古都バガンには、数多くのパゴダが点在する。パゴダの尖塔部分はいすれも須弥山世界を象徴す るものてある。バガン朝期の仏教建築を代表するアーナンダ寺院も例外ではない。 ルフ 。ハガン・アーナンダ寺院 須弥山と廻転生 須弥山の世界観は地理的概念であると同時に、輸廻転生という時間的概念を示したもの 須弥山と輸廻転生 である。現世の在り方は前世の、来世の在り方は現世の善行・悪行の因果関係で規定さ 仏教に見る一一つの思想体系れ、生命は無色界・色界・欲界の間を行き来するという。ここでは具象化された須弥山お よび輔廻転生の世界観を、ミャンマーの人々の日常生活に見ていく。 大小さまざまなパゴダか点在す るバガン景。左端にそびえるの がアーナンダ寺院である。 匚」須弥山世界を象徴するアーナンダ寺院の尖塔部 ~ 37 」分。塔の下段部にはブッダの前世を物語るジャ ータカのレリーフか巡らされている。
アーナンダ寺院の中にある金色 の仏像。 ブッダへの篤き思い ます建物の中央には、一〇メートル近い巨大な金色の仏像が東西南北それぞれの方角を 向いて四体安置されている。西は釈迦仏、つまりゴータマ・ブッダであるが、東は拘那含 仏、南は迦葉仏、北は拘留孫仏だとされている。釈迦仏以外は、過去仏と言われるもので ある。もともと " ブッダ。とは〃目覚めた人。を意味する言葉で釈迦個人を特定する言葉では ない。仏教では、釈迦以前にも語りを開き高い境地に達した " ブッダ。が七人いたとされ 寺院の内側には、この四体の仏像を中心に内側と外側に二つの回廓があり、ここにも無 数の小仏像かある。外側回廊の側壁には、ブッダの誕生から、成道、そして入滅に至るま での仏伝が、それぞれ一メートルほどの板に浮き彫りされ壁一面に掲げられている。 そして最後は建物の外側。ここにもレリーフのある無数の陶板がはめられているが、こ れらは " ジャータカ。と呼ばれるブッダの前生譚のシーンを描いたものである。ミャンマー では、ブッダはシャーキャ族の王子として生まれる以前に何度も輪廻転生を繰り返したと され、その五四「八回の生涯が五四八話のジャータカ物語として語り継がれている アーナンダ寺院には、釈迦像から始まり、過去のブッダ、そしてブッダの伝記、さらに はブッダの前世、さらに建物の項上には、ブッダの骨まで納められている。ブッダの総展 示場ともいえる構造なのである。アーナンダ寺院だけではない。バガンには、数千のパゴ ダが林立する。そのほとんどは、少なくともジャータカ図か仏伝図を持っている。そして 内部には、もちろん仏舎利がある。ハガンにはブッダが充満している。 アーナンダ寺院を後にした私たちは、高さ六〇メートルでバガン随一の高さを誇るタッ
第ニ章輸廻と宇宙観 アーナンダ寺院の仏塔下段部を飾るジャータカのレリーフ。ジャータ 力とはブッダの前世譚を言い、物語の数は五〇〇以上に上る。一枚一 話のスタイルで作られたテラコッタ製のレリーフが壁面を覆う。 ジャータカのレリーフ
れた巨大な古代都市のようだった。 九世紀頃に現在のミャンマー中部に移住してきたビルマ族は、中国雲南地方に通じるイ ラワジ河と、インド・アッサム地方に通じるチンドウイン河が交わる交通の要衝バガンに 都を置き王朝を建てた。そのバガン王朝のアノーヤター王 ( 一〇四四、七七 ) は、一〇五七年、 南ビルマに一大勢力を誇っていたモン族の拠点都市タトンを制服し、ミャンマー最初の統 一国家を築く。タトン攻略の際、アノーヤター王は王族をはじめ多くの捕虜を連行し、モ ン族の文化をバガンに移植した。あわせて、僧侶や経典などとともにモン族の仏教ももた らされる。当時モン族はスリランカとの交易が盛んで、スリランカ系上座仏教を信仰して いた。後にミャンマーで上座仏教が広く信仰されるようになる起源はここにある。また忘 バガンの代表的な建物、アーナれてはならないのは、ヾ。・ ノコタの建築技術もこの時バガンに伝えられたということである。 ンダ寺院。 以後、ここに都が置かれた二五〇年の間、五〇〇〇とも六〇〇〇とも言われるパゴダや寺 院が築かれたのである。 私たちは、バガンを代表する仏教建築、アーナンダ寺院を訪ねた 一一世紀末、バガン王朝三代目のチャンシッター王が建てたもので、シュエダゴン・ ゴダのような天空へ鋭く伸びる円錐型の建造物とは随分趣の異なる建物だった。四方に入 り口が突き出た四角い建物で、一見するとヨーロッハの教会建築のような雰囲気がある。 これをパゴダと呼んでいいのかは分からないが、建物の一番上には仏舎利を納めた塔が載 っている。 この建物には、ブッダが満ち溢れている。 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー
タンボー村のパゴダ祭。周辺の 村からも人かくりだす。 輸廻を生きる人々 灌木しか生えておらす、地面は赤茶けて干からびた印象を受ける。この道をバガンから南 へ三、四時間ほど走り、小さな集落の傍らで細い牛車道に入る。 砂だらけの乾いた道を三〇分ほど行くと、砂糖ヤシが群生した場所に出る。ヤシの下は 胡麻やピーナツツが整然と植えられていて、砂漠の中のオアシスのようだ。ヤシの林に囲 ゴダの向こうに まれた広場には、バガンのアーナンダ寺院に似た小さなパゴダがある。 は、ヤシ葺きの家々が並ぶ。私たちが腰を落ち着け取材することにしたのはここ、タンボ ー村である。 人口はおよそ一〇〇〇人。胡麻を中心とした換金作物の栽培が村の収入源だが、砂糖ャ シの樹液を煮詰めて作る粗糖の生産も村の暮らしを助けている。灌漑はなく収穫は天候次 第だ 私たちの取材は、村のパゴダ祭から始まった。 。雨季が明けた一〇月から一一月、この地域の村々では一斉にパゴダの祭りが行われる。 どの村にも一つ以上のパゴダがあり、それぞれのパゴダに祭りがあるので、あたりは祭り だらけになる。タンポー村の祭りは一〇月末に四日間の日程で行われた。 祭りの前日、パゴダへの道は牛車で大渋滞になった。牛車には、鍋や釜、テープルなど 家財道具一式が載せられていた。祭りの間、村はもぬけの殻になるという。また、周辺の 村々からも多くの人が集まってきた。タンポー村のパゴダはバガン時代からの歴史がある ということで、かなり広い地域の人々から信仰を集めているようだった。 ハゴダの横の広場は、やがて牛車で埋め尽くされた。牛車を仮の家にして、俄作りの -6 にわか
マンダレー丘で王都を指さし、 授記をさすけるブッダ立像と待 僧アーナンダの座像 (lnsight Guide 社刊 "BU 「 ma より ) 宗教都市の栄華の歴史 ンカの上座仏教との交流も進んでいった。 国王や王族、商工業者や農村の富豪によるこのような仏塔造営および各種の寄進行為は、自ら の功徳を積み、父母や親族あるいは一切衆生にその功徳を及ばすためであった。多くの碑文にそ の願いが記されている。しかし、同時に自分の威信を示すことに心を奪われた権力者もいた。 バガン朝後期の建築に、一一八一年ナラバティスイートウ王建立の巨大なスーラーマニ窟院が ある。バンタグー長老は、この僧院建立のために多数の民衆が過酷な労役に駆り出されているの を見て、「これでは王の功徳にならないーと身を挺して建立の中止を進一言し、王の改心を求めたこ とが記録に残されている。 僧院と僧侶により出現した宗教都市 マンダレーは、教学を重んじたバガン朝、アヴァ朝の伝統を受け継いだ学都であり、僧侶の数 も多い。ミャンマーの仏教僧は、マンダレーの有名な長老のもとで経典修学の経験を積まない限 り、一人前の学間僧とはみなされないと言われる。ビルマ最後の王朝があったマンダレーでは、 建設前から「仏滅一一四〇〇年後にこの地に正法が栄える都が興起するだろう」との流行り言葉が、 人々の間で囁かれたという。その年に当たる一八五七年に実際に建設が始められ、その三年後に 遷都している。マンダレー・ヒルには、仏教の繁栄を予言しているブッダの立像と仏弟子アーナ ンダの座像が安置され、古都を見下ろしている。 なお、マンダレー丘はじめミャンマーの多数の宗教施設の建立、整備のために尽力した著名な 、。 , ~ ー 1 。み 7 ・ヤディ ( 行者 ) ゥー・カンティ ( 一「〈六七 5 一九五〇 ) がいたことも忘れてはならない マンダレーのイラワジ河の対岸には、一四世紀中葉の王都で、現在約五〇〇以上もの僧院や尼 僧院が存在するサガイン市がある。市といっても北西に伸びるサガイン山脈の山腹に点々と見え るパゴダと僧院を中心とした集落のつながりである。この地にもブッダが巡錫し、それぞれの山
カバー写真・シュエダゴン・パゴダ ( 荒川健こ 背写真・エメラルド・ブッダ ( 松本栄一 ) 本扉写真・「ジャータカ」のレリーフ ( 荒川健一 ) ロ絵・ P. 9 托鉢に向かうタイの新人僧 ( 松本栄こ引用は「ブッダのことは」中村元訳 ( 岩波文庫 ) P. 一 0 早朝の仏都バガン ( 荒川健一 ) 引用は「現代語訳「阿含経典」長阿含経第一巻」〈遊行経〉神塚淑子 ( 平河出版社 ) P. 一 2 ヴァンサンの磨崖山 ( 大村次郷 ) 引用は「阿含経典第一巻」増谷文雄訳 ( 筑摩書房 ) P. 一 3 アーナンダ寺院で祈りを捧げる ( 荒川健一 ) 引用は「仏弟子の告白」中村元訳 ( 岩波文庫 ) P. 一 4 満月に照らされるパゴダ〔荒川健一 ) 引用は「阿含経典』増谷文雄訳 ( 筑摩書房 ) カバー・本文テサイン・海野幸裕宮本香 写真・大村次郷荒川健一松本栄一塩谷安弘 図版・張遜株ノムラ 校正・篠原直人 編集協力・株オメカ社蓑輪顕量古木杜恵 2 引 ZIY スペシャル フッタ大いなる旅路 2 篤き信仰の風景南伝仏教 一九九ハ年九月三十日第 1 刷発行 監修石井米雄 編者 ZIY 「ブッタ」プロジェクト 発行者安藤龍男 発行所日本放送出版協会 〒 150 ー 8081 東京都渋谷区宇田川町 電話 03 ー 378933 一 8 ( 編集 ) 03 ー 37893339 ( 営業 ) 振替 00 一一 9 一ー 4970 一 印刷・製本・図書印刷株式会社 0 一 998 Yo コ eo lshii\ZT>Z P 「デ d デ」 apan 一 SBN4 ー 14 ー 080372 ー X C0315 乱丁・落丁本はお取り替え致します。 定価はカバーに表示してあります。 日本複写権センター委託出版物 本書の無断複写 ( コピー ) は、著作権法上の例外を除き、 著作権侵害となります。
しかし、救われるとはどういうことをいうのだろうか 人生の最後を支え合うという夫婦、そして互いの死を看取りあう患者たちの姿を見た 時、救いとは他者を理解しその存在を受け入れることかもしれないという気がした。自分 を見つめ、自分の存在の空しさを思い知った人は、同じように苦しみの人生を生きる他者 への共感を抱くだろう。その共感こそが、人にとってのささやかな救いなのかもしれない 近年タイでは、このワット・プラバートナンプーのほかにも、麻薬患者を受け入れ更正 させる寺院や、村人の生活改善を指導する開発僧の寺など、既存の仏教と一線を画す新し し活動をする僧院が増えつつあるという 信侶か自ら在家の人々に歩みよりその救済に積極的に関わるようになった背景には、多 様化する価値観の中で、修行を積み布施を受けるだけでは人々の支持を得られなくなった という事情があるといわれる。サンガの保守的な体質に反発する新しい意識を持っ僧侶の 台頭を指摘する声もある。 しかし、一九世紀以前のタイでも、僧侶は村の知識人として、教育を担い、医療を施 し、村の政治にも大きく関わっていたといわれる。それが近代化の中で、修行と戒律の仏 教へと純化されていった。近年のタイ仏教の変化も、時代や人々の要求に応じて柔軟に形 を変えてきた長い歴史のひとコマともいえる。「行い , による自力救済という考え方も、エ イズ救済寺院のように、つきつめれば他者への深い理解を生み出す。在家救済に積極的な 僧院の出現は、上座仏教の変容なのではなく、その可能性の現れなのかもしれない 第六章仏教の救済と癒し 188
タイの「森の寺」 開祖とするはかの「森の寺」同様、相当な寄金が信徒からもたらされ、タイの伝統的な寺院の様式 にに造られている。 を逸脱したモダンな施設も一音 ところで、現行サンガ法 ( 一九六二年 ) は、寺院を浄域結界を持っ寺院 ( ワット ) と浄域結界を持たな い寺院 ( サムナックソン ) に大別する。浄域結界とは、戒律の授受に必要な戒壇に相当するもので、 布薩堂の基盤をなす。地元住民はいすれの寺院をもワットと総称するが、得度式が実施できる布 薩堂のある寺院とそうでない寺院として区別している。地方寺院にはサムナックソンが多く、東 北地方では約六割を占める。得度できるワットで出家してから、どこかのサムナックソンへ出向 くという出家行動ハターンが普通である。そして新築される多くの「森の寺」は、このサムナック 全国にハ〇ほとの支寺を持っ ソンである。制度的には、国家が認知する登録寺院での得度を前提とすることによって、標準よ 「森の寺」ノーンバーホンの一寺 り逸脱する実践が事実上可能となっている構造がある。 の講堂内部。床面は大理石。設 計は東北タイの美術学校の教森の寺と一般在俗信徒 「森の寺 , を拠点に地方農村で盛んになっている瞑想実践は、大都市でも異なった形で展開され ている。バンコク近郊を拠点とするタマカーイは、七〇年代に入って急増した新興中間層、学生 よ法身瞑想法とい や俸給生活者を主な支持者としてきた瞑想運動として知られる。その瞑想法 ( 、 、精神を集中して水品玉のイメージが仏像に変化してゆくことを阿羅漢への道とする。在家者 でも瞑想でその境地に達することができるという。週末の一日瞑想、カセットテープやビデオの 販売を通して、都会人に手軽な即席修行を広めた。マス・ビジネス化した現在は、海外にも支寺 を持っている。このほかにも、地方村落、都市双方において、多彩かっ個性的な実践を特徴とす る僧侶とその信徒の活動が見られる。「森の寺、と瞑想の興隆は、社会変化に伴って顕在化した一 連の「脱国教化 , する仏教実践の動きと連動するものである。それぞれの仏教実践の展開を、世俗 との関係から検討してみれば、①積極的に世俗に活力を求める形態、②世俗に適応する形で実践 一を 147
ヒンドウー教と仏教が複雑に入 りくんだカンホジア。かっての 王朝の栄華を偲はせる石造寺院 や都城の跡をアンコール・ワッ ト遺跡にみることができる。 ハイヨン寺院に刻まれている「クメ ールの微笑」と呼ばれる観世音菩薩 の四面像。 ( アンコール・トム ) フォトギャラリー 東南アジア諸国の上座仏教 ーニカイ派という多数派と、タイのタマュット派の影響で カンボジア仏教には、在来派のモハ できたトアンマュット派という少数派の二派がある。後者は、タイのタマュット派の影響の下に ーニカイ派と比べると少数派にとどま 生まれた宗派で、タイと同じように王室に近いが、モハ カンボジアにおける仏教の実践形態は、タイやスリランカとよく似ている。スリランカの「ピ ン・カム」、タイの「タンプン , と同じ様に、民衆は寺院に詣でて「三帰依」を唱え「五戒」を受ける。 さらに寺院の建立修復、僧への食施などを行って功徳を積むことに宗教的情熱を燃やす。こうし 造 ア徒 211 アンコール・ワット内の寺院に住む僧侶たち。 ( 写真 : 松本栄一 )