ミャンマーの首都ャンゴ ンは世界有数の仏教聖地 として多くの信者が集ま る地である。ミャンマー 最大の仏塔、シュエダゴ ン・パゴダは建立以来、熱 心な信者たちの布施によ って増築が繰り返された 結果、最初はハメートル ほどだった高さが、現在 では一〇〇メートルに達 するまでになった。また ブッダの遺髪が納められ ているこのパゴダの外壁 面は、約九〇〇〇枚の純 金の板で覆われ永遠の輝 きを放っている。 ルフ シュエダゴン・。ハゴダ満月祭ーヤンゴン パゴダに寄せる 人々の析り パゴダに寄せる人々の祈り 一一世紀半は、バガン朝の成立からほどなく伝来した上座仏教は、国王の保護の下、華やかに展開してい った。須弥山世界を形取ったと言われるフォルムか印象的な仏塔 " パゴダの建立も盛んに行われ、いくっ もの宗教都市か生まれていった。仏塔建築はさまざまな仏教国で行われてきたか、ミャンマーの規模はそ の中でも群を抜いている。そのパゴダで節目節目に執り行われる祭りに人々の篤い信仰心を見ることがで きる。 満月のたびに行われる満月祭の中で も、雨安居か明けた翌月のこの祭り が最大の規模である。 ゞ : ー一 : ま一第三 1 シュエダゴン・パゴダの周 囲には、数多くのパゴダか 林立している。これらのバ ゴダ群も人々の布施で建て られた。
黄金に輝く、シュエダゴン・。 ゴダ。 ブッダへの篤き思い 目的だった。就航して間もない関西国際空港からの直行便が到着したのは夜の一一時、ヤ ンゴンの町はすでに寝静まっていた。初めての国に降り立っ時は、誰しも多少は緊張する ものだ。ましてやここは、あの軍事政権の国である。漠とした不安を抱きながら、宿へと 向かう車に乗り込んだ。 当時はまだアジア経済が危機に陥る前であり、タイやシンガポールからの投資も盛ん で、ヤンゴンの町はホテルやオフィスビルの建築ラッシュに沸いていると聞いていた。車 が町の中心部に近づくにつれ、ところどころにネオンサインも目に付くようになった。し かし、不夜城のようなアジアのほかの町を見慣れていたせいか、町全体が薄暗く見える。 民主化闘争を巡るここ何年かのイメージが、そう見せているのかもしれない やがて低いビルが並ぶ市街地らしきところを通り、宿も近いと感じた時、金色に淡く輝 くものが目に飛び込んできた。それは、小高い丘の上に立っ巨大な建造物で、ちょうどラ ツバを伏せて置いたような形をしている。ミャンマー最大の仏塔、シュエダゴン・パゴダ である。シュエとは「黄金以ダゴンは「ヤンゴン」の旧称を表す。やや弱めの光でライトア ップされているせいか、パゴダを覆う黄金の照り返しは月の光のようだ。町が暗いことも あって、その輝きを見ていると引き込まれそうになる。私たちは、先ほどまで抱いていた この国に対する不安な気持ちも忘れ、パゴダにじっと見入っていた。 ミャンマー最大の仏教聖地「シュエタゴン・パゴタ」 翌日、政府関係者との交渉も無事に終わり、やや解放された心持ちでシュエダゴン・ ゴダを訪ねた。
丘の上の境内へは東西南北四か所の参道が通じているが、私たちは西側参道から登るこ とにした。ます参道の入り口で靴と靴下を脱ぐ。ミャンマーでは、パゴダや僧院の敷地で は裸足にならなければならない。西参道は最近改築されたもののようで、新しくエスカレ ーターが設けられていた。地方からの参拝客はこれが初めてなのか、乗り口でなかなか一 歩が踏み出せず立ち往生している人もいた。参道を抜けると、高さ九七メートルの巨大な ハゴダが燦然と輝いていた。ヾ、 ノゴダ本体は、大小六〇の金色をした小仏塔群に囲まれてい て、それらが昼間の強い日差しを受けて輝き、目が眩みそうになる。 ハゴダの周囲には大 理石を敷き詰めた礼拝のための広場が取り巻き、その後ろにもさまざまな仏像を安置した 無数の堂が建っている。まるでハゴダを中心に小さな町があるような感じだ。 シュエダゴン・パゴダは、高さこそミャンマーで二番目だが、その規模と豪華さではこ れを凌ぐものはない。全体は九〇〇〇枚の金の板で覆われ、〃ティー〃と呼ばれる項上の傘 蓋には五〇〇〇をこえるダイヤモンド、一〇〇〇あまりのルビーなど無数の宝石が輝く。 伝説は、このパゴダの起源を次のように伝えている。 ブッダ在世当時、この地にタブッタとバツリカという兄弟がいて商売のため船でインド に渡った。二人はブッダガャーで成道直後のブッダに出会い食べ物を捧げ供養したが、プ ツダはそれに対し髪の毛八本をえた。兄弟が持ち帰った仏髪は、ティングッタラの丘 ( シュエダゴン・パゴダのある丘 ) に安置され仏塔が造られた。 もちろん、二五〇〇年前のブッダの時代にその基礎が作られたという伝承の信憑性は薄 い。信頼に足る資料もなく考古学的な検証もされていないため、シュエダゴンの起源は憶 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー
シュエダゴン・パゴダの境内に ある仏像に参拝する人たち。 ブッダへの篤き思い 測の域を出ない。しかし、中国文献をもとに六、七世紀頃には建立されていたという説も あり、かなり古いものであることは確かなようだ。 日差しが傾き始め、時折凉しげな風も吹くようになると、境内は参拝客の数が目立って むに瞑想に励む 増えてきた。数珠をくりながら経をぶつぶつ唱える人、パゴダに向かい一 人。礼拝する人ばかりではなく、手をつないで楽しげに散歩する二人連れもいれば、菓子 いびき をつまみながらお茶を飲む家族連れもいる。日陰では、鼾をかいて昼寝している人もい ハゴダの境内には、一夜を過 た。地方からの巡礼者は市内に宿を取る必要はないという。 ごすのに格好な堂がたくさん建っているからだ。ミャンマーの人たちは、瑕さえあればバ ゴダにやって来る。仏教徒であれば、そこにいるだけで心落ち着く場所なのだ。 ハゴダには、実にさまざまな人が訪れ多様な過ごし方をする。しかし、ここでは僧侶の 姿を見かけることは少ない。ミャンマーのパゴダは、僧侶のいる僧院とは全く別の施設であ り、独立した存在なのだ。その維持・管理から、修築、祭りの実施に至るまで、運営はす べて在家信者の手によって行われる。パゴダは在家のための信仰の場なのである。 境内を回るうちに小さな人だかりができている場所があることに気付いた。近づいてみ ると「金板の寄付、額の多少に関わらす功徳を積みましよう」と看板にある。シュエダゴ ン・パゴダは何年かに一度、表面の金板や金箔を張り替えて化粧直しをする。その時のた ハゴダを維持するための目的でさま めの費用を集めているのだ。ほかにも寄付所があり、 : ざまな布施を募っている。境内に敷く大理石の板、仏像に着せる衣、ハゴダをライトアッ ~ プするための電気代というのもある。一人当たり二〇〇チャットくらいの布施が多いが、
新しく造られたパゴダには仏像 なとか納められる。 ブッダへの篤き思い 事政権打倒を求める集会を開いたという。 、ゴダは信仰の場であるとともに、憩いの場でもある。時によっては、政治の場ともな る。ミャンマーの人々の生活は、ヾ。 ノコダとの関わりなしには成立しないといっても過言で はない。なぜ、パゴダはかくもミャンマーの人々を引き寄せるのだろうか。そして、パゴ ダはどのようにして生まれ、ミャンマーの地にこれほど深く浸透していったのだろうか パゴタはフッタの化身 ハゴダの原型は、ブッダの遺骨 ( 仏舎利 ) を祀った墳墓にある。ブッダ入滅後、その死を 悼む信者たちは遺体を荼毘に付した後に分骨し、→八基のストウーバ ( 塔 ) に葬った。この遺 骨は、後にインドを支配したアショーカ王の時代 ( 紀元前三世紀 ) に再び分骨され、「八万四〇 〇〇のストウーパに納められたと伝えられる。当時はまだ仏像が作られておらす、在家の 人々の信仰のよりどころは、このストウーパだった。つまり仏塔信仰は、仏像誕生 ( 一世紀 頃 ) 以前の古い信仰の形だといえる。 ミャンマーのパゴダも、有名なもののほとんどがブッダの身体の一部を納めているとい う伝承を持つ。特に、シュエダゴン・パゴダのように仏髪を祀るものが多く、ヤンゴンに あるボウタタウン・パゴダではブッダの髪と言われるものを直に見ることもできる。その ほか、仏歯を祀るというパゴダもかなりの数に上る。これらのことからも推測できるよう ミャンマーの人々の仏舎利に対するこだわりは大きい。後に私たちは、ある農村で新 しくハゴダを建立するところを取材したが、この時、村人は砂粒のようなものを入れた小 さな瓶をハゴダの中に納めた。近くの僧院からもらってきた仏舎利だという。村人の説明
最高紙幣の五〇〇チャット札を出す人もかなりいた。日本円にすると二〇〇円あまりだが、 公務員の月収が一五〇〇チャットくらいだといわれるので、彼らにすればかなりの額だ ハゴダは在家信者の布施によって建てられ、維持され、また増築される。記録によれ ば、当初シュエダゴン・ ハゴダは一〇メートル足らすの小さなパゴダだった。それが、一 四世紀に二〇メートルくらいにまで建て増しされた。以後、信仰篤い王族や民衆の布施に よって増築や改修が重ねられ現在の姿になったという。それを裏付ける事例もある。ミャ ンマーの古都ハガンには、ヾ : ノコタの一部が地震で崩れ、内側からもとの古いパゴダが顔を のぞかせているものがある。私たちも中部ミャンマーの農村で、人の背丈くらいの小さな 古いパゴダを増築しているのを見かけた。村人たちは、もとのパゴダを包み込むように周 囲にレンガを積み上げ、一回り大きいものに改修していた ミャンマーはパゴダの国だ。全国には、何万、何十万ものパゴダが林立している。その 一つ一つが、人々の篤い信仰心によって日々成長し、輝きを増しているのだ。 ハゴダを訪ねた数日後の夜、仕事を終えて宿に帰る途中の私たちは、道端に多くの若者 が集まっているのを見かけた。よく見ると、少し高いところで学生らしい青年が何やら演 説をしているようだった。ミャンマー人の通訳は「この国ではよくあることですよ . と私た ちに言ってそのまま車を進めたが、集まった学生たちにその後市民も加わって、シュエダ ゴン・パゴダまでデモ行進が行われたことを翌日になって知った。デモは、アウン・サン・ スー・チー女史が登場し、国中に民主化要求の嵐が吹き荒れた八八年以来の規模だったと いう。聞いた話では八八年の時も、人々はことある度にシュエダゴン・パゴダに集まり軍 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー
によれば、その僧院にはインド伝来の仏舎利があり、それには不田 5 議な力があって独りで かさ に嵩が増していくというのだ。どういう仕掛けで量が増えるのかは知らないか、これなら ば国中にパゴダⅡ仏舎利塔が溢れるのも納得がいく。 しかし、なぜミャンマーで古代インドの在家信仰の形であるパゴダ信仰がこれほど盛ん なのだろうか。隣のタイでは、仏塔は普通僧院に併設された施設でミャンマーほど特別な 意味はえられていない。そして、その数も規模もミャンマーとは比較にならない 現存するミャンマーのパゴダの中で、もっとも古いものは六、七世紀頃の建立だとされ ている。ャンゴンから北へイラワジ河を二五〇キロほどさかのばった所にあるピエー市に 残る素朴なレンガ造りのパゴダである。シュエダゴン・パゴダの起源も場合によっては同 じく六世紀頃までさかのばる可能性がある。 現在ミャンマー総人口の六八 % を占める主要民族、ビルマ族が現在の中国甘粛省あたり から移り住んで来たのは九世紀頃だと考えられている。ビルマ族以前には、二つの有力な 民族が現在のミャンマーの地に住んでいた。一つは、中部ビルマを中心に紀元前一世紀頃 から栄え、中国の文献にもその名前が見えるピュー ( 驃 ) 族で、ピエー市のパゴダを築いた のは彼らである。もう一つは、五世紀頃からミャンマー南部で大きな勢力をもったモン族 で、シュエダゴン・ ハゴダは、このモン族によって築かれたものである。 この両者の残した遺跡からは、バラモン教や古い部派仏教が信仰されていたことを示す 碑文や彫刻が出土している。このことは、 かなり古い時代からインド文化がこの地に根付 いていたことをうかがわせる。東南アジアの仏教国の中でも、ミャンマーはインド仏教の 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー
参考文献 石井米雄・桜井由躬雄共著『東南アジア世界の形成』 講談社、 1985 年 生野善應著『上座部仏教史』山喜房仏書林、 1980 年 生野善應著『ピルマ仏教一その実態と修業ー』 ( 新装版 ) 大蔵出版、 1995 年 池Ⅲ正隆著『ヒ、ルマ仏教一その歴史と儀礼・信仰』 法藏館、 1995 年 ミングン ( ゥー・ウィシッタサー ラーピウンタ ) 大長老の顕彰碑 ( ミングン村 ) にパゴダが建立され、仏教が栄えるであろうと予言した仏塔縁起が残されている。 また、マンダレーからイラワジ河を約一〇キロさかのばった対岸にあるミングン村は、ボード ハヤー王建立の巨大なミングン・パゴダや現在も打ち鳴らされている鐘で世界一大きな釣り鐘 があることで有名だが、それ以上に、三蔵のすべてを暗記し・て伝持した大僧正故ゥー・ウィシッ タサーラービウンタ長老 ( 一九一一 5 一九九一 l) の居住した僧院があり、僧正が存命中は、非常に多く の信者が説教を聴聞するために参集したところであった。 マンダレーに都が移る前に王宮があったアマラブーラ市には、星宿図や仏足石の天井壁画で有 名なチョウトーヂー・パゴダ ( 一八四七年建立 ) などが残っている。ここにはマハーガンダョンという シュエージン派の僧院があり、教学のみならす神定の修習にも厳しい実践指導がなされている。 かってはアシン・ザナカビウンタ ( 一八九九、一九七七 ) という碩学の僧正が出て、多くの著作編述を なし学間上の業績を残した。こうした僧院が存在するアマラブーラも宗教都市としての一面を失 ってはいない また基礎習得後の僧が、さらに教学に集うバコウクーも宗教都市の名に価する。 現在の首都ャンゴンも、宗教都市として重要な役割を果たしている。ミャンマーで第一とされ るシュエダゴン・パゴダは、経典中に言及のある二宝帰依の在家信者に山来する仏塔縁起をもつ。 周辺の僧院で行われる出家沙弥式の前には、シャーキャ族の王子を模した衣装をまとい このシ ュエダゴン・ ハゴダとそこに宿る精霊に新しく沙弥 ( 見習僧 ) となる少年の姿を見せて守護を祈願す るため参集する人々などで賑わう。 ミャンマー独立後は、仏暦二五〇〇年に当たる一九五四年、第六回仏典結集がヤンゴンのカ パ・エイ丘に建造されたマハー ーサナ・グハにて、世界中の仏教徒を集め開催された。第一回仏 典結集が行われたインドの七葉窟をモデルしたこの殿堂は、ミャンマーの全宗派合同会議を始 ( 写真 " 筆者 ) め、サンガや政府の主催するあらゆる宗教行事が行われる聖地となっている。 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー 0
バガンには六〇〇〇近いパゴダ か林立している。 ピンニュー寺院に向かった。バガンの全景を撮影するためだ。 この巨大な寺院を登るのはひと苦労で、特に建物外側にある上層部の階段は、重い機材 を持った私たちにはかなり過酷なものだった。狭い階段は人が一人登るのがやっとで勾配 もきつい。階段を登るというより、足場を使って壁によじ登っているといった感じだ。し かもハゴダの中は裸足である。崩れ落ちた漆喰や瓦礫などで足の裏はすり傷だらけになる。 項上に着くと、苦労した甲斐もあって眺望は最高だった。バガンのパゴダは、色も大き さも形も実に多種多様である。シュエダゴン・パゴダのようなモン様式のもの、スリラン 力によく見られる釣り鐘型のものもある。素朴な半球型のものはピュー族の流れを汲む様 式だという。ハガン特有の複雑な形をしたものやブッダが悟りを開いたというインド・プ ツダガャーの仏塔をそっくり真似して造ったものもある。 ハガンの都は、古代よりインドと交流を重ね仏塔を崇拝してきた多くの民族が集めら れ、その文化をビルマ族に引き継いでいった場所である。そしてここでは、ブッダに対す る強い憧れが人々の想像力をかき立て、多種多様なパゴダの形が生まれていった。 。それは現在でも続 このハガンを始まりに、ミャンマーでは国中にパゴダが溢れてい いていて、農村部に何日かいれば、必すどこかの村で建築中の小さなパゴダを見かける。 昨年には、古都マンダレーとヤンゴンに巨大な仏歯を祀るパゴダが造られた。 なぜ、ミャンマーの人々はパゴダを造り続けるのだろうか。ブッダへの憧れだけがそう させているのだろうか。私たちは、ミャンマー人の心の内を知りたいと、信仰篤い人々が 暮らす村々を巡る旅に向かった。 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー
上座仏教徒にとって信 人々の信仰 仰とは、自らがより善 功徳の思想と い行いを実践すること 土俗信仰を意味する。それは現 世での善き行いによって来世の幸せか得られると考えるためであ る。寺院や僧侶への布施はもちろん出家修行やパゴタの建立とい った大がかりなものまで、労力・物資・資金・時間を惜しまぬこと が徳を積む行為と言える。またその一方で世俗的祈願の対象とし てのナッ ( 精震 ) 信仰か盛んに行われていることは興味深い。ニ つの信仰か何の違和感もなくミャンマーの人々の中では共存して いるのである。 かっての王族たちは信仰心を示す行為として競って八ゴダを建 立した。そうした歴史的事実は、決して民衆とかけ離れた次元 の話てはない。現在てもミャンマーでは在俗信者によるパゴタ 建立は最も高い徳を積む行為としてみなされている。 ルフ アウン・タイの。ハゴダ建立 自身のパゴダの前に立っ アウン・タイ。彼は鍛冶 屋の仕事で成功し、出身 の村にパゴダを建立する ことを思い立った。 新しいパゴダか大きな影 = - 一一、、、 を落とす広場で完成を祝 う式が始まった。