きに借りてくる。ちなみに、ここの〃最多観客動員数〃を誇るのは、『おしん』だそうだ。 出家式の当日に再び訪ねると、家の様子は一変していた ビデオ小屋は解体されて、庭全体を占める大きな建物が作られていたのだ。組立式のこ の建物は、周りに極彩色の色紙がべタベタと貼られていて、色味の少ない村の中でひと際 目立っていた。家の周りには ~ 果子や玩具を売る露店も出ていた。辺りは村人でごった返し , をていて、まるで祭りのようだ。建物の中に入ると、近くの町から呼ばれた楽団が、民族楽 ~ 第器を演奏していた。先ほどより村のラウドスピーカーから響き渡っていたのは、これだっ ー。」たのかと気付く。剃髪前の子供たちは赤い派手な衣装を着せられ、建物の一番奥で人々の ~ 祝福を受けていた。 お披露目が終わると、これから二週間の修行生活を行うタンボー村の僧院に向かってパ 祭りの時には、僧侶を招いて食 事を布施する。 レードが行われた。沙弥となる少年は、赤い衣に冠をつけた王子の格好で馬にまたがり寺 へ向かった。かってシャーキャ族の王子ゴータマ・シッダールタが、愛馬力ンタカに乗っ て城を抜け出し出家した故事に倣ったものである。 兄弟の両親は出家に際し、さまざまな布施を行った。子供たちが世話になるタンボー村 の僧院だけでなく、周辺の村々に住む僧侶にも布施をした。もちろんパゴダにも寄付を行 う。こうしたものも含め出家式にかかった費用は約一二万チャット ( 単純レートで約五万円 ) 。 この一家のほば一年分の収入に相当する額である。両親にとっては子供を出家させること は、布施をし〃功徳〃を積む大きな機会なのだ。 驚いたことに、これはごく標準的な出家式で、村ではもっと規模の大きなものもあると 第三章徳を積む人々の暮らし -6 8
現代のタイと仏教 、。従って、髪を剃ってメーチーとなる以上、修行によって救われたいという純粋な動機 を持つ者が多く、かくして修行中心の「森の寺」にメーチーが集まる。ワット・サンガタン には、まだ一〇代の少女から八〇歳近い老人まで、幅広い年齢層のメーチーがいたが、そ の中で特に印象に残った一人の女性がいた。彼女は、毎日一〇時間、週に一度は徹夜で瞑 想を行うなど、若い男性僧並みの修行を続けていた。 メーチー・ラッタナーさん ( 五二歳 ) 。彼女は妻であり母であった以前の自分と決別し、四 年前に家を出て髪を剃った。彼女には息子と娘の二人の子供がいるが、息子の方も同じワ ット・サンガタンで僧侶をしているとい、つ ラッタナーさんは、それまでの彼女の人生と出家を決心するに至った経緯を語ってくれ メーチー・ラッタナーさん たが、それは次のようなことであった。 」、を夫は遊び好きで浮気を重ね、夫婦の間には諍いが絶えなか「た。稼ぎも悪く、自分が道 一」路工事の作業員をやりながら家計を支えた。苦労の甲斐あって生活も安定してきた矢先、 今度は息子か非行に走った。息子は麻薬に手を出し、警察の世話にもなった。 その時、自分は考えた。幸福をえてくれるはすの家族が、苦しみばかりをもたらす。 ) むしろ家族であることが苦しみの原因なのかもしれない。それは、自分だけではない。夫 も、横で小言を言って自由を奪う私の存在が苦痛だろう。息子が不良になったのも、私た ち夫婦の不和が関係している。無理をして家族を続けるから苦痛が増す。そうだ、家族を 止めればいいのだ 彼女は息子を強引に出家させてワット・サンガタンの僧侶とし、娘が仕事を持ち自活す 177
自力の救い もっとも、この地方では雨季といえども雨が少なく、イラワジ河の水を引く灌漑施設も ない。そのため米は採れす、最大の収入源となっている胡麻も、時として大凶作になる。 そんな天候次第の農業収入を補っているのがヤシ砂糖の存在である。粗糖の原料になるヤ シの樹液は、一年を通して絶えることはない。特に乾季の間はどの家でも庭に溝を掘って かまど 竃にし、そこに中華鍋をかけてヤシ砂糖を作る。煮詰まって粘り気の出た樹液は、かき回 す度に空気を弾き小気味よい音を立てる。村に着いてます聞こえてくるのが、このパッポ ンパッポンという音だ。辺りには甘い香りも漂っている。 乾季はまた、村の子供たちが出家する季節でもある。ミャンマーでは、男の子は必ず一 度は髪を剃って沙弥 ( 見習僧 ) とならなければならない。出家するのは、だいたい一〇歳前 後の子で、一週間からひと月くらいの期間、寺に暮らし修行する。親たちは農作業が一段 落する時期を選んで子供を出家させるので、収穫の終わる乾季は出家式が目白押しとな る。 タンボー村の取材を始めて一か月はどたった一一月半ば、出家を控えた一五歳と九歳の 中華鍋の中にヤシの樹液を煮詰兄弟がいると聞いて、その家を訪ねた。兄弟の家は、はかの大半の家と同じように胡麻と めヤシ砂糖を作る。 ヤシ砂糖で生計を立てていたが、副業としてビデオ屋も営んでいた。ビデオ屋といっても テープを貸しているわけではなく、見物料を取ってピデオを上映する商売である。もとよ りタンボー村では、テレビがあるのはこの家を入れて二軒しかなく、ビデオデッキを持っ のはここだけだ。家の横にある小さな吹きさらしの小屋が上映会場で、地べたに座り込ん だ子供たちが中国のテレビ番組、『孫悟空』に見入っていた。ビデオは家の主が町に出たと
はすべて無常、つまり永遠不変なものなど一切ないの る れ に、執着し永遠を求めるから苦しみが生まれる。人は、 と 想 老いてゆくことは定めなのに若さが失われたと言っては と嘆き、誰も死を免れないのに愛しい者の死に絶望する。 る この苦しみから救われる道は一つしかない。それは、執 す 出着を断っことである。では、執着を断つにはどうすれば ・ま よいのか。その最も効果的な方法が、出家し僧侶として 修行することなのである。 ち の タイやミャンマーの僧侶は、戒律によって生産活動に 生 一携わることを禁じられている。一般社会との関わりも最 召低限に抑えることが求められる。もちろん出家するわけ 々 国 だから、家族もいない 俗世を離れ、自らの内にくすぶ 教 る執着の火を消し去ろうと日夜瞑想などの修行に励む。 仏 座 上 これが、上座仏教の僧侶の姿なのである。 出家主義の仏教 上座仏教の特徴は、出家主義にある。仏教徒の理想 は、いつの日か僧侶となり修行生活を送ることだとされ ている。実際出家者の数も、大乗仏教の国々に比べると 格段に多い。タイではおよそ二七万人、成人男子の七、 イ イ プロローグ
現代のタイと仏教 に通い瞑想を教えてもらっています。寝る前にも毎日瞑想をしています。もう少し年をと ったら、私も出家するつもりでいます」 私たちにはこの家族の過去を詮索するつもりもない。しかし、かって大きな間題を抱え たこの家族が、母と息子が出家することで、癒されつつあることは確かなようだった。 三か月後、再びワット・サンガタンを訪ねると、ラッタナーさんは相好を崩し、頭陀行 中の息子・スパーンさんがバンコクに来ていると教えてくれた。今後二、三年は遍歴の修 行を続けることにしたスパーンさんは、住み慣れたワット・サンガタンに立ち寄って決心 が揺らぐことを恐れ、別の僧院に滞在しているという。 私たちは、早速彼を訪ねた。かって麻薬におばれた青年は、見違えるほど立派な僧侶に 成長していた。 「俗人の頃は、ずいぶん無茶なことをして母を悲しませました。出家した今は、生活はと ても静かで快適です。家族のことを重荷に感じることもなくなりました。そして、何処に 行くにも何をするにも、一人で孤独な生活ですが、逆に言えばとても自由です、と、今で は生涯僧侶として生きる決むをしたと彼は一一一口、つ。 苦しみは執着する心から生まれる。人は修行をし執着を断っことによってしか救われな これは、ブッダの教えの原点である。ラッタナーさん一家も、家族という執着を離 れることで癒されようとしていた。家族崩壊、麻薬、あまりに現代的な間題にブッダの古 い教えが目に見える形で効果を発揮していることに、少しでき過ぎの感がないわけではな 。ラッタナーさんの出家には、夫への仕返しの意味も多少はあったかもしれない。夫の 179
とっては重要な意味を持つ。というのは、上座仏教では尼僧の伝統が途絶えており、女性は僧侶 として得度することはできないので、息子の出家による功徳が母親の宗教的な救済に大いに貢献 すると考えられるからである。とはいえ、息子の出家が一時出家ではなく、何年何十年と続く場 合、あるいは息子が一生還俗しないと決心している場合には、親は複雑な思いに駆られる。息子 のそのような出家を即座に喜べる親は少ないであろう。 社会変動と仏教 このような仏教の報恩の教えによって築かれる親子関係は、時代を超えて同じものであるとは いえない 。とりわけ、ここ数十年におけるタイ社会の変動は家族の置かれている環境だけでな 家族における人間関係にも変容をもたらしている。さらに、それらの関係を紡ぎ上げるため の仏教的な行為や用語の使用方法も変化しているのである。 タイの社会経済的な構造は、一九五〇年代末からの開発政策によって大きく変わりつつある。 産業構造は農業中心から工業品ないしは農産物加工品の生産、あるいはサービス産業へと比重を 移し、これら新たな産業を支えていく人材を確保するために高等教育機関も整備されてきた。こ れらの社会経済的変化の中で台頭してきたのが、都市の新中間層と呼ばれる人々である。彼らは 大学教育など高い水準の教育を受け、ホワイトカラーや管理職や専門職などに従事し、比較的購 買力のある者が多く、政治や経済や社会関係などにおいて公平・効率・専門性を重視する人々であ る。彼らは子供の教育に極めて熱心に取り組む傾向が強い。夫婦が共に職を持っ家庭も多く、ま た教育費用もかさむため少子化が進行している。新中間層世帯の子供の数は、一九八〇年代では 一家族につき平均約二名、一九九〇年代にはさらに減少しているとも言われている。 このような一群の人々を中心とした新たなスタイルの仏教が一九七〇年代からいくつか現れて いる。ここで取り上げる寺 ( およびその関連団体 ) も都市新中間層を主な担い手とする仏教団体で 第六章仏教の救済と癒し 198
東南アジア諸国の上座仏教 徒を少数民族として抱えている国がある。その一つはベトナムである。南部のメコン・デルタ地 方には先住民のカンポジア系住民がおり、彼らは上座仏教を信奉している。仏教と言っても華人 系の大乗仏教が中心のマレーシアにも、半島北部の国境地帯に少数ながらタイ系の上座仏教徒が 散在している。 これらと全く違った状況が見られるのはイスラム教国インドネシアで、後に詳しく述べるよう に、一九六五年に起こった九・三〇事件以降、上座仏教徒が急激に増加して今日に至っている。 統計が発表されていないのでその実数を把握することは困難だが、すでに三〇〇万人を超えてい るとも言われる。これが事実とすれば、その数はラオスの仏教徒に匹敵する。インドネシアは隠 れた上座仏教国であると言えるかもしれない スリランカ 今日東南アジアの各地に広まっている上座仏教は、紀元前三世紀、インドのマヒンダ長老がス リランカに伝え、国王の庇護の下、首都アヌラーダブラにあったマハーヴィハーラ ( 大寺 ) を中心 に発展した「大寺派」の伝統を継いでいる。五世紀に出たブッダゴーサは、上座仏教教学の大成者 として名高い。大寺派の伝統はその後、ミャンマー ( ピルマ ) 、タイ、カンボジア、ラオスに伝え られ、さらにマレーシア、ベトナム、インドネシアの一部にも広まって今日に至っている。これ らの仏教は時にシンハラ仏教と呼ばれる。言うまでもなく、これはスリランカの仏教徒の大半が シンハラ人であることに山来する。 上座仏教は、出家者と在家者の間に厳密な区別があるのが特徴である。黄衣をまとい、寺院に 起居して一三七の戒律を守って修行生活を送る出家者の集団はサンガと呼ばれる。在家者はこの サンガの存続を願い、出家者の物質的生活を支えることを限りなく功徳を生む行為と考え、その 205
一時出家僧たちの日常生活は、 朝の托鉢をのそくと比較的自由 である。 通過儀礼と人々の意識 次に、一時出家についてタイの人々がどのように受け取っているのかについて、簡単に見てい くことにしよ、つ 人々の受け取り方 タイ語では出家を経験した人を「コン・スック」、未経験者を「コン・ディップ」と呼ぶことが ある。それぞれ「熟した人」「生の人」と言うほどの意味である。この言葉の持つ重みは以前ほど ではなくなったと言われるが、そこにはタイ人の出家観がよく表現されている。すなわち、出家 によって人間は未熟な状態から一人前の状態になるというもので、まさに典型的な通過儀礼だと 言ってもいい。 一時出家の持っ通過儀礼としての意味を最も明確に表しているのが、出家者の年代である。正 確な統計は存在しないが、一般的に一一一口えば、第一のピークは二〇歳から後の数年、つまり正式に 比丘としての出家が認められる年齢である。前述したように、近代以前のタイでは比丘としての 出家は教育の仕上げをも意味しており、この時期の出家はそうした伝統を受け継いでいるものと 考えることもできる。 第二のピークは結婚前である。これも個人的に「熟した」「一人前の」状態になってから、社会 的にも一人前に結婚をする資格が生じるという考え方の現れである。女性から見れば、現在でも 結婚相手は出家経験者である方が望ましいし、男性にしても独身時代に済ませておくべきことを 済ませてから結婚する方が望ましいのである。 さらにタンプンとしての一時出家の一つの典型に、前述した親孝行のための出家があるが、こ れは母親の死に伴って行われることが多く、従って定まった時期はない。母親が早く死亡した場 合、子供は沙弥として出家することもある。また、高齢で死亡した場合、子供がすでに出家を経 験してしまっていれば、重ねて出家するということはしないのが普通である。もっとも、その時 なま 141
にまだ年齢が若く出家を経験していない子供がいれば、母親の死を機会として一時出家を行うこ とは適当なことであると考えられるであろう。一方、中年もしくは老境にたっしてから一時出家 する人も少数ながら存在する。しかしその場合、周囲の評価はおおむねかなり冷淡なものである。 「どうして今さら」「出家してどうするのか」「なぜ三か月で還俗してしまうのか」などと、若者 が一時出家する際の祝福とは大きくかけ離れた反応が家族から寄せられる。一時出家にはふさわ しい年齢というものがあり、それを外れての出家は社会的には評価がえられないのである。 最後に社会的な扱いの標準として、国法の中で一時出家がどのように扱われているかを簡単に 見ておきたい。 国法の中で一時出家は「公務員の休職に関する規定」に定められている。同規定によれば、公 務員の休職は九種類に分類されており、この第五項目に「比丘としての出家およびイスラム教徒 のメッカ巡礼による休職」が定められている。期間はいすれも九〇日間であり、原則的に出家も しくは巡礼出発前六〇日以前に休暇の申請を行い、復職後五日以内に報告を行う義務がある。付 け加えれば、九〇日間は出産による休職期間と同じである。 公務員は文官、武官を間わす、国法によって一時出家を行う権利が保証されているが、鉄道・ たばこ・電力などの国営企業に働く従業員もその企業ごとに定められた服務規定の中で公務員に 準じた一時出家のための休暇を保証されており、民間大企業も期間は公務員より短いながら、そ のための休暇を規定している。ただし、民間企業の大半を占める中小企業・零細企業の場合、そ のような成文化した規定を持たないことも少なくない。そうした企業では通常の有給休暇として ごく短期の一時出家を行うか、場合によっては一時出家そのものが不可能になる場合もあるであ ろう。一時出家の習慣が今後どのようにタイ社会と行われていくか、興味深い間題である。 第四章引き継かれる伝統的宗教儀礼タイ 142 ( 写真 " 松本栄一 )
アナンさんも、自分を捨てた妻への恨みを心のどこかに抱いて生きているのかもしれな 。しかし、家族の状況が以前より好転したことは確かである。 むしろ、現代だからこそうまくいったケースなのかもしれない 。昔なら、家族への責任 を放棄して女性が出家することなどあり得なかっただろう。若い女性も含め広い年齢層の 女性が出家するようになったのは最近のことである。価値観が多様化する中で〃俗〃を担う ばかりでは飽き足らない女性たちが生まれてきた証拠である。ワット・サンガタンのよう な「森の寺」が全国に広がったのも、仏教の原点に戻るべきだというここ数一〇年の原理主 義的な運動の影響だと言われている。 タイの仏教は、今大きな曲がり角にある。ラッタナーさん一家は、その渦中にあるタイ 人仏教徒の一例でもある。 再生された原始仏教 タイにスリランカ系の上座仏教が伝えられたのは一二世紀末から一三世紀にかけてのこ とで、タイ族最初の王朝スコータイ建国の時期と重なる。スコータイ以降、歴代のタイ王 朝は仏教を事実上の国教として手厚く保護してきた。しかし建国以来、本当に純粋な上座 仏教だけが守られてきたのかというと、必すしもそうとは言い切れない タイ族は、中国雲南地方などから現在のタイの地に南下してきた民族で、もともとは、 民族固有の精霊信仰を行っていたと言われる。また、移住してから自分たちの国を作るま では、ヒンドウー教と加持祈檮を行う大乗系の密教の両方が信仰されていたアンコール王 朝の支配下にあった。 第六章仏教の救済と癒し 180