パゴダ造りには功徳を積むため 村人か参加する。 自力の救い 彼らは〃功徳。を積むために布施をしている。しかし功徳は金品の布施でのみ得られるの ではない。前章で紹介した鍛冶屋のアウン・タイさんのパゴダ工事では、村中の人たちが 協力して近くの山から岩を切り出して運んでいた。その時は村の学校は休みになり、人々 は農作業を投げ出してカ仕事に参加した。パゴダのために労働することも大きな功徳だと 考えられているからだ。寺やパゴダに関係することばかりではない。道や溜め池など人々 の生活に欠かせないものを作ったり修理したりすることも功徳だという。旅人に食事を えることも功徳である。人々の生活も村の経済活動も、すべては〃功徳〃を積むために営ま れているかのようにさえ見える。 豊かな者も貧しい者も、生活に多少の負担がかかったとしても布施をし、功徳を積む。 しかし、彼らは誰かに強制されて功徳を積むわけではない。見栄を張りたいという気持ち はあるかもしれないが、功徳を積むこと自体が喜びなのだという。アウン・タイさんのよ うに、誰もが認める篤信家が大きな布施をするのなら分からなくもない。しかし、誰も彼 もというのは一体どういうことなのか。本当に「善い生まれ変わり , を願うことだけが理山 なのだろうか ? そもそも来世がそんなに不安なら、どうして出家しないのか。この国で は出家することが最大の功徳だと信じられている。もちろん出家すれば、家族も財産も持 っことはできない。しかし、現世の生活であれだけ犠牲を強いられているのなら、何もか も投げ出せるはすだ。輪廻を信じ、善き来世を願って功徳を積むという理屈だけでは説明 し切れないような気がする。そこには、恐らくもっと深い別の理由もあるに違いない
取材を進めるうちに、 , 功徳〃というのは布施によって 始だけなされるのではないことが段々分かってきた。寺の 一 ~ 一鉢掃除をすることも、村に池を掘「たり道を修理すること 一。、朝も功徳である。母親が自分の息子を僧として出家させる のも功徳だという。どうやら彼らの生活は、〃功徳を積 毎む〃ことを中心に営まれているようだ。東南アジアの 者人々、特に在家の人々の信仰を理解するには、この〃功 徳〃という言葉がキーワードとなっている。 なぜ、人々は功徳を積むのか。それはどういう人生観 修や世界観に裏打ちされているのか。これは、私たちの取 材の大きなテーマの一つとなった。 タイの修行寺 在家者は功徳を積むために布施をする。では、その布 施を受ける出家者とはどのような存在なのだろうか タイの首都バンコクの北に隣接するノンタブリー県 に、厳しい修行をすることで有名なワット・サンガタン という寺を訪ねた。この寺は首都中心部から車でわすか 三〇分だが、境内は木々に覆われ静寂の中にある。私た ちは、僧侶たちの修行場を見せてもらった。 プロローグ
功 徳 を す 式 ハゴ、タは何 もちろん、ミャンマーの人々もブッダを愛しそれにすがりはする。しかし、 よりも〃行い〃の対象であり、〃行いノの場である。〃行い / によって仏教を生きる人々にとっ いや造り続けなければならないものなのではないだろう て、ハゴダはなくてはならない、 すべてが終わると、その場にいた大半の人々がパゴダ正面に建てられた簡易組立式の大 きなお堂の中に入っていった。アウン・タイさんを筆頭に、建設に協力した村人も含めて、 積まれた功徳を確認する儀式を行うのだという。 僧侶に導かれ、アウン・タイさんは経を唱えながらコップに入れた水を少しすっ皿に注 いでいった。これは大地に、つまり宇宙にその功徳を記す意味を持っている。いわば〃行 / の証である。経は、こう唱えられた。 その恩は須弥山よりも高いという両親と 加護をえてくれた精霊と そして、友人、親戚、教師、祖父母、今は亡き人々、死の神ャーマと この功徳を共にする 天界に住まうすべての神々、 水に地上にそして空にすむすべての生きとし生けるもの、 三一界のすべての衆生と この功徳を分かち合う 第三章徳を積む人々の暮らし
たいて家具や冷蔵庫、テレビなどを買って僧院に布施す る女性もいた。もっと布施をしたいと、稼ぎのよい仕事 に転職する人の話も聞いた。 リに何かに強制されて布施をしているわけで 彼らは、 はない。あまり布施をしない人がいても、非難するよう なこともない。そもそも菩提寺と檀家のような仕組みが なく、それぞれが自分の好きな寺やパゴダに通うので、 隣人がよく布施する人かどうかも聞いてみないと分から ない。布施は、個人個人の主体的な行いだという。 タイでもミャンマーでも、私たちはことある度に「何 のために布施するのか」と人々に尋ねた。しかし、誰に 間いかけても「功徳を積むためだ」という答えが返ってく る。功徳を積めば、善い来世に恵まれるのだというので 、れある。しかし、仏教とは縁遠くなっている私たち日本人 しくら輪廻転 には、これだけではどうも腑に落ちない。、 生を信じているからといって、遠い来世のためになけな " のしの稼ぎをあれはどたくさん布施に回すだろうか。功徳 入のために年収の大半を投げ出すというのも、度が過ぎて 雨しるように田 5 えてならない
今後為政者として必要になるであろう占星術や呪文を学ぶのである。一時出家は宗教行為という よりも、むしろ学校に入ったり卒業したりすることに近い意味を持っていたとさえ言えるのであ ろう。タイ人にとって、出家は学ぶことであり、その観念は現在も失われていない 第二に一時出家が功徳を積む行為「タンプン」の一つとして理解されている点である。仏教の 考え方では、この世界の事象はすべて原因とその結果という連鎖反応でつながっているとされる。 善き行いは善き結果をもたらすのである。つまり、ある人が喜ばしい結果を得たいと考えれば、 善き行いを行えばよいことになる。こうした文脈で仏教教団に対して善行、具体的には金品の寄 付や食事を供養したりすることをタンプンと呼んでおり、出家という行為もその一種としてとら えられているのである。 言うまでもなく、本来の出家はそのような原因と結果の連鎖を断ち切って、絶対の平安の境地 を目指す行為である。しかしタイでは、仏塔建設や寺院の修復、托鉢の僧に食物を供養したりす ることと同列の、そして最上の行為として一時出家が考えられているというのが事実である。タ ンプンはサンガという田に功徳の種をまき、その実りを得ることであるから、もともと在家者の 行為である。一時出家者は、出家という行動を取りその身をサンガに置きながらも、本質ではあ くまでも在家者だということかできる タンプンとしての性格が最も明確に現われているのは、出家式で行われる「功徳を母親に転送 する儀式」である。これは、聖水を呪文とともに滴らすことによって、女性であるが故に出家の 機会がない母親に、一時出家で得た功徳を転送し親孝行するというもので、ここには出家の、家 族や社会を捨てるという意味合いは全く払拭されている。 一時出家はサンガと一般社会との重なる場ではあるが、以上述べたように、その本質は在家信 者の学びの場でありタンプンの場なのである。 第四章引き継かれる伝統的宗教儀礼タイ 140
よきかな、よきかな ミャンマーの人々にとって、功徳は神からえられるものではない。それは、自力で得 しいかもしれない。そして、その作り出された功 るものである。作り出すものと言っても、 徳は、神々をはじめ全宇宙に分けえられもするのだ。 上座仏教の古い経典によれば、須弥山宇宙もまた輪廻するという。いすれ宇宙は、人間 界から天上界に至るすべてが焼き尽くされて消滅するが、やがて虚空に吹き始める風のカ で再生するという。この宇宙再生の風を生む源とされるのが、かってこの世に住んでいた すべての生きとし生けるものの〃業〃のカである。上座仏教では、宇宙を作り出すのも私た 彳し〃 ( カカっている ち衆生である。自分の将来だけではなく、世界の将来も自分たちの〃一丁、こ、 のだ ミャンマーの人々は、日々の暮らしを犠牲にしてまで熱心に功徳を積む。しかしそれ は、過酷な現世に見切りをつけて来世に賭ける、という消極的な理由だけではないように 思う。上座仏教の「自力の救い」とは〃何人も他人を救うことはできない〃という消極的な意 味ではなく、 〃他人の手を借りずに自分で自分を救うことができる〃という積極的な意味で 理解すべきではないだろうか。つまり、自分の運命は自分が支配するのである。しかも、 自分の積んだ功徳は、世界の存在にも役立っている。自分の人生に世界が応えてくれると 言っても、 しいかもしれない このような積極性を信仰の内に持っているからこそ、ハゴダや布施行為へあれだけの情 自力の救い ( 一部省略 )
日常生活の中の仏教と民間信仰 えない。その代わりに、出家者に布施を行うなどして功徳を積む。高い功徳を積めば、よりよい 来世に生まれ変わり、究極的にはいっか涅槃を目指すこともできるという考え方である。つま り、在家信者にとって出家者とは、ひとます功徳を積む対象としても重要だといえよう。 一方、在家信者が日々の営みを続ける上で、世俗的な願いはどうしても生じてくる。例えばも う少し金を手にしたい、昇進したい、試験に合格したい、医者が見離したような病いを治した もっと運勢を上昇させたいといったさまざまな祈願をかなえるために、もちろん僧侶も頼り にされるが、霊媒やガインの師が担ぎ出されることも多い。実際、僧侶や僧院への喜捨をよくす る一方で、精霊やウェイザーに頼っている在家信者は数多く存在する。彼らから見れば、精霊や ウェイザーに対して何か頼むというのは、ブッダや僧侶を裏切る行為というより、願い事にふさ わしい対象に頼っているだけなのである。 それぞれの信仰の専門家たちが活躍する姿は、 0 コダ建立の際にも見られる。ハゴダ建立は、 ミャンマーでは最も大きな功徳が積める積徳行為とされ、施主にとって一世一代の大事業であ る。しかしこの大事業は、単に資金、労働力、設計技師といった現実的な条件が満たされたから 、 0 ヾ といって必すしも成功するとは考えられなし ノゴダ建立は、工事の進み具合に従って、杭打ち 著名なウェイサーの絵写真 ( ボ儀礼、礎石配置儀礼、奉納品胎蔵儀礼、傘蓋奉納儀礼、入魂儀礼を順次行わねばならない。そし ーミンガウンとして知られるウ て、工事や儀礼が順調に進んでいくためには、外部からの加護の力が必要とされるのである。そ ェイサー ) のために、普通は儀礼祭司としてガインの師が務め、ウェイザーの加護を引き出すことが望まし いと考えられている。しかし僧侶や霊媒たちも、それぞれの必要に応じて関わっている。例えば 品杭打ち儀礼、奉納品胎蔵儀礼、入魂儀礼などには、多数の僧侶が招かれて読経を行う。またパゴ 、—-* 、 8 ダが建立される土地の精霊に対して、ナッガドーが招かれ、祭りが催される。ハゴダ建立にはこ のように、さまざまな神格から加護を引き出すことが必然となっているのである。 115
界⑩界⑥⑤① 天 ~ 天 ~ 天界趣 梵⑩梵⑩欲間悪 六人四 無色界色界欲界 輪廻転生する場としての三一界 一方、そのように実在すると考えられた三一の世界はまた、輪廻転生を繰り返す場である。死 とは、いずれかの界に生まれ変わるということを意味するという。輪廻の存在を否定するのは非 仏教的な考え方であるという。 そして、再生するという場合、現世でなした功徳や悪徳が、来世に再生する場所を決めるとい う。例えば殺生、偸盗、邪婬など、悪徳をなしたものはその結果として地獄、餓鬼、畜生などに 生まれるとされ、布施、持戒などの欲界善業をなした者は、来世にはより幸福な人間または諸天 に生まれるとされ、さらに、神定を修習したものは梵天界に再生するとされる。 三一界の輪廻転生を説いているところで、在家信者にとって現世のみならす来世以降の輪廻に 善き結果をおよばす功徳を積む行為についても示されている。そのうちの一つである十善業事に ついて見てみよう。 ①布施ーー他人に施し寛容であること、②戒ーー五戒、八戒、十戒などの戒律を守ること、③ 修習ーーサマタ ( 止修習 ) 、ビバ・ツサナー ( 観修習 ) を行うこと、④尊敬ーー年長者、徳の高い人を尊 敬すること、⑤作務ーー善き行いに協力すること、⑥所得の布施ーーー自己の得た功徳を他の有情 に施すこと ( 廻向 ) 、⑦所得の随喜ーーー他人の善行を見て喜び、他人によって施された功徳を喜んで 受けること ( 「サードウ ( 善哉 ) 」と唱えること ) 、 ( ⑧聴法ーー・・ー・法 ( 教え ) 聞くこと、⑨ ) 説法ーーーー法を説くこと、 ⑩見直業ーーー見解をまっすぐに正しくすることである。 これは、スッタニバータの注釈書であるバラマッタジョーティーカーのアラワカ夜叉とブッダ いかなる善行が安楽 の間答中にも含まれている。「この世で人間の最上の富は何であるのか ? をもたらすのか ? 実に味の中で美味は何であるのか ? どのように生きるのが最上の生活であ 「この世では、信仰が人間の最上の富である。徳行に篤い るというのか ? 」という夜叉の門し ( 第ニ章輪廻と宇宙観 0
埋葬された子供のお墓 輪廻を生きる人々 人の家に親族と友人が集まり、しばし別れを惜しんだ後、その日のうちに埋葬される。僧 侶が呼ばれることもあったが、それは遺族が布施をして功徳を積むためであって、死者に 向かってお経を上げるためではない。遺族は得た功徳を死者に送り、死者が少しでもよい 業を得て、よい転生が迎えられるようにするのである 死んだ子の葬列が墓に着くと、遺体は布に巻かれそのまま上に埋められた。その時、 く粒かの豆がそっと墓穴に入れられたが、その豆が芽を出す時に子供は生まれ変わるのだ という。墓には墓標さえ立てられなかった。動物が荒らさないようにと棘のある木が置か れたが、 それもいすれ失われるだろう。新しく埋葬されたところ以外は、墓は雑草の生え た単なる荒れ地にしか見えなかった。 村人は「死体は草履はどの値打ちもないと言う。輪廻を信じるものにとっては、死んだ 後の肉体は脱ぎ捨てた古い衣のようなものだ。従って人々は墓参りすることもない。た だ、親しかった者の死後の転生先を気遣う。子供の両親は、翌朝、僧院を訪れ朝食の布施 をしたが、それはその功徳を子供に送りよき転生を願うためだ 赤ん坊の葬式の様子を見ながら、この村の置かれた環境の厳しさを実感した。聞いた話 では、村では一年の間に一〇人を超す子供たちが命を落とすという。乳児死亡率の高さ は、医療施設の不足だけが原因ではない。上地のやせたこの地方では、穀物は採れす子供 たちの栄養も不足しがちだ。現世での生存が厳しい上地だからこそ、よき来世を願う輪廻 の考えが強く根付いているのかもしれない ミャンマーという国は、思いのほか自然環境が過酷な国である。一九世紀まで国の中心
一〇年間、パ・トンさんは轍を ならして道を修復している。 9 自力の救い 老人は、弱々しい手つきでスコップを振るい、牛車でできた轍をならしている。しか 道には再び深い車輪の跡 し、せつかくならしても、そこをすぐに牛車が通り過ぎていく。 が刻まれる。しかし老人はそれを気にも留めない。黙々と作業を続けるだけだ。パ・ さんの様子からは、他人に施しをしているという素振りは全く見えない。誰かに助けを求 めたい風でもない。一 行き来する牛車の主も、声もかけすに通り過ぎてい ・トンさんは一〇年はど前に大病を患い、死の一歩手前まで行ったことがある。道直 しはその頃から始まった。功徳を積み、近づく死に備えるためである。 しかし、足元もおばっかない老人が、なぜこんなことをしなければならないのだろう か。村には達者な若者がたくさんいるではないか。しかし村人たちに聞くと、年に何度か 若者たちが集まって、例の道も含めて村の道はすべて修復しているのだと言う。どうやら パ・トンさんの道直しは大して役に立っていないと感じてはいるものの〃功徳〃を積む老人 をそっと見守っているようである。 ・トンさんは、その年の初め自らインド式の占いをしてみた。すると最後の時が近い と出た。日に日に体力も落ちている。そこで最後の大きな布施をしようと息子に頼み、収 穫した胡麻の三分の一を金に換えカティンの布施にした。しかし、それは自分ではなく家 族が働いて得た金で行った布施である。あまりよい布施ではないと思った。最後の日まで 道直しを続けようと決意を新たにしたという なぜ、それほどまでして功徳を積みたいのかと、私たちは何度もパ・トンさんに尋ねた 「いつの日か涅槃に行きたいからです。人間にも、神様にも、もちろん動物にも、もう生