私はたずねた。 「簡単だよ。薬もいらないし、数をカウントすることもない。目を閉じて黙っていれ ば、ある部屋へ君は行く。そこが面会室だ。ところで注意しておくけど、もし、相手 に誘われても決してドアの外に出てはいけないよ。耳なし芳一の例もあるだろ。よく いるんだよ、出てしまって戻ってこられなくなる人が。永久に戻らなかった人もいた よ。だから、気をつけて。」 船 こわくなって私が黙っていたら、 夜「大丈夫だよ、君はしつかりしてるから。」 河 と水男が笑った。私はうなずいて、目を閉じた。田中くんがカウンターを再び越え 白てきた気配を感じた時、すぐに体中がすうっと冷えたのがわかった。 そして気づくと、私はもうその部屋にいた。 そこは妙にせまく、すりガラスの小さな窓のある変な部屋だった。私は古びた赤い ソファーにすわっていて、テープルもない真向かいにも、同じ形の小さなソファーが あった。昔、遊園地にあった「ビックリ ハウス」によく似ていた。自分が回らなくて も壁がぐるぐる回って、家が回っていると錯覚してしまうやつだ。照明も薄暗く、な んだか滅人った気持ちになった。そして、木のドアがあった。 178
ソファーにほとんど埋まりながら、グラスを持って私が言うと、 ーのよ、私、お酒ほとんど飲まないもの。」 とオレンジジュースを飲みながら、しおりが言った。部屋の中が妙に静かだった。 「ここ、静かね。」 少しも酔えずに私は言った。とても心が澄んでいた。なにが悲しいわけでもないの で、語りようがなかった。 船「なにか、あったの ? 」 夜としおりはくり返し言った。そのたずね方はまるで忠大のように一途で、 河「なんでもないのよ。」 白 という私の答えが、言っているそばからずっしり重くなってしまう気がした。 「本当になんでもないの。それより、最近は > つけたりとか、音楽とか聴かない の ? 」 本当に、その夜のしおりの部屋は無音だった。二人の声以外のす。へての音が消え去 っていて、まるで降り積もる雪の夜の、かまくらの中にいるようだった。しおりの声 の細さが、その静けさをひきたてていた。 「うん、静かなのって嫌い ? 」 いちす
「ハワイ ? ばかを言え、熱海だぞ、熱海。」 「みんなの間ではハワイということになっていたわよ。」 「きっと、全員の金額を足して、その行き先を割り出したんだろうな、ばかな奴らだ。 田中にはもう、返すまい。」 「熱海って、なにかあったつけ。」 「後で話してやるよ、待ち合わせはどこがい 、 ? つごうに合わせるよ」 人「ホテルのロビーに一時。」 旅 の 私は言った。ホテルは、サラの両親が日本へ来る時、よく利用していたと聞いた 夜ことがある。もしかしたら、と思「たのだ。さ「き、フロントに電話してサラの名を 夜告げたが、 そのような人は見あたらないということだった。しかし、まだ望みが捨て 切れなかった。 と言って、研一は電話を切った。 巨大なホテルのロビーという所は、、 くら大勢の人がいても、基本的に無人のムー 盟ドに満ちている。私が着いた時、まだ研一は来ていないようだった。私はソファーに やっ
船 夜 河兄の突然の帰国が決まった時、私は兄の国際電話の口調から、兄とサラがだめにな ったことを知った。理由はわからなかったが、直感したのだ。 「もうここでやることない、俺、帰るわ。」 と兄は言った。 「迎えに行こうか ? 」 私は言「た。学校をさぼ「て成田に行くのも平和でいいな、となんとなく思いつい たのだ。 「ひまならおいで。メシをおごってやる。」 102 て、抱きしめてぐちゃぐちゃにしたいくらいに。肩に手をかけようとした時、私は急 にその名を思い出した。『芳裕 ! 』っていう自分の声で目が覚めた。居間のソファー で寝てたんだけど、母親が『呼んだ ? 』って奥の部屋から歩いてきたほどの声よ。 『こわい夢を見ちゃって。』「て言「たけど、確かに、こわいよね。」 言うだけ言うと、じゃあね、と笑顔で手を振り、毬絵は雪景色の中へ消えていっ
ソプの触れ合う音や、人々の靴音がただ、くり返し流れていた。 なんだか、ぐったりと疲れて家へ帰り着いた。 ドアを開けると、母は出かけているらしくて、家の中はしんとしていて暗かった。 私は洗面所に直行してゆっくり顔を洗いながら、今見たことを一生、誰にも言わない ことを固く鏡に決意した。そして、映る自分の、兄に似た輪郭の向こうに、あの茶色 船い瞳が思い出された。見てしまったのだ、仕方ない。偶然ではなかった。自分がわざ 夜わざ出向いたのだ。そのことは私をいっそうぐったりさせた。 河着替えようと自分の部屋へ向かう時、居間のドアの前を通った時、 白「芝美 ? 」 と声がしたのでびくっとしてドアを開けると、なぜか居間のソファーに毬絵が、ず っと家に住んでいたように寝ころんで眠そうに薄目を開けていた。 もう、なにがなんだかわからなかった。 「なんでいるの ? 」 私は言った。 「だって、昼、遊びに来いって、タベ、言ってたでしよう、だから、来たのに。誰も 136
「 : : : ほら、仕事でふわふわのべッドに寝るでしよう、っていうかさ、目を覚まして ないといけないでしよう。」いつものような高く柔かい、か細いその声でしおりは言 った。「なんだかべツ、、 、トってものに人るともう、目が冴えちゃって、こういう落ち着 かない状態なら眠れるかしら、と思ってね : ・ : ・。」 理由を聞いてしまえば、なるほど、という気がした。世の中の仕事にはその仕事特 有の間題点があるものだなあ、と思いながら部屋に上がってソファーにすわった。 船「お茶飲む ? お酒飲む ? 」 ほほ・ん 夜その、ゆっくりとした動作や、常に口元にある微笑みが懐かしかった。しおりが部 河屋にいた時と同じように、、いにたまったわけのわからない疲れが引いてゆくように田 5 えた。 白 「お酒飲む。」 私は言った。 「じゃ、寺子ちゃんにジンを開けてあげましよ。 と言ってしおりは冷蔵庫からたくさんの氷を器に移し、レモンを切り、封を切って いないジンをまるごと持ってきてくれた。 「開けちゃって良かったの ? 」
私は、触れるだけならと思い、そこについているノ。フに手を伸ばした。鈍い金色で、 びんやりしている細いノブだった。手のひらにそれがおさまったとたんに、なにかの 振動がじんじんと伝わってきた。言ってみればそれは、外にものすごいエネルギーが 渦巻く中の静かな場所、台風の目や、結界のように、なにかを押しとどめるような感 触だった。体中がざわざわとして、自分がドアの外の世界を本能的に恐れているのが わかった。 験そして、人によってはここでこのドアを開けたくなってしまうことも、よくわかっ 体た。水男もきっとそうだったろうということが。何人もの人が出て行ってしまい る っとそれつきりになっているのだろうことも。 : なるほど。 あ と私はドアを離れて、ソファーにすわり直した。頭がしつかりしてきた。木の床を ジュの壁を触ってみたりした。とてもリアル とんとん鳴らしたり、ざらざらしたべ だった。田舎の無人駅の待合室のように不自然で、圧迫感のある部屋だった。 その時だった。ドアが急にばたん、と開いて、身をびるがえすようにするりと、春 が人ってきたのだった。 びつくりしすぎて、声も出なかった。 179
後に、毬絵は語った。 「自分の胃袋の中が真っ黒になったようだった。プラックホールみたいに。なにを放 り込んでも上の空で、いくらでも、なんでも人ってゆくの。心はずっと、ドアを見て 目がイライラとページを素通りする いた。雑誌をめくっても、心が人ってゆかない。 だけだった。今までの芳裕の、悪い面だけが増幅して思い出されてきた。そして時間 がたつごとにその暗黒面が体中にゆっくり広がって、す。へてを覆ってしまった、そう う気がした。そういう 黒いものを、立てないくらいずっしりと引きずって、帰り道 夜はもう夜だった。家に着いたら、電話を待ちながら眠るんだとそう思った。なにか理 河由があるはずだ、話さえできたらわかる、ただ、そう思った。」 白待ったまま、封じ込められてしまった心について。 「じゃ、そろそろ行くか」 研一は立ち上がった。 「まあ、とにかく、お金が返ってきてとても嬉しいわ。夢みたい。」 私は言った。そこまで言うな、と言って笑う研一の後をついて、ソファーの間をぬ しゅうたん うようにし、出口に向かって絨毯の上を歩いて行った。目はまだどこか、サラを見つ 132 ロ おお
小さな金髪の女の子がいた。少年はそこへ行って、その女の子と仲良くしゃ。へってい 兄と妹だろう。そして、待たせたね、というように、支払いを済ませて歩いてき たがっちりしたアメリカ青年 その時、サラが私に気づいた。 ひとみ その真っ青の透明な瞳で、まずは怪訝そうに、そしてそのまますうっと切なそうに、 私を見つめた。確かめるように、何度も、何度もまばたきをした。それから、唇のは 人しをほんの少し上げたように見えた。 旅 私にはもう、すべてがわかっていた。サラが毬絵や私に会いたくても会えないわけ、 の 夜話ができないわけ。でも日本に来たら、電話をかけずにいられなくなったわけ。あの 夜青年とサラが乗り越えてきた苦痛のこと。だから、それを示すためにうん、と強くう なずくと、背を向けた。きっとすぐに彼女たちは、幸福なアメリカンの家族として、 ホテルを出て行ったと思う。きっとサラだけが何度か、こちらを振り向きながら。 しばらくしてから振り向いて、彼らの不在を確かめると、私は力が脱けてしまって、 再びソファーに身を沈めた。頭がくらくらして、あの子の小さな手を取った、この両 手の感触がまだ熱かった。そこからなにかが、 変わりはじめるような気分だった。 彼らの失せたロビーは全くの空虚でもうなにひとっ残っていないように思えた。カ 135
から、ゆっくりして下さ、 僕は仕事があるので先に行きます。また、連絡します。」 一字一字が、まるでペン習字のようにくつきりとして美しい手紙だった。あの人は こんな文字を書くのか、と、私は昨夜抱き合った本人よりもくつきりとした彼の輪郭 を確かめたような錯覚にとらわれて、いつまでもその手紙をまじまじと見ていた。 シャッ一枚で寝ていた体中が、夏だというのにしんと冷えていた。雲は銀に光っ おお て、はるかな街を覆っていた。車の列を見下ろして、頭のぼんやりが少しも抜けない 夜まま着替えた。顔を洗っても、歯をみがいても少しも目は覚めず、ただにじむように 河眠けが心の中にしみ出してくるのを感じた。 私はティールームに行ってランチを食。へてみたが、哀しいくらい手足は宙に浮き、 ロと胃と心が全部バラバラだった。窓からうっとりと射す薄陽の中、幾度も目を閉じ そうになった私は、睡眠時間を逆算してみた。どう考えても十時間以上眠っている。 いつもはいくら寝すぎで眠くても、三 どうして少しも目が覚めはじめないのだろう。 : と考え込む思考すら、自分のものではないよ 十分もすればはっきりしてくるのに : ふらふらと乗ったタクシーで部屋に帰り着いて、洗濯をしながらソファーにもたれ