アーナンダ寺院の中にある金色 の仏像。 ブッダへの篤き思い ます建物の中央には、一〇メートル近い巨大な金色の仏像が東西南北それぞれの方角を 向いて四体安置されている。西は釈迦仏、つまりゴータマ・ブッダであるが、東は拘那含 仏、南は迦葉仏、北は拘留孫仏だとされている。釈迦仏以外は、過去仏と言われるもので ある。もともと " ブッダ。とは〃目覚めた人。を意味する言葉で釈迦個人を特定する言葉では ない。仏教では、釈迦以前にも語りを開き高い境地に達した " ブッダ。が七人いたとされ 寺院の内側には、この四体の仏像を中心に内側と外側に二つの回廓があり、ここにも無 数の小仏像かある。外側回廊の側壁には、ブッダの誕生から、成道、そして入滅に至るま での仏伝が、それぞれ一メートルほどの板に浮き彫りされ壁一面に掲げられている。 そして最後は建物の外側。ここにもレリーフのある無数の陶板がはめられているが、こ れらは " ジャータカ。と呼ばれるブッダの前生譚のシーンを描いたものである。ミャンマー では、ブッダはシャーキャ族の王子として生まれる以前に何度も輪廻転生を繰り返したと され、その五四「八回の生涯が五四八話のジャータカ物語として語り継がれている アーナンダ寺院には、釈迦像から始まり、過去のブッダ、そしてブッダの伝記、さらに はブッダの前世、さらに建物の項上には、ブッダの骨まで納められている。ブッダの総展 示場ともいえる構造なのである。アーナンダ寺院だけではない。バガンには、数千のパゴ ダが林立する。そのほとんどは、少なくともジャータカ図か仏伝図を持っている。そして 内部には、もちろん仏舎利がある。ハガンにはブッダが充満している。 アーナンダ寺院を後にした私たちは、高さ六〇メートルでバガン随一の高さを誇るタッ
セットウャー ( 仏足跡 ) パゴダ ( ゥー・ウエブッラ長老提供 ) 第、■新印 パゴタと巡礼者の集まる宗教都市 ミャンマーの仏教徒が、バ ゴダ参りの巡礼ツアーで最も行きたがる場所の一つにバガンがあ る。現在も多くの巡礼者、参詣者を集め宗教機能を果たしている。 ミャンマー中央部の乾燥地帯に属するバガンは、一〇四四年に即位したアノーヤター王が、周 辺の灌漑用貯水池による豊かな農耕地を征服統合、内陸河川ルートの物資集散地とすることによ り経済的繁栄を促し、ピルマ族による最初の強大な帝国を築き上げていった地であった。 シン・アラハンなる高僧によって上座仏教に帰依することになったアノーヤター王は、モン族 の首都タトンを攻略しパ ーリ語三蔵を入手、上座部系の僧侶を招請した。タトンより連れて来ら れた建築家や彫刻師、画工たちが技術を教え、バガンに仏塔や窟院などの建立が開始された。 パゴダには、「ゼディー ( 仏塔 ) と「グー」 ( 窟院 ) の二つの様式があり、どちらもピルマ語で「バヤー と呼ばれている。ゼディは、内部に空間をもたない舎利埋葬のためのストウーバ式の仏塔を指 し、グーは内部に空間のある部屋 ( 洞窟 ) があり、中心部に舎利や仏像が安置されたものである。 窟院の内部 ( ( こま、装飾のために仏伝やジャータカ ( 前世物語 ) を主題とするテラコッタや釉瓦の浮き 彫りが飾られ、壁画が描かれてモン文字による説明が付けられた。 宮廷の儀式の際には「ピルマ人が歌い、モン人が歌い、ピュー人が歌う」と一一〇二年の碑文に記 されている。バガンには、インド人のポンナー ( バラモン司祭 ) も存在した。通商という点からも当 時のバガンは多様な民族を擁する国際的な宗教都市であったとみられる。 アノーヤター王は、スリランカへ使節を派遣し、三蔵を請来した。また、スリランカの王ヴィ ジャヤバーフは、一〇七四年、アノーヤター王に経典と僧侶をもたらすよう要請、王はそれに応 じるとともにスリランカにある仏歯を希望し、その複製を受け取っている。バガン王朝初期の仏 教は、ビルマ族がモン族の上座部系仏教を受容して繁栄を促したものであったが、次第にスリラ 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー 4
仏像市場 い。仏教かタイに伝わった時、タイの男女はさぞかしホッとしたのではないかというのが 筆者の想像である。仏教には「出家」という名で大量の男性を収容する寺院があり、しかも 「出家」にはブッダの境地を目指すという立派な名分がある。やることがなくてプラブラし ていた男性もそういう男をもて余していた女性も、これは良いと飛びついたのではない か。タイのような母系社会に仏教の「出家システム」は、びったりはまる感じがする。 かくして、タイでは女が「俗」、男が「聖 , を担うシステムができあがる。この二つはお互 いに依存しあっている。「聖ーの世界である寺院は女たちが布施する物資や金銭がなければ 経済的に成り立たないし、「俗」の世界の女たちは浄らかな仏の世界という一種のフィクシ ョンがないと精神的にやっていられない 二五〇〇年前のブッダの戒律を今に伝えるというタイの上座仏教。筆者は、タイの女性 から見てその最大の魅力は生活感が一切ないということなのではないかと思う。二二七の 戒律によって俗世の要素を一切シャットアウトしている浄らかな世界。これが日々の生活 にいそしむタイの女性の心の支えになっているように思えてならない。俗世のまっ只中に 生きているからこそ「聖」の世界に産がれる。こう考えると金貸しのジラバーおばさんが一 〇万バーツをばんと寄進する気持ちも分かるような気がする。 仏像が持っカ 王宮や王立寺院が建ち並ぶ、バンコクの中心部チャオプラヤ河沿いの一角にタープラチ ャンと呼ばれる場所がある。バンコクでは言わすと知れた仏像市場街である。一〇〇メー トル四方くらいの屋根付きの空 間に小さな店がひしめいている様子はホイクワンの食料品 第五章生きている「民衆の信仰」 156
東南アジア諸国の上座仏教 三つの宗派が生まれ、今日に至っている。 スリランカ仏教の現状を、次の三つの視点から見ることにしよう。 第一は、シンハラ仏教の伝統的な実践形態である。これは農村部において今日もなお見ること ができる仏教の形で、先に述べた上座仏教の特徴である出家者と在家者の厳密な区別を前提に、 在家者の功徳行を宗教実践の柱とする仏教の存在形態である。タイ仏教の「タンプン , がこれにあ たるもので、スリランカではこれを「ピン・カム , と呼ぶ。ピン・カムとは、「ピン , つまり「功徳」を 「カマⅡ行うこと」を意味する。民衆はこの世で功徳 ( ヒン ) を積むことにより、より幸福な状態で 来世に生まれ変わりたいと願う。 「ピン・カム」の具体的な形を見てみよう。人々は寺に詣で、仏像に花などの供物を供える。そし て「我、ブッダに帰依したてまつる。我、仏法に帰依したてまつる。我、サンガに帰依したてま つる」という「三帰依 , を唱え、「殺さない、盗まない、よこしまな男女の交わりをしない、嘘をつ かない、酒を飲まない」という「五戒」を僧に懇請してこれを受ける。こうした儀礼への参加が、 最も日常的な「ピン・カム , の姿である。ピン・カムはこのほかにも、早朝、托鉢する僧に食べ物を 供養したり、寺院の修復や行事を手伝ったり、さまざまな形をとって行われる。いすれも、すで に本書の中で詳しく語られてきたミャンマー、タイにおける仏教実践の姿と同じである。 こうした伝統的な仏教の在り方に対しては、一九世紀の初頭、スリランカが英領になって以 後、都市部に発生した西洋化した中産階層を中心として批判の目が向けられ、改革への動きが現 われ始めた。その契機を作ったのは、その頃ようやく活動を始めたプロテスタント宣教師による キリスト教の布教活動であった。キリスト教の挑戦に直面したシンハラ人の知識人層、とりわけ 伝道のため来島したオルコットらの「神智学協会」の影響を受けた仏教徒知識人層は、仏教復興運 動に参加することによって自らの文化的アイデンティティーを再確認しようとしたのである。一 207
日常生活の中の仏教と民間信仰 アノーヤター王は上座仏教を受け入れたのだが、国内で布教に必要な経典が不足していた。シ ン・アラハンがタトン王国には経典があることを示唆したため、アノーヤター王はタトン攻略を 命じる。タトンにはウェイザーの死骸を食べて超能力を得た双子のインド系兄弟ピャツウイ、ビ ャッタがおり、二人はタトンの王に仕えていたが、王の不興を買って兄は処刑される。タトン側 は、彼の死骸を術を用いて地中に埋めたため、術の力によって難攻不落の都市となっていた。し かし双子の弟ビャッタがアノーヤターの側につき、この死骸を掘り出したため、タトンは術の効 力を失い、バガン側はタトン攻略に成功し経典を手にした、というものである 現在、このインド系兄弟は精霊として人々のよく知るところとなっている。この物語はすべて 史実というより口頭伝承が王統史編纂の段階で組み込まれたと考えるべきだろう。ただいすれに しても面白いのは、精霊の物語とウェイザーに関わる物語とが、経典入手という、より大きな仏 高僧とウェイサーの像 ( ャンゴ教伝来物語に織り込まれている点である。ピルマの王朝は上座仏教受容以来、仏教を王権の正統 ン都市居住民の自宅 ) 性原理として用いてきた。精霊信仰やウェイザー信仰もまた、王権と仏教の結び付きの中で、プ ツダを項点とする世界観に組み込まれていったと考えられるだろう。 現在の信仰のあり方 現在仏教徒たちに尋ねれば、その多くは、ブッダや人間が存在するように、精霊やウェイザー も存在すると答えるだろう。そして、精霊やウェイザーなどの神格はすべて仏教世界のものだと 疇、」理解している。前述のように村には僧院と精霊の祠があり、家の中に仏壇と精霊、のお供えが共 存し、パゴダには仏像とともに精霊やウェイザーの神格が祀られ、皆が順に拝んだりすることは その表れであろう。 年中行事や通過儀礼にも、仏教と精霊信仰がともに組み込まれている例は多々ある。最も顕著 な例の一つが得度式である。上座仏教においては、仏教徒男性は生涯に一度は仏門に入るのが理 111
参考文献 石井米雄・桜井由躬雄共著『東南アジア世界の形成』 講談社、 1985 年 生野善應著『上座部仏教史』山喜房仏書林、 1980 年 生野善應著『ピルマ仏教一その実態と修業ー』 ( 新装版 ) 大蔵出版、 1995 年 池Ⅲ正隆著『ヒ、ルマ仏教一その歴史と儀礼・信仰』 法藏館、 1995 年 ミングン ( ゥー・ウィシッタサー ラーピウンタ ) 大長老の顕彰碑 ( ミングン村 ) にパゴダが建立され、仏教が栄えるであろうと予言した仏塔縁起が残されている。 また、マンダレーからイラワジ河を約一〇キロさかのばった対岸にあるミングン村は、ボード ハヤー王建立の巨大なミングン・パゴダや現在も打ち鳴らされている鐘で世界一大きな釣り鐘 があることで有名だが、それ以上に、三蔵のすべてを暗記し・て伝持した大僧正故ゥー・ウィシッ タサーラービウンタ長老 ( 一九一一 5 一九九一 l) の居住した僧院があり、僧正が存命中は、非常に多く の信者が説教を聴聞するために参集したところであった。 マンダレーに都が移る前に王宮があったアマラブーラ市には、星宿図や仏足石の天井壁画で有 名なチョウトーヂー・パゴダ ( 一八四七年建立 ) などが残っている。ここにはマハーガンダョンという シュエージン派の僧院があり、教学のみならす神定の修習にも厳しい実践指導がなされている。 かってはアシン・ザナカビウンタ ( 一八九九、一九七七 ) という碩学の僧正が出て、多くの著作編述を なし学間上の業績を残した。こうした僧院が存在するアマラブーラも宗教都市としての一面を失 ってはいない また基礎習得後の僧が、さらに教学に集うバコウクーも宗教都市の名に価する。 現在の首都ャンゴンも、宗教都市として重要な役割を果たしている。ミャンマーで第一とされ るシュエダゴン・パゴダは、経典中に言及のある二宝帰依の在家信者に山来する仏塔縁起をもつ。 周辺の僧院で行われる出家沙弥式の前には、シャーキャ族の王子を模した衣装をまとい このシ ュエダゴン・ ハゴダとそこに宿る精霊に新しく沙弥 ( 見習僧 ) となる少年の姿を見せて守護を祈願す るため参集する人々などで賑わう。 ミャンマー独立後は、仏暦二五〇〇年に当たる一九五四年、第六回仏典結集がヤンゴンのカ パ・エイ丘に建造されたマハー ーサナ・グハにて、世界中の仏教徒を集め開催された。第一回仏 典結集が行われたインドの七葉窟をモデルしたこの殿堂は、ミャンマーの全宗派合同会議を始 ( 写真 " 筆者 ) め、サンガや政府の主催するあらゆる宗教行事が行われる聖地となっている。 第一章黄金のパゴダの国ミャンマー 0
新しく造られたパゴダには仏像 なとか納められる。 ブッダへの篤き思い 事政権打倒を求める集会を開いたという。 、ゴダは信仰の場であるとともに、憩いの場でもある。時によっては、政治の場ともな る。ミャンマーの人々の生活は、ヾ。 ノコダとの関わりなしには成立しないといっても過言で はない。なぜ、パゴダはかくもミャンマーの人々を引き寄せるのだろうか。そして、パゴ ダはどのようにして生まれ、ミャンマーの地にこれほど深く浸透していったのだろうか パゴタはフッタの化身 ハゴダの原型は、ブッダの遺骨 ( 仏舎利 ) を祀った墳墓にある。ブッダ入滅後、その死を 悼む信者たちは遺体を荼毘に付した後に分骨し、→八基のストウーバ ( 塔 ) に葬った。この遺 骨は、後にインドを支配したアショーカ王の時代 ( 紀元前三世紀 ) に再び分骨され、「八万四〇 〇〇のストウーパに納められたと伝えられる。当時はまだ仏像が作られておらす、在家の 人々の信仰のよりどころは、このストウーパだった。つまり仏塔信仰は、仏像誕生 ( 一世紀 頃 ) 以前の古い信仰の形だといえる。 ミャンマーのパゴダも、有名なもののほとんどがブッダの身体の一部を納めているとい う伝承を持つ。特に、シュエダゴン・パゴダのように仏髪を祀るものが多く、ヤンゴンに あるボウタタウン・パゴダではブッダの髪と言われるものを直に見ることもできる。その ほか、仏歯を祀るというパゴダもかなりの数に上る。これらのことからも推測できるよう ミャンマーの人々の仏舎利に対するこだわりは大きい。後に私たちは、ある農村で新 しくハゴダを建立するところを取材したが、この時、村人は砂粒のようなものを入れた小 さな瓶をハゴダの中に納めた。近くの僧院からもらってきた仏舎利だという。村人の説明
前一一四七ー前ニ〇七頃ソーナ、ウッタラ両長老によりスヴァンナ・プーミに仏教伝わ七 5 一一世紀 る。 ー九世紀 アノーヤター王の指導の下、ビルマ族国家バガン朝成立。 一〇四四 一〇五六 上座仏教伝来。アノーヤター王、シン・アラ八ン僧により上座 仏教に帰依。 アノーヤター王、バーリ語一切経の入手を目的に、南部ビルマ 一〇五七 のタトン遠征。タトン伝来の上座仏教の影響により、土着信仰 や大乗仏教の勢力弱まる。 バガン王朝アノラウタ王、シュエジゴン・八ゴダ起工。ミャン マーに建塔時代始まる。 アノーヤター王、スリランカより仏歯の複製受け取る。 マ八ー・ボティ寺建立。 、バーリ語著作が行われる。 バガンを中心に仏教教学が栄え ミャンマー上座部サンガの分裂。 モン族僧チャパタ、スリランカより帰国。スリランカ仏教の公 布によりタトン系仏教弱まる。 アヴァー朝以降、仏伝を題材とする文学が盛んになる。 元の侵攻を四度にわたって受ける。 バガン朝滅亡。 シャン族、ピンヤ王朝建国。 シャン族、サガイン王朝建国。 スリランカ大寺派の授戒様式の伝来。ピルマ上座仏教の基礎と なる。 ダンマゼーティー王、インドのブッダガャーに使節派遣。 ダンマゼーティー王、スリランカに仏僧派遣。 ダンマゼーティー王による仏教改革。 一〇五九 一〇七四 一ニ世紀 一五世紀後半 一四七ニ 一四七五 一四七六 ミャンマー年表 一三ー一六世紀 ミャンマー・タイ仏教略史年表 出来事 226 一三ー一五世紀 一三世紀末 一四 5 一ハ世紀 一三四七 一四世紀後半 一四三ハ タイ年表 ー一三世紀 出来事 ド八ーラ八ティ時代、インド・サールナート系の仏像が造られ る。 スリウイジャヤ国支配下のタイ南部チャイヤーを中心に大乗仏 教美術が栄える。 大乗仏教とヒンドウー教美術、アンコール朝美術の影響を受け たロップリー期美術が栄える。宝冠仏や青銅製諸仏が多産され る。 スリランカ美術の影響を受けたスコータイ期美術が栄える。 アンコール朝に対してタイ族が反乱。スコータイ王朝を建国。 スコータイ王朝、ワット・チャムローン建立。 第 3 代ラーマカムヘン王の時代、マレー半島経由てスリランカ 系大寺派上座仏教林住部の伝統が伝来 ( 世紀前半の説もあ り ) 。同王、スコータイ城西部のサバーン・ヒン寺を林住部の大 長老のために建立寄進。 タイの国民美術の時代と言われるアユタヤ期美術か栄える。特 に体全体に装飾を施した宝冠仏が多産される。 大正法王と呼ばれる篤信の仏教徒であったリタイ王即位。仏教 保護政策をとりスリランカ仏教が普及。 ラーマテイボティ—世によりアユタヤが建設され、アユタヤ朝 始まる。 スコータイ王朝リタイ王、トライプームという仏教宇宙論を著 す。この頃、スリランカ仏教が普及。タイ国美術史の古典期に 相当するスコータイ様式の仏教美術が全盛となる。 アユタヤ朝、クメール族アンコール朝を滅ほす。これにより八 ラモン司祭か多数流入。 スコータイ王朝、アユタヤ朝に併合される。
仏像ピジネスも盛ん。 生きている「民衆の信仰」 市場と同じだが、タープラチャンでは店の主人も客も圧倒的に男が多い。雰囲気もホイク ワンのおばちゃんたちの開けっ広げな陽気さとは違って男同士の妙な緊張感が漂ってい る。三、四人の子分とおばしき若者を引き連れたチョビ髭の中年男が店の一つにやって来 てアタッシュケースを開いた。中には小さな仏像が五、六体入っている。中年男が何か言 って主人を促すと、主人は虫眼鏡を出してきて二、三分ためっすがめっして、ばそっと 「〇〇バーツーと値段を言う。中年男は「いや〇〇バーツ . と言い返す。しばらくやり取りし た後、中年男は仏像をアタッシュケースに戻し、去って行った。 こうした小さなお守り用の仏像は、一九世紀後半頃から寺院が民衆に向けて作り始めた ものである。石や金属にブッダや僧の姿を彫らせた後、高僧が「念カ . を込める。最初はご く限られた寺院が少数の仏像を出していただけであったが、この頃は高僧と言われる人物 かいる寺院ならほば例外なく作っているという。そうした仏像の市場での値打ちは大まか にいって、どの僧が「念力。を込めたものか、またその仏像によってこれまでどんな「ご利 益、がもたらされたかによって決まる。一つひとつの仏像が「格」と「履歴」を持っているの である。 ちなみに最も「格 [ が高く高価とされている仏像は、一九世紀後半、ラーマ五世王の時代 に法王として活躍したソムデット・プラ・ブッタチャントー・プロムランスイー師が「念力」 を込めた、通称「ソムデット」と呼ばれるもの。稀少でかつ「ご利益、の報告も枚挙にいとま がない。値段は何百万バーツ ( 一〇〇万バーツは約四〇〇万円 ) にもたっする究極の仏像だ。ター プラチャンの店でも「ソムデット買いますの看板をあちこちで見かける。ここまで高価に
なるとニセモノも多いらしく、虫眼鏡が手放せないというわけだ。 さて、タイの男匪はほば例外なくと言っていいほど、このお守り用の仏像に深い関心を もっている。それはブッダの境地とか教義にではなく、あくまでも自分に現世の利益をも たらす道具としての仏像に集中している。不慮の災難から逃れたい、事業を成功させた 出世したい、病気を治したい、そういう現世利益への思いか小さな仏像に注ぎこまれ るのである。 また、タイの男性は仏像を通じて現世利益を目指す。女性が聖なるもの、一種の精神匪 を求めるとすれば、男性が求めているのは仏像という「物ーである。女性でも仏像をお守り に持っている人は多いが、男ほどは執着しない。女は「精神 . を求め、男は「物」を求めると 言うと単純化しすぎる感じもするが、傾向としては確かにそのようなのである。 私たちの取材をコーディネートしてくれた田中島さんも仏像マニアである。在タイ歴が 三〇年を超え、タイ人スタッフの信頼も篤い彼は、「タイではこれは手放せませんーと、 かにも高価そうな仏像をケースに入れて首に三体ほど掛けている。そして「せつかくこう いう取材ですから、タイで一番の仏像コレクターに会いましよう、私も見たいのですと / コクから南西に車で四時間ほどかかるラートプリ県に住むサガーさんは、田 言った。バ、 中島さんによれば「正真正銘のソムデットを何十体も持っている、タイの正倉院の館長の ような人だという サガーさんは八〇歳、コンクリート造りの二階屋に住んでいた。入り口には鉄の格子が はまっていて南京錠が一〇個ほど掛けられている。普段は二階に住むサガーさんだが、私 第五章生きている「民衆の信仰」 158