事会米国代表シーポルトを呼び、かねてシーポルトに告けていたように、理事会代表四人の処刑 立会いを求める書簡を手渡した。 処刑は二十三日木曜日早朝、巣鴨拘置所においておこなわれる、死刑執行が実施されたことを 証明してもらうために出席を要求するーーという内容で、シーポルト米代表のほか、・ショ ウ・オーストラリア代表、・デレビャンコ・ソ連代表、商震・中国代表にあてられていた。 シーポルト代表は、十二月二十三日が皇太子誕生日であることに気づいた。起訴状伝達が天皇 誕生日、判決朗読開始が紀元節、処刑が皇太子誕生日というのは、なにかの意図あってのことで あろうか。マッカーサー元帥は、なにもいわなかった。 午後九時ーー巣鴨で七人に処刑の通告がおこなわれた。所内の教誨師 ( 米人牧師 ) 事務室で、 次のような通告書を所長ハンドワーク大佐が読みあげた。 「極東国際軍事裁判所の判決およびマッカーサー元帥の認定による刑の執行を、第八軍憲兵司令 ・フェルプス大佐と巣鴨拘置所長・ハンドワーク大佐の両者に指令された。よってこのこ とを本人に伝達する。一九四八年十一一月二十三日午前零時一分、巣鴨拘置所において執行する」 七人は、土肥原大将と広田元首相、板垣大将と木村大将、松井大将と武藤中将というように、 アルファベット順に二人ずつ呼びだされて通告をうけた。最後の東条大将は一人であった。なに か希望はあるか、という質問に、先着の六人は首をふったが、東条大将は、ニャリと笑って、い っこ 0 2 ー 2
被告たちが法廷を離れたのは、午後五時半すぎであったが、まず〃死刑組〃七人のパスが市ケ 谷台を下り、二十分後、 " 禁固組〃の・ハスが出発した。広田元首相の令息、令嬢たちはこの日も 坂下の門前に立ち、タ闇に消える二台の・ハスにハンカチと手をふった。 巣鴨に戻ると、 " 死刑組〃は第一棟三階の第七号から第十三号までの独房に収容され、 " 禁固 組〃は級未起訴組がいる第三棟の二階に収容された。 第三棟一一階には、級未起訴組がいる。帰ってきたそ、と監房の窓にしがみつくと、東条、広 田、木村、武藤、松井、板垣、土肥原七氏の姿が見えない。下馬評では、「東条、嶋田両氏は絶 対にだめたろうが、他の人たちは助かるだろう」ということだった。 Ⅸ「七人が死刑だ」と、笹川良一が叫んだが、児玉は首をふった。広田元首相の姿がみえないが、 z 広田元首相が死刑になるはずがない。児玉は、おかしい、嶋田大将がいて広田さんがいなかった、 みんなが死刑とは限るまい、というと、笹川は、叫びかえした。 「いや、広田さんはいた。嶋田氏は通らなかった。通ったとすれば、それは幽霊だよ」 " 禁固組 , の部屋はすぐ静かになったが、未起訴組の部屋では、消灯まで、広田元首相をめぐる 論議がつづいた。 章もっとも、この論議は一夜明けると、すぐケリがついた。未起訴組自身が " 禁固組〃を訪ねて 十確かめることができたからだが、広田元首相にたいする死刑宣告は、文官が多い未起訴組を粛然 とさせた。
英米に飛び、キーナン検事と打ち合せ、取引きもして準備した。そのため、証人は一人もなく、 書証も少なくせよとのキーナンの意に従って制限し、立証は二日間で終った。 南大将はすでに一般段階で証言しているので立たず、結局、木村大将から東郷元外相までの十 三被告のうち、みずから証言台に立ったのは小磯、松井、武藤、岡、大島、嶋田、白鳥、鈴木、 東郷の九人であった。 このうち、注目をひいたのは岡、嶋田両提督と東郷元外相である。 岡中将は、平沼元首相とともに被告中の独身者だが、中将は太平洋戦争開始のさいの対米最後 通告案に「自由なる行動を留保する」旨を明記するよう提案したが、外務省側で削除したといい、 東条内閣の海相である嶋田大将も、対米通告は外務省の所管事項であり、無警告攻撃は全然考え たことがない、と証言した。 嶋田大将の証言第二日目は十二月八日、ちょうど問題の真珠湾攻撃六周年記念日である。因縁 を感じさせたが、それにしても、岡、嶋田両提督がとくに外務省の責任を強調するあたりは、当 時の外相東郷被告との間に対立がある印象を与えた。 その東郷元外相部門は、十二月十五日からはじまった。ウェップ裁判長は三日前の十二月十一一 日、羽田に帰着し、この日から法廷に姿を見せた。 東郷元外相のロ供書は陸、海軍、また木戸内大臣にたいしても激しい言葉で′挑戦みしていた。 たとえば木戸内大臣は東条内閣成立にかんして外務大臣にはなにも相談せず、開戦直前に到着し 112
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ウェッ・フ裁判長ならびにベルナール・フランス判事の責任追及論に憂慮され、ハラキリをされる 恐れがある、と語った。この数カ月間、天皇は戦争犯罪指導者の処刑を機会に退位されるだろう、 との噂が流れていたが、最近では、退位よりもハラキリによる死をえらばれるだろう、と信ずる 者が多い」 以上は、いずれも、裁判終結直後のオーストラリア通信 ( ) の報道である。マッカーサ 成ー元帥は、噂の先頭に立つのが、これらオーストラリ 木村 x x x x x x x 〇〇〇〇賛 板垣 x x x x x x x 〇〇〇〇刑ア・ジャーナリズムであることから、ウェッ・フ裁判長 武藤 x x x x x x x 〇〇〇〇死 = の個別意見も、オーストラリアの反日感情を背景にし 松井 x x x x x x x 〇〇〇〇 土肥原 x x x x x x x 〇〇〇〇 x た「一種の安つぼい策略だ」とみなしたが、しばらく 東条 x x x x x x x 〇〇〇〇 広田 = = = = = = 〇〇〇〇〇は真剣に心配した。 嶋田〇 x x x x 〇 x 〇〇〇〇 推 日本国民が占領軍に従順なのは、天皇が占領軍の権 木戸〇 x x x x x 〇〇〇〇〇死 もし天皇が裁 容大島 x x x x x 〇〇〇〇〇〇 = 威を承認しているからにほかならない。 荒木 x xx xx 〇〇〇〇〇〇〇判の結果に不満を示して退位するとすれば、それは 国国国ントダダア連スド ッカーサー元帥に代表される占領軍にたいする反抗で 博告 ピラ ンラン あり、日本全国民が天皇に従う恐れがあるからである。 被事 ジ 判 ラスラ 十表 噂は、結局、天皇が退位を否定する親書をマッカー 第別 国 米英中フ = カオオソフィ サー元帥に送ることで、急速に色あせたが、実際には、 1 ン ー 93
いるのが、南京事件にほかならない。もし南京事件の反証に効果をあげれば、他の残虐事件、ひ いては裁判の大勢にも好影響をおよ・ほせるはずだが、提出された書証冫 ま三通にすぎず、登場した 証人も三人にとどまった。 「事件については、真相は別とし、検察側の証拠は圧倒的であり、世界中にあまりにも悪評が高 かった事件でもあり、松井被告には少々気の毒とは思ったが、事実そのものの認否の事は一応に 止め、方面軍司令官としてこのような不法行為の防止に出来るだけの努力をはらったこと、その 部下に直接的責任の地位に在った軍司令官や師団長がいること、ゆえに松井被告に刑事責任まで 負わせるべきではない 、との方針をとった」 とは、伊藤弁護人の述懐である。そして、伊藤弁護人は個人段階で、さらに弁護の熱意を示す が、法廷闘争はボクシングに似ている。 検事側、弁護側は互いに証拠をパンチにして応酬し、重ねたポイントで有利な〃判定み ( 判決 ) をかちとるのである。わが態勢が不利とはいえ、たとえ一ラウンドでもテクニックをせばめては、 得点は望めない。滝川弁護人は、あるいはそれが、「弁護の大勢におよぶのではないか」と、不 安を感じた。 「法廷では貴下が総司令官た」 不安は、ウェップ裁判長も痛感していた。もっとも、裁判長の場合は、正確には〃不満〃とい
しているとき、奉奠文を読み終るとともに呼吸困難となった。参会した旧部下の元軍医数人が応 急の処置をしたが、午後三時十五分、旅館「亀文館」の一室で息をひきとった。 荒木貞夫陸軍大将も昭和四十一年十一月三日、死去したので、東京裁判で判決をうけた一一十五 人のうち、健在者は次の八氏となっている ( 昭和四十六年三月現在 ) 。 星野直樹、賀屋興宣、木戸幸一、岡敬純、大島浩、佐藤賢了、嶋田繁太郎、鈴木貞一。 なお、級戦争犯罪の裁判国と死刑者数は、前ページの表のとおりである。 226
おまけに「キャ。フテンが髪を刈ってくれた」ので、いよいよか、と思ったという。夫人が、米最 高裁判所のことを話すと、「はア、そうかね」ーー・と、大将は、いとも気軽な反応を示したたけ であった。 円満というか、春日のようなというか、板垣大将の顔には微笑以外にはなにもなく、夫人たち も笑声をあけつづけた。 悲しみは、そのあとでわいてきた。面会時間が終ると、板垣大将はドアにかくれ、家族たちは の先導で退出したが、廊下に出ると、は一同を制止した。 少し先のドアから七人が、同じく面会があったらしい他の被告たちと一緒に、背をみせて監房 に帰って行く姿がみえた。誰も気づかない。家族たちは、息をつめ、ただ静々と遠ざかる父、夫 の背を凝視した。 面会は月一回と定められている。七人の家族は、ひとしく、次の面会日での再会を願っていた が、同時に、その願いは明日にもくだかれる不安につつまれてもいた。その不安と緊張が声帯を こわばらせたのか、誰も声をかけぬうちに、懐しい肩は消え、足音は消えた。 米最高裁判所には、二日、木戸、岡、嶋田、佐藤、東郷被告が、ローガン弁護人を通じて、東 京裁判の無効宣言を要請する訴願を提出した。 : 、 カ一般の予想は、消極的であった。ワシントン から伝えられる外電は、一致して、最高裁判所が却下するものと観測していた。 十二月六日、マッカーサー元帥は対日理事会代表シーポルトを招き、東条大将ら七人の処刑に
しかし、個人弁論では、東条大将のごとく「指導者」を自称して個人責任を自負した例はわず かで、軍人被告の多くは、国家行為は犯罪ではなく、国家そのものが裁かれぬ以上は、国家にた いする忠誠義務を持っ軍人に罪はないはずだ、という論調を採用した。 「忠実な軍人」 ( 土肥原 ) 、「忠実な職業軍人」 ( 畑 ) 、「非政治的ロポット」 ( 木村 ) 、「義務遂行者」 ( 小磯 ) 、「忠実な愛国者」 ( 南 ) 、「職業軍人」 ( 佐藤 ) 、「正直な軍人」 ( 嶋田 ) 、「忠実な軍人」 ( 梅津 ) といった表現が、その弁護姿勢を示している。 いいかえれば、文官被告が一致して " 平和主義者〃であることを強調すれば、軍人被告もまた が忠実な官吏〃にすぎなかったと唱えたわけで、個人弁論は、検事論告と完全に対照する判断材 料を判事団に提示して、四月十五日、終った。 そのあと、ワシリエフ・ソ連検事、向中国代表検事、ホルウィッツ、タベナ 1 米検事により、 それそれ「ソ連部門」「中国部門」「法律論」「責任論」の検事答論がおこなわれた。いずれも型 決どおりの論調だったが、タベナー検事の論述の中に次のような発言があった。 判「此等の人々は : : ニュールンベルク法廷に立った一部の有力者の如き、犯罪環境の屑である破 章落漢 ( ならずもの ) ではなく、国家の粋であり、国家の運命が確信的に委任できる、正直で信頼さ 十れる指導者と考えられていた」 被告たちの表情が動いた。タベナー検事はすぐ言葉をつづけ、だからこそ「悪を選択したー被 151
と答える以外にすべはない。 あるいは、「弁護を抛棄」せざるを得ないかもしれず、「よし裁判が無罪になっても我判費用の 支払いは困難」となり、子供たちの教育にも支障を招くのではないか。まさに「小説に書かれて と、想いは乱れた。 ある悲惨な場面が自分の身の上」となったのか 他の被告、とくに軍人被告たちの家庭も苦しい生活をつづけていた。 木村兵太郎大将夫人可縫は、大阪府北河内郡寝屋川町の実弟川島大八の農園の一部で開墾生活 を送り、板垣征四郎夫人喜久子は東京・下落合の自宅で洋裁の注文をとって暮しながら、巣鴨と の心のつながりを支えに、耐乏の日をすごしていた。 八月四日、六週間ぶりに法廷が再開されると、被告たちの〃老化〃は目立った。 十五カ月間の裁判に加えて、あるいははるかに寄せる家族への想いが、すでに老人である被告 たちの身心の負担をより重くしたのかもしれない。若い佐藤賢了被告の額にも数本のシワがきざ 責みこまれ、どの被告の顔と肩にも疲労が浮きあがってみえた。 戦法廷のふんい気も疲れた様子だった。いや、だれていたといったほうがよいかもしれない。 皇ちょうど夏休み期間にひとしい休廷明けのためか、判事席には四つの空席 ( ザリヤノフ・ソ連、 梅・中国、ノースクロフト・ニージーランド、マクドウガル・カナダ判事 ) が目につき、一般傍聴席に 十も空所が多く、貴賓席にはわずか十一人しか来ていなかった。しかも、そのうち五人は着飾った 婦人で、ロイター通信記者の表現によれば、「臆面もなく眼をつぶって舟を漕い」でいた。外人