・マンダレー イ ラノヾカ・ン ワ・タンポー村 マグウェ 工 べン - プル : ・ヤ : / コン ~ 輪廻を生き爻々 村を探す ミャンマーでは、国民のおよそ八〇 % が今でも農村部に暮らしている。ャンゴンやマン ダレーなどの都会に暮らす人たちも、多くは地方の村々からやって来た人たちだ。パゴダ に強い愛着を持つ人々は、村で生まれ村で育った。村人たちの日々の生活の中に、この国 の人々を理解するための鍵があるに違いないと考えた私たちは、これから取材する村を探 して、バガンから南に広がるマグウェ管区のイラワジ河沿いにある村々を回った。 私たちが村探しをした辺りは、移動してきたビルマ族が定住を始めた地域の一つであ る。もともとは民族固有の精霊信仰を行っていたビルマ族はこの地で仏教を受け入れパゴ ダを造り始めた、いわばビルマ仏教のルーツとも言える場所なのである。しかも、ここに は稲作の村もあれば畑作の村もあり、ミャンマーの農村の形がおおむね揃っている。 この地域の村は、きれいな正方形をしたものが多い。上空から見ると、厳しい自然から 身を守るかのように、荒野の中にそこだけ緑に覆われた四角い村が点在している。ミャン しゅ マー人の学者によれば、この形は仏教の宇宙観を反映しているという。宇宙の中心には須 みせん 弥山という巨大な山があって、その項には仏教を守護する帝釈天が住んでいる。山の項は 東西南北四方に睨みを利かせるために正方形をしているが、村の形はそれを地上に写した ものだという。村の中は、碁盤の目のように整然と道が通っていて、切り出してきた細い 第ニ章輸廻と宇宙観 2
によれば、その僧院にはインド伝来の仏舎利があり、それには不田 5 議な力があって独りで かさ に嵩が増していくというのだ。どういう仕掛けで量が増えるのかは知らないか、これなら ば国中にパゴダⅡ仏舎利塔が溢れるのも納得がいく。 しかし、なぜミャンマーで古代インドの在家信仰の形であるパゴダ信仰がこれほど盛ん なのだろうか。隣のタイでは、仏塔は普通僧院に併設された施設でミャンマーほど特別な 意味はえられていない。そして、その数も規模もミャンマーとは比較にならない 現存するミャンマーのパゴダの中で、もっとも古いものは六、七世紀頃の建立だとされ ている。ャンゴンから北へイラワジ河を二五〇キロほどさかのばった所にあるピエー市に 残る素朴なレンガ造りのパゴダである。シュエダゴン・パゴダの起源も場合によっては同 じく六世紀頃までさかのばる可能性がある。 現在ミャンマー総人口の六八 % を占める主要民族、ビルマ族が現在の中国甘粛省あたり から移り住んで来たのは九世紀頃だと考えられている。ビルマ族以前には、二つの有力な 民族が現在のミャンマーの地に住んでいた。一つは、中部ビルマを中心に紀元前一世紀頃 から栄え、中国の文献にもその名前が見えるピュー ( 驃 ) 族で、ピエー市のパゴダを築いた のは彼らである。もう一つは、五世紀頃からミャンマー南部で大きな勢力をもったモン族 で、シュエダゴン・ ハゴダは、このモン族によって築かれたものである。 この両者の残した遺跡からは、バラモン教や古い部派仏教が信仰されていたことを示す 碑文や彫刻が出土している。このことは、 かなり古い時代からインド文化がこの地に根付 いていたことをうかがわせる。東南アジアの仏教国の中でも、ミャンマーはインド仏教の 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー
前一一四七ー前ニ〇七頃ソーナ、ウッタラ両長老によりスヴァンナ・プーミに仏教伝わ七 5 一一世紀 る。 ー九世紀 アノーヤター王の指導の下、ビルマ族国家バガン朝成立。 一〇四四 一〇五六 上座仏教伝来。アノーヤター王、シン・アラ八ン僧により上座 仏教に帰依。 アノーヤター王、バーリ語一切経の入手を目的に、南部ビルマ 一〇五七 のタトン遠征。タトン伝来の上座仏教の影響により、土着信仰 や大乗仏教の勢力弱まる。 バガン王朝アノラウタ王、シュエジゴン・八ゴダ起工。ミャン マーに建塔時代始まる。 アノーヤター王、スリランカより仏歯の複製受け取る。 マ八ー・ボティ寺建立。 、バーリ語著作が行われる。 バガンを中心に仏教教学が栄え ミャンマー上座部サンガの分裂。 モン族僧チャパタ、スリランカより帰国。スリランカ仏教の公 布によりタトン系仏教弱まる。 アヴァー朝以降、仏伝を題材とする文学が盛んになる。 元の侵攻を四度にわたって受ける。 バガン朝滅亡。 シャン族、ピンヤ王朝建国。 シャン族、サガイン王朝建国。 スリランカ大寺派の授戒様式の伝来。ピルマ上座仏教の基礎と なる。 ダンマゼーティー王、インドのブッダガャーに使節派遣。 ダンマゼーティー王、スリランカに仏僧派遣。 ダンマゼーティー王による仏教改革。 一〇五九 一〇七四 一ニ世紀 一五世紀後半 一四七ニ 一四七五 一四七六 ミャンマー年表 一三ー一六世紀 ミャンマー・タイ仏教略史年表 出来事 226 一三ー一五世紀 一三世紀末 一四 5 一ハ世紀 一三四七 一四世紀後半 一四三ハ タイ年表 ー一三世紀 出来事 ド八ーラ八ティ時代、インド・サールナート系の仏像が造られ る。 スリウイジャヤ国支配下のタイ南部チャイヤーを中心に大乗仏 教美術が栄える。 大乗仏教とヒンドウー教美術、アンコール朝美術の影響を受け たロップリー期美術が栄える。宝冠仏や青銅製諸仏が多産され る。 スリランカ美術の影響を受けたスコータイ期美術が栄える。 アンコール朝に対してタイ族が反乱。スコータイ王朝を建国。 スコータイ王朝、ワット・チャムローン建立。 第 3 代ラーマカムヘン王の時代、マレー半島経由てスリランカ 系大寺派上座仏教林住部の伝統が伝来 ( 世紀前半の説もあ り ) 。同王、スコータイ城西部のサバーン・ヒン寺を林住部の大 長老のために建立寄進。 タイの国民美術の時代と言われるアユタヤ期美術か栄える。特 に体全体に装飾を施した宝冠仏が多産される。 大正法王と呼ばれる篤信の仏教徒であったリタイ王即位。仏教 保護政策をとりスリランカ仏教が普及。 ラーマテイボティ—世によりアユタヤが建設され、アユタヤ朝 始まる。 スコータイ王朝リタイ王、トライプームという仏教宇宙論を著 す。この頃、スリランカ仏教が普及。タイ国美術史の古典期に 相当するスコータイ様式の仏教美術が全盛となる。 アユタヤ朝、クメール族アンコール朝を滅ほす。これにより八 ラモン司祭か多数流入。 スコータイ王朝、アユタヤ朝に併合される。
ブッダへの篤き思い 未知の国へ ミャンマー、あるいはビルマという国名を聞いて、私たち日本人が思い浮かべることは それほど多くはない。 もちろん、軍事政権とそれに立ち向かうアウン・サン・スー・チー女 史のことは誰でも知っている。年輩の方であれば、太平洋戦争末期にビルマからインド侵 攻を目指し無数の命が失われたインノ ヾール作戦のことを思い出すだろう。竹山道雄の小説 『ビルマの竪琴』をイメージする人もいるかもしれない。仏教に関心のある人なら、国中に 立ち並ぶ仏塔Ⅱパゴダを挙げるだろう。しかし、「そのはかには ? 」と尋ねると、多くの人 かロごもってしま、つ ミャンマーという国自体が長く鎖国政策をとってきたことも手伝って、この国に対する 日本人の知識は実に乏しい。取材を始めたばかりの頃の私たちにとっても、それは同じだ った。ますはこの未知の国の歴史や文化をよく知り、さらにそこに暮らす人々の心の内に まで近づかなければならない。苦労することは目に見えている。ミャンマー政府は外国メ ディアに対し、なかなか取材ビザをえないとも聞いていた。重くなる気分を何とか奮い 立たせ、私たちの取材の旅は始まった。 私たちは都合五回ミャンマーを訪ねたが、その最初は一九九六年の暮れ。撮影に先立っ ての現地調査と、翌年から始まるロケがスムーズに運ぶよう政府と交渉することが大きな 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー
新しく造られたパゴダには仏像 なとか納められる。 ブッダへの篤き思い 事政権打倒を求める集会を開いたという。 、ゴダは信仰の場であるとともに、憩いの場でもある。時によっては、政治の場ともな る。ミャンマーの人々の生活は、ヾ。 ノコダとの関わりなしには成立しないといっても過言で はない。なぜ、パゴダはかくもミャンマーの人々を引き寄せるのだろうか。そして、パゴ ダはどのようにして生まれ、ミャンマーの地にこれほど深く浸透していったのだろうか パゴタはフッタの化身 ハゴダの原型は、ブッダの遺骨 ( 仏舎利 ) を祀った墳墓にある。ブッダ入滅後、その死を 悼む信者たちは遺体を荼毘に付した後に分骨し、→八基のストウーバ ( 塔 ) に葬った。この遺 骨は、後にインドを支配したアショーカ王の時代 ( 紀元前三世紀 ) に再び分骨され、「八万四〇 〇〇のストウーパに納められたと伝えられる。当時はまだ仏像が作られておらす、在家の 人々の信仰のよりどころは、このストウーパだった。つまり仏塔信仰は、仏像誕生 ( 一世紀 頃 ) 以前の古い信仰の形だといえる。 ミャンマーのパゴダも、有名なもののほとんどがブッダの身体の一部を納めているとい う伝承を持つ。特に、シュエダゴン・パゴダのように仏髪を祀るものが多く、ヤンゴンに あるボウタタウン・パゴダではブッダの髪と言われるものを直に見ることもできる。その ほか、仏歯を祀るというパゴダもかなりの数に上る。これらのことからも推測できるよう ミャンマーの人々の仏舎利に対するこだわりは大きい。後に私たちは、ある農村で新 しくハゴダを建立するところを取材したが、この時、村人は砂粒のようなものを入れた小 さな瓶をハゴダの中に納めた。近くの僧院からもらってきた仏舎利だという。村人の説明
雨季から乾季への季節の移り変わりを告げる ミャタロン・パゴダ灯明祭。 0 プロローグ 生きている仏教、、、ヤンマー・タイ パゴタの灯明祭 一九九七年一〇月の満月の日、私たちはミャンマー中 部マグウェ市にある仏塔、ミャタロン・ハゴダを訪ねた ミャンマーで最も美しいという灯明祭を撮影するためで ある。 日が沈み東の空に満月が顔を出す頃、辺りは灯明で埋 ノコダの建つイラワジ河に面した小高い め尽くされた。 ) 丘の斜面には油を入れた素焼きのランプが無数に輝く。 境内は蝋燭を持った人で溢れんばかりだ。ライトアップ された金色のハゴダが放っ輝き、数え切れないほどの小 さな火の揺らめき、満月。夢のような光景は、この国の仏 教徒にとって大事な季節の変わり目を告げるものだ。 この日はミャンマーの暦で、雨季明けの日。七月から うあんご 三か月にわたって続いた雨安居と呼ばれる精進の季節 も、この日をもって終わりとなる。タイやミャンマーな どの上座仏教の国々では、雨安居は僧侶にとっての特別
タンホー村唯一の自動車 輪廻を生きる人々 しみであり、たとえ天界に住む神であろうと老いて病み、死んでゆく苦しみを持っことに 変わりはない。輪廻の世界にこだわるのではなく、二度と輪廻しないで済む境地を目指せ と語った。それが涅槃である。 ブッダによれば、輪廻の世界にいる以上「幸福な来世」などあり得ない。しかし、ミャン マーの人々は「来世は金持ちに生まれたい」「来世は天界に生まれたい」と、来世にこだわ る。なぜ、輸廻思想はミャンマーの地にこれほど深く根付いたのだろうか。そしてなぜ、 現世を諦めてまで来世にこだわるのだろうか 乳児の死 タンポー村には一台だけ自動車がある。自動車といっても第二次大戦中に作られたフォ ード製の大型トラックで、村の外に出るための村人たちの唯一の足になっている。毎朝積 「みきれないほどの村人と農作物を荷台に載せて村を出る。目的地は一時間ほどのところに 、、。 = 【、【ーあるイエナンジャウンという町で、村人たちが胡麻やヤシ砂糖を現金に換え買い物を済ま は〉 - イせると、再び彼らを乗せて村に帰って来る このトラックは、ある家の庭が発着場になっており、そこは村人たちのたまり場でもあ った。場所も広く情報が入りやすいこともあったので、私たちは家の主にお願いして庭の 片隅を休憩所に使わせてもらっていた。家の人の気遣いで、そこにはいつもヤシの枝で作 った安楽椅子がスタッフの人数分並べられていた。日中は暑く四〇度を超える日も多い 私たちはそこでお茶を飲み、時には昼寝もした。 村の取材を始めてひと月くらいたった頃だった。撮影を終えて帰って来ると、村の女た
れた巨大な古代都市のようだった。 九世紀頃に現在のミャンマー中部に移住してきたビルマ族は、中国雲南地方に通じるイ ラワジ河と、インド・アッサム地方に通じるチンドウイン河が交わる交通の要衝バガンに 都を置き王朝を建てた。そのバガン王朝のアノーヤター王 ( 一〇四四、七七 ) は、一〇五七年、 南ビルマに一大勢力を誇っていたモン族の拠点都市タトンを制服し、ミャンマー最初の統 一国家を築く。タトン攻略の際、アノーヤター王は王族をはじめ多くの捕虜を連行し、モ ン族の文化をバガンに移植した。あわせて、僧侶や経典などとともにモン族の仏教ももた らされる。当時モン族はスリランカとの交易が盛んで、スリランカ系上座仏教を信仰して いた。後にミャンマーで上座仏教が広く信仰されるようになる起源はここにある。また忘 バガンの代表的な建物、アーナれてはならないのは、ヾ。・ ノコタの建築技術もこの時バガンに伝えられたということである。 ンダ寺院。 以後、ここに都が置かれた二五〇年の間、五〇〇〇とも六〇〇〇とも言われるパゴダや寺 院が築かれたのである。 私たちは、バガンを代表する仏教建築、アーナンダ寺院を訪ねた 一一世紀末、バガン王朝三代目のチャンシッター王が建てたもので、シュエダゴン・ ゴダのような天空へ鋭く伸びる円錐型の建造物とは随分趣の異なる建物だった。四方に入 り口が突き出た四角い建物で、一見するとヨーロッハの教会建築のような雰囲気がある。 これをパゴダと呼んでいいのかは分からないが、建物の一番上には仏舎利を納めた塔が載 っている。 この建物には、ブッダが満ち溢れている。 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー
最高紙幣の五〇〇チャット札を出す人もかなりいた。日本円にすると二〇〇円あまりだが、 公務員の月収が一五〇〇チャットくらいだといわれるので、彼らにすればかなりの額だ ハゴダは在家信者の布施によって建てられ、維持され、また増築される。記録によれ ば、当初シュエダゴン・ ハゴダは一〇メートル足らすの小さなパゴダだった。それが、一 四世紀に二〇メートルくらいにまで建て増しされた。以後、信仰篤い王族や民衆の布施に よって増築や改修が重ねられ現在の姿になったという。それを裏付ける事例もある。ミャ ンマーの古都ハガンには、ヾ : ノコタの一部が地震で崩れ、内側からもとの古いパゴダが顔を のぞかせているものがある。私たちも中部ミャンマーの農村で、人の背丈くらいの小さな 古いパゴダを増築しているのを見かけた。村人たちは、もとのパゴダを包み込むように周 囲にレンガを積み上げ、一回り大きいものに改修していた ミャンマーはパゴダの国だ。全国には、何万、何十万ものパゴダが林立している。その 一つ一つが、人々の篤い信仰心によって日々成長し、輝きを増しているのだ。 ハゴダを訪ねた数日後の夜、仕事を終えて宿に帰る途中の私たちは、道端に多くの若者 が集まっているのを見かけた。よく見ると、少し高いところで学生らしい青年が何やら演 説をしているようだった。ミャンマー人の通訳は「この国ではよくあることですよ . と私た ちに言ってそのまま車を進めたが、集まった学生たちにその後市民も加わって、シュエダ ゴン・パゴダまでデモ行進が行われたことを翌日になって知った。デモは、アウン・サン・ スー・チー女史が登場し、国中に民主化要求の嵐が吹き荒れた八八年以来の規模だったと いう。聞いた話では八八年の時も、人々はことある度にシュエダゴン・パゴダに集まり軍 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー
バガンには六〇〇〇近いパゴダ か林立している。 ピンニュー寺院に向かった。バガンの全景を撮影するためだ。 この巨大な寺院を登るのはひと苦労で、特に建物外側にある上層部の階段は、重い機材 を持った私たちにはかなり過酷なものだった。狭い階段は人が一人登るのがやっとで勾配 もきつい。階段を登るというより、足場を使って壁によじ登っているといった感じだ。し かもハゴダの中は裸足である。崩れ落ちた漆喰や瓦礫などで足の裏はすり傷だらけになる。 項上に着くと、苦労した甲斐もあって眺望は最高だった。バガンのパゴダは、色も大き さも形も実に多種多様である。シュエダゴン・パゴダのようなモン様式のもの、スリラン 力によく見られる釣り鐘型のものもある。素朴な半球型のものはピュー族の流れを汲む様 式だという。ハガン特有の複雑な形をしたものやブッダが悟りを開いたというインド・プ ツダガャーの仏塔をそっくり真似して造ったものもある。 ハガンの都は、古代よりインドと交流を重ね仏塔を崇拝してきた多くの民族が集めら れ、その文化をビルマ族に引き継いでいった場所である。そしてここでは、ブッダに対す る強い憧れが人々の想像力をかき立て、多種多様なパゴダの形が生まれていった。 。それは現在でも続 このハガンを始まりに、ミャンマーでは国中にパゴダが溢れてい いていて、農村部に何日かいれば、必すどこかの村で建築中の小さなパゴダを見かける。 昨年には、古都マンダレーとヤンゴンに巨大な仏歯を祀るパゴダが造られた。 なぜ、ミャンマーの人々はパゴダを造り続けるのだろうか。ブッダへの憧れだけがそう させているのだろうか。私たちは、ミャンマー人の心の内を知りたいと、信仰篤い人々が 暮らす村々を巡る旅に向かった。 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー