある。これを単なる様式化とみることはでき 心に十分に演技をさせるために、具体的な意味をもっていない型に、演技を集約してきたとすべきであろう。その極限におい て、シテは動かないのであって、ただ着座しているのではないのである。 こみ み、ゆう
謡曲集 のアイは、いわばシテ・ワキと対等の形で行動し、それらと融け合ったような姿を示しているが、やや後の時代の作品である「安 ころもすずかけ たか 宅」などでは、作者はアイの効果を計算して用いていると考えられる。「安宅」において、「旅の衣は篠懸の、旅の衣は篠懸の、露け そで き袖やしをるらん」という〈次第〉に続けて、アイの強力が「おれが衣は篠懸の、破れて事や欠きぬらん」と地取の形で謡うことな どは、その一例といえるであろう。 - 一うけん 囃子の役については、「役者」「囃子」の項で略記した。以上の役のほかに後見も一役といえよう。舞台後方の後見座にすわる後見 かつらおけ の役はシテ方から出る。シテの後見だからである。舞台上でシテが扮装を替えるときにはその世話をし、腰かけるときには葛桶を持 って出る。作リ物の出し人れも後見の役である。また、万一、舞台上でシテに事故のあった場合、紋服のままシテに代わって舞い続 もみじがり けるという重い役目ももっている。「紅葉狩」のような特殊な曲ではワキの後見も出るし、それぞれの囃子方の後方に着座している どうじようじ のは囃子の後見である。「道成寺」の場合には、鐘を持ち出すときにアイの後見も出てアイに助力する ( 上掛の演出のときは、狂言方の後 見が鐘を吊りあげる ) 。 小書とは、個々の曲において特別の演出をする際の表現である。番組において曲名の左側に小さくしるすところからその おいまっ こうばいどの すいはのでん たか * こ一 名が出た。「高砂」の《八段之舞》、「養老」の《水波之伝》、「老松」の《紅梅殿》などがそれで、かなりの曲に存し、「熊 すみつのでん むらさめどめ しつこう よみつ筆のでん 野」の《村雨留》《膝行》《読次之伝》《墨次之伝》のように、一曲にいくつもある場合もある。これらの小書の生じた理由には、大 別して三つのことが考えられる。すなわち、①能の演出がいちおうの固定をみたとき、多様な演出の一つを定式として、他を小書と したこと、②能の演出を整備したとき、類同化がはかられ、それからはずれたものを小書として残したこと ( 《古式》という小書が金剛 どうじようじ もちづき つねまさ 流の「経政」「道成寺」、観世流の「望月」に存する ) 、③能の演出が整備された後に、変化を求め工夫をして新しく小書を作ったこと、の 。また、流儀によって有無の別があ 三つである。ただ、現存する個々の小書がそのいずれに属するかの判定は必ずしも容易ではない り、同類の演出を流儀によって別名で呼ぶこともある。また「高砂」の《八段之舞》 ( 観世流 ) は、名称のとおり舞が変わるだけではな ようろう かみがかり じとり
謡曲集 いや自らの行動について、述べたり謡ったりする。いわば舞台背景その他を役者が説明しつつ、「劇」が進行するのである。このよ うな脚本の形式は、この能舞台形式に密着したものであり、たとえば、いわゆる額縁舞台は能の上演に適当であるとはいえない。歌 舞伎が能舞台の襲用から始まり、観客席との間の引幕を考案し、背景を用い、廻り舞台やせりあげなどを工夫してきたのに対し、能 がこの能舞台を保持し続けてきたのは、その脚本形式がすでに固定していたためである。 かた 能の役者はシテ方・ワキ方・狂言方・囃子方の四つに分けられ、それぞれ自分の専門とする分野のみを演ずることになっ 役者 ている。本書で、シテ・ツレ・子方・地謡と記した役を演ずるのがシテ方であり、ワキ・ワキツレと記した役を演ずるの こつづみおおつづみたいこ がワキ方、アイと記した役を演するのが狂言方である。囃子方は笛・小鼓・大鼓・太鼓の四役に分かれ、この四役も分業になってい はかま て他の役を兼ねない ( これらのうち、囃子の役と地謡の役とは紋付・袴の姿で登場する ) 。 これら各役の分業は、江戸時代に能役者の身分制度が確立するとともにいよいよ確固たるものとなったのであるが、それ以前にも しゅどうしょ とうりようして いちおうは分業になっていたようである。世阿弥の伝書の一つである『習道書』は、棟梁の為手・脇の為手・鼓の役人・笛の役者・ めいしよう っちだゅう 狂言の役人と分けてその心得について記しており、「名生と申す笛の上手」や、狂言の名手「昔の槌大夫」について言及している。 さるがくだん しかし、一方では、世阿弥のシテ・観阿弥のワキで「たうらうの能」が上演されており ( 『申楽談儀』 ) 、また観世小次郎信光は大鼓の さかのば 名手でありながらワキ方としても活躍したと伝えられているのであって、室町時代、さらには観阿弥・世阿弥の時代にまで遡れば、 他の役を兼ねることはかなり自由であったことがわかる。 さてこれらの役者は、それそれ分業であるとともに、そのシテ方・ワキ方・狂言方・囃子方 ( 四役 ) がまた流儀に分かれている。シ テ方の流儀は、江戸初期の元和年間に一流として認められた喜多流のほかは古く室町時代初期からの流れを伝え、ワキ方以下の流儀 の確立は主として江戸時代初期のころからである。現存の各流派名を示せば左のとおりである。 かみがかり ー ) もが者 ~ り シテ方観世・宝生・金春・金剛・喜多 ( 前二者を上掛、後三者を下掛という ) がくぶち