参考文献 石井米雄・桜井由躬雄共著『東南アジア世界の形成』 講談社、 1985 年 生野善應著『上座部仏教史』山喜房仏書林、 1980 年 生野善應著『ピルマ仏教一その実態と修業ー』 ( 新装版 ) 大蔵出版、 1995 年 池Ⅲ正隆著『ヒ、ルマ仏教一その歴史と儀礼・信仰』 法藏館、 1995 年 ミングン ( ゥー・ウィシッタサー ラーピウンタ ) 大長老の顕彰碑 ( ミングン村 ) にパゴダが建立され、仏教が栄えるであろうと予言した仏塔縁起が残されている。 また、マンダレーからイラワジ河を約一〇キロさかのばった対岸にあるミングン村は、ボード ハヤー王建立の巨大なミングン・パゴダや現在も打ち鳴らされている鐘で世界一大きな釣り鐘 があることで有名だが、それ以上に、三蔵のすべてを暗記し・て伝持した大僧正故ゥー・ウィシッ タサーラービウンタ長老 ( 一九一一 5 一九九一 l) の居住した僧院があり、僧正が存命中は、非常に多く の信者が説教を聴聞するために参集したところであった。 マンダレーに都が移る前に王宮があったアマラブーラ市には、星宿図や仏足石の天井壁画で有 名なチョウトーヂー・パゴダ ( 一八四七年建立 ) などが残っている。ここにはマハーガンダョンという シュエージン派の僧院があり、教学のみならす神定の修習にも厳しい実践指導がなされている。 かってはアシン・ザナカビウンタ ( 一八九九、一九七七 ) という碩学の僧正が出て、多くの著作編述を なし学間上の業績を残した。こうした僧院が存在するアマラブーラも宗教都市としての一面を失 ってはいない また基礎習得後の僧が、さらに教学に集うバコウクーも宗教都市の名に価する。 現在の首都ャンゴンも、宗教都市として重要な役割を果たしている。ミャンマーで第一とされ るシュエダゴン・パゴダは、経典中に言及のある二宝帰依の在家信者に山来する仏塔縁起をもつ。 周辺の僧院で行われる出家沙弥式の前には、シャーキャ族の王子を模した衣装をまとい このシ ュエダゴン・ ハゴダとそこに宿る精霊に新しく沙弥 ( 見習僧 ) となる少年の姿を見せて守護を祈願す るため参集する人々などで賑わう。 ミャンマー独立後は、仏暦二五〇〇年に当たる一九五四年、第六回仏典結集がヤンゴンのカ パ・エイ丘に建造されたマハー ーサナ・グハにて、世界中の仏教徒を集め開催された。第一回仏 典結集が行われたインドの七葉窟をモデルしたこの殿堂は、ミャンマーの全宗派合同会議を始 ( 写真 " 筆者 ) め、サンガや政府の主催するあらゆる宗教行事が行われる聖地となっている。 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー 0
な期間である。この間、僧侶は僧院からの外出が厳しく 制限され修行に専念することが求められる 雨安居が明けると、今度は在家信者にとってのお布施 の季節がやって来る。雨季の間、修行三昧の日々を送っ た僧侶は一年の内で最も浄らかな状態にあり、そうした 僧に布施することは大きな功徳になると信じられている 入からだ。 山積みのお布施 行 灯明祭の翌日、町の人から「パゴダで僧侶に布施が行 われる」と聞いた。さっそくパゴダに行ってみると、すで に境内は黄色い袈裟を着た僧たちで埋め尽くされてい た。町中の僧侶五五〇人が招待されたという。本来パゴ ダは在家の信仰の場であり、世俗を離れ僧院の中で修行 年すべき僧侶は人々の集まるパゴダに姿を見せることは少 ない。しかしこの日は祭りの一環で特別なのだという。 やがて布施が始まった。境内のある丘の頂から麓へと 時続く参道を僧侶たちが一列になって下って行く。僧侶は それぞれ、穀物用の麻袋を手にした男たちを連れてい 雨る。二キロはある参道の両側には延々とテープルが並べ
想とされ、ミャンマーでは多くの男性が少年時代に沙弥 ( 見習僧 ) を経験する。王族だったブッダ に倣い、少年は王子の服装をする。少年を中心に村人は行列を組んで村を回りながら守護霊の祠 に立ち寄り、そこで拝む。都市部では、著名なパゴダに奉られたボーポージー ( おじいさん ) という ・ノ精霊の前で拝む。その後僧院に戻り剃髪するのである。守護霊へのお参りは、加護をお願いする ためとか、挨拶のためとか、さまざまな説明がされるが、省略されることはますない。すなわ 精霊の像 ( ャンゴン都市居住民ち、たとえ僧侶になるための儀礼であっても、精霊への参拝は必要なのである。 の自宅 ) 一方、宗教の専門家という観点から見れば、僧侶、すなわち出家信者は、在家信者に比べて仏 教に深く帰依し、ブッダの教えを最も厳密に守る人々と言えるだろう。これと同様に、精霊やウ ェイザーに仕える専門家もそれぞれ存在する。精霊に特に帰依しているのがナッガドー ( 精霊の妻 の意 ) と呼ばれる霊媒である。彼らは特定の精霊と「結婚。し、その精霊が憑依することにより、お 告げをしたり、相談者の祈願に関わったりする。ウェイザーに深く帰依する人々は、通常ガイン と呼ばれる集団に一度は所属し、錬金術、占星術、薬草学など、集団が伝える知識を獲得し、ウ ェイザーの加護を引き出し、自らもウェイザーとなる修行を積む。彼らは活動の種類によって、 ガイン・サヤー ( ガインの師 ) 、セイ・サヤー ( 治療師 ) などと呼ばれるが、いずれも病気を治したり祈願 成就を祈る。 この中で宗教的社会的に最も大きな尊敬を受けるのは、もちろん僧侶である。仏教徒が成長し ていく際には、沙弥として僧院に入ったり、女の子も僧院学校で勉強を学んだりする。僧侶はま す初めに、文字や経典を教え、ブッダの教えを分かりやすく導いてくれる先生として立ち現れ る。しかし、僧侶は単なる教師という存在にとどまらない。上座仏教社会では、出家と在家の役 割も区別ははっきりしている。出家者は理想的には涅槃到達を目指すものとされ、経典を学び、 瞑目 5 修行を行う。一方、在家信者は日々の暮らしに追われ、通常は出家者ほど深い信仰生活は行 第三章徳を積む人々の暮らし
れているからだ。病院で死んだり、交通事故で死ぬ い、つよ。きっと・ しいところだろねえ」 と、魂は死んだ場所に宿ってしまう。だから病院には そろそろ与論島へ行ってみる時期かもしれない。 設計当初から霊安室がない。中学生や高校生も「病 私は何のあてもなく羽田から鹿児島に飛び、そこか 院で死ぬのはいやだ、自宅で死にたい」と口にする。 ら与論島へ向かう機に乗り込んだ かって大病院の院長だった医師が、島に移り住ん ・魂が漂う南の島 で診療所を開いている。彼の診療所には入院施設が 与論島には魂がいる。人々はそう信し込んでい ない。そのかわりに訪問診療と在宅介護の仕組みを る。家やお墓にはもちろん、海やサトウキピ畑に、 作り上げた。考えてみれば、与論島は五キロ四方の平 路地や林のなかに、先祖代々の魂がふわふわと漂っ 坦な地形。島のいちはん端まで往診に行っても、車で ている。夜の波間にチラチラと浮かんでいるのを見 一〇分とかからない。その医師がこう言うのだった。 た、という人もいれは、サトウキピ畑にもぐり込ん 「病院に死を囲い込んだのが近代医療の間違いだ。 でいったと目撃談を語る人もいる。それも一人や二 がん末期の患者の疼痛管理も、家にいるときは最低 人ではない。私が会った人だけでも三〇人や四〇人 限のモルヒネを処方するだけで止まる。だいたい末 にはなるだろ、つ。 期患者が家族と談笑しながら亡くなっていく姿なん 例えば酒席になると、主は客人に黒糖焼酎を注 て、病院では見られないでしよう」 ぎ、自分もなみなみと注いだ杯を持っと、すーっと 実際に私が会った末期がんの男性も、モルヒネも 斜め後ろを向き、誰もいない宙に向かって乾杯のし 打たすに自宅の庭で草むしりをしていた。疲れるか ぐさをする。祖先の魂に一杯の酒を献じ奉っている ら長時間の作業は無理だが、痛みを我慢しているわ のだ。 けでもなかった。一般の病院に入院する末期がん患 島には最近、近代的な町立病院が建てられた。し 者はどうだろう。繰り返される点滴と主射。患者の かし、入院中の重病人は死を予感すると、家に戻り たがる。家族も連れ帰ろうと考える。自宅の畳の上体に次から次へと取りつけられる検査装置。それで で死なないと魂がさまよってしまうから、と信じら も患者の苦痛は激しくなり、痩せこけて最冬設
「日本兵の生まれ変わりだ」と = = 「 う女性。 ( 赤ん坊を抱いている ) 。 の第。、当の 輪廻を生きる人々 丸太を杭のように並べて家の垣根にしている。私たちが訪ねた村では、村の東側にパゴダ と僧院があり、西側を墓地にしているところが多かった。 私たちは三〇を超える村を回ったが、彳 一丁く先々で村人はさまざまなことを語ってくれ た。祭りのこと、布施のこと、そして寺やパゴダのことなど、村人の関心の中心は、やは り仏教にまつわることだった。そして何よりも印象に残ったのは、村人たちが〃生まれ変 わり〃に強い関心を持っていたことだ。どの村に行っても転生話が話題に上る。「誰それは ある人の生まれ変わりである」とか、また「誰それは前世のことを覚えている」などと真面 目に話してくれる。ある村では、村の有力者が気を回して何人かの村人を集めてくれた その全員が、まるで思い出話をするように私たちに前世のことを語ってくれた ミャンマーの村人たちは、今も〃輸廻転生〃の世界に生きている。日本から来た私たちに とって、このことは大変な驚きだった。 生まれ変わった少女 村では、多種多様な転生話が語られていた。 ある村の男性は、自分は前世で強盗だったという。第二次大戦の末期、戦争の混乱の中 で強盗団の一味だった彼は、盗品の分配で仲間と諍いになり殺されたという。またある女 性は、自分はイギリス軍の空爆で命を落とした日本兵の生まれ変わりだと、日本人である 私たちに涙ながらに語ってくれた。彼女は、来世はもう一度日本人に生まれたいという。 前世は動物だったという人もいる。二〇歳過ぎの青年は、前世はヤモリで僧院の天井に 住んでいたのを覚えているという。さらに彼は、ヤモリに生まれる前の前世 ( 前々世 ) も覚
によれば、その僧院にはインド伝来の仏舎利があり、それには不田 5 議な力があって独りで かさ に嵩が増していくというのだ。どういう仕掛けで量が増えるのかは知らないか、これなら ば国中にパゴダⅡ仏舎利塔が溢れるのも納得がいく。 しかし、なぜミャンマーで古代インドの在家信仰の形であるパゴダ信仰がこれほど盛ん なのだろうか。隣のタイでは、仏塔は普通僧院に併設された施設でミャンマーほど特別な 意味はえられていない。そして、その数も規模もミャンマーとは比較にならない 現存するミャンマーのパゴダの中で、もっとも古いものは六、七世紀頃の建立だとされ ている。ャンゴンから北へイラワジ河を二五〇キロほどさかのばった所にあるピエー市に 残る素朴なレンガ造りのパゴダである。シュエダゴン・パゴダの起源も場合によっては同 じく六世紀頃までさかのばる可能性がある。 現在ミャンマー総人口の六八 % を占める主要民族、ビルマ族が現在の中国甘粛省あたり から移り住んで来たのは九世紀頃だと考えられている。ビルマ族以前には、二つの有力な 民族が現在のミャンマーの地に住んでいた。一つは、中部ビルマを中心に紀元前一世紀頃 から栄え、中国の文献にもその名前が見えるピュー ( 驃 ) 族で、ピエー市のパゴダを築いた のは彼らである。もう一つは、五世紀頃からミャンマー南部で大きな勢力をもったモン族 で、シュエダゴン・ ハゴダは、このモン族によって築かれたものである。 この両者の残した遺跡からは、バラモン教や古い部派仏教が信仰されていたことを示す 碑文や彫刻が出土している。このことは、 かなり古い時代からインド文化がこの地に根付 いていたことをうかがわせる。東南アジアの仏教国の中でも、ミャンマーはインド仏教の 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー
この女性はもともと日系企業で働 く大学院卒の肩書きを持ったエリ ートであったか、さまざまな悩み に苦しんだ末に、一ニ年前メーチ ーとして生きることを決意した。〒ー「・・。 現在の彼女の生活の中心は、運河 に突き出すようにして建つ、タイ の古い船の様式を模したニ階建て の庵である。取材時、彼女は「カ オー・ホン」と呼はれる修行の真っ 最中であった。七週間にわたって 他人と一切口を利かすに過こすと いうものだ。 . 第 : - をい 165
きに借りてくる。ちなみに、ここの〃最多観客動員数〃を誇るのは、『おしん』だそうだ。 出家式の当日に再び訪ねると、家の様子は一変していた ビデオ小屋は解体されて、庭全体を占める大きな建物が作られていたのだ。組立式のこ の建物は、周りに極彩色の色紙がべタベタと貼られていて、色味の少ない村の中でひと際 目立っていた。家の周りには ~ 果子や玩具を売る露店も出ていた。辺りは村人でごった返し , をていて、まるで祭りのようだ。建物の中に入ると、近くの町から呼ばれた楽団が、民族楽 ~ 第器を演奏していた。先ほどより村のラウドスピーカーから響き渡っていたのは、これだっ ー。」たのかと気付く。剃髪前の子供たちは赤い派手な衣装を着せられ、建物の一番奥で人々の ~ 祝福を受けていた。 お披露目が終わると、これから二週間の修行生活を行うタンボー村の僧院に向かってパ 祭りの時には、僧侶を招いて食 事を布施する。 レードが行われた。沙弥となる少年は、赤い衣に冠をつけた王子の格好で馬にまたがり寺 へ向かった。かってシャーキャ族の王子ゴータマ・シッダールタが、愛馬力ンタカに乗っ て城を抜け出し出家した故事に倣ったものである。 兄弟の両親は出家に際し、さまざまな布施を行った。子供たちが世話になるタンボー村 の僧院だけでなく、周辺の村々に住む僧侶にも布施をした。もちろんパゴダにも寄付を行 う。こうしたものも含め出家式にかかった費用は約一二万チャット ( 単純レートで約五万円 ) 。 この一家のほば一年分の収入に相当する額である。両親にとっては子供を出家させること は、布施をし〃功徳〃を積む大きな機会なのだ。 驚いたことに、これはごく標準的な出家式で、村ではもっと規模の大きなものもあると 第三章徳を積む人々の暮らし -6 8
経済的に恵まれない人々も多くいる。 金品の布施が思うようにできない彼ら は、毎日怠ることなく地味な行いを続 ける。人のためになる行いも立派な徳 を積む行為だからてある。 パ・トンの功徳 るをの日村 。黙轍欠の 々でか長 と荒す老 てなト て牛は い道車毎 今年収穫した胡麻で得 た現金の三分の一かこ の日の布施に費やされ ハ・トンの家族が村の 」僧院に布施のために向 。・・ ' か一つ 0 人々の信仰 僧侶に布施を捧げる パ・トン。 107
九五歳になる八ツダンタ・クタラ僧正は、五〇年以上も山中て厳しい修 行を積んできた。修行者の最高の境地であるアラ八ンに達したとして、 多大な尊敬を集めている。そうした僧正に布施を行い僧正の生活を支え ることは、信者にとって歓びに満ちた行為と一言える。 人々の尊敬を集めるバッダンタ・クタラ僧正。 アラハンを支える信仰心 第三章徳を積む人々の暮らし 106 と々 へは 布列 をな ' ぶて ロ伝えで僧正のうわさは国中 に広まり、遠くャンゴンから も信者か訪れる。 僧院前の広場を埋め尽くす 信者たち。