疲れ - みる会図書館


検索対象: 白河夜船
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1. 白河夜船

ることや、目の前で笑うことなんかを。 そのことにサラはきっと、気づいたのだ。 「ええ、びとりだった。」 私は言った。うそをつく時のコツをす。へて言葉に込めて。 ールフレンドは大勢いたけど、本当の恋人はいなかったわ。」 「そう : : つまらないことをたずねてしまって、ごめんなさい。 : 日本へ来たら、 ・つれ 人気がゆるんでしまったのね。あなたと話すことができて、嬉しかったわ。あなたのお 旅 のかげで。」 夜サラは言った。もうそれは、やむにやまれずに無言電話をかけてしまったり、感傷 夜が苦しくて泣いてしまう彼女ではなく 、私の知っている落ち着いたサラだった。 「じゃあ、お元気で。もう、部屋に戻らなくてはいけないの。」 サラは一一一一口った。 「ええ : ・・ : それじゃあ。」 私は言った。すっかり目が覚めてしまった。窓の外の空は晴れと曇りの妙なグラデ ションで、部屋全体がもの哀しい感じに明るかった。変な天気だな、と思いながら、 私は告げた。 125

2. 白河夜船

予感のする、語感だった。疲れれば疲れるほど彼は、現実から遠いところへ私を置く ようにしている。はっきりとそう言わないので本人にとって無意識の望みには違いな いのだが、私をなる。へく働かせず、いつも部屋にいてひっそりと暮らすことを好み、 逢う時は街の中で夢の影のように逢う。美しい服を着せて、泣くことも笑うことも淡 くらやみ いものを求める。いや、やはりそれも彼だけのせいではない。彼の心の疲れの暗闇を 写しとった私が、 そういうふうにふるまうことを好んでいるのだ。二人の間にはなに か淋しいものがあって、それを大切に守るように恋をしている。だから、今はいいの 夜だ。今はまだ。 河 白「車で送っていってあげましよう。」 店を出て、駐車場に向かいながら彼が言った。 「あなたの、その、何々しましようっていう言い方って本当に好きよ。」 私は言った。 「そうでしよう。」 彼は笑い、 「それはちょっとニアンスが違うみたいよ。」私も笑った。「まだ早いし、歩いて帰 さび

3. 白河夜船

「 : : : ほら、仕事でふわふわのべッドに寝るでしよう、っていうかさ、目を覚まして ないといけないでしよう。」いつものような高く柔かい、か細いその声でしおりは言 った。「なんだかべツ、、 、トってものに人るともう、目が冴えちゃって、こういう落ち着 かない状態なら眠れるかしら、と思ってね : ・ : ・。」 理由を聞いてしまえば、なるほど、という気がした。世の中の仕事にはその仕事特 有の間題点があるものだなあ、と思いながら部屋に上がってソファーにすわった。 船「お茶飲む ? お酒飲む ? 」 ほほ・ん 夜その、ゆっくりとした動作や、常に口元にある微笑みが懐かしかった。しおりが部 河屋にいた時と同じように、、いにたまったわけのわからない疲れが引いてゆくように田 5 えた。 白 「お酒飲む。」 私は言った。 「じゃ、寺子ちゃんにジンを開けてあげましよ。 と言ってしおりは冷蔵庫からたくさんの氷を器に移し、レモンを切り、封を切って いないジンをまるごと持ってきてくれた。 「開けちゃって良かったの ? 」

4. 白河夜船

そしてかけぶとんをかけて、枕にしつかりと頭を沈めた時、やはり聴こえてきた。 天使のように清らかな声の響き、淡い感傷、メロディは切なく胸を躍らせた。波の ように遠く近く、ノスタルジックに流れてゆく : 春、なにか言いたいの ? と私は閉じてもぐるぐる回っているような心の耳を澄ませようとした。でも、春の 気配はなくて、ただその美しい旋律が胸を刺すだけだった。もしかしたらこの美しい 音色の向こうに、春のあの笑顔があるのかもしれない。い や、憎しみに満ちたののし 船り声で私の幸福が春の死と紙一重であることを叫んでいるのか。どちらでもい 夜どく聞きたかった。 河春の伝えたいことを知りたかった。眉間が痛くなるほど私は集中して、やがて疲れ 白がその音の向こうから眠りの波と共にやってきた。私はあきらめの言葉を胸につぶや いた。まるで、祈りの言葉のように。 悪いねえ、春。聞きとれないや。ごめんね、おやすみ。 170 「やつはり、春、死んでた。」 私は言った。水男は少し目を丸くしただけで、

5. 白河夜船

暗くすると月明かりにくつきりとよく見えたものだった。暗くしてからのおしゃ。へり は、二人共もっと際限なかった。よくあんなにしゃべることがあったと思う。その夜 やみ のしおりは特別たくさん、仕事の話をした。闇の中でしおりの細い声が、楽器の調べ のように流れてゆくのを聞いていた。 「私はね、びと晩中、眠るわけにいかないの。だって、もし夜中にとなりの人が目を 覚ました時、私がぐうぐう眠っていたら、私の仕事にはあんまり価値がないっていう プロじゃないのよ、わかる ? 決して淋しくさせてはいけないの。私の所へやっ 夜てくる人は、もちろん人づての人ばかりだけれど、みんな身分はきちんとした人ばか 河りよ。ものすごくデリケートな形で傷ついて、疲れ果てている人ばかりなの。自分が 白疲れちゃっていることすらわからないくらいにね。それで、必ずと言っていいほど、 夜中に目を覚ますのよ。そういう時に、淡い明かりの中で私がにつこり徴笑んであげ ることが大切なの。そして、氷水をいつばい、手渡してあげるのね。コーヒーの時と かもあるけれど、それはキッチンに行って淹れてくるのね、ちゃんと。そうするとた いてい安心して、またぐっすり眠るものなのね、人は。人はみんな、誰かにただとな りに眠ってほしいものなんだなあって思うの。女の人もいるし、外国の人もいるのよ。 : そうそう、 それでも私だって、結構いい加減だから、寝ちゃう時もあるけどね。

6. 白河夜船

ろばろに傷ついて疲れ果ててしまったら、ふいにわけのわからない強さが立ち上がっ てきたのだ。 私はなにも変わらず、二人の状態もなにびとっ変わってはいないけれど、こんな小 さな波をくり返しながら、ずっと彼といたいと思った。とりあえず今は、いちばんい ゃなところを通り過ぎたと思う。なにがそれなのか、はっきりとはわからないのに、 そんな気がする。だから、今ならば他の人を好きになることさえできるかもしれない。 でも、多分しないだろう。私は、今、横に立っ背の高いこの人と、生き生きと 夜した恋を取り戻したかった。大好きな人と。す。へてをこの細い腕、弱い心のままでつ 河なぎとめたかった。これからやってくるはずの雑多でおそろしいたくさんのことをな 白 にもかも、私の不確かな全身でなんとか受けとめてみたかった。 ああ、なんだかついさっき目が覚めたばかりみたいで、なにもかもがおそろしいく らい澄んで美しく見える。本当に、きれいだった。夜をゆくたくさんの人々も、アー ケードに連なるちょうちんの明かりも、少し涼しい風の中に立ち、待ち遠しそうに真 上を見ている彼の額の線も。 かんべき そう思うと突然、なにもかもが完璧すぎて涙がこみ上げてきそうになった。見回す 風景の中の、目に人るす。へてが愛しく、ああ、目を覚ましたのが今ここでよかった。

7. 白河夜船

とし - っえ な形になってしまった。春は私より三つ歳上のアルバイターで、私は大学生だった。 ののしり合い、時には手を出してとっくみあいのけん もちろん私たちは憎み合い かをした。あれほど他人と生々しく近づいたことも、あれほど人をうとましいと田 5 っ たこともなかった。春だけがじゃまだった。死ねばいいと何度も本気で思ったかもし もちろん向こうもそう思っていただろう。 れない。 結局、その生活に疲れた男がある日遠くへ逃げてしまったきりになってその恋は終 船わり、私と春もそれきりになってしまった。私はそのままこの町にとどまったが、春 夜はパリだかどこだかへ行ってしまったと人づてに聞いた。 河それが私の知っている、春の最後の消息だった。 なんで突然、春が懐かしくなったのか私にもわからなかった。別に会いたくもなか ったし、どうしているのかに興味なんてなかった。その期間は激情に満ちていたので、 かえって今や空白の思い出となり、大して印象深い期間ではなかった。 丿でアーティストにたかるなんとかゴロみたいになっているか きっとあの女は、ヾ ハトロンでも見つけて、いい暮らしをしているだろう。そうい 運が良ければ年寄りの。 う女だ。ガラみたいに細くて、しゃ。へり方がギスギスしていて、声が低くて、黒い服 ばかり着ていた。唇が薄く、 もつも眉間にシワが寄っていて文句ばかり言っていたか

8. 白河夜船

その時春はいつも近くにいたのだろうか。 あの美しい歌は、春の呼びかけだったのだろうか。 さっき私はどこへ行ったのだろう ? コビトは何者なのだろうか。どうしてあんなことができるのだろうか。 あれは本当に死んだ春だったのだろうか。 それとも、私の心のひとり芝居か ? 験そうして春は去り、私はここに残る。 体あらゆる謎を超えて、気持ちのいい夜風が今の心をさらっていった。 る「なんだか、明日から酒量が減るような気がする。わざとらしいかしら。」 あ 私は言った。 「でも、どう考えてもそう思う。」 「きっと、そういう時期にさしかかったんだよ。」 水男は笑った。 水男の中ではすべてが「時期」なのだろうか。私のことも、私といることも。 優しすぎるということは、きっと、冷たすぎるからなのだろうか 先のことなんかさつはりわからず、しかも、これ以上愛したら私は透きとおってし 189 なそ

9. 白河夜船

水男の冷たさは、その名のとおり冷水のようだと私はあらためて思っていた。風が 強いのだろう、窓の下の静止したはずの美しい画像のあちこちで、木やなにかが揺れ ているのがわかった。車のライトは道路をゆるやかに埋めつくして流れていた。 「俺は君のほうがずっと、好きなタイプだったけど。鼻の低さとか、不器用さとか。」 欠けた花びんに慰めがある、というのと同じような口調だったので、そして私はそ ういう言い方が好きだったので、やはりこの人を好きだと思った。 船「じゃ、行ってみようかな。」 夜 私は言った。 河「面白そうだし。」 白「そうだよ。」 ワインを飲みながら水男が言った。 「すっきりしたり、楽しいことなら、うそでもなんでもやってみたらいいんだ。気が 済みや、なんだっていいんだ。」 174 水男に連れられて行ったそこは、どこにでもあるようなカウンターだけの地下のス

10. 白河夜船

130 て所で、ちょうどよかった。企画したのはいいけど、俺、金なかったから、全然。」 彼は笑った。 「なるほど。」 「人間って落ち込みはじめると、きりがないみたいね。一緒にいるうちにつられて、 俺まで少し変になってきちゃってさ。まあ、家の中が大変だったみたいだから仕方が ない。たとえば、待ち合わせをするだろう。俺がいつものように十五分くらい、遅れ 船てしまう。するともうぐったりしてるんだ。泣くし。なんかこう、そんなにしよっち 夜ゅう会ってたわけでもないのに、ばっとしたくなってね、こっちまで。いやあ、相手 河はどこまでばっとしたかわかんないけど、俺はばっとした。」 白「そりゃあ、そうでしようよ。」 私は笑った。 毬絵の両親が、兄と毬絵の交際にあれほど反対するとは、当人たちも思っていなか ったらしかった。しかし、よく考えれば私が親だとしたって、あんな見るからに女ぐ せの悪そうな男に、自分がお金をかけてピアノだの英会話だのを習わせたひとり娘を やりたくないに決まっていた。