^ 静岡県清水市興津にある。 九※下掛系は「申すか」。 にてあるそ。 里はどこか、どこの国の者なのか。 するが くにきよみ せぎ 母「わたくしはの国清見が関の者であ シテ「これは駿河の国清見が関の者にて候。 ります。 なにノ 千満「なんだって、清見が関の者と申します 子方气何なう清見が関の者と申し候ふか。 、刀 ものおほ シテ「あらふしぎや、今の物仰せられつるは、まさしくわが子母「ああふしぎなこと、今ものをおっしゃ せんみつどの一 0 め・つらざうらふ ったのは、たしかにわが子の千満殿であ の千満殿ごさめれあら珍しゃ候 ( 子方へ一歩出る ) 。 るようだ。おお珍しいことであります。 そこっ 住僧「待たれよ、この狂女は軽はずみなこと ワキ「しばらく。これなる狂女は粗忽なる事を申すものかな。 を申すものだ。だからこそ物狂でありま す。 さればこそ物狂にて候。 もの くる 母「もうし、わたくしは何も狂ってはいない 一一※下掛系は「あの児ゅゑなれば」。 シテ气なうこれは物には狂はぬものを。物に狂ふも別れ故、 ものを、物狂になったのもわが子に別れ たからで、会ったときにはどうして狂い 三※下掛系は「まさしくわが子にて逢ふ時は何しに狂ひ候ふべき。これはまさしきわが子にて 候ふものを」。 ましようそ。これはまさしくわが子であ ります。 候 ( 子方のほうへ行きかかる ) 。 従僧「やはり物狂なのだ、それでわが子など 一 = わけのわからぬことを申します。ワキツレ「さればこそわが子と申すか筋なき事を申し候。急い と申すのか。わからぬことを申す者であ ります。早くここを退きなさい。 で退き候へ ( ワキツレ立ってシテを押しのける。シテは下がって着座す 千満「ああ悲しいこと、そのようにお打ちく る。ワキツレも着座する ) 。 ださいますな。 おんヌ 住僧「驚き入ったこと、もはやお顔の色には 子方「 ( ワキツレヘ向いて ) あら悲しやさのみな御打ち候ひそ。 つきりとあらわれなさいました。この上 ごんごだうだん たま はすなおにお名のりなさいませ。 ワキ「言語道断、はや色に出で給ひて候。この上はまっすぐに 千満「今は何を隠そうそ。わたくしは駿河の おん ひとあきびと 国、清見が関の者であったが、人商人の 御名のり候へ。 手に渡り、今はこうしてこの寺にいるも 子方气今は何をかつつむべき、 ( ワキ、着座する ) われは駿河の国、のの、母上がわたくしをお尋ねなさって、 四九九 一 0 「にこそあるめれ」の転。 の 九※ 一一※ゅゑ ものぐるい せんみつどり
一四※以下、ワキ・ワキツレのせりふ は下掛宝生流による。 づ行きて ( 居立 3 、あれにて待ち申さんと ( 扇で住吉のほうをさ代に住みたいと思うのだ。まずわたくし は住吉に行って、あちらでお待ち申そう、 をぶね イふなみみぎは し示す ) 、タ波の汀なる ( 立 3 、あまの小舟にうち乗りて ( 足拍子 と老人は言って、タ波の寄せる浜辺にあ おひか・せ る、漁りの舟に乗って、追風に舟をまか を踏む ) 、追風にまかせつつ ( 両袖を広げ帆をはる型をして、足早に せて、沖のほうに出ていった、沖のほう 一三※かた に出ていってしまったのだった。 一三※下掛系は「沖の方へ出でにけり常座へ行く ) 、沖の方に出でにけりや、沖の方に出でにけり。 や」。繰返しも同じ。 ( 中入する。続いてツレも入る ) 高砂の浦の者が呼び出され、神主に対し て相生の松のことなどを語り、神主から 事の子細を告げられて、自分の新造の船 、つける。ワキ ワキはワキツレにアイの所の者を呼ぶようにいし に乗って住吉に行くことを勧める。 ツレは常座へ行きアイを呼び出す。アイは中央に着座して、ワ キの尋ねに応じ、高砂住吉の松のいわれ、高砂の明神と住吉の 明神とが一体分身であることを語り、住吉参詣を勧め、新造の 舟の乗り初めを頼んで狂言座に退く。 たれ ワキ「いかに誰かある。 ワキツレ「 ( ワキに向かい ) 御前に候。 たううら ワキ「当浦の者を呼びて来り候へ。 かしこまッ ワキツレ「畏って候。 ( 立って常座のあたりへ行き ) 当浦の人のわたり候ふか。 アイ「 ( 狂言座で立ち、一の松で ) 当浦の者とお尋ねある。まかり出で御用を承らばやと存ずる。 ( ワキツレに 向かって ) 当浦の者とお尋ねよ、、、 冫し力やうなる御用にて候ふそ。 きたツ ワキツレ「ちと物を尋ねたきよし仰せ候。近う来って賜り候へ。 アイ「畏って候 ( アイはワキツレに従って舞台に入る ) 。 ワキツレ「 ( ワキの前で ) 当浦の者を召して参りて候。 アイ「 ( 中央で座し、ワキに向かって ) 当浦の者御前に候。 かんぬしともなり キうシうひご あそ ワキ「これは九州肥後の国、阿蘇の宮の神主友成にて候。当浦初めて一見の事にて候。この所において高 砂の松の講れ、語って聞かされ候へ。 一五※以下のアイのせりふは山本東本 による。 三「 ( 待ち申さんと ) 言ふ」と掛詞。 高砂 一四※ おんまへ いッけん
- 一うじじレ第・ 「小牛尉」ともいう。脇能 けしん において、神の化身が老人 の姿で現われる場合に主と して用いられる面である。 老人をあらわすもののなか では最も品格のある面で、 装束も白大口をつけて品位 を強調することになってい たかさ′」 る。 ( 「高砂」前シテ ) かんたんおとこ 甘鄲男 颯爽と〔神舞〕を舞う青 年の神をあらわす面である。 かんたん 能「邯鄲」の専用面であっ たが、江戸時代の初めころ から、それまで青年の神の 場合に用いられていた「三 かづき 日月」などに代わって脇能 でも使用されるよ、つになっ た。 ( 「高砂」後シテ ) 小こムヒ ワキの大臣 脇能のワキ・ワキツレの 大臣である。着座している あわせ のがワキツレで、朱地の袷 かりぎぬ 狩衣を着用しているので、 俗に赤大臣といわれる。ワ キとワキツレとは、装束の 形は同しでゞも、このよ、つに もんよう 色や文様などによってはっ きりと区別されている ( 「高砂」ワキ・ワキツレ )
九※以下一一行、下掛宝生流による。 ワキは右肩をぬぐ。ワキのせりふがあった後、シテは、笠を取 はなかなか危険な場所であります。気を り、舟に乗った態で脇座前に着座する。ワキツレもシテのうし つけて静かにしておいでなさい。 さお ろに着座する。ワキは地謡座前で棹を持って立ち、〈語リ〉とな 渡し守「さきほどの人も舟にお乗りなさい。 る。〈語リ〉の後、ワキ・ワキツレの問答があり、ワキツレは 旅人「承知いたしました。 脇座に着座する。 旅人「もうし、あの向こう岸の柳の木の下で、 人が多く集まっておりますのは、何事で ありますか。 ワキ「かかるやさしき狂女こそ候はね。急いで舟に乗り候へ。 渡し守「そのことでありますが、あれは大念 この渡りは大事の渡りにて候。かまへて静かに召され候へ。 仏であります。それについてあわれな物 語があります。この舟が向こう岸へ着き ワキ「最前の人舟に召され候へ。 ますまでの間、語ってお聞かせ申すこと ワキツレ「心得申し候。 にしましよう。 ワキツレ「なうあの向ひの柳のもとに、人の多く集まりて候ふ渡し守「さても去年一二月十五日、時も時、ち ようど今日に当たっております。人商人 は何事にて候ふそ。 が都から、十二三歳くらいの年ごろの幼 もの ざうらふ だいねんぶつ い者を買い取って、奥州へくだりました ワキ「さん候あれは大念仏にて候。それにつきてあはれなる物 が、この幼い者は、まだなれない旅の疲 語の候。この舟の向ひへ着き候はんほどに、語って聞かせれからか、たいへんにわずらって、今は 一足も歩けないといって、この川岸に倒 申さうずるにて候。 れ伏しました。それなのに、世間にはな ワキ「〈語リ〉さても去年三月十五日、しかも今日に相当りて候。んという不人情な者がおりますことか、 この幼い者をそのまま路傍に捨ておいて、 をさな ひとあぎびと 人商人の都より、年の程十二三ばかりなる幼き者を買ひ取商人は奥州へくだったのであります。そ おく れでこのあたりの人々が、この幼い者の 一 0 奥州。東北地方一帯。 って、奥へ下り候ふが、この幼き者いまだ習はぬ旅の疲れ 様子を見ましたところ、由緒ある者のよ = わずらって。病気になって。 ひとあし ほかゐれい うに見えましたため、いろいろと看病し 三この一句は、插入句のような形にや、以ての外に違例し、今は一足も引かれすとて、この で、話し手の気持を表わしたもの。 ましたけれども、前世からの宿命でもあ なさけ かはぎし 「なんぼう」は、なんという、の意。 川岸にひれ伏し候ふを、なん・ほう世には情なき者の候ふそ、ったのでありましよう、ただもう弱りに 五〇九 隅田 九※ びと ほど おうしゅう
わば無言の力がこの役に要求されているのである。 るけれども、これを軽く扱うことはできない。表面にはあらわれない、い 前にも触れたように、ワキは面をつけない。 したがって亡霊など異次元の存在にはならず、また、そのようなものに扮するシテと の間では正面から対立することがほとんどない。しかし、シテが同次元の人物である場合、すなわち現在能形式の能においては、ワ じねんこじ あたか キはシテと劇的対立をすることがある。「自然居士」や「安宅」などの場合がそれである。この種の能においてはワキも活躍すると どうじようじ すみだがわせったい いうべきであろう。また「隅田川」「摂待」「道成寺」などにおいては、ワキの〈語リ〉が重要な聞かせ場になっている。 しだいに役が固 当初は役としては別であっても役者としては分離せず、一人の役者がシテ・ワキの両方を勤めることもあったが、 定してきて、それそれ修行の力点が相違するようになると、ワキはワキ方の役者の専門となる。ワキは前述のように面をつけないの こそでそが で、女に扮することはできない。そのため、「小袖曾我」のように、戯曲上は曾我五郎・十郎の相手役であるその母の役をツレが勤 きよっね あわづのさぶろう め、ワキの役はないという曲も存する。「清経」はワキの淡津三郎が登場するけれども、シテの清経の亡霊の相手をするのは、ツレ わたなべのつな らしようもん の清経の妻である。またその反対に、「羅生門」のシテの鬼は一言も発せず、ワキの渡辺綱、ワキツレの源頼光その他によってこ いまぐまの たに第 : っ だんぶう の能は進行する。「檀風」「谷行」も前後を貫く戯曲上の主役をワキの帥の阿闍梨・今熊野の阿闍梨が演じている。「羅生門」以下は ならい ワキ方の重い習とされているが、これらの能のむしろ主役ともいうべき役をシテではなくワキが演じているのは、ワキ方の芸風が確 立して、その役がワキ方の演ずるのにふさわしい役とされた結果である。 たちもち ツレの役はシテ方から、ワキツレの役はワキ方から出て、それぞれシテ・ワキに随伴することが多い。太刀持の場合、トモと呼ぶ たちがしら たちしゅう こともある。また数人が一団となって登場するときは立衆と呼ばれる ( そのかしらを立頭という ) 。単独で登場するツレ・ワキツレもあ り、「大原御幸」の法皇はツレ、「隅田川」の旅人はワキツレというように、それそれの扮する役によってツレ・ワキツレの別を立て ている。なお、子方もツレの一種といえよう。シテ方から出るのが例で、子供が演する役である。もとより、その役の人物が子ども ふなべんけい はながたみ である場合が多いが、「花筐」の天皇、「安宅」「舟弁慶」の義経のように、大人の役に扮することもある。 解説 おはら 1 一こう そっあじゃり みなもとのらいこう 二九
謡曲集 アイは、ワキとともに登場する場 合と、〈上歌〉で登場する場合とある。 どちらも狂言座で着座している。 〔次第〕の囃子で旅僧の姿のワキ・ワキツレ登場。正面先に向か 東国方面より旅をして来た僧が、花の都 いあって〈次第〉を謡う。ワキは正面を向き〈名ノリ〉を述べ に着き、東北院の今が盛りの梅の名を門 る。ふたたび向かいあって〈上歌〉を謡う。〈上歌〉の末尾でワ 前の者に尋ね、和泉式部という名だと教 キは歩行の態を示した後、正面を向ぎ、〈着キゼリフ〉を述べる。 えられる。 ワキツレは地謡座前に着座する。ワキは常座〈行き、アイに声「年が改ま 0 てふたたび春となった、新 をかける。アイの東北院門前の者は一ノ松に立って、ワキの尋 たに年の始まるこの春、花の都に急いで ねに応じた後、狂言座に着座する。 行こう。 〔次第〕 旅僧「わたくしは東国方面より出て来た僧で とした あります。まだ都を見ておりませんので、 キ「〈次第〉年立ち返る春なれや、年立ち返る春なれや、 一「 ( 年 ) 立ち返る」と「立ち返る ( 春 ) 」ワキツレ この春思い立って都にの・ほります。 と上下に掛かる。 かすみ 三※ ニ「都」の美称。「花」は「春」の縁語。 旅臨「春になって霞も立っころ、霞の関を今 花の都に急がん。 三※下掛系は「のぼらん」。 朝通り過ぎ、霞の関を今朝越えて、果て 四近畿地方からみて東方の国々。 ワキ「〈名ノリ〉これは東国方より出でたる僧にて候。われいま はないといわれる広い武蔵野もやはり果 のぼ てがあって、野を分け日を暮らしてゆく だ都を見ず候ふほどに、 この春思ひ立ち都に上り候。 うちに跡遠くなり、すでに遠くなった山 かすみせきけさ 五東京都南多摩郡多摩町関戸のあたワキ 气〈上歌〉春立つや、霞の関を今朝越えて、霞の関を今また山の雲の中を通ってきて、都の空も りという。「霞」は「春」「立つ」の縁語。ワキツレ 近づいてくる。やがて都と思うと、春で むさしの 六果てがないと聞いていたが、やは り果てはあ。た、の意。「武蔵野や朝越えて、果はありけり武蔵野を、分け暮しつつ跡遠き、 はあり、つらい旅までものどかに感ずる 行けども秋の果ぞなきいかなる風か ことだ、つらいはずの旅までものどかに 末に吹くらん」 ( 新古今・秋上源通山また山の雲を経て、都の空も近づくや、旅までのどけか 思うことである。 光 ) に基づく。 旅僧「急ぎましたので都に着きました。この るらん、旅までのどけかるらん。 梅を見ますと、今を盛りと咲いているよ うに見えます。おそらく名のないという ワキ「〈着キゼリフ〉急ぎ候ふほどに、都に着きて候。またこれ ンめ ことはありますまい。このあたりの人に なる梅を見候〈ば、今を盛りと見えて候。いかさま名のな尋ねてみようと思います。 従僧「それがよかろうと存じます。 セ※このワキツレのせりふ、およびき事は候ふまじ。このあたりの人に尋ねばやと思ひ候。 アイとの応対の部分のワキのせりふ 旅僧「東北院の門前のお方はおいでですか。 七※ッ は、下掛宝生流による。 ワキツレ「もっともにて候 ( 地謡座前に着座する ) 。 門前の者「門前の者とお尋ねになるのは、ど は六 て へ 四 とうごくがた かへ むさしの
謡曲集 くもかすみあととほやま 一「山遠ウシテ ( 雲行客ノ跡ヲ埋 ミ、ワキツレ〈上歌〉雲霞、跡遠山に越えなして、跡遠山に越えな旅人「急ぎましたので、ここはもはや隅田川 松寒ウシテ ( 風旅人ノ夢ヲ破ル」 ( 和 くにぐに ゅ いくせきぜき の渡し場であります。またあちらを見る 漢朗詠集・雲紀斉名 ) に基づくか。 して、幾関々の道すがら、国々過ぎて行くほどに、 ここ一て と、舟が出るようであります。急いで乗 詩意は、遠くの山のかなたへ去った 客人は、雲がその跡を埋めてしまっ ろうと思います。 名に負ふ隅田川、渡りに早く着きにけり、渡りに早く着き ており、松吹く風が寒いので、旅宿 旅人「もうし船頭殿、舟に乗ろうと思います。 の夢が破られていることであろう。 にけ・り 0 渡し守「どうそ、お乗りなさいませ。それに すなわち別れて行った人を思いやっ ている原詩に対し、ここでは、旅人 してもまず、おいでになったうしろのほ ワキツレ「〈着キゼリフ〉急ぎ候ふほどに、これははや隅田川の が自分自身のことを叙している。 、つ : カュー . し こ、へんざわざわしておりますの ニ「 ( 越えなして ) 行く」と掛詞。 は何事でありますか。 三相手のことばを受けて、「いうま渡りにて候。またあれを見れば舟が出で候。急ぎ乗らばや 人「はい、そのことでありますが、都から でもないこと」「もちろん」と肯定す おんなものぐるい るこし J 、は。 女物狂がくだって来ておりますが、た と存じ候。 四まず、そのことよりさきに聞きた せんどうどの いそう面白く舞い狂いますのを見ること いことは、の意。 ワキツレ「 ( 脇正面へ出て ) いかに船頭殿舟に乗らうずるにて候。 であります。 五あなたのこちらへ来られた、その 道の後方が、の意。 渡し守「そういうことでありますなら、しば ワキ「 ( 立って、ワキツレに向かい ) なかなかの事召され候へ。まづま 六おおいに。はなはだしく。 らく舟を留めておいて、その物狂を待と おん - 一 七「然さに候」の転。相手の問いかけ づ御出で候ふあとの、けしからず物騒に候ふは何事にて候うと思います。 を受けて、委細を説明する文を後に 続ける場合が多い。 渡し守「しばらくお待ちください。 ^ 「物狂」は、もの思いの種があって、ふそ。 旅人「承知いたしました。 そのため狂気となっている精神状態 ざうらふ をんなものぐるひくだ 一人の母親が東国に連れ去られたわが子 の異常な者、の意。能の「物狂」はさワキツレ「さん候都より女物狂の下り候ふが、是非もなく面 の跡を尋ね、物狂となって隅田川までや らに、これが芸能者という資格で行 動している。後に示されているよう って来る。 白う狂ひ候ふを見候ふよ。 に、「狂う」ことは見物であった。 母「まことに、『人の親の心は闇にあらねど 「狂う」とは、はげしく舞う状態をも ワキ「さやうに候はば、しばらく舟を留めて、かの物狂を待た も、子を思ふ道にまどひぬるかな』とい いう。心乱れた者のうつつない行動 は、はたの目から見れば正体なく舞 う古歌があるが、そのとおりで、親は子 うずるにて候。 い狂う姿なのである。このような点 ゆえに迷うということが、今こそわが身 を利用して、能は彼らの「物に狂う」 に思い知られることだ。道行く人に何と 姿を見せ場にしているのである。 ワキ「しばらく御待ち候へ。 ことづてをして、わが子の行くえをどの 九是も非もなく。むやみに。はなは ワキツレ「心得申し候。 ようにして尋ねたらよいのか。 お 七 ぶッさう 一 0 ※ 九 ・せひ 四 五〇四
謡曲集 四〇 となり、版を重ね、また多くの版元から各種のものが刊行された。謡を嗜む人々の増加を示すものである。なお、江戸時代以降の版 しもがかりけい 本の謡本の大半は観世流及びその系統のものであって、下掛系は少ない。 すうたい 謡本は素謡のための本であるから、能の台本としては不完全な点がある。アイの部分は原則として記されず、ワキの〈着キゼリフ〉 なども省略されているのがふつうである。ワキに対するワキツレの簡単な応答も省かれ、ワキ・ワキツレの担当の別も記されていな いことが多い。本書は次項で記すように、江戸初期の版本の謡本を底本とし、アイは明治初期に書写された大蔵流山本東本により、 ワキ・ワキツレについては現行下掛宝生流によって、その種の部分の補記を行なった。ただし、底本に存するワキ・ワキツレの詞章 はそのままにしたから、上演形態そのままとはいえない ( 能の際は、ワキ・ワキツレのことばはワキ方の詞章によって謡われる ) 。またアイ のことばは固定の時期が遅く、いちおうの固定をみた江戸時代以後でも、部分的削除増補などが行なわれてきているので、室町期の 姿をほば伝えている謡の詞章とは異なり、本書に記したところがそのまま室町時代の形態であるとは考えにくい。 本書所収の各曲の底本には、主として『寛永卯月本』を用いた。これは、 底本 右百番之本者観世左近大夫入道暮閑章句付以令加奥書之本写之畢寛永六年卯月日 ただちか の奥付を有する。観世左近大夫入道暮閑 ( 一契六 ~ 一六一一六 ) は、身愛ともいい 、法名黒雪、第十代の観世大夫である。この本は、一番綴・ 二番綴・五番綴の各種があり、全百番である。元和六 ( 一六一一 0 ) 年刊の『元和卯月本』をうけて寛永六 ( 一六一一九 ) 年に刊行されたもので、以 後この系統が観世流謡本の主流を占める。第一冊所収四十曲のうち、『寛永卯月本』に存する三十四曲は、これに拠った。 はじとみは′ろも 『寛永卯月本』に存しない曲のうち、第一冊所収の「敦盛」「半蔀」「羽衣」の三曲は、この内百番に対応する外百番として刊行され ている明暦三 ( 一六毛 ) 年刊の『野田本』を用いた。これは、 右百番之外百番者観世左近大夫入道暮閑以章句本写之秘密拍子付尚加吟味改正文字板行者也 明暦三丁酉天初夏洛下二条下寺町野田弥兵衛尉梓 あつもり たしな かた
謡曲集 ゅぎようしようにん ゅぎようだあみしようにん 登場の囃子なくワキの遊行上人とワキツレの従僧とが登場。脇 , ワキ・ワキツレとと、もにアイ。か癶皿 篠原の者が、遊行の他阿弥上人の説法が しようぎ 場する演出もある。 座へ行き、ワキは床几に腰をかけ、ワキツレは着座する。 行なわれていること、上人が時々独り言 一※この「狂言ロ開」のアイのせりふ アイの篠原の者が登場して常座に立ち、遊行上人の法談のこと をいうのがふしぎであることを述べる。 は山本東本による。 など述べた後、狂言座に着座する。 篠原の者「わたくしは加賀の国篠原に住む者 ニ石川県加賀市内。平維盛の軍勢が 木曾義仲に敗れた地。 であります。ここに遊行上人のあとを継 アイ「かやうに候ふ者は、加賀の国篠原に住まひする者にて候。 三時宗の開祖一遍上人の通称。鎌倉 三ゅぎゃう四 五ダあみしゃうにんござ ぐ他阿弥上人がおいでになりまして、毎 中期の僧で、諸国を巡り、民衆に念 ここに遊行の流れ、他阿弥上人御座候ひて、毎日法談をなさ 日説法をなされておりますが、それにつ ひ•*J り′一ル」 七きどく へにツチう 仏を勧め、念仏踊りを広めた。 れ候ふが、それにつき奇特なる事の候。日中の前後に独言を きふしぎなことがあります。日中の念仏 四流派の継承者。五時宗の本山藤 しのワら おほ それがし 沢遊行寺の住職は、第一一祖以後、代 の前後に、独り言をおっしゃいます。篠 仰せ候ふが、篠原の面々ふしぎなりとの申し事にて候。某 九かうざ 代他阿弥陀仏と称した。六仏法の 原の人々はそれがふしぎであると申して 高座近く参るほどに、不審を致せと皆々申され候ふほどに、 趣旨をわかりやすく説き聞かせるこ こんにツタにアチう あひだ おります。わたくしは上人のおいでにな と。ふしぎなこと。 ^ 正午。六 今日は日中過ぎて参らうずる間、その分心得候へ、心得候へ。 時 ( 晨朝・日中・日没・初夜・中夜・ る場所の近くに参りますので、その疑問 後夜 ) の一で、念仏の時刻。 ワキは床儿に腰をかけたまま〈サシ〉を謡う。ワキツレも着座 を伺ってみよと皆々が申します。それで 九説法のとき、僧のすわるために一 のまま掛合いの謡以下を謡う。「かの国へ行く法の舟」で老翁 今日は日中の念仏の過ぎたころに参りま 段高く設けられた座。 の姿のシテが登場して一ノ松に立つ。 すので、そのことを知っていてください、 一 0 極楽世界をさす。「是ョリ西方十 一 0 さいはうジふまんノくど 万億土ヲ過グルニ世界アリ、名。ッケ そのつもりでいてください。 ワキ气〈サシ〉それ西方は十万億土、遠く生るる道ながら、こ テ極楽ト日フ」 ( 阿弥陀経 ) 。 上人は従僧とともに説法を行なう。その = 阿弥陀如来は浄土にあるのでは こしんみだ くにきせんくんじゅしようみやう 途中に一人の老人が登場する。 なく、自身の心の中にあるというこ こも己心の弥陀の国、貴賤群集の称名の声、 と。三仏の名号をとなえる声。 のりには にちにちやや 上人「そもそも西方極楽浄土は十万億里のか = = 仏事を営み、説教・法会をするワキツレ气日々夜々の法の場、 なた、来世はそのような遠くに生まれる 場所。一四阿弥陀如来が、念仏する せッしゅふしゃ ことであるが、弥陀の名をとなえれば、 衆生を一人残らす極楽に迎え入れてワキ气げにもまことに摂取不捨の、 あみだによらい 捨てないこと。 わが心の中に阿弥陀如来はおられるゆえ、 たれ きせん 一五「ひとりただほとけの御名やたど ワキツレ气誓ひに誰か、 ここも弥陀の国なのだ。それで貴賤の人 るらんおのおのかへる法の庭人」 ( 一 人が集まって念仏をとなえる声が、 遍上人語録 ) に基づく ワキ气残るべき。 「仏の御名を」の繰返しのところで、 従僧「毎日毎夜続けられる、この説法の場。 みな シテが登場する演出もある。 上人「まことにこれでは、阿弥陀如来の、念 ワキ气〈上歌〉ひとりなほ、仏の御名を尋ねみん、仏の御名 一六仏が衆生を引き寄せて救おうとワキツレ 仏する衆生を迎え取って捨てないという、 する誓願を網にたとえていう語。 一七仏が衆生を、彼岸である極楽浄を尋ねみん、おのおの帰る法の場、知るも知らぬも心引く、従僧「お誓いにだれが、 しのわら ふしん / ニしのワら のり しのわら
平の宗盛が従者とともに登場し、池田の 〔名ノリ笛〕とともにワキの平宗盛とワキツレの従者登場。ワ しゆくちょうゆや 宿の長の熊野を久しく都に留めおいてい キツレは太刀を持つ。ワキは中央に立って〈名ノリ〉を述べる。 るが、熊野がこちらへ来たなら知らせる 続いて、常座に出て手をついたワキツレに対してことばをかけ、 しようぎ ようにと従者に命する。 脇座で床儿に腰をかける。ワキツレは地謡座前に着座する。 とおと 宗盛「わたくしは平の宗盛である。さて、遠 うみ 〔名ノリ笛〕 江の国池田の宿の長を熊野と申します。 とほたふみ いけだしゆく たひらむねもり ワキ「〈名ノリ〉これは平の宗盛なり。さても遠江の国池田の宿長いこと都に留めおいておりますが、老 一清盛の一一男。従一位内大臣。壇の 四 らう と」 母が病気であるとてたびたび暇乞いをし ちゃうゆや 浦の戦いで捕えられ、のちに斬られ の長をば熊野と申し候。久しく都に留め置きて候ふが、老 た。文治元 ( 一一会 ) 年没。三十九歳。 ますけれども、せめてこの春だけは花見 ニ現在の静岡県西部。 いとまこ の友として伴おうと思って、留めおいて 三静岡県磐田郡豊田村池田。古く天母の労りとてたびたび暇を乞ひ候へども、この春ばかりの おります。 龍川の西岸にあった宿駅。 とど 四宿駅の長者。宿の女主人。 宗盛「だれかいるか。 花見の友と思ひ留め置きて候。 五『平家物語』巻十「海道下」によると、 従者「お前におります。 たれ 宗盛によって都に留め置かれたのは、 ワキ「いかに誰かある。 宗盛「熊野が来たなら、こちらへ申しなさい。 池田の宿の長者熊野の娘の侍従とな おんまへ 従者「かしこまりました。 っている。 ワキツレ「御前に候。 六病気。 遠江の国池田の宿の長者の御内の者であ ワキが脇座で、床几に腰をかけす る朝顔が、熊野の老母の病気のため、熊 ワキ「熊野来りてあらばこなたへ申し候へ。 着座する演出もある。 野に帰国するように促すべく、その迎え かしこまッ に上京する。 ワキツレ「畏って候。 朝顔「夢を見る間も、その過ぎ去るのが惜し 〔次第〕の囃子で、ツレの朝顔登場。胸に文を插す。常座に立ち まれる春、夢を見る間さえも、その過ぎ 鏡板へ向いて〈次第〉を謡う。続いて正面を向いて〈サシ〉以 去るのが惜しまれる春であるから、急い 下を謡う。〈上歌〉の末尾で歩行の態を示した後、正面を向いて 〈着キゼリフ〉を述べ、一ノ松へ行き幕へ向かって声をかける。 で花の咲くころに都の花を尋ねることに しよう。 〔次第〕 朝顔「わたくしは遠江の国池田の宿の、長者 ゅめまを の御内にお仕え申す、朝顔と申す女であ ツレ气〈次第〉夢の間惜しき春なれや、夢の間惜しき春なれや、 ります。さて、熊野は長いこと都におい 咲く頃花を尋ねん。 ででありますが、このごろ老母のご病気 三七七 七都の花、の意。都の熊野を暗に示 しているとも考えられる。 熊野 ころ七 たち ふみさ