アウン・タイ夫妻。後ろに見え る仏像はパゴダに納める。 の直前に売り払うつもりだと言う。 来世へのこだわり アウン・タイさんは貧しい農家に生まれた。食うや食わすの生活で、両親はロ減らしの ためにまだ若かった彼を独立させた。家を出てからはマンゴー畑にある村の作業小屋に住 み、よその農家を手伝って食いつないだ。やがて結婚するが家は持てず、仕方なく同じ作 業小屋に妻と二人で住んだという。アウン・タイさんが将来ハゴダを造ろうと決心したの は、この頃のことである。これだけ聞くと日本人なら、ハゴダ建設は豊かになりたいとい う現世利益のためだと思ってしまうだろう。しかし彼は、現世のためではなく来世のため にハゴダを造っているという。 ミャンマーでは、人は死後別の新しい体に生まれ変わるが、その人の持っ〃業〃は前世か ら引き継かれると信じられている。そしてどういう境遇に生まれるかは、前世で死を迎え た時の〃業〃の善し慙しで決まるとされる。〃業〃は、功徳を積めば良くなり、悪徳を積めば 悪くなる。例えば、前世で悪徳を重ね悪い〃業〃を持って生まれた人も、現世で功徳に励め ば〃業〃は良くなり、来世はよい境遇に生まれることができる。ただし、現世で何もしなけ れば〃業みは悪いままで、来世の境遇も悪くなる。 アウン・タイさんも、自分が貧しい家に生まれたのは悪い〃業 / を持っていたからだと考 えた。しかもいくら頑張っても不幸な生活から抜け出せない これは相当ひどい悪業で、 前世で人でも殺したのではないかとも考えた。自分の〃業〃を今のままにしておくと、来世 も不幸な生涯が待っている。何とか来世をよくするため、いつの日かパゴダを自分の手で 第ニ章輸廻と宇宙観
「日本兵の生まれ変わりだ」と = = 「 う女性。 ( 赤ん坊を抱いている ) 。 の第。、当の 輪廻を生きる人々 丸太を杭のように並べて家の垣根にしている。私たちが訪ねた村では、村の東側にパゴダ と僧院があり、西側を墓地にしているところが多かった。 私たちは三〇を超える村を回ったが、彳 一丁く先々で村人はさまざまなことを語ってくれ た。祭りのこと、布施のこと、そして寺やパゴダのことなど、村人の関心の中心は、やは り仏教にまつわることだった。そして何よりも印象に残ったのは、村人たちが〃生まれ変 わり〃に強い関心を持っていたことだ。どの村に行っても転生話が話題に上る。「誰それは ある人の生まれ変わりである」とか、また「誰それは前世のことを覚えている」などと真面 目に話してくれる。ある村では、村の有力者が気を回して何人かの村人を集めてくれた その全員が、まるで思い出話をするように私たちに前世のことを語ってくれた ミャンマーの村人たちは、今も〃輸廻転生〃の世界に生きている。日本から来た私たちに とって、このことは大変な驚きだった。 生まれ変わった少女 村では、多種多様な転生話が語られていた。 ある村の男性は、自分は前世で強盗だったという。第二次大戦の末期、戦争の混乱の中 で強盗団の一味だった彼は、盗品の分配で仲間と諍いになり殺されたという。またある女 性は、自分はイギリス軍の空爆で命を落とした日本兵の生まれ変わりだと、日本人である 私たちに涙ながらに語ってくれた。彼女は、来世はもう一度日本人に生まれたいという。 前世は動物だったという人もいる。二〇歳過ぎの青年は、前世はヤモリで僧院の天井に 住んでいたのを覚えているという。さらに彼は、ヤモリに生まれる前の前世 ( 前々世 ) も覚
古都バガンには、数多くのパゴダが点在する。パゴダの尖塔部分はいすれも須弥山世界を象徴す るものてある。バガン朝期の仏教建築を代表するアーナンダ寺院も例外ではない。 ルフ 。ハガン・アーナンダ寺院 須弥山と廻転生 須弥山の世界観は地理的概念であると同時に、輸廻転生という時間的概念を示したもの 須弥山と輸廻転生 である。現世の在り方は前世の、来世の在り方は現世の善行・悪行の因果関係で規定さ 仏教に見る一一つの思想体系れ、生命は無色界・色界・欲界の間を行き来するという。ここでは具象化された須弥山お よび輔廻転生の世界観を、ミャンマーの人々の日常生活に見ていく。 大小さまざまなパゴダか点在す るバガン景。左端にそびえるの がアーナンダ寺院である。 匚」須弥山世界を象徴するアーナンダ寺院の尖塔部 ~ 37 」分。塔の下段部にはブッダの前世を物語るジャ ータカのレリーフか巡らされている。
タンホー村唯一の自動車 輪廻を生きる人々 しみであり、たとえ天界に住む神であろうと老いて病み、死んでゆく苦しみを持っことに 変わりはない。輪廻の世界にこだわるのではなく、二度と輪廻しないで済む境地を目指せ と語った。それが涅槃である。 ブッダによれば、輪廻の世界にいる以上「幸福な来世」などあり得ない。しかし、ミャン マーの人々は「来世は金持ちに生まれたい」「来世は天界に生まれたい」と、来世にこだわ る。なぜ、輸廻思想はミャンマーの地にこれほど深く根付いたのだろうか。そしてなぜ、 現世を諦めてまで来世にこだわるのだろうか 乳児の死 タンポー村には一台だけ自動車がある。自動車といっても第二次大戦中に作られたフォ ード製の大型トラックで、村の外に出るための村人たちの唯一の足になっている。毎朝積 「みきれないほどの村人と農作物を荷台に載せて村を出る。目的地は一時間ほどのところに 、、。 = 【、【ーあるイエナンジャウンという町で、村人たちが胡麻やヤシ砂糖を現金に換え買い物を済ま は〉 - イせると、再び彼らを乗せて村に帰って来る このトラックは、ある家の庭が発着場になっており、そこは村人たちのたまり場でもあ った。場所も広く情報が入りやすいこともあったので、私たちは家の主にお願いして庭の 片隅を休憩所に使わせてもらっていた。家の人の気遣いで、そこにはいつもヤシの枝で作 った安楽椅子がスタッフの人数分並べられていた。日中は暑く四〇度を超える日も多い 私たちはそこでお茶を飲み、時には昼寝もした。 村の取材を始めてひと月くらいたった頃だった。撮影を終えて帰って来ると、村の女た
ここでは牛車が活躍する。 3 輸廻を生きる人々 造ろうと決意した。ヾ。 ノコダを造ることは、在家の仏教徒ができる最高の功徳だと信じられ ているからである 一〇年前、アウン・タイさんは村を出てチャウバダウンの町にやって来た。鍛冶屋とな りパゴダ建設の資金を稼ごうと思ったのである。この地方では自動車は普及しておらす、 交通手段としては牛車や馬車が一般的である。需要の大きい車輪用の鉄板を作れば、かな りの収入になると聞いていた。 アウン・タイさんは、村を出た時のいきさつを話してくれた 「私の家に遊びに来ていた友人が、その帰りに事故で亡くなりました。その時、人はいっ としみじみと田いま 死んでしまうか分からない、自分だって明日死んでもおかしくない した。そう考えると私は不安になりました。来世こそ幸せになりたいと思っていたのです が、それまで積んだ功徳では足りないことは分かっていました。時間はないと思いまし コダを造りたいという気持ちだけ た。生まれ育った村を出たくはありませんでしたが、パ。 でチャウバダウンにやって来ました」 アウン・タイさんは、自分の家と故郷の村を毎日のように往復して、ハゴダの建設を進 めていた。完成まではあと三か月から半年はかかるだろうとのことだった。 彼は、来世をよくするためにパゴダを造るという。しかし、なぜ現世ではなく来世のた めなのだろうか。稼いだ金をパゴダではなく現世の生活に回せば、かなり裕福な生活がで きるはずだと日本人なら考えてしまうだろう。貧しい生活を強いられた場合、私たち日本 人なら仕事に励むにしろ神仏にすがるにしろ、現世で豊かになることを願うだろう。いき
完成したアウン・タイさんのバ ゴダ なり来世を心配したりはしない。日本人には現世がすべてである。 私たちが初めてアウン・タイさんに会った時、〃この人には裏がある〃と感じたのは、現 世指向の日本人的発想だったと今にして思う。長年の蓄えを投げ出してパゴダを造るから には、そのことに大きな現世的メリットがあるに違いないと考えたのだ。企業のイメージ 広告 ( 例えば企業の冠がついたスポーツ大会 ) のように商売の宣伝になるのではないかと想像した のである。しかし、彼は全財産を投じてパゴダを造ろうとしている。現世で豊かになるこ とを願っているとは思えない だとすれば、アウン・タイさんは来世のために現世を犠牲にしているのだろうか。物質 的な豊かさという意味では、確かにそうだろう。しかし、パゴダ造りを目指す彼は実に生 き生きとしている。仕事に精を出している時の顔は、充実した人生を生きている人のもの 、 0 0 、ヾ し / コダ建設の現場に行く時はいつも奥さんと一 だ。彼を支える家族の姿もほほえまし 。村にいた頃は気分が沈み、お 緒だ。奥さんも会計や仕入れなどの仕事で彼を助けている 互いあまり会話することもなかったという家族が、今は一致団結しているように見える。 アウン・タイさんを見ていると、人生が苦しいのは現世に物質的な豊かさを求めるから ではないかという気がしてくる。ミャンマーの人々にとって来世を信じることは、物質的 なものではない別の豊かさを現世にえてくれるものなのかもしれない タンボー村のパゴタ祭 ハガンとマグウェ管区の中心都市マグウ工を結ぶ幹線国道がある。国道といっても一車 対向車が来た時は路肩にはみ出してすれ違う。道の周囲には砂糖ヤシか低い 線しかなく、 第ニ章輪廻と宇宙観
たいて家具や冷蔵庫、テレビなどを買って僧院に布施す る女性もいた。もっと布施をしたいと、稼ぎのよい仕事 に転職する人の話も聞いた。 リに何かに強制されて布施をしているわけで 彼らは、 はない。あまり布施をしない人がいても、非難するよう なこともない。そもそも菩提寺と檀家のような仕組みが なく、それぞれが自分の好きな寺やパゴダに通うので、 隣人がよく布施する人かどうかも聞いてみないと分から ない。布施は、個人個人の主体的な行いだという。 タイでもミャンマーでも、私たちはことある度に「何 のために布施するのか」と人々に尋ねた。しかし、誰に 間いかけても「功徳を積むためだ」という答えが返ってく る。功徳を積めば、善い来世に恵まれるのだというので 、れある。しかし、仏教とは縁遠くなっている私たち日本人 しくら輪廻転 には、これだけではどうも腑に落ちない。、 生を信じているからといって、遠い来世のためになけな " のしの稼ぎをあれはどたくさん布施に回すだろうか。功徳 入のために年収の大半を投げ出すというのも、度が過ぎて 雨しるように田 5 えてならない
界⑩界⑥⑤① 天 ~ 天 ~ 天界趣 梵⑩梵⑩欲間悪 六人四 無色界色界欲界 輪廻転生する場としての三一界 一方、そのように実在すると考えられた三一の世界はまた、輪廻転生を繰り返す場である。死 とは、いずれかの界に生まれ変わるということを意味するという。輪廻の存在を否定するのは非 仏教的な考え方であるという。 そして、再生するという場合、現世でなした功徳や悪徳が、来世に再生する場所を決めるとい う。例えば殺生、偸盗、邪婬など、悪徳をなしたものはその結果として地獄、餓鬼、畜生などに 生まれるとされ、布施、持戒などの欲界善業をなした者は、来世にはより幸福な人間または諸天 に生まれるとされ、さらに、神定を修習したものは梵天界に再生するとされる。 三一界の輪廻転生を説いているところで、在家信者にとって現世のみならす来世以降の輪廻に 善き結果をおよばす功徳を積む行為についても示されている。そのうちの一つである十善業事に ついて見てみよう。 ①布施ーー他人に施し寛容であること、②戒ーー五戒、八戒、十戒などの戒律を守ること、③ 修習ーーサマタ ( 止修習 ) 、ビバ・ツサナー ( 観修習 ) を行うこと、④尊敬ーー年長者、徳の高い人を尊 敬すること、⑤作務ーー善き行いに協力すること、⑥所得の布施ーーー自己の得た功徳を他の有情 に施すこと ( 廻向 ) 、⑦所得の随喜ーーー他人の善行を見て喜び、他人によって施された功徳を喜んで 受けること ( 「サードウ ( 善哉 ) 」と唱えること ) 、 ( ⑧聴法ーー・・ー・法 ( 教え ) 聞くこと、⑨ ) 説法ーーーー法を説くこと、 ⑩見直業ーーー見解をまっすぐに正しくすることである。 これは、スッタニバータの注釈書であるバラマッタジョーティーカーのアラワカ夜叉とブッダ いかなる善行が安楽 の間答中にも含まれている。「この世で人間の最上の富は何であるのか ? をもたらすのか ? 実に味の中で美味は何であるのか ? どのように生きるのが最上の生活であ 「この世では、信仰が人間の最上の富である。徳行に篤い るというのか ? 」という夜叉の門し ( 第ニ章輪廻と宇宙観 0
ンめ祭本 " チた壇尊 の祭。工 本壇タメ . 尊最イラ か上のル 安仏ド さ高芸プ れさ術ツ て約のダ い六 る〇を祀 。セ集る 八ンコク市内を流れるチャオプラヤ川東岸に位置するワット・プラ・ケオはタイの 三大名刹の一つになっている。通称エメラルド寺院と呼ばれ、その美しさから多 くの仏教徒や観光客が訪れる八ンコク最大の寺院である。一七ハ〇年代に完成し たこの寺院は現王朝ラタナコーシン朝の守護寺院となっており、主要な儀式には 国王自らが参加をする。 翡翠製の本尊は、その色と輝きから俗に「エメラルド・ブッダ」とも呼ば れる。一五世紀頃のものと思われるこの仏坐像はラオス、ミャンマーな どいくつかの国を経て、ここタイにもたらされた。 ルポ エメラルドの輝き ーバンコクワット・フラ・ケオ 、タイの仏教寺院の美しさを作り上げてきたのは、何をおいても人々の深い信仰 来世への思しと 心によるところか大きい。どんな時代も変わることなく、仏教徒として来世の 一一つの輝き幸せを願 0 てきた多くの思いか結実したものと言えるだろう。 本尊か安置されている布薩堂。
パゴダ造りには功徳を積むため 村人か参加する。 自力の救い 彼らは〃功徳。を積むために布施をしている。しかし功徳は金品の布施でのみ得られるの ではない。前章で紹介した鍛冶屋のアウン・タイさんのパゴダ工事では、村中の人たちが 協力して近くの山から岩を切り出して運んでいた。その時は村の学校は休みになり、人々 は農作業を投げ出してカ仕事に参加した。パゴダのために労働することも大きな功徳だと 考えられているからだ。寺やパゴダに関係することばかりではない。道や溜め池など人々 の生活に欠かせないものを作ったり修理したりすることも功徳だという。旅人に食事を えることも功徳である。人々の生活も村の経済活動も、すべては〃功徳〃を積むために営ま れているかのようにさえ見える。 豊かな者も貧しい者も、生活に多少の負担がかかったとしても布施をし、功徳を積む。 しかし、彼らは誰かに強制されて功徳を積むわけではない。見栄を張りたいという気持ち はあるかもしれないが、功徳を積むこと自体が喜びなのだという。アウン・タイさんのよ うに、誰もが認める篤信家が大きな布施をするのなら分からなくもない。しかし、誰も彼 もというのは一体どういうことなのか。本当に「善い生まれ変わり , を願うことだけが理山 なのだろうか ? そもそも来世がそんなに不安なら、どうして出家しないのか。この国で は出家することが最大の功徳だと信じられている。もちろん出家すれば、家族も財産も持 っことはできない。しかし、現世の生活であれだけ犠牲を強いられているのなら、何もか も投げ出せるはすだ。輪廻を信じ、善き来世を願って功徳を積むという理屈だけでは説明 し切れないような気がする。そこには、恐らくもっと深い別の理由もあるに違いない