清水寺 - みる会図書館


検索対象: 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)
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1. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

だいひ こくどばんみん / 「この事世以て隠れなければ、坂のざまの誓ひあまねくて、国土万民を漏らさじの、大悲の影から、今この人間界に出現なさってお救 上の田村丸、すなはち伽藍建立し、 いくださゑわれらのための観世音菩薩 すみ 千手の仏像を作り据ゑ、都鄙安全のそありがたき。げにや安楽世界より ( 角〈出て左〈まわる ) 、今は、いまさら仰ぐまでもないこと、こと 尊容とせり」と入り、「しかれば行叡 あふ しやば じげん 新しく敬うというのもおろかなことであ 居士と言っぱ」と続く。一六菩提薩 この沙婆に示現して、われらがための観世音、仰ぐもおろ ろう。 の略。菩薩と同じ。一七生れ代 りのお姿。入※下掛系は「待っと かなるべしや、仰ぐもおろかなるべしゃ ( 常座で扇を持って立 童子は周囲の名所を教え、折から月の出 ありしは」。 た清水寺境内で、重ねて花の美しさや観 一九名高い。「流れ」は「清水」の縁語。 ニ 0 観音が衆生を救おうと立てられ 3 。 音のありがたさを嘆賞する。 た誓約。「深き」は「水」の、「数々」は 旅僧「たいへん面白い方にめぐり会ったこと 名所教えの問答となり、シテはワキに清水寺周辺の名所を教え 次の「千手」の縁語。一 = 千手観音の であります。また、このあたり一帯に見 る。掛合いの謡があって、地謡となると、ワキは脇座に着座し、 略。ニニ「とり」は「御手」の縁語。 ニ三極楽浄土。ニ四俗世。人間界。 えている所は皆名所なのでありましよう、 シテは地謡に合わせて〈クセ〉を舞う。舞グセである。内容的 ニ五菩薩が民衆の救済のために現世 には名所教えの続きであるが、舞台上はシテの童子の春の花の お教えください。 にあらわれること。ニ六たいへんに、 下での興にのった舞である。中央で〈クセ〉を留めて着座する。 童子「そのとおり、名所であります。お尋ね の意の副詞。 ください、お教え申しましよう。 名所教えの方角は流儀によって異 ワキ「ちかごろ面白き人に参り会ひて候。また見えわたりたる なる。宝生流の場合は「南に」で揚幕 旅僧「まず南のほうに塔が見えておりますの おんノし めいしょ のほうを望み「北に」と正面へ向き は、何という所でありますか。 は皆名所にてそ候ふらん御教へ候へ。 なかやませいがんじ 「や御覧候へ」と脇正面へ向く。 童子「あれこそ歌の中山・清閑寺で、今熊野 おん ざうらふ ニ七卒塔婆の略。埋骨の場合の標識 シテ「さん候名所にて候、御尋ね候へ教へ申し候ふべし。 として、または供養のために建てる までも見えております。 塔。云京都市東山の清水寺の奥、 旅僧「また北のほうにおいて入相の鐘が聞こ 清閑寺のあるあたり。ニ九京都市東ワキ「 ( 正面を向いて ) まづ南に当って塔婆の見えて候ふは、 えておりますのは、何というお寺であり 山区清閑寺町にあり、延暦二十一 ( 〈 ますか。 0 一 l) 年紹継の開基。本尊は千手観音。 なる所にて候ふそ。 清水寺の東南に当たる。三 0 京都市 童子「あれは鷲の尾の寺、や、ごらんなさい、 いまぐまの ニ八なかやませいがんじ 東山区にある今熊野神社。祭神は熊シテ「あれこそ歌の中山清閑寺、今熊野まで見えて候へ。 音羽の山の峰から出た月が輝いて、この こずえ 野権現。三十一二間堂の東南にある。 いりあひ 花の梢に映っている様子は、なんといっ 三一入相の鐘。日暮れごろ寺で撞く ワキ「 ( 笛柱へ向いて ) また北に当って入相の聞え候ふは、 鐘。三ニ「上見ぬ鷲」は傲慢なものの てもこれはごらんになるべき眺めである。 おんてら たとえ。ここでは「鷲」の序として 旅僧「いやこれはまったく時のたつのが惜し 「上見ぬ」を用いた。 = = インドの霊る御寺にて候ふそ。 いことだ。ほかに何も思うことのない、 おと うへ わしを 鷲山いじになぞらえた名で、霊山寺 ひととき この春の一時。 をいう。清水寺の北に当たる。 シテ「あれは上見ぬ鷲の尾の寺、 ( 脇柱へ向いて ) や、御覧候へ音 田村 てら たふば し、刀子ー し、刀 いりあ いまぐまの

2. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

^ ※この一句、下掛宝生流による。 九そのままで。 一 0 神仏に供えるもの。この場合は、 地主権現へのお供えの花。 = 清水寺の鎮守の神で、清水寺の 境内に社がある。下掛系は「地主の 桜の」。 四※下掛系は「出づる日の」。 五京都市東山区清水寺東方の山。 六清水寺の下にある音羽の滝。 おとわ 0 七法相宗の寺で、山号は音羽山さん 本尊は十一面千手千眼豊観音。坂上 田村麿の建立。開基は延鎮。 東国から出た旅の僧が、都へ出かけ、清 〔次第〕の囃子で旅僧の姿のワキ・ワキツレ登場。正面先に向か 水寺に到着する。 いあって〈次第〉を謡う。ワキは正面を向き〈名ノリ〉を述べ る。ふたたび向かいあって〈上歌〉を謡う。〈上歌〉の末尾で 旅碑地方の国々の都をあとに隔てて来て、 ワキは歩行の態を示した後、正面を向き、〈着キゼリフ〉を述 国府を次々にあとにして旅を続け、都の べ、一同脇座に着座する。 春に急いで行こう。 旅僧「わたくしは東国のほうから出て来た僧 〔次第〕 ひなみやこち であります。まだ都を見ておりませんの 一「鄙の都」は、国司の役所の所在地。ワキ 气〈次第〉鄙の都路隔て来て、鄙の都路隔て来て、九重 ワキツレ で、この春思い立ちました。 国府。 ニ帝都。京都。 旅「もはや季節も、春三月の半ば、三月半 の春に急がん。 三※下掛系は「出でうよ」。 ばの春の空は、日ざしものどかに移りゆ とう′こくがた おとわやま かす き、夕日影に霞むかなたは音羽山なのか、 ワキ「〈名ノリ〉これは東国方より出でたる僧にて候。われいま 滝の響きも静かに聞こえてくる、清水寺 この春思ひ立ちて候。 だ都を見ず候ふほどに、 に着いた、清水寺に到着したのであった。 ころはややよひなか 旅僧「急ぎましたので、早くも都に着き、こ ワキ气〈上歌〉頃も早、弥生半ばの春の空、弥生半ばの春の ワキツレ こは清水寺とか申すようです。ここの桜 かす おとはやま六 が今まっ盛りと見えます。人の来るのを 空、影ものどかにめぐる日の、霞むそなたや音羽山、滝の 待って、詳しく尋ねたいと思います。 きよみ・つでら 響きも静かなる、清水寺に着きにけり、清水寺に着きにけ従僧「それがよいと思います。 一人の童子が登場し、春たけなわの地主 権現の花をほめたたえる。 せいすいじ ワキ「〈着キゼリフ〉急ぎ候ふほどに、これは都清水寺とかや申童子「自然にそのまま春の手向けの花となっ ていることだ、この地主権現の花盛りの すげに候。これなる桜の盛りと見えて候。人を待ちて詳し 花は。 童子「そもそも花の名所は多いけれども、観 く尋ねばやと思ひ候。 音の大慈大悲の光が色を添えるためか、 ワキツレ「もっともにて候。 この清水寺の地主の桜以上のものはない。 はぎぼうき それたからであろう、観音の大慈悲心が 〔一声〕の囃子で童子の姿のシテ登場。右手に萩箒を持つ。常座 しゅじよう 罪深い衆生に及ぶのを、春の花があたり に立ち〈一セイ〉以下を謡う。 謡曲集 八※ッ 四※ ここのヘ ごんげん じしゅごんげん じしゅ

3. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

きゃうかくだう かす すら霞み、低くものかなしげに鳴いて旅 書堂」に『法華経』をおりこんである。シテ「経書堂はこれかとよ。 ニ 0 清水寺門前の来光院の別称。 路をゆく雁の姿が見える。 こやすたふ 三※下掛系は「たらちめを尋ぬなる」。地謡气そのたらちねを尋ぬなる、子安の塔を過ぎ行けば、 熊野「その北の空に輝く北斗の星を祭ってい 一 = 一子安観音。清水寺門前の泰産寺 る北斗堂の前を通ってゆくと、 の別称。なお下掛系は「子安の塔もシテ气春の隙行く駒の道、 過ぎ行けば」。 地謡「桜の花ばかりでなく仏法の花も開い ニ三「春の日」「隙行く駒」「駒の道」 ているという、 地謡气はや程もなくこれそこの ( 右のほうを見る ) 、 きようしよどう と重ね、全体で、「はや程もなく」の 熊野「経書堂はここであるとか。 くるまやどり 序。「隙行く駒」は人生の短いことの シテ气車宿 ( 左のほうを見る ) 、 たとえ。『史記』留侯世家に「人生マ 地謡「子がその親を尋ねるとかいう、子安 レテ一世ノ間 ( 、白駒ノ隙 ) ヲ過グ ンまとどめ はなぐるま ころもはりまカた の塔を通り過ぎてゆくと、 ルガ如シ」とある。ここでは、道の地謡气馬留、ここより花車 ( 車を下りる ) 、おりゐの衣播磨潟、 熊野「春の日永ながら車の進みは早く、 りの早く進んだ意に用いていると考ニ九 しかま かちちきよみづ おんまへ ねんじゅ 地謡「もはやここはこの車を留める、 え、いちおうロ語訳のように解した。 くるまやどり 飾磨の徒路清水の ( 中央へ行く ) 、仏の御前に、念誦して、母 ( 熊野 ) ニ四車を待たせておく所の意から出 熊野「車宿、 三ニ※ うまとどめ た、清水寺門前の地名。一宝馬をつ の祈誓を申さん ( 膝をついて正面へ合掌する。ツレはシテのうしろに、 地謡「馬留。それでここから花見車を下り、 ないでおく所の意から出た、清水寺 きよみ・てら おんまえ 歩いて来て清水寺の仏の御前に参り、心 門前の地名。ニ六花見の車。 ワキは脇座に、ワキツレは地謡座前に、それぞれ着座する ) 。 ニ七「 ( 花車 ) 下居」で、車より下り 中深く母のためにお祈りを申そう。 る意。「おり」が「織り」に音が通する ワキ・ワキツレ着座のまま問答し、ワキツレは立ってツレのも 宗盛によって花見の酒宴の場に呼ばれた ので、「衣」に続け、「張り」と音の通 とへ行き、ワキのことばを伝える。ツレがシテにこれを伝える 熊野は、興を添えるために、あたりの風 ずる「播磨潟」の序とした。夭兵庫 なが と、シテは常座へ行き、あたりの人々へ声をかけ、〈クリ〉で 物を眺めて謡いながら舞って、花の美し 県西南部の海。その沿岸の地名「飾 磨」の序。 中央へ行き着座する。以下あって、〈クセ〉となり、シテは立 さをたたえる。 ニ九兵庫県姫路市飾磨。その名産が って地謡に合わせて舞い、大小前で留める。 宗盛「だれかいるか。 「褐巴 ( 濃紺色の染物 ) なので、同音 たれ 従者「お前におります。 の「徒巴の序。すなわち「おりゐのワキ「いかに誰かある。 衣」以降は「徒」の序。 宗盛「熊野はどこにいるか。 みどう 三 0 徒歩で路を行くこと。 ワキツレ「御前に候。 従者「まだ御堂においでであります。 三一「 ( 徒路 ) 来こと掛詞。 宗盛「どうして熊野はぐずぐずしているのだ、 = = 一※下掛系は、この次にシテの謡 ワキ「熊野はいづくにあるそ。 「南無や大慈大悲の観世音、母に 急いでこちらへと申しなさい。 みだうござ 会はせてたび給へ」が入る。 従者「かしこまりました。 ワキツレ「いまだ御堂に御座候。 従者「朝顔に申しあげます。もはや花のもと なに をそ ワキ「何とて熊野は遅なはりたるそ、急いでこなたへと申し候でのご酒宴が始まっております。急いで 熊野 ひなが

4. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

かしこま きよみずでら 宗盛の屋敷より清水寺まで、車中の熊野 ワキツレ「畏って候。 ( もとのまま着座する ) は沿道の所々を眺めるにつけても、思う いへうち のは母のこと。やがて清水へ着いて、仏 地謡气牛飼車寄せよとて ( ワキは立 3 、これも思ひの家の内、は ^ 「思ひの家」 ( もの思いにとざされ 前に母のことを祈る。 さき ている家、の意 ) に「火の家」の意を 含ませている。「火の家」、すなわちゃ御出でと勧むれど ( ワキ、シテ〈一歩出る ) 、心は先に行きか熊野「その名も清らかな清水寺〈と、川の流 「火宅」は、苦しみに満ちた現世のこ あしょわぐるまちから れにしたがって尋ねて来ると、 おとわ と。『法華経』の譬喩品に、火宅を牛ぬる ( シテ・ツレ、立 3 、足弱車の、カなき花見なりけり。 ( シテ、 地謡「賀茂川の水は音立てており、音羽の 車で出る話があるので、「牛車」の縁 で用いた。 車に入り、ツレはそのうしろに立つ。ワキは脇座前に立ち、ワキツレは -k 山の山桜が見える。 九車輪のしつかりしていない車。心 熊野「東国とて東の方向ゆえ、東山へ行くこ のすすまないことをたとえ、「カな 刀を持ってワキのうしろに立っ ) とはせめてものこと、なっかしく感ぜら き」を引きだす。 れることである。 一同花見に行く態にて、〈一セイ〉〈サシ〉〈下歌〉〈上歌〉と続地謡「春早いころに雨が降ると花の開くこ 。〈ロンギ〉の掛合いの謡の末尾で、シテは車を下り中央へ行 とは早く、秋遅くなっても霜が降らない き、正面へ合掌する。ツレは大小前、ワキは脇座、ワキツレは となかなか葉は落ちないものである。山 地謡座前に着座する。後見は車をかたづける。 の向こうにさらにまた山があって山は尽 と きることなく、路の中にさらにまた多く シテ气〈一セイ〉名も清き、水のまにまに尋め来れば、 一 0 「清き水」で清水寺を表わす。 の路があって路のなくなることはないの 一ニ※おとは やまざくら 一一「水」は賀茂川のこと。参考「花散 れる水のまにまにとめくれば山には地謡气川は音羽の山桜。 春もなくなりにけり」 ( 古今・春下清 あづまち ひがしやま 熊野「山はあるいは青くあるいは白く見えて、 、ぎよはらの 0 原深養乂 / ふかやぶ シテ東路とても東山、せめてそなたのなっかしゃ ( 東の空を望 雲が行ったり来たりしている。 三※下掛系は「山は音羽の花盛り」。 一三「音羽の山」は東山三十六蜂の一。 みシオリをする ) 。 地謡「人はあるときは楽しみあるときは悲 清水寺東方の山。 しむ、これらは皆世の中の有様なのであ シう′」 しゅんぜん 一四賀茂川の東に連なる丘陵。 地謡气〈サシ〉春前に雨あって花の開くる事早し、秋後に霜な る。 一五『謡抄』『謡曲拾葉抄』によると、 らくえふ ろチうみち 以下の部分は、『百聯抄解』所収の 地謡「だれかが言ったとかいう、春の色は うして落葉遅し。山外に山あって山尽きず、路中に路多う 詩句「春前有レ雨花開早、秋後無レ霜 東のほうよりやって来るのだと。まこと みちきはま 葉落遅」「山外有レ山山不レ尽、路中 にそのとおりで、のどかな東山のけしき して路窮りなし。 多レ路路無レ窮」「山青山白雲来去、 である。 人楽人愁酒有無」によるという。 」「四条五条の橋の上、四条五条の橋の 熊野 シテ气山青く山白くして雲来去す。 おんニ さんと ッ らいきょ

5. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

謡曲集 うち たま ないちん たま 一神社の本殿や寺院の本堂で、神体開ける型をする ) 、内に入らせ給ひけり、内陣に入らせ給ひて、花の散る桜の木陰で旅寝し、花もま または本尊を安置してある所。 ことに美しいこの仏事の場において、迷 , 笛方が一噌流の場合、常座で留めけり ( 静かに中入する ) 。 いをもたぬ月の光のもと、このありがた て中入するときは〔送り笛〕を吹くが、 い」′、じゅ ほけきよう さんけ、 い法華経を読誦することだ、この法華経 三 / 松で留めるときは吹かない。 アイの清水寺門前の者が出て常座に立ち、観音に参するとて みようもん , 橋がかりへ行き、三ノ松で留めて の妙文を声立てて読むことである。 角へ出て、ワキの僧のいるのを見つける。アイは中央に着座し 中入する演出もある。流儀によって て、ワキの尋ねに応じ、田村丸による清水寺創建の子細を語り、 さぎほどの童子が田村丸の姿で登場し、 は、三ノ松で舞台を望み、そのまま 田村丸への供養を勧めて狂言座に退く。 天皇の命によって鈴鹿の賊を討伐に赴い うしろ向ぎに入る場合もある。 ワキ・ワキツレは着座のまま〈上歌〉を謡う。 ニ※下掛系および現行観世流は「ゐ たことを語る。 て」。繰返しも同じ。三妙法花の文 田村丸「ああありがたいお経であること。清 ワキ气〈上歌〉夜もすがら、散るや桜の蔭に寝て、散るや桜 字を含めて、読誦するお経が『法華ワキツレ 水寺の音羽の滝波は、まことに『一河の 経』であることを示す。四※下掛系 は「法の道」。五※下掛系は「かの・ : 」。 の蔭に寝て、花も妙なる法の場、迷はぬ月の夜とともに、 流れを汲むのも世生の縁』といわれてい ただし繰返しは「この : ・」。 五※おんきゃうどくじゅ るとおり、旅のお僧にことばをかわす機 ど物」よら・ マ流儀によっては、一ノ松で謡い出 この御経を読誦する、この御経を読誦する。 縁となった。この夜の読経の声は、とり す演出もある。 六※下掛系は「面白の折からやな」。 もなおさず大慈大悲の観世音の、衆生を 〔一声〕の囃子で武将の姿の後シテが登場し、常座に立って謡い しようぎ 七※下掛系は「地主権現の花盛り」の お守りくださることに深くつながってい 出す。地謡となると、シテは中央へ出て床儿に腰をかける。〈ク 一句が入る。 ^ 次の「一河の流れ」 ることなのだ。 セ〉となり、一句を謡ってから立ち、以下地謡に合わせて舞う。 が、この場合は「清水寺の滝っ波」で 続いて、合戦の様子を表わす〔カケリ〕を力強く舞う。常座で 旅僧「ふしぎなこと、花の光に輝いて、男の ある。九同じ川の流れを汲むとい かた 留める。 うようなわすかな触れ合いも、前世 方が姿をお見せになった。あなたはどな からの因縁によるものである、その たでいらっしゃいますか。 ような旅人に、という意。「一樹の 田村丸「今は何をつつみ隠そうぞ、五十一代 陰に宿り、一河の流れを汲むも、皆 おんきゃうセ※きよみづでら 平城天皇の御代に生きていた坂の上の田 これ他生の縁」のような表現は中世シテ〈サシ〉あらありがたの御経ゃな、清水寺の滝っ波、ま においてしばしば用いられている。 九 村丸である。自分が東国の逆賊を平らげ いちが たしゃう一 0 ※ たびびと 一 0 ※下掛系および現行観世流は「縁 こと一河の流れを汲んで、他生の縁となる旅人に、言葉を悪魔を押さえつけ、天下泰平の御代にす あナる旅人に」。 = 衆生の祈願に応じ よごゑ だ、じだいひ くわんノんおうご るため忠勤をはげんだのも、わたくしの て、観音がこれを守ること。三仏 かはす夜声の読誦、これそすなはち大慈大悲の、観音擁護 法と縁を結ぶこと。なお下掛系は 力ではなく実はこの寺の観音のお力なの けちえん 「直道なる」。現行観世流は「結縁た の結縁なる。 り」。一三※下掛系は「うつろひて」。 地謡「さて、それというのは以下のよう 一四※下掛系は「そのさま気高纓き男 ワキ气ふしぎゃな花の光にかかやきて、男体の人の見え給ふな次第である。天皇がご命令なさるには、 六※ たへ り※ は なんたい しゅじよう

6. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

謡曲集 はなもり おんニ 一「御入んる」は「居ゐる」の敬語。 花守にて御入り候か。 しようか、いずれにしても由緒のある者 ニ神社に仕える者。三いずれにして ざうらふ ちしゅごんげん とお考えなさってください。 〉テ「さん候これはこの地主権現に仕〈申す者なり。いつも花旅僧「なんとまあ面白い答えだ。それならま 流儀によっては、中央へ出て〈語 ころこかげ リ〉を行なう。 ずこの寺のご由来を、詳しく語ってくだ の頃は木蔭を清め候ふほどに、花守とや申さん、また宮っ 十この〈語リ〉は下掛系がやや詳しく さいませ。 長文であり、人名の表示その他に小 童子「そもそもこの清水寺と申すのは、大同 ことや申すべき。いづれによしある者と御覧候へ。 異がある。以下に主要な点だけ注記 こんりゅう する。 ごらいれきくは 二年のご建立、坂の上の田村丸のご祈願 四平城天皇の第二穴 0 七 ) 年。清水寺ワキ「あら面白の答へやな。まづまづ当寺の御来歴、詳しく語 によるものである。昔大和の国の子島寺 げんしん の建立は、『帝王編年記』には延暦十 という所にいた賢心といった僧が、観世 五 ( 七九六 ) 年、『水鏡』『拾芥抄』には延り給ふべし。 音そのもののお姿を拝もうと誓いを立て 暦十七年としている。五坂上田村 ・こさうさう だいどう たのであるが、あるとき木津川の川上か 麿は平安初期の武将 ( 〈 ~ 〈一 I)O 桓シテ「〈語リ〉そもそも当寺清水寺と申すは、大同二年の御草創、 武・平城・嵯峨の三天皇に仕え、征 ら金色の光がさしたので、尋ね求めて川 たむらまるごぐわん こしまでら 夷大将軍となり、東北の蝦夷を平 坂の上の田村丸の御願なり。昔大和の国子島寺といふ所に、 を遡っていってみると、一人の老人が 定して武勲をたてた。六奈良県高市 ぎよう げんしん しやもんしゃうじんくわんぜおん / 郡高取町にある観音寺。七子島寺の いる。この老人が語るには、『自分は行 賢心といへる沙門、正身の観世音を拝まんと誓ひしに、あ 創建者報恩法師の弟子で、後に延鎮 叡居士という者、そなたは一人の檀那を と改めた。下掛系は「延鎮」とする。 のぼッ ^ 僧侶。九画像や木像などでない、 る時木津川の川上より、金色の光さししを、尋ね上って見待ち、大寺院を建立せよ』と。そう言っ 本体そのもの。「生身」とも書く。 てこの老人は東のほうへ飛び去った。さ 一一※いちにんらうをう おきなツ ぎゃう 一 0 京都府相楽郡を流れて淀川に合れば一人の老翁あり、かの翁語っていはく、われはこれ行 ような次第で、行叡居士というのはすな かんぜおんぼさっ 流する川。下掛系では「淀川」とする。 えこじ だんな たしカらんノこんリふ わち観世音菩薩の仮にこの世にあらわれ = ※下掛系では、「見れば」の次に叡居士といへり、汝一人の檀那を待ち、大伽藍を建立すべ たお姿、また檀那を待てと言われたその 「この滝壷に至りぬ。観音の仏像赫 ひがし 奕として顕讐れ給ふ。また山上のしとて、東をさして飛び去りぬ。されば行叡居士と言っぱ、檀那は、すなわち坂の上の田村丸のこと。 木の間より、ともしびの影ほのかに くわんノんさッた ま 地謡「今に至るまで、まことに有名な清水 見えしを、しるべに上 2 りて見れば」 これ観音薩の御再誕、气また檀那を待てとありしは、こ の観世音、その有名な清水の観音の、深 と入って、「一人の老翁あり」に続く。 せんじゅみて 三※下掛系では、「いへり」の次に いご誓願は数々あり、千手の御手のそれ れ坂の上の田村丸。 「われこの地に住んで七百歳なり」と それに、さまざまなお誓いが広くゆきわ きよみづ 入る。一三僧の側から見て、仏のた たり、この国土のどの民をも漏らすまい めに金品などを施す信者。一四大寺地謡气〈上歌〉今もその、名に流れたる清水の、名に流れたる とする、大慈大悲のご恩沢はまことにあ 院。「伽藍」は仏道を修行する所。 せんじゅみて 一五※下掛系では、「去りぬ」の次に清水の、深き誓ひも数々に、千手の御手のとりどり、さま りがたいことだ。いやまったく極楽世界 こつがは 一ニ※なんち ごさいたん こんじき やまと こんじき さかのば やまと ゆいしょ だんな こしまでら

7. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

一 ^ 八坂神社の南にあった林。 地謡气よしゃよしなき世の習ひ、歎きてもまたあまりあり ( シわることが早く、鐘は寒々とした雲に隔 一九清水寺の北西、京都市東山区下 てられているために、音の伝えられるの 河原町。 オリをする ) 。 が遅い ニ 0 衆生の苦しみを救済しようと守 四 ぎおんしようじゃ くわぜんてふ 「瀞寺の鐘の響きは、祇園精舎の鐘 る仏や菩薩の心を霞にたとえた言いシテ气〈サシ〉花前に蝶舞ふ紛々たる雪、 方。「大悲擁護の霞は熊野山にた の音そのままに、諸行無常の声を伝えて きた じしゅごんげん しゃ リうしゃううぐひす リうすし なびき」 ( 平家巻十・熊野参詣 ) による。 いるのかしら。地主権現の花の色は、沙 地謡「柳上に鶯飛ぶ片々たる金。花は流水に随って香の来る らそうじゅ じようしやひっす、 三和歌山県にある熊野三社の祭 と 羅双樹と同じく白色で、盛者必衰の道理 かんヌん / 神、熊野三所権現。 しようじやひつめつ 「熊野権現の移ります」で合掌する事疾し、鐘は寒雲を隔てて声の至る事遅し。 を示しているのである。生者必減という 演出もある。 ぎをんしゃうじゃ しよぎゃうむ のはこの世の習いであり、まことに世上 しやかによらい ニニ京都市東山区にある今熊野神社。地謡气〈クセ〉清水寺の鐘の声、祇園精舎をあらはし、諸行無 にその例のあることなのだ。釈迦如来も 九 後白河法皇が熊野より勧請された。 りようじゅせん しゃう ちしゅごんげん しやらさうじゅことわり じゃう ニ = 京都市伏見区の稲荷山。清水寺常の声やらん、地主権現の花の色、沙羅双樹の理なり。生その昔は世をお捨てになって、霊鷲山で の南、京都市の東山区と伏見区との 説法をなさったが、その名をこの国に残 じやひつめつ りい、よ′じ 境にある山。山麓に伏見稲荷大社が 者必減の世の習ひ、げに例あるよそほひ、仏ももとは捨て しているのは霊鷲山桂橋寺。立ち出でて ある。以下は「時雨する稲荷の山の 一ニ※うへ 見れば、峰のあたりに雲、いやあれは花 もみち葉は青かりしより思ひそめて ぎおんばやし しもかわら し世の、半ばは雲に上見えぬ、鷲のお山の名を残す ( 立 3 、 き」 ( 袋草紙上、十訓抄巻十、沙石集 かしら。祇園林や下河原の初桜も見渡さ はっざくら 一五かつらはしばしら 通釈は困難であるが、ロ語訳参照。寺は桂の橋柱、立ち出でて峰の雲、花やあらぬ初桜の ( 正面れる。 熊野「南のほうをはるかに眺めると、 ぎをんばやししもがはら 「葉の秋」は、次句の「花の春」と対照 しゅじよう 先へ出る ) 、祇園林下河原 ( 中央へ下がる ) 。 させるための文飾。 3 「薄くむかなたに、大慈悲心で衆生 くまのごんイん ニ四清水の観音の御歌「ただ頼めしめ を守りたまう熊野権現のお移りになった、 ぢが原のさせもぐさわれ世の中にあシテ气南をはるかに眺むれば ( 上ゲ扇をする ) 、 お名前も同じ今熊野の神社が見え、稲荷 らんかぎりは」 ( 沙石集巻五 ) により、 だいひオうこ うすがすみゆやごんげん 「ただ頼め」のお歌の頼もしいことよ、地謡气大悲擁護の薄霞、熊野権現の移ります、御名も同じ今の山は秋の紅葉で名高いが今は青葉。ま と続けた。なお、『新古今集』釈教で た春の花としてはここ清水、『ただ頼め』 ぐまの うすもみち は、初句「なほ頼め」、四句「わが世熊野、稀荷の山の薄紅葉の ( 高く山をさして見まわす ) 、青かり との観音のお歌のまま、まことに頼もし の中に」。 ぎよみづ いことで、春日遅々とした中で、花はま ニ五花が咲き乱れる意に「春日遅々」 し葉の秋 ( 角へ行く ) 、また花の春は清水の ( 扇をかざして大小前へ の意を含ませた。 っ盛りである。 マ〈クセ〉を常座で留める演出もある。 熊野が宗盛に酒を勧める。宗盛は熊野に 流儀によっては〈クセ〉を中央に着座行く ) 、ただ頼め頼もしき、春も千々の花盛り ( 大小前で留める ) 。 舞を舞うように命ずる。熊野の舞の途中 して留める。 で村雨が降って来たので、熊野は舞をや シテはワキへ酌をする。ワキのせりふあって、シテは二ノ松へ 熊野 せいすいじ へん・ヘん ためし きん五 なげ わし ッ カ むらさめ

8. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

田村 作者世阿弥作という確証はないが、『能本作者註文』『いろは作者註文』 『歌謡作者考』『自家伝抄』『二百拾番謡目録』等すべて世阿弥の作とする。 りやく 主題清水寺の縁起を中心に、観音の利益をたたえ、また、田村丸の武勇を 示す。 のしめ すみばうし しけみずごろも 角帽子・経水衣・無地熨斗目 人物ワキ 旅僧 よれ ワキツレ従僧 ( 二人 ) 角帽子・縷水衣・無地熨斗目 いろいりぬいまく シテ 童子 童子・黒頭・経水衣・紅入縫 かみしも アイ 所の者 狂言上下 なしうちえぼし 後シテ 田村丸 平太・梨打鳥帽子・法被・半切 備考太鼓なし。五流にある。 シテが源平の武将でなく、また前シテが老翁ではなくて童子であるのは、 他の修羅物と異なる点である。 前場は春たけなわの都清水寺、堂守の童子によって清水の観音の縁起が 語られる。後場は坂上田村麿の勇壮な逆賊征伐の物語であり、鬼神の亡ん だのもひとえに観音の仏力であると結ばれる。前後を通じていささかのか げりもなく、およそ修羅の苦しみなどには触れていない。他の修羅物と趣 を異にしている。 こしまきもぎどう かっしぎ 、ろいりぬいはく かえしようそく 《替装束》の場合、前シテは喝食の面をつけ、紅入縫箔の腰巻裳着胴の てんじん とうかんむり けん 姿、後シテは天神の面をつけ、黒頭に唐冠をいただき、剣を背負う、とい う姿になる。この後の姿は、人間というより神体のいでたちである。 多くの作者付は世阿弥作としているが、世阿弥の伝書中には本曲につい ての記述が見られない。ただ、本曲と何らかの関係があると考えられる くせまい 「水寺の曲舞」について、『申楽談儀』別本「聞書」に言及されている。 田村 むら はっぴ はんぎり 萩箒を持った地主権現の花守の童子。修羅物の前シテがこのような童子の姿で登場す るのは本曲のみである。

9. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

三「 ( 尋ぬる人に ) 会ふ」と掛詞。 四「 ( わが子を ) 見る」と掛詞。 四八八 たうじさんろうによしゃうじゃうらう きよみずでら 清水寺の門前の者が迎えに来て、霊夢を の程当寺参籠の女性上﨟に、お宿を参らせて候ふが、やうや おんげかうじぶん あひだ 占う。三井寺に行くよう勧められて、出 う御下向の時分にて候ふ間、お迎ひに参らばやと存ずる。 かけてゆく。 ( シテを見つけて ) いや、はやこれへ御下向にて候。宿の亭主御 門前の者「ここに出て参りましたわたくしは、 迎ひに参りて候。まづこれにお腰を召され候へ ( シテを中央で すみ 清水寺の門前に住む者であります。さき 床几にかけさせて、アイは角に着座する ) 。 ごろこのお寺にご参籠なさった女の方に、 ごさんろう ごれいむ いかに申し候。御参籠の間何にても御霊夢はござなく候ふか。 お宿をしてさしあげましたが、そろそろ それがし 一ゅめあ 某門前にて、夢を合はする者にて候ふ間、御霊夢の候はば お下がりのころでありますので、お迎え に参ろうと思うのである。 合はせて参らせうずるにて候。 いや、もはやここへお下がりであります。 すいめん かうむ シテ「ただいま少し睡眠のうちにあらたなる御霊夢を蒙りて候。宿の亭主がお迎えに参りました。まずこ れにお腰をおかけください。 アイ「それは何と申す御霊夢にて候ふそ。 申しあげます。ご参籠の間に何かご霊夢 あ はございませんでしたか。わたくしはこ ニ園城寺いの通称。大津市園城寺シテ「わが子に逢はんと思はば、三井寺へ参れとあらたに御霊 の寺の門前において、夢占いをする者で 町にある。天台宗寺門派総本山。 ありますので、ご霊夢がありましたら夢 夢を蒙りて候。 あわ 合せをしてさしあげましよう。 アイ「これはめでたき御霊夢にて候。まづ尋ぬる人に、近江の国、母「ただいま少し眠っている間に、あらたな わが子を、三井寺。や、かほどめでたき御霊夢はあるまじく 夢のお告げをいただきました。 門前の者「それはどのようなご霊夢でありま 候ふ間、急ぎ三井寺へ御参りあれかしと存じ候。 すか。 おんナは っげまか シテ「あらうれしと御合せ候ふものかな。告に任せて三井寺と母「わが子に会おうと思うならば、三井寺へ 参れと、あらたかなお告げをいただきま 楼やらんへ参り候ふべし。 ( シテは立って中入する。アイも退場する ) 門前の者「これはめでたいご霊夢であります。 後見が鐘楼の作リ物を角へ出す。〔次第〕の囃子で、子方の千満、 おうみくに のうりき まず、尋ねる人に会うという、近江の国、 ワキの園城寺の住僧、ワキツレの従僧、アイの能力登場。アイ わが子を見るという、三井寺。いや、こ は狂言座に着座する。子方・ワキ・ワキツレは正面先に向かい れほどめでたいご霊夢はまたとあります あう。ワキ・ワキツレは〈次第〉を謡う。子方・ワキは正面を 謡曲集 三京都市東山区にある。北法相宗 本山。本尊は十一面観音。清水の観 音として厚く尊崇されていた。 一夢占いをする者。 鐘 ( 舞楽蘂葉大全 ) おんじようじ おんまゐ なに むか やどていしゅおん 三あふみ せんみつ さんろう かた

10. 日本古典文学全集(33)-謡曲集(1)

ごせいぐわん一四 願にも偽りはなく、の意。 地謡气われ世の中に、あらん限りはの御誓願、濁らじものをのただよう春で、天までも花に酔ってい 一五緑の芽も吹く。 きよみづ あをやぎ るかのよう。なんとも面白い春のけしき、 実「万の仏の願よりも、千手の清水の、緑もさすや青柳の、げにも枯れたる木なりとも、 ああ面白い春であること。 誓ひぞ頼もしき、枯れたる草木もた さくら - ちまちに、花咲き実なると説とい給 旅の僧から名を尋ねられても、童子は明 花桜木のよそほひ ( 左手を頭へやって月を仰ぎ見る ) 、 いづくの春 ふ」 ( 梁塵秘抄 ) とあるように、枯木 白には答えす、そのまま田村堂の中に入 ありあけ に花を咲かせることは千手観音の仏 ってしまう。 もおしなべて、のどけき影は有明の、天も花に酔へりや、 力と信ぜられていた。 一七「 ( 花 ) 咲く」と掛詞。 地謡「いやまことに、様子を見ているだけ 面白の春べや、あら面白の春べや ( 中央に着座する ) 。 入「 ( 影は ) あり」と掛詞。 でも、ただのお人ではないことが伺われ . かた 一九「春ノ暮月、月ノ三朝、天花ニ酔 るが、あなたはどういうお方かしら。 ヘリ、桃李ノ盛いかナレバ也。 : ・」 ( 和 〈ロンギ〉の掛合いの謡があって、地謡となると、シテは立ち、 漢朗詠集・三月三日付桃菅原道真 ) 童子「だれかと言われても、さあその名も知 扇で田村堂の戸を開ける型をして、中入する。 による。 られぬ者。ただわたくしのことに関心を 一一 0 「 ( その名も ) 知らず」と掛詞。「跡」 もたれるのなら、この寺に帰る方向をご の序。 地謡气〈ロンギ〉げにや気色を見るからに、ただびとならぬよ らんなさい。 三※下掛系は「見給へ」。 ニニ※下掛系は「いづこ蘆垣の」。 「いったいどこへ帰るのだろう、近い そほひの、その名いかなる人やらん。 ニ三「間近き」の枕詞。蘆で作った垣 所か、または遠い所か。 しらゆき の編み目が密だからである。 シテ气いかにとも、いさやその名も白雪の、跡を惜しまばこ女 ) 「気がかりにお思いなさるのなら、わ ニ四「遠ごすなわち遠い所の意をあら わした後、「遠近のたづきも知らぬ たくしの行く先を見なさい、と言って、 山中におぼっかなくも呼子鳥かな」 の寺に、帰る方を御覧ぜよ。 童子は地主権現のお前よりくだるかと見 ( 古今・春上読人知らす ) の歌を引 あしがき まちかほどをちこち えたが、くだりはしないで坂の上に登り、 き、「おぼっかなくも」を導き出して地謡气帰るやいづく蘆垣の、間近き程か遠近の、 田村堂の軒先を漏れる月影が、まだらに いる。したがって「山中に」までは やまなか さしている扉を押し開けて、その中にお 「おぼっかなくも」の序で、意味をもシテ气たづきも知らぬ山中に、 たない。そのためロ語訳では、シテ 入りになった、田村堂の奥へとお入りに たま ゆかた の一句を省いた。 地謡气お・ほっかなくも、思ひ給はば、わが行く方を見よやと なったのであった。 ニ五坂の上にある。坂上田村麿の「坂 おんまへ の上」を含ませ、次の句へ続く 清水寺門前の者が僧の問いに応じて清水 て ( 居立ち、ワキを見る ) 、地主権現の御前より ( 立っ ) 、下るか ニ六清水寺の境内にあり、田村麿お 寺の縁起を語り、田村丸のための仏事を のきも よび行叡・延鎮の像が安置してある。 勧める。 ド一、よ′ と見えしが、下りはせで坂の上の、田村堂の軒洩るや ( 頭 ニ七軒先から漏れた月の光がまだら 僧は夜どおし桜の木陰で読経する。 にさしている扉。「むら戸」は未詳。 編戸のことか。 へ手をやって見あげる ) 、月のむら戸を押し開けて ( 扇を開いて戸を旅譱「夜の間ずっと、花の散る桜の木陰に寝 田村 かたニ一※ ゑ