江口 - みる会図書館


検索対象: 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)
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1. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

作者『五音』に「江口遊女亡父曲」とある。「亡父」とは観阿弥のことで あるから、観阿弥作と考えられる。 主題江口の遊女の舟遊びと歌舞とを背景に、遊女の身の苦しみ哀しみを述 はさっ べつつ、そのような者であっても、執着を捨てれば菩薩に転生し得ること を説く。 しけみずごらもしろおおくち 人物ワキ 旅僧 角帽子・経水衣・白大口 よれ ワキツレ従僧 ( 二人 ) 角帽子・縷水衣・白大口 ながかしも アイ 所の者 長上下 わかおんなからおり 若女・唐織 つはおりひのおおくち 後シテ 江口の君若女・唐織壷折・緋大口 遊女三人 ) 小面・唐織 備考太鼓なし。五流にある。 古く「江口遊女」ともいった。なお、本曲の世阿弥自筆本が現存する。 『撰集抄』『古事談』『十訓抄』『遊女記』等にみられる伝承に基づいてい 遊女のはなやかな表面と苦しみ多い内面とを、唐織壷折・緋大口といっ た豪華な装東と〈クセ〉の詞章とによって、同時に描きだすことに成功し ている。 謡曲集 ぐち 江口 すみうし こおもて 遊る るし すで び脱 遊を 舟肩

2. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

いう人なのだろう。 シテ气たそかれに、たたずむ影はほの・ほのと、見え隠れなる 女「たそがれ時にたたずんでいる影のよう かはぐま 七川の折れ曲がって流れている所。 川隈に、江口の流れの ( ワキ〈向く ) 、君とや見えん恥かしゃな姿は、さだかには見えない川隈のあた ^ 「江口の君」であることを暗示する。 りにほのかに見え隠れして、このわたく 「流れの君」は遊女のこと。 ( 面を伏せる ) 。 しが江口の遊女と見えるかしら、恥ずか あらいそ しいこと。 九「 ( 疑ひ ) あらじ」と掛詞。「波」に続地謡气さては疑ひ荒磯の、波と消えにし跡なれや ( 角へ出て左に け、「消え」の序とする。 地謡「さては疑いもあるまい、江口の君の ( 旅僧 ) まわって常座へもどる ) 。 この世から消えたあとの姿なのか。 女「この仮の世において、仮の宿りとして住 一 0 「わが宿の : ・君が来ませる」は『拾シテ气仮に住み来しわが宿の、 んできたこの家に、思いがけずも、 遺集』春平兼盛の歌。歌意は、わ ンめたちえ 地謡「あなたがおいでになったことだ。前世 ( 女 ) が家の庭の梅の高くのびた枝が見え地謡「梅の立枝や見えつらん、 たのであろうか。思いがけなくもあ において、一樹の陰にともに宿ったのだ なたがおいでくださったことだ。なシテ思ひの外に、 ろうか、または一河の流れの水をともに お、ここでの文意は、ただわが宿に いちじゅかげ 汲んだのだろうか、あなたとわたくしと 僧が訪れたというだけの意。したが 地謡气君が来ませるや。一樹の蔭にや宿りけん、または一河 はご縁のある間柄。どうそご推測くださ って、ロ語訳では地謡の「梅の立枝 や見えつらん」を省略した。 いませ、わたくしは江口の君の幽霊であ = この世において、一樹の陰に宿の流れの水、汲みてもしろしめされよや ( ワキ〈向き少し出る ) 、 ると、声だけは残り、姿は見えなくなっ り合い 一河の流れの水をともに汲 イうれい た、声はしたが姿は消えてしまった。 江口の君の幽霊そと、声ばかりして失せにけり、声ばかり むという間柄は、前世において深い 因縁があったからである、と考えら さきほどの江口の里の者が、僧に尋ねら れていた。『平家物語』や謡曲にしばして失せにけり ( 常座で正面を向いた後、静かに中入する ) 。 れて江口の君のことを語る。 しば同類の表現がみえる。 僧が弔いを始めると、月の光のもとで遊 最前のアイが常座に立ち、江口の君の旧跡を尋ねた僧はまだい 三「一河の流れの水をや汲みけん」 女たちの舟遊びの様子が見えてくる。 の意より、「心を汲みてもしろしめ るたろうかと述べて、角へ出てワキの姿を見つける。アイは中 ふげんなさっ されよや」と転じた表現。ご推測な 央に着座して、ワキの尋ねに応じ、江口の君が普賢菩薩の再誕 旅僧「さては江口の君の幽霊がかりにあらわ きどく どくじゅ さってください であることなどを語り、お経を読誦して奇特を見ることを勧め れ、わたくしにことばを交わしたのであ て狂言座に退く。 るか。さあ弔いをして成仏させようと、 ワキは着座のまませりふを述べ、続いてワキ・ワキツレは〈上 艙「言いも終わらぬうちにふしぎなこと、 歌〉を謡う。 言い終わりもしないうちに、なんとまあ イうれし ふしぎなこと、月の澄みわたる川水に、遊 ワキ「さては江口の君の幽霊仮にあらはれ、われに言葉をかは 江 ロ ほか こ いちが

3. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

一俗人であった昔。在俗の昔。 ニ※下掛系は「友なれば」。繰返しも 三憂き世を離れた世界。俗世間を離 れた別世界。 四※下掛系は「いづくなるらん」。 ワキ 五大阪市天王寺区元町にある四天王ワキツレ 寺。聖徳太子の創建。 ほか四※ 六京都市伏見区淀町。昔の河港で、 京都から西への旅はここから舟でく だるのが常であった。 七大阪府高槻市にある。古来、篳篥 の舌にする蘆の産地として名高い ^ 「 ( 蘆の ) 穂」と掛詞。「蘆」と「松」と 上下に掛かる。 九上下に掛かる。「松の煙」は霞んで 見える松、「煙の波」はもやのように 煙ってみえる波、の意。 一 0 大阪市東淀川区。神崎川が淀川 の本流から分かれる所。昔の河港で、 宿駅として繁盛した。 = ※以下四行およびそれに続くアイ との応対のせりふは下掛宝生流によ る。 三江口の長者。江口の宿場の女主 人。ここでは特定の個人をさす。す ぐ次に出てくる「江口の君」も同じ人 物である。 江 ロ 〔次第〕の囃子で旅僧の姿のワキ・ワキツレ登場。正面先に向か 旅の僧が従僧を伴って江口の里に着ぎ、 いあって〈次第〉を謡う。ワキは正面を向き〈名ノリ〉を述べる。 この所の者に尋ねて江口の君の古跡を知 さいぎようほうし ふたたび向かいあって〈上歌〉を謡う。〈上歌〉の末尾でワキ り、ここで西行法師の詠んだ歌を思い起 は歩行の態を示した後、正面を向き、〈着キゼリフ〉を述べる。 こして、感慨にふける。 ワキツレは地謡座前に着座する。ワキは常座へ行き、アイを呼 感「世を捨てた今の身の友である月、その び出す。アイの江口の里の者、狂言座より立って一ノ松へ出、 月が俗世のときからの友であるとすれば、 ワキと応対の後、狂言座に退く。ワキは中央で正面を向いて、 月が在俗の昔からの友であるのなら、俗 〈サシ〉を謡った後、脇座のほうへ行きかかる。 を離れた世界とはどこであろうぞ。依然 として自分は俗世に関係をもっているこ とになる。 〔次第〕 旅僧「わたくしは諸国をめぐり歩く僧であり 气〈次第〉月は昔の友ならば、月は昔の友ならば、世のます。まだ津の国の天王寺に参りません ので、このたび思い立って天王寺に参ろ 外いづくならまし。 うと思います。 旅僧「都をまだ夜の深いうちに旅立って、ま ワキ「〈名ノリ〉これは諸国一見の僧にて候。われいまだ津の国従僧 だ夜明けに間のあるころに旅立ちをして、 てんノうじ うどの 天王寺に参らす候ふほどに、 このたび思ひ立ち天王寺に参淀よりの川舟の行く先は、鵜殿のあたり で夜も明け初めて、蘆の穂がほのかに見 かす らばやと思ひ候。 え、霞んでうっすらと見える松に、もや よふか ワキ 气〈上歌〉都をば、まだ夜深きに旅立ちて、まだ夜深きのように煙った波の寄せている、江口の ワキツレ 里に着いた、江口の里に到着した。 よどかはぶねゆくすゑ うどのあし八 に旅立ちて、淀の川舟行末は、鵜殿の蘆のほの見えし、松旅僧「急ぎましたので、もはや江口の里に着 きました。この所で江口の長の古跡を尋 の煙の波寄する、江口の里に着きにけり、江口の里に着き ねようと思います。 従僧「それがよいだろうと存じます。 にけ・り。 旅僧「この所の人がおいででありますか。 ワキ「〈着キゼリフ〉急ぎ候ふほどに、これははや江口の里に着き所の者「この所の者とお尋ねになるのは、ど ちゃうキうせき て候。この所にて江口の長の旧跡を尋ねうずるにて候。 のようなご用でありますか。 けむり ニ※ いッけん たびだ っ てんのうじ ちょう

4. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

たれびと 九「よしや」と頭韶。「花」の序。 江口の君「なに、だれの舟かですって。恥ず 謡、色めきあへる人影は、そも誰人の舟やらん。 一 0 「花」「雪」は、この世における風 かしいことながら、昔の江口の君が、月 雅なものとして並べ、「雪」の縁でシテ「何この舟を誰が舟とは、恥かしながら古の、江口の君の夜に川遊びをしている舟と ) 」らんくだ 「雲」「波」を続けた。 かはぜうえう = 「 ( 花も・ : 波も ) 泡」と掛詞。花も の川逍遙の、月の夜舟を御覧ぜよ。 雪も雲も波も、いすれも泡のような 旅僧「これはどうしたこと、江口の遊女と言 ものである、それにしても、ああ、 われるが、それは遠い昔のことだが : ・ ワキ气そもや江口の遊女とは、それは去りにし古の、 の意。三「あはれ」と頭韻。 江口の君「いや、昔ですって、そんなことは 一三※下掛系は「色めき見えたる人影 シテ「いや古とは御覧ぜよ、月は昔に変らめや。 は」。一四※下掛系は「江口の遊女の ないはず。ごらんなさい、月は昔のまま、 川逍遙の」。 いにしへびと 今と変わっているのかしら。 一五川遊び。一六「月ゃあらぬ春やむツレ气われらもかやうに見え来るを、古人とは現なや。 遊女たち「わたくしどももこのように、姿を かしの春ならぬ我身ひとつはもとの のたま 見せて出てきているのに、それを昔の人 身にして」 ( 古今・恋五在原業平、シテ「よしよし何かと宣ふとも、 伊勢物語四 ) に基づく。 だとは、どうかしておいでですね。 ※下掛系は「何かと問ひ給ふとも」。ツレ气言はじゃ聞かじ、 江口の君「よいよい、何のかのとおっしやっ 入「秋ノ水漲リ来ッテハ船ノ去ルコ ても、 ト速ャカナリ、夜ノ雲収マリ尽キテ シテ气むつかしゃ。 ( 月ノ行クコト遅シ」 ( 和漢朗詠集・ 遊女たち「何も言うま、 し聞 ~ 、こともす・まい みなぎ 月郢展 ) に基づく 江口の君「わずらわしいこと。 シテ气秋の水、漲り落ちて、去る舟の、 一九「影」と「棹」との上下に掛かる。 江口の君 遊女たち「秋の川水が勢よく流れ落ち、水に ニ 0 以下「遊ばん」まで、『閑吟集』に 採られている。「うたかたの」は「歌シテ气月も影さす ( 月を見あげ、下の水面を見る ) 、棹の歌、 乗って遠ざかり行く舟に、 へ」と頭韻。「泡」の意を含む「あは 江口の君「月の光もさし、その舟の上で棹さ れ」の序。 地謡气歌へや歌へうたかたの ( シテ・ツレ向かい合う ) 、あはれ昔の して歌う舟歌。 三「 ( 今も ) 言ふ」と掛詞。 イうちょ ひとふし 地 3 「歌えよ歌え、恋しい昔のことを。 一 = 一「節こと音が通するので「一節」の恋しさを、今も遊女の舟遊び、世を渡る一節を、歌ひてい 縁語。「渡る」は「舟」の縁語。 ああ、今も昔を思っての遊女の舟遊び、 ひとふし ニ三三世 ( 前世・現世・来世 ) の迷い ざや遊ばん ( 一同舟より下りる ) 。 憂き世を渡るための歌を一節歌って、さ の因果を、無明・行・識・名色・六 あ舟遊びをしようではないか。 処・触・受・愛・取・有・生・老死 ざいごう の十一一項に分け、衆生輪廻のさま 遊女の身と生まれた罪業を嘆き、この世 後見が舟の作リ物をかたづける。〈クセ〉となると、シテは立っ を説くもの。 の無常を述べる。 て地謡に合わせて舞う。 しゅじよう 一西「流転無窮、如車廻庭、昇沈不定、 地謡「そもそもわれら衆生が十一一因縁 ( 江口の君 ) 似鳥遊林矣」 ( 六道講式 ) に基づく ジふにいんネんるてんナくるまにはニ五※ るてん ニ五※下掛系は「めぐるがごとく」。 地謡气〈クリ〉それ十二因縁の流転は車の庭にめぐるがごとし。を流転するというのは、車が庭をめぐる 江 ロ うたひ一三※ イうちょ よぶね きた さを いにしへ うつつ いにしへ 一四※ いんねん

5. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

二七〇 いけれども、 したが 地謡「機縁に随ってさまざまな迷いの ( 江口の君 ) 地謡气心留めずは、憂き世もあらじ ( 中央へ出る ) 、 形をとる真如の波の、立たない日もない、 真如が表面上は迷いのさざ波となって、 シテ气人をも慕はじ、 どの日にも立つのだ。 江口の君「心に迷いの波が立つのはなにゆえ 地謡气待っ暮もなく ( 角へ行き扇をかざす ) 、 か。それは仮の宿であるこの憂き世に執 ちあらし 一「 ( 別れ路も ) あらじ」と掛詞。「花」シテ气別れ路も嵐吹く ( 見あげる ) 、 着するため。 の序。 つきゅきふること 地「執着しなければ、この世も憂き世 = 「花」「紅葉」に同じく四季の景物地謡花よ紅葉よ ( 中央に行く ) 、月雪の古言も、あらよしなや ( 江口の君 ) ではあるまい の「月雪」を続け、「降る」に音の通す 江口の君「人を慕うこともあるまいし、 る「古言」の序とする。 ( 両手を打ち合わせる ) 。 地謡 三西行との歌の問答をさす。 ( 江口の君 ) 「人をタ暮れに待っこともなく、 シテ气思へば仮の宿、 江口の君「したがって人との別れの悲しさも 地謡气思へば仮の宿に ( 足拍子を踏む ) 、心留むなと人をだに ( ワキ 地謡「花よ紅葉よ、月よ雪よと心を動か 〈向いて出る ) 、諫めしわれなり ( 膝をつく ) 、これまでなりや帰すことも、またあの歌のやりとりだ 0 て、 しよせん 四 ああ所詮はつまらぬこと。 ふげんぼさッ 四文珠とともに釈迦の脇士。理るとて ( 面を伏せて立 3 、すなはち普賢、菩薩とあらはれ ( = ウ江口の君「思えばこの世は仮の宿、 知・慈悲を受けもっという。 びやくざう 地謡「よくよく思えばこの世は仮の宿、 五普賢菩薩の乗り物。 ケン扇をする ) 、舟は白象となりつつ ( 角へ行く ) 、光とともに ( 江口の君 ) この仮の宿に心を留めるなと、人にさえ はくうん しろたへ も諫めたわたくしである、もはやこれま 六「白雲」の序。 白妙の ( 脇座前へ行き扇をつまみ持 3 、白雲にうち乗りて ( 中央へ 七極楽浄土の方角。 でである、帰る、と言って、立つやいな ふげんぼさっ ^ ※下掛系は「覚えたる、ありがたく 出て足拍子を踏む ) 、西の空に行き給ふ、ありがたくそ覚ゆる、 やその姿はたちまち普賢菩薩となり、舟 こそ覚ゆれ」。 は白象と変じて、一面の光の中に白雲に ありがたくこそは覚ゆれ ( 常座で留拍子を踏む ) 。 乗って、西方浄土の空へと立ち去って行 かれる、そのお姿はありがたく思われる、 まことにありがたいことである。 謡曲集 もみぢ しんによ

6. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

一※以下ワキとの応対のせりふは山 本東本による。 旅僧「わたくしは都の方面から出て来た僧で ワキツレ「もっともにて候。 ( 地謡座前に行ぎ、着座する ) あります。この所で、江口の長の古跡を ワキ「 ( 常座で ) 所の人のわたり候ふか。 教えてくださいませ。 アイ「所の者とお尋ねよ、 。いかやうなる御用にて候ふそ。 みやこがた 所の者「よ、、 あそこに見えているのが江口 ワキ「これは都方より出でたる僧にて候。この所において、江口 ちゃうキうせき の長の古跡であります。あちらへおいで の長の旧跡を教へて賜り候へ。 になって、心静かにごらんください。 ざうらふ キうせき アイ「さん候あれに見えたるが江口の長の旧跡にて候。あれへ御旅僧「ご親切にお教えくださ 0 て満足いたし 出であって、心静かに御一見候へ。 ます。それではあちらへ参り、心静かに おんノしシうちゃく ワキ「ねんごろに御教へ祝着申して候。さあらばあれへ立ち越え、拝見しようと思います。 いッけん 所の者「ご用のことがありますなら、重ねて 心静かに一見申さうずるにて候。 おは おっしやってください。 アイ「御用の事候はば重ねて仰せ候へ。 旅僧「お幀み申しましよう。 ワキ「頼み候ふべし。 所の者「承知いたしました。 ニ※下掛系は「いにしへの江口の君の アイ「心得申して候。 ( 狂言座に退く ) 旅僧「さてはこれは江口の君の古跡なのか。 跡なるかや」。 三※ ニ※ キうせき 三※下掛系は、「いたはしや」なし。 いたわしいこと、その身はむなしくなっ ワキ「〈サシ〉さてはこれなるは江口の君の旧跡かや。いたは 四「遺文三十軸、軸々ニ金玉ノ声ア て土の中に埋もれたけれども、名は残り 。龍門原上ノ土、骨ヲ埋ムトモ名 どチううづ ヲ埋メジ」 ( 和漢朗詠集・文詞白楽しやその身は土中に埋むといへども、名は留まりて今まで今においても昔語りとなっている、その 天 ) に基づく 古跡をこうして今見るとは感慨深いこと さいぎゃう むかしがたりキうせき 五※下掛系は「ふしぎさよ」。 も、昔語の旧跡を、今見る事のあはれさよ。「げにや西行 だ。そういえば思い出す、西行法師がこ あるじ 六宿の主 ( 江口の君 ) 。 あるじ の所で、一夜の宿を借りたところ、主が 七『新古今集』羇旅 ( 「天王寺へまうで法師この所にて、一夜の宿を借りけるに、主の心なかりし 侍りしに、にはかに雨ふりければ、 つれなくも断わったので、『世の中を厭 江口にやどをかりけるに、かし侍ら かば、气世の中を、厭ふまでこそかたからめ、「仮の宿りふまでこそかたからめ、仮の宿りを惜し ざりければよみ侍りける」の詞書を む君かな』と詠んだというのも、この所 ともなう ) 、『山家集』雑にある。歌意 を惜しむ君かなと詠じけんも、この所にての事なるべし。 でのことであろう。ああいたわしいこと は、この世の中を仮の宿と考えて世 八※ ざうらふ を捨てるということまではむずかし であります。 いであろうが、この一夜の宿をも惜气あらいたはしゃ候。 一人の女性が僧に呼びかけて登場し、江 しむとは、あなたはなさけない方で 里の女の姿のシテがワキに呼びかけて出て、問答となる。シテ ロの君の返歌を思い出させて、その立場 ある。 ^ ※下掛系は「面白や候」。 は問答をしつつ舞台に入り、常座に立つ。掛合いの謡があって、 を説明し、僧の身として俗事に心を留め 謡曲集 ほふし いちゃ いッけん 五※ とど ちょう

7. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

謡曲集 のと同じ、 一以下は「夫無レ始輪廻以降、死レ此シテ气鳥の林に遊ぶに似たり。 生レ彼之間、或時鎮堕ニ三途八難之悪 ぜんじゃう 江口の君「鳥が林に遊ぶのに似ている。 趣一所」碍 = 苦患一而既失 = 発心之媒一或地謡前生また前生。 地謡「前世の前にはまた前世があり、 時適感二人中天上之善果「顯倒迷謬而 江口の君「ついに最初の世を知ることなく、 未」殖 = 解脱之種一先生又先生、都不」シテ气かって生々の前を知らず。 知二生々前一来世猶来世、全無レ弁二世 地謡「来世の後にもなお来世、まったく 世終こ ( 愚迷発心集 ) に基づく。 世の終りを知るということもない。 地謡气来世なほ来世、さらに世々の終りをわきまふる事なし。 ニ六道の中の人間・天上。 江口の君「あるときは善い果を受けて、人間 にん・チうてんじゃうぜんくわ 三うろたえて倒れ、心に迷いをもっ こと。 シテ气〈サシ〉あるいは人中天上の善果を受くといへども、 界や天上に生まれることがあるけれども、 四煩悩を離れること。 てんだうめいまう げだったね 地謡「そのときにも道理をあやまり煩 ( 江口の君 ) 五亡者が行くべぎ三つの途。火途地謡气顛倒迷妄していまだ解脱の種を植ゑず、 悩に迷って、悟りの因を作ることをせす、 五 六 ( 猛火に焼かれる所 ) 、血途 ( 互い さんずはちなん さん・つはつなんあくしゅ 江口の君「あるときは三途八難の悪道に堕ち、 に相食」む所 ) 、刀途を ( 刀・杖などシテ气あるいは三途八難の悪趣に堕して、 地謡 で強迫される所 ) の称。 くわんさ ほッしんなかだち ( 江口の君 ) 「その苦患にさまたげられて菩提 〈仏を見ることや法を聞くことを妨地謡患に障へられてすでに発心の媒を失ふ。 心を起こすきっかけをもち得ない。 げる八種の障難。地獄・畜生・餓鬼・長 もら・ろう ・鬱単越い・世 寿天・盲聾瘠痘、んあ 江口の君「ところでわたくしどもは、たまた シテ气しかるにわれらたまたま受けがたき人身を受けたりと 智弁聡・生在仏前仏後をいう。 ま、まれにしか得にくい人として生まれ 七悪事の報いによって死後に行く苦 ることができたのだけれども、 いへども、 しみの世界。 地謡「罪深い女の身として生まれ、こと ^ 苦しみ。なお、下掛系は「苦患」。 ためし 九「何況人身難」受、仏法難」遇」 ( 六地謡气罪業深き身と生れ、ことに例少き河竹の流れの女とな にまたそのなかでも数の少ない、罪のさ 道講式 ) 。人の身に生まれることは さぎ らに深い遊女の身となった、これは前世 容易にはあり得ないことというのが る、前の世の報まで、思ひやるこそ悲しけれ ( シオリをする ) 。 の報いであろうと、そのったなさまでも 仏教の考え方であった。 こうくわ あしたこうきんシう 思いやられ、まことに悲しいことである。 一 0 罪深い者。女人のこと。仏教で地謡气〈クセ〉紅花の春の朝、紅錦繍の山、よそほひをなすと くれない にしき は女は罪深いと説かれる。 地謡「紅の花の咲く春、朝は紅の錦に イふ・ヘくわうかうけっ ( 江口の君 ) = 浮き沈みの定めのな」遊女、の意。見えしも、タの風に誘はれ ( 立 3 、黄葉の秋のタ、黄纐纈飾られているかと見えた山も、夕方には あした 錦繍、天ニ当ッテハ遊織れしス碧羅 風に誘われて花は散り、黄葉の秋、タは の林 ( 扇でさしまわす ) 、色を含むといへども、朝の霜にうつろ 綾ら」 ( 和漢朗詠集・春興小野篁 ) 。 黄色のし・ほり染めのような林が、美しい 一五※ しゃうふうらげつ ひんかく 一三「纐纈」は古代に行なわれた絞染 めの名。林がもみじによ。て黄色にふ ( 下を見る ) 。松風蘿月に、言葉をかはす賓客も、去って来色を見せているけれども、朝には霜によ って色はあせてしまう。松に風が吹き、 染まった様子をいう。参考「黄纐纈 まくら すいちゃうこうけい ノ林 ( 寒ウシテ葉有リ、碧瑠璃ノ る事なし、翠帳紅閨に、枕を並べし妹背も ( 頭をさす ) 、 いっ月の光が蔦かずらの間から漏れてくるこ ざいごふ 一 0 いもせ かはたけ にんじんノ

8. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

なさけ さうもくすみ 水ハ浄靆ウシテ風無シ」 ( 和漢朗詠集・ ろ、訪れてことばを交わした客人も、立 の間にかは隔つらん。およそ心なき草木 ( 角へ行く ) 、情ある 紅葉白楽天 ) 。 じんりん ち去った後はふたたびあらわれることも みどり 一 0 ったかすらの葉の間から月の光人倫、いづれあはれを遁るべき、かくは思ひ知りながら ( 中 ないし、翠のとばり紅の寝具という、は が漏れてくること。 一五※下掛系は「来る事もなく」。 なやかな寝室に、枕を並べた男女の仲も、 央で扇を開く ) 、 一六美しく飾られた寝室、の意。参 いっしか隔てられてしまってふたたび会 とんちゃく 考「翠帳紅閨、万事ノ礼法異ナリ うことはないようだ。このような次第で、 シテある時は色に染み、貪著の思ひ浅からず ( 上ゲ扇をする ) 、 イへドモ、舟ノ中波ノ上、一生ノ歓 無心の草木も、心をもつ人間も、どちら 会くコレ同ジ」 ( 和漢朗詠集・遊女 あいシふ 大江以言 ) 。 地謡气またある時は声を聞き、愛執の心いと深き、心に思ひも世の無常をのがれることがどうしてで 一九 一七執着すること。 まうぜんえん ろくぢん 」ようそ。こういうこととはよく知って 入妄執に染まること。 口に言ふ、妄染の縁となるものを。げにや皆人は、六塵の いながらも、 一九人間の心を汚す色・声・香・味・ きゃう ろッこん 触・法の六種のもの。 江口の君「あるときは容色になじんで、愛着 境に迷ひ、六根の罪を作る事も ( 角へ行き扇をかざしてまわる ) 、 ニ 0 六塵を受け入れる六種の器官。 の思い浅からず、 眼・耳・鼻・ロ・身・意。 地謡「またあるときは美声に聞きほれ 見る事聞く事に、迷ふ心なるべし ( 大小前で留める ) 。 三宇宙万象の真実の体相は、一切 て、愛欲に執着する心がまことに深い の煩悩を解脱した清浄の境界である、 「面白や」の地謡で常座へ行き〔序ノ舞〕を舞う。常座で舞を の意。その境界の広いことを海にた このよ、つにむに田 5 い口に一一一口一つことが、」妄 しゅう 留める。舞い終わって〈ワカ〉となり、以下掛合いの謡に合わ とえた。以下、「立たぬ日もなし」ま 執に染まる縁となるものなのに。いやま ろくじん せて舞い、常座で留める。 で、ほぼ同文が『古事談』第三、『十 ことに人は皆、汚れた六塵の世に迷い 訓抄』第三にみえる。なお下掛系は、 「面白や」を繰り返して「面白や実相地謡气面白ゃ。 そのため六根が罪を作るのであるが、そ 無漏の」となる。 れはすなわち、見ること聞くことに心が 一 = 一六塵から法塵を除いたもの。 〔序ノ舞〕 迷うからであろう。 ニ三六根から生じる欲望。 じッさうむろ ・こちんろくよく 江口の君は舞を舞い、この世への執着を ニ四万有の実体である真如が、種々シテ〈ワカ〉実相無漏の大海に、五塵六欲の風は吹かねども の機縁に従ってさまざまな形になっ 捨てればなんの迷いも生じないと説いた ふげんぼさっ びやくぞう てあらわれるのを、波の立つのにた ( 上ゲ扇をする ) 、 後、その姿は普賢菩薩に変じ、舟は白象 とえた。 となって、西方の空へと帰って行かれた。 ずいえんしんによ 「随縁真如の」でユウケン扇をする 地謡气随縁真如の波の、立たぬ日もなし、立たぬ日もなし ( 正地謡 演出もある。 ロ「面白いことだ ( 江口の君 ) 《彩色 (±ろ ) 》の場合は「波の立居 江口の君は〔序ノ舞〕を舞う。 面へ少し出る ) 。 げだっ も何故ぞ」のあとに〔イロエ〕が入る。 江口の君「万有の本体は煩悩を解脱した清浄 たちる なにゆゑ ごじんろくよく シテ气波の立居も何故そ、仮なる宿に、心留むる故 ( 大小前へ行界、その大海には五塵六欲の風は吹かな 江 ロ ま そ のが

9. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

関寺小町 作者『音曲声出口伝』に本曲の一部の引用があり、世阿弥当時に存した曲 である。世阿弥作という確証はないが、『能本作者註文』『いろは作者註文』 『歌謡作者考』『自家伝抄』『二百拾番謡目録』等すべて世阿弥の作とする。 主題老い衰えた小野小町が、歌道について語り、またかってのはなやかな 生活を偲ぶ。そして、児の舞に興を覚えて舞を舞う。 ちょうけんしろおおくち 長絹・白大口 人物子方 すみうし しけみずごろも ワキ 住僧 角帽子・経水衣・白大口 よれ ワキツレ従僧 ( 二人 ) 角帽子・縷水衣・白大口 ぬいはくこしまき いろなしからおりつおり 姥・無紅唐織壷折・無紅縫箔腰巻 備考太鼓なし。五流にある。 老女物のなかでも最も大切にされている曲で、ほとんど上演されること 、刀学 / し この曲は、衰残の姿を目に見せて、詞章では、その者が過去において美 女であったことを述べてきかせ、盛衰の対照によって感慨をもよおさせる 一面をもっている。「檜垣」と共通しているが、現在能であることが「檜 垣」とは異なっている点である。 せきでらこまち 関寺小町 しの 四二五 短冊に歌を書きつける小町。

10. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

狂言方の担当であるアイは、古くはヲカシと呼ばれていた。世阿弥は狂言の役者に対する心得を説いた中で「真の能の道やりをな ことわり げんでう す事、笑はせんと思ふあてがひは、まづあるべからず。ただ、その理を弁じて、厳重の道理を一座に言ひ聞かするをもて道とす」 しゅどうしょ ( 『習道書しと述べている。「能の進行をはかる役においては、観客を笑わせようと思うような考えは、まずもってはならない。たた その能の筋道を話して、しつかりとした内容を観客皆々に言い聞かせるのがっとめである」というような意味である。シテの中人の たかさ 1 一 たむら まっかぜ ひとき 間をつなぐ「高砂」「田村」などのアイがこれに当たり、「江口」「松風」などでワキの旅僧に江口の長の旧跡や磯辺の一木の松のい つるかめ くちあけ 、ねもり われを教えるアイや、「鶴亀」「実盛」などで冒頭に登場して場面を説明するアイ ( 狂言ロ開という ) なども合わせ考えてよいであろう。 たしかにこれらはまずは一般に笑いの要素を含んでいない たち 中人のアイは、ワキに対して事のいわれを語るアイが多いが、ワキとは関係なしに立ったままで述べたてるもの ( 立シャベリといわ れる ) もある。「賀茂」の末社の神や「東方朔」の仙人がそれである。「竹生島」のアイは立シャベリの後、ワキと対話し、さらに「 おんだ あらしやま 飛」の寸劇を見せる。「東方朔」の仙人は桃仁の精を嘗めるさまを演ずる。いずれも軽い笑劇である。「賀茂」の《御田》・「嵐山」の さるむこ 《猿聟》は替間であって、現在は特別に指定された場合でないと演ぜられないが、現行のままではないにしてもその原形は、古くは 常のアイであったと思われる。世阿弥が前述のような心得を説いていることは、当時笑わせようとするアイが存在していた事実を示 すものである。狂言はヲカシであった。狂言の役者の演する狂言は多分に笑いの要素を含んでいる。能の一役であるアイがそれと無 やしま 縁であるはずはない。《御田》《猿智》は能のアイであるが、独立の狂言としても扱われている。「八島」の替間《那須》も笑いの要 素を含み、これもまた独立した「語リ」として演ぜられることがある。 右に述べたもののほかこ、ヒヒ」 有のとしての展開に積極的に関係しているアイもある。これを総称してアシライアイと呼んでいる。 じねんこじ あたか とがしたちもち ふなべんけい 概して四番目物に多くみられ、「自然居士」の門前の者、「安宅」の強力と富樫の太刀持、「舟弁慶」の船頭などさまぎまなものがあ る。これらは「道やりをなす」とともに、あるいは巧み、あるいは巧まないような形で笑いをわれわれに与えている。「自然居士」 解説 とび かえあい とうばう、く とうにん えぐち ちくぶしま しん