裸で 家事をする主婦は 正しいのか ? アメリカの新聞にも日本と同じように人生相談コーナ 1 があって、僕はそのけっこう熱心な読者だった。おか げで当地で四年半暮らしているあいだに、一般のアメリ カ人の抱えている悩みにはかなり詳しくなれたような気 あふ がする。洋の東西を問わず世界は数多くの悩みで溢れて いるわけだが、しかしアメリカ人と日本人の悩みの内容 にはかなり差があるよ、つな気がする。「アメリカでも日 本でも、人間の悩みというのはだいたい同じようなもの まれ なんだ」と思うことは稀で、「そうか、同じ悩みといっ ても国が違えばこんなにも違うものなんだ」と深く考え D 込むことの方がはるかに多かった。 悩みの内容だけではない。日本の回答者とアメリカの 回答者とでは、答え方のパターンがずいぶん違う。日本 の場合はわかったようなわからないような情緒的な回答 や、あるいは上から意見されているような味気ない回答 をしばしば見かけるが ( 一般的にそういうものか求めら れているのかもしれない ) 、アメリカだと「なーるほど、
あと値段のことで局地的に釈然としないのは、缶入りのシェーヴィング・クリームで ある。たとえばこのあいだ日本の薬局で買った百五十グラム入りのシェーヴィング・ク ームは四百八十円した。でもアメリカのスー ーでは三百十二グラム入りのものが、 一ドル四十九セントしかしなかった。計算機でばたばたと計算してみると、グラムあた りの価格差はおおよそ , ハ倍になる。これもあまりといえばあまりである。 だからアメリカに行くたびに、僕は〈ウォルマート〉に寄って「なんでこんなことを れ らしなくちゃならないんだ」と思いながら、シェーヴィング・クリームの缶をまとめ買い てすることになる。シェーヴィング・クリームなんて金額的にみればたいしたものではな いのだけれど、こ、つい、つ値づけはやはりフェアじゃないと思、つから。 あと音楽 OQ なんかも、日本はまだ高い。僕はジャズ・ピアニストの大西順子が好き 上で、彼女のものをよく買って聴いている。世界的に見ても第一級のミュージシャンで、 そのしつかりとしたドライプ感と選曲のセンスの良さにはいつも感心させられる ( なん となくアール・、 ノインズのタッチに似ているところがあると思いませんか ) 。アメリカ のレコード店でもよく見かける。しかし同じ日本制作の OQ が日本で買うと二千八百円 で、アメリカの量販店で買うと十ドルちょっとである。もちろんいつもいつもアメリカ まで行って買っているわけによ ) 、 ( し力ないから、適当に日本で買ってはいるけれど、これ 186
ントを置いて、「ハイナケン」というくらいの感じで発音するのが好ましいが、そこま こよちゃんとハイ、不ケン・ビールが運ばれて でやらなくても楽に通じます。あなたの前ーー きます。おそらく。たぶん。きっと。 しかしビールにしてもガソリンにしても、アメリカから師ってくると、日 , 不は・不ョに あせん 値段が高くて唖然としてしまう。あっちではビールは小瓶が一本一ドル以下だし、ガソ て リンはハイオクで満タンにしても二十ドルを超、んることはまずなかった。日本でガソリ っ 熱ンを入れると、下手すると一万円近い金額になる。いくら大声で明るく挨拶されても、 うれ れこれではちっとも嬉しくないですよ。当たり前の話だが、無ロでも安い方がいい しかしアメリカにおけるビールとガソリンの圧倒的安さも、いつまで続くかはわから ピないという微妙な情勢にある。現在のアメリカの巨額の財政赤字を解消するためには、 ン酒税とガソリン税の増税が不可欠だと多くの専門家は指摘しているからだ。でももしク ネ リントン大統領がそんなことを一言でも口にしたら、再選はまずありえないだろう。自 動車とビールと銃は、誰がなんと言おうと、アメリカの大多数の男たちにとっての譲る ことのできない最後のピケットラインなのである。さて、どうなることか。
「この人がもし日本語で話をするとしたら、彼は僕と言うだろうか、それとも私と言う だろ、つか」と考えるよ、つにした。 結果的には、「僕」を使う場合が多かったと思う。 これについては何人かの方々から「ちょっと違うんじゃないか。カーヴァーの作品と いうのはアメリカの地方小都市のプルーカラーを主人公にした小説であって、そのよう たな人々が『僕』という人称を用いるのは不適切ではないか」というような指摘をいただ らいた。その意見は私、じゃなかった : : : 僕にもよく筋として理解できる。 てでも実際に僕が会って話をしたカーヴァーは、決して一面的に「あっちか、こっち か」で割り切れる人物ではなかった。「アメリカのプルーカラーの等身大の生活を描い くさび て、アメリカ文学の状況に大きな楔を打ち込んだ」と評されることの多い彼だが、カー 堂 ヴァー自身は決してそんなに単純にプルーカラーの代弁者というわけではなかった。 たしかに労働者階級の家に生まれ、若い頃にはいろんな過酷な肉体労働を経験してき たけれど、その後の人生の大半を、彼は大学町で文学仲間とともに送ってきたし、彼の 情熱の大半は思索と創作の中にそそぎ込まれていた。彼は取り澄ました「文壇」に馴染 めないものを感じ、まわりの労働者たちの生活に深い共感と同情を抱いていたが、それ と同時に自分はそこにはもう戻っては行けないのだという強い実感を持っていた。際限 なくつづく日々の肉体労働が、どれほど人を疲弊させていくかということを、彼は身に 298
日本語を不自由なく話すアメリカ人の大学教授 ( 日本文学研究 ) と、このあいだ話をした。こ の人は昔、何年か日本で生活したことがあって、そこで日本語を実地で覚えたのだが、テレビを 見ることが語学修得の最良の勉強になったということである。それはたしかにそうだろうと思う。 僕もアメリカに住んでいるときは、毎日テレビのニュースを見て聞き取りの訓練をしていた。と めいりよ・つ 日 くに O CQ co のダン・ラザーの発音は明暸でわかりやすかった。 の それで彼に、「テレビに出てきた日本人の中では、誰の日本語がいちばんわかりやすく、聞き め 取りやすかったですか ? 」と尋ねてみた。「長嶋茂雄」と彼は即座に答えた。僕はーーーおそらく みなさんも同じではないでしようかーーー一言葉もなくひっくり返った。 れ 「どうして驚くんですか」、僕が驚くのを見て、いかにも意外だという顔つきで彼は言った。「長 ら 嶋さんの日本語は、発音がはっきりしているし、内容もわかりやすい。素晴らしい日本語のお手 て本です」ということだ。そ、つか : 、しかしなあ。「でもですね、あれは「いわゆるひとつの長 嶋語』と世間一般では呼ばれていて、すごく、その、特殊な日本語として知られているんです よ」と僕は言ってみた。 堂 「ムラカミさん、私にはあなたの言っていることが、まったく理解できない。『長嶋語』とはど 日 きぜん 朝 ういうものなのか、実例を挙げてみて下さい」と彼は毅然として言った。でも僕はそのとき、ひ 上 とつも「いわゆるひとつの長嶋語」の実例を思いつけなかった。というわけで、残念ながら話は そこでうやむやに終わってしまった。彼はそのままアメリカの大学に帰っていった。いろんな人 かいるものですね。 一三ロ 333
進化する辞書 DRAÉ また辞書の話です。 このあいだあるアメリカ人に、「日本にはどうしてす きま風 (drafty) という名前のビールがあるんです か ? と真剣に尋ねられて、気になったので家に帰って 辞書を引いてみた。僕は一般的な辞書としては普通、 ( 1 ) 研究社「リーダーズ英和」 ( 2 ) 小学館「ランダムハウス英和」第二版 ( 3 ) Longman Dictionar ・ y of ()ontempor ・ ary English という三冊を愛用しているのだが、「米ロ語・生ビー ルという意味を載せていたのは ( 2 ) 「ランダムハウ ' ( 、ス」だけだった。しかしアメリカ人の大学の教授も知ら ない単語の意味を載せているんだから、「ランダムハウ ス」も偉いですね。 ちなみに昨今発刊された本の中ではもっとも有益な名 著のひとっー | ー値段は一冊五十五ドルだったが半年でし つかりモトは取った 「 Random House Historical Dictionary Of American SIang 」の drafty の項には「生ビ
ひざ その手があったか」とはたと膝を打ちたくなる有効的なものが多かった。「曖昧な日本 の回答」ではアメリカの読者はぜんぜん納得しないのである。そこにはきつばりと理屈 の通った明快な結論がなくてはならない。もうひとつ大きな違いは、日本では有名人や 有識者が本業の合間に依頼されて回答者をつとめることが多いが、アメリカではそれ専 門の「人生相談回答者 . が答えるということである。つまり人生相談の完全なプロだか ら、これは連載コラムと同じように既にひとつの芸になっていて、なかなか読ませる。 たわい の 生きる死ぬのシリアスなものから、他愛のないもの、突拍子もないものまで実にいろん ちょっとでも見当違いな回答ゃいい加減な回答をすると、 証な相談が寄せられるわけだが、 全国から非難ごうごうの反論が寄せられるので、回答者もうかうかしたことは一一一一〕えない すそうい、つ実例を僕は何度か目にした。 を 事 たとえばある日の新聞には、一人の主婦からの投書が掲載されていた。「自分はいっ 家 で も全裸で家事をしているのだが、あるときに裏口から入り込んだ男にレイプされてしま 裸 大きな精神的ショックを受けた。どうすれば、 しいか ? 」という内容である。 手元に切り抜きがなくて正確な文章が思い出せないのだが、だいたいそんな内容だっ たと記億している。それを読んだとき、僕はよくわけがわからなかった。だってどうし て主婦が全裸で、家事をしなくてはならないのだ ? 回答者も「それはたしかに気の毒 、、。可かの加減で な事件だけれど、何もわざわざ裸で家事をすることはないのではなしカ
アメリカではご存じのようにセルフ・サービスのガス・ステーションが主流になって いる。一人でスタンドに入って、クレジット・カードを機械につつこんで、むすっとガ ソリンを入れて、機械から出てくるレシートを受け取って、そのまま出ていく。「こん ちは」も「毎度」も何もない。でも僕はこのセルフ・サービスの無ロなプロセスがけっ こう好きで、セルフ・サービスとフル・サービスがあったら、必ずセルフの方に行った。 たもちろんセルフの方が値段が安いということはあるけれど、もうひとつ、英語で「満タ らンにしてください (Fi11itup,please) 」と一一一口、つのがけっこ、つしんどかったからだ。経験 てのある人はわかると思うんだけれど、これはなかなか最初のうちすらっと発音できない んですよね。アメリカ人はすごくうまく発音するけど ( 当たり前だ ) 僕が最初住んでいたニュージャージー州では法律でセルフ・サービスのガス・ステー 堂 ションが禁じられていて、しようがなくて僕は毎度毎度この「 Fillitup,please 」の発音 りゅうちょう 一ごっカー、 上練習をやっていたが、 とうとう最後まで流暢には発音できなかった。たぶん僕のロ蓋の かたちに何か問題があるのだろう。マサチューセッツ州に移って、セルフ・サービスが ささい 利用できるようになって、些細なことではあるけれど僕としてはいくぶんほっとしたも のである。「待てよ、何も満タンにすることなかったんだ。十ドルぶん入れて (Ten bucks, please) と言ってもよかったんだ」とはっと気がついたのは、ニュージャージー 州を離れてしばらくしてからだった。なんだ、もう少し早くちゃんと頭を使えばよかっ
「牛も知ってる : : : 」 妙なことが頭の隅っこに釣り針のよ、つにひっかかって しまって、外したくてもど、つにも外れないとい、つことか ある。そんなこと覚えていたくなんかないのに、なぜか 忘れられない。 丑日むかしカウシルズ (The Cowsills) とい、つアメリカ のポップ・バンドがあった。たしかカウシルさんとい、つ ハンドだったと記憶して 一家で作っていたファミリー・ いる。そのバンドのある新曲をラジオで宣伝していたの だけれど、うたい文句が「牛も知ってるカウシルズ。と いうものだった。僕はそれを聞いて「あー、くだらな い」と思ってあきれた。高校生のころのことである。で もいまだに僕はそれをしつかりと覚えている。どこかで 牛を見ると、「牛も知ってるカウシルズーとついつぶや けんお いてしまったりして、自己嫌悪におちいる。だいいち僕 はそのバンドのことがぜんぜん好きではなかったのだ。 それから一九七六年の秋にソ連空軍のべレンコ中尉が、 最新鋭のミグを操縦して北海道に亡命してきた。これ ちゅうい
下を向いて 赤、」、つ 僕がボストンに住んでいたとき、「ポストン・グロー プ」という新聞の日曜版で日本特集をやった。そのトッ プには通勤風景の写真が大きく使われていた。何百人と いう数のサラリー マンやが、ただ黙々と、朝の東京 駅の階段を下りている。みんな黒っほいコートを着て、 うなだれるように下を向いている。 それを見て僕がまず感じたのは、「この人たちはなん ゅう・つつ て不幸そうに、憂鬱そ、つに見えるのだろう」ということ だった。誰もが「ああ、嫌だ。働きたくなんかないな」 と考えながら歩いているみたいな印象を受けた。たぶん その写真を見たアメリカ人の読者も、僕と同じように感 じたのではないかと思、つ。 でも落ちついてよくよく考えてみれば、階段を下りる とき、人はだいたい足下を見るものである。そうです ね ? そして下を見れば、それはたしかにうなだれてい るように見える。おまけに真冬で寒いから、みんな首を きゅっとすくめるよ、つにしている。そして日本人ははげ