段階、太平洋戦争関係でも共通していたが、弁護側は、以上の主張を裏付けるために多彩な〃現 場証人〃をくりだした ( カッコ内は当時の職 ) 。 ▽奉天事件前の情勢Ⅱ山口重次 ( 満州青年連盟創立委員 ) 、金井章次 ( 奉天省治安維持会最高顧間 ) ▽奉天事件Ⅱ島本正一陸軍中将 ( 奉天独立守備歩兵第二大隊長 ) 、平田幸弘陸軍少将 ( 奉天歩兵第二十 九連隊長 ) 、大山文雄陸軍中将 ( 関東軍法務部長 ) 、武田寿陸軍中将 ( 関東軍作戦参謀 ) 、片倉衷陸軍少 将 ( 関東軍参謀 ) 、石原莞爾陸軍中将 ( 関東軍作戦主任 ) 、和知鷹一一陸軍中将、遠藤三郎陸軍中将 ( 関 東軍作戦主任 ) その他、上海事変、満州国独立、皇帝溥儀関係の証人もそろえ、とくに被告南大将、自決した 元関東軍司令官本庄繁大将の長男一雄の名前も、証人リストにのせられていた。 もっとも、これら証人の中には、弁護側の準備不足も手伝い、かえって検事側につつこまれて 不要の言質をとられたり、緊張しすぎて返答の要領を得ず、無価値の印象を与えた者もいた。 証言技術の問題でもあるが、そのほかにも、とかく直接法を避け、間接的な含意を尊ぶ日本式 修辞法も、通訳を悩ませ、裁判長をいらだたせ、ついに被告の不利になることもあった。 たとえば、好例として指摘できるのは、一般段階における元陸軍省戦備課長岡田菊三郎少将の 場合である。提出された書証に昭和十一一年作成の陸軍五カ年計画大綱なるものがあり、その中に、 昭和十七年以降として「戦時 ( 第一年 ) 所要能力」という項目があった。 検事側は、「ということは、すでに昭和十一一年に昭和十六年開戦を予定していたのではないか」 0
ったが、検事は、大将が、結局は関東軍司令官本庄繁大将が直接責任者だと主張するのにたいし て、それでも大将にも責任があったはずだ、とくいついた。 「ジェネラル ( 将軍 ) 、もし貴方が欲したならば本庄司令官の行動を阻止することもできたのです ね」 「そうなる」 「なぜ阻止しなかったのですか」 「戦況がそれを許さなかった」 大将はそう答えたが、コミンズ・カー検事は、なおも、南大将がほんとに満州事変に反対であ ったなら、大将の意に反する行動をとる本庄司令官をはじめ、その指揮下にあった土肥原、石原 ら幹部将校を日本内地に召還できたのではないか、とたずねた。 南大将は、「呼びかえすことはできます、しかし必要は認めない」と述べたが、泰然とした表 情に影が走った。大将は、「すべて真実、花は紅といい、柳は緑という。ウソはいわない」と、 弁護人に語っていた。そして、その言葉どおりの答弁をすすめたのだが、正直さは必ずしも裁判 の有利を約東しない。 ウソはっきたくないにせよ、また正直にといっても、答えかたは多様のはずである。質問の方 向を見こしていても、ひとつの肯定または否定の仕方が、思わぬ結論に通しないものでもないか らである。
目次 第八章弁護団の反撃 大詰にきた検事側立証武人永野修身の急死補足証拠提出 に入る検事団の立証終る米人弁護人の活躍にすがる スミス対ウェッ・フの " 闘い〃 「きな臭い」検事の反論「巣鴨 は狂宿なり」清瀬弁護人の国家弁護ュニ・ハーサル・・フラ ザーフッド 第九章南京虐殺事件 スミス弁護人の退廷満州部門の反証に入るポイント取ら 三ロ目ー れた南大将感銘与えたラザラス弁護人異例の出張 最重大戦犯″南京事件〃 弱かった残虐行為の反証「法廷で は貴下が総司令官だ」 第十章天皇の戦争責任 ウェッ・フの天皇責任問題発言スミス弁護人正式に辞任証 言台の被告たち「私には責任があります」軍人の木戸内大 8 9 2
に腹はた 「笹川クン、こんなウソつき野郎はいないよ。われわれ軍人が悪くいわれることは、」 たんが、『戦時中、国民の戦意を破砕することに努力してきました』とは、なんということを言 う奴だ。この大・ハカ野郎が」 橋本大佐も、有名な大きな鼻をびくつかせて、怒声をはりあげた。 「本来なら、こんな奴は絞めあげてくれるんだが、今はそれもできんでね」 木戸内大臣としては、こういった軍人の攻撃は覚悟のうえである。木戸内大臣が日記を検事に 提出し、赤裸々にロ供書を書いたのは、なによりもわが眼にうつった真実を「隠すところなく、 恐るるところなく」語ること、内大臣としての立場を明らかにすること、その上で責任を問われ るなら喜んで処刑されよう、という決意からである。 非難も批判も、むしろ、予想どおりだが、同時に答弁は正確で直截でなければならない。なま じ政治的配慮や微妙なニュアンスを加えては、かえって曲解されかねないからである。 木戸内大臣がすでにこのような心底では、それこそキーナン検事のニュアンスに富んだ意図は 通じがたい。キーナン検事は、満州事変、支那事変、三国同盟、太平洋戦争開幕の事情と順をお って木戸内大臣の責任を追及した。形としては、軍国主義者と闘ったといいながら、じつは気脈 を通じていたのではないか、実権はないといいながらじつは背後で大きな政治力をふるっていた のではないか、と内大臣の " 実力者〃ぶりを摘出しようとしながら、キーナン検事は、望む引込
ある。 いいかえれば、弁護段階を迎えて、東京裁判は、否応なくその本来の姿を露呈することを予感 させたが、清瀬弁論が終ったあとの法廷は、まさに虚飾をすてた進行ぶりを示していった。 たとえば、一一月一一十七日、早くもコミンズ・カー検事は、一九一一〇年の「尼港 ( ニコラエフス ク ) 虐殺事件」にかんするソ連政府の対日謝罪文を、「検察訴追国家にたいして不必要に侮辱的 な」書証であるとして、却下を申し立てた。すると提出者アリステイディス・ラザラス弁護人は、 きつばりと答えた。 「私も連合国の軍人として戦時中は従軍していた。しかし、私は現在弁護人となっている以上、 いやしくも弁護側にとって有利な証拠は、一つといえども : : : 一つも見逃すことなく、提出する つもりである」 コミンズ・カー検事は、また、中国関係の書証について、ラザラス弁護人が日本側の立場だけ を読むと抗議した。ラザラス弁護人は、平然と答えた。 「過去八カ月間にわたり、検事側が読んだとおり、私たちも自分たちで好むところを読んでいる のである : : : 」 文句があるか、といわぬばかりの様子に、コミンズ・カ 1 検事は鼻白み、ウェッ・フ裁判長も口 をとざしたままであった。 満州国皇帝溥儀を追及した・ヘン・フル 1 ス・プレイクニー弁護人も、一九一一八年のパリ不戦条約
被告自身の証言は最も重要な価値を認められる。が、それだけに、証言の出来不出来は、被告の 命運を左右しかねない。 南大将の訊問が終了するのを合図のように、巣鴨の桜は散った。例年にくらべて、とくに、桜 シーズンは短かったようである。南大将も、他の被告たちも、花のあとの葉桜を賞讃しながら、 相変らず定められた日課の毎日を送ったが、弁護人たちは各被告ごとに、今後の段階で被告自身 が証人台に立っ有利不利の検討に、頭を悩ました。 感銘与えたラサラス弁護人 ウェップ裁判長、桜花が散ると、いらいらしてきた。 満開のころは、オーストラリアから「タイ。ヒン」号で来日した夫人とともに、新宿御苑その他 で観光を楽しんでいたが、南大将の証言が四日以上もつづいたことに、またもや裁判の遅延を感 じていたからである。 四月一一十一日、裁判長は、満州段階が終ったあと弁護側の反証はあとどのくらいの期間を必要 とするかと弁護側にたすね、翌日、一一十一一日、・フレイクニー弁護人は「三カ月と十日、ないしは 三カ月半」と答えた。 ウェッ・フ裁判長は、支那事変段階の冒頭陳述をするラザラス弁護人をうながしたが、すると、 タベナー検事が進み出て、冒頭陳述の中にある次のような文章の削除を求めた。
そのスミス弁護人が去っては、広田弁護は大幅に効力を失ってしまう。現に、スミス弁護人は その後は記者席の一隅から裁判を傍聴し、なにかと花井忠弁護人に助言はしていたが、スミス弁 護人に代ったジョージ山岡弁護人は、途中での交代であるだけに、その弁護活動は鈍かった。 記者席で傍聴するくらいなら、ひとことウェップ裁判長に譲歩して、被告弁護の任務をまっと うすべきではないか、との論評が記者団、弁護団の中から生れ、また「売名のためのジェスチュ アではないか」との批判もささやかれた。 だが、スミス弁護人の心事がどうあれ、スミス弁護人に行動をうながした主因が、ウェッ・フ裁 判長に代表される法廷の偏向的運営にあったことは、明らかである。 広田元首相は、凝然と正面をむいて動かず、他の被告たちも、一様に憮然とした表情であった。 満州部門の反証に入る 巣鴨の環境も変った。被告側にたいする判・検事団の姿勢とは関係ないはずだが、スミス事件 が起った三月五日から、就寝のさいは頭を廊下側にむけ、首から上を出して寝なければならない、 との規則が定められた。 相変らずの自殺警戒のためであろうが、この措置は、被告たちにとっては、つらかった。監房 のドアからは、すきま風が火きこむ。早春の夜風は冷たい。老人そろいの被告たちは、だからド アの反対側に枕を置き、さらに枕もとに洗面器などを立て、それに衣類をかけ、頭をつつこむよ
その主務者を次のようにきめていた。 ▽「一般」ⅱ鵜沢聡明、ウィリアム・ローガン ▽「満州」Ⅱ岡本敏男、フランクリン・ウォーレン ▽「支那」ⅱ神崎正義、アリステイディス・ラザラス ▽「ソ連」Ⅱ花井忠、・ヘン・フルース・・フレイクニー ▽「三国同盟」 = オーウエン・カニンガム ▽「太平洋戦争ーⅱ清瀬一郎、ジョージ・・フルーエット ミス ) はディヴィッド・スミス弁護人、検事側 一月二十七日におこなう公訴棄却動議 ( ディス・ しせんとして、弁護団は費 の冒頭陳述にあたる弁護側の冒頭弁論は、清瀬一郎弁護人があたる。、・ 用難、人手難、資料難その他、準備不足に悩んでいた。 ウォーレン弁護人は一月二十日、とくに発言を求めて、弁護団側には「謄写版がたりず、動議 撃などの文書の印刷にこと欠いている。検事側の言語部からの援助を期待し、彼らも約束したのに の援助してくれない」と、ウェッ・フ裁判長に申し立てた。 護 しかし、いまは困難な事情を眺めている段階ではない。控室で開かれた弁護団総会では、これ 弁 までの曲折にも増してさらに曲折が予想されるが、弁護団は団結してことにあたりたい、 と鵜沢 八団長が述べ、一同は、ぬるい茶をすすって全力をつくすことを誓いあった。 二十四日は、前夜半から降りだした雪が大雪となり、法廷が位置する市ヶ谷も白色におおわれ
もっとも、招待は日本側だけではなく、十月十七日、キーナン検事は、小石川・音羽の宿舎 「三井ハウス」に、岡田啓介、若槻礼次郎、米内光政、宇垣一成四氏を招いた。若槻元首相は伊 東市から上京して参加したが、キーナン検事のほか、タベナ 1 検事夫妻、ホルウィッツ、ワイリ ー検事その他も出席して一同をもてなした。 カクテル。、 ーティーだが、若槻元首相の描写によると、「カクテルのコップが減れば、あとか らあとから注いでくれる。料理も前に沢山並べてあって給仕の人が取ってくれる。減ればまた取 ってくれる」といった調子で、結構であった。 キーナン検事は、「日本における真の平和愛好者はあなた方四人であるー「その努力をアメリカ に知らせたい」「近い将来、ぜひアメリカに来ていただきたい」とあいさっした。裁判には一言 もふれない。若槻元首相らはおかげで「非常に愉快に : : : かなり酔って」、宇垣大将は軽い脳貧 血を起したほどであった。 責このキーナン検事の招待は特別の意味を持ったのではなく、三文字弁護人も感じた対日〃雪解 戦け〃感情の披瀝であったが、キーナン検事の胸中には、そのころ、ある種のあせりが芽ばえはじ 皇めていた。 十軍人の木戸内大臣攻撃 法廷では、広田元首相につづいて星野直樹元満州国総務長官、板垣征四郎大将、賀屋興宣元蔵 95
が諜報活動の成果である日本側極秘文書で証明しようとするノモンハン、張鼓峰事件、ただ一人 の証人も現われなかったが多くの秘密文書で明らかにされた日独伊三国同盟成立の裏面、太平洋 戦争開幕に至る最高首脳会議の内容、精密をきわめた真珠湾攻撃計画・ : さらに南京虐殺事件をはじめ、東南アジア全域でおこなわれたという数々の俘虜、住民にたい する虐殺、虐待事件・ : 検事側が有力な資料として提出した書証には、うかがい知ることがなかった宮廷、重臣の動き を克明に記述した木戸幸一内大臣の日記、陸海軍、外務省の金庫の奥深くに秘匿されていた極秘 記録も含まれていた。これら書証の一ページがめくられ、また内外の証人の一言が叫ばれるたび に、閉ざされていた歴史の扉が開かれ、法廷を眺める者の眼には、被告席に坐るのは、かっての 高位者だけではなく、さながら日本国家そのものの感を与えた。 まことに壮大なドラマというべく、しかも、そのドラマはようやく第一幕を終え、さらに第一一 幕のカーテンをあげようとしている。 一一十四日の法廷は、閑散としていた。この日に検事側の立証が終ること、とくに波乱も期待さ れぬこと、注目すべき証人の出廷もないことなどがわかっていたからである。だが、弁護団は全 員が顔をそろえ、閉廷後、直ちに控室に集った。すでに、弁護団側の " 作戦方針〃はきまってい こ 0 反証は、検事側に呼応して、一般、満州、支那、ソ連、三国同盟、太平洋戦争の六段階にわけ、