埋葬された子供のお墓 輪廻を生きる人々 人の家に親族と友人が集まり、しばし別れを惜しんだ後、その日のうちに埋葬される。僧 侶が呼ばれることもあったが、それは遺族が布施をして功徳を積むためであって、死者に 向かってお経を上げるためではない。遺族は得た功徳を死者に送り、死者が少しでもよい 業を得て、よい転生が迎えられるようにするのである 死んだ子の葬列が墓に着くと、遺体は布に巻かれそのまま上に埋められた。その時、 く粒かの豆がそっと墓穴に入れられたが、その豆が芽を出す時に子供は生まれ変わるのだ という。墓には墓標さえ立てられなかった。動物が荒らさないようにと棘のある木が置か れたが、 それもいすれ失われるだろう。新しく埋葬されたところ以外は、墓は雑草の生え た単なる荒れ地にしか見えなかった。 村人は「死体は草履はどの値打ちもないと言う。輪廻を信じるものにとっては、死んだ 後の肉体は脱ぎ捨てた古い衣のようなものだ。従って人々は墓参りすることもない。た だ、親しかった者の死後の転生先を気遣う。子供の両親は、翌朝、僧院を訪れ朝食の布施 をしたが、それはその功徳を子供に送りよき転生を願うためだ 赤ん坊の葬式の様子を見ながら、この村の置かれた環境の厳しさを実感した。聞いた話 では、村では一年の間に一〇人を超す子供たちが命を落とすという。乳児死亡率の高さ は、医療施設の不足だけが原因ではない。上地のやせたこの地方では、穀物は採れす子供 たちの栄養も不足しがちだ。現世での生存が厳しい上地だからこそ、よき来世を願う輪廻 の考えが強く根付いているのかもしれない ミャンマーという国は、思いのほか自然環境が過酷な国である。一九世紀まで国の中心
家族の絆と仏教 変わりゆくと報恩 矢野秀武 田一家族の絆と仏教。ー 家族と報恩 タイの上座仏教徒の多くは自覚的に信仰を選び取っているわけではない。上座仏教が生活上の さまざまな行為に溶け込んでいるそのような空間の中で育っていく。従って、人間関係において も、単に仏教用語によってそれを表現するというだけでなく、そこに仏教的な考えが浸透してい る場合がある。彼らにとって、仏教とは人間関係のあるべき姿を描き出し、人間関係を紡ぎ上げ て行くために、多様な形で利用される語彙や知識や作法の集積体でもあるのだ。 人間関係の中でも特に親子の関係を語り、それを倫理的な関係に紡ぎ上げていく際に、仏教的 な語彙や儀礼が用いられることがある。少々極端な例ではあるが、性産業に組み込まれて行く女 性たち ( 時には半ば人身売買のような形や、なかには親公認のこともある ) の中には、自分たちの仕事を親への 恩返しととらえ、仏教の報恩の教えを守っているのだと述べる者もいる。彼女 ( 彼 ) らはもちろん それで納得しているわけではないだろうが、苦境に耐え、自らのプライドをぎりぎりのところで 維持していくために仏教の知識が使われる。これは僧侶たちが売買春を肯定しているということ ではない。彼女 ( 彼 ) らが自らの苦難に絶えるために、親子関係を紡ぎ上げて、そこに自分の居場 所を確保して行く作業である。彼女 ( 彼 ) らの立場から、彼女 ( 彼 ) らのやり方で仏教の知識を使用 しているのである。そういう意味で仏教は心身に染み込んでいる。 また、タイ中部や東北部では、僧侶として出家し得度するという行為も親への報恩とみなされ ている。得度は村落社会では結婚前に行うことが好ましいとされる通過儀礼の意味合いを持ち、 得度した者の功徳は得度者を育て上げた両親にも共有されると考えられている。とりわけ母親に 197 束示入宀子大単十
「在家に到らんヒする時には、月の喩えのごヒく、 その身を正し、その心を整えて近づくのよい」 『サンユッタニカーヤ』
九五歳になる八ツダンタ・クタラ僧正は、五〇年以上も山中て厳しい修 行を積んできた。修行者の最高の境地であるアラ八ンに達したとして、 多大な尊敬を集めている。そうした僧正に布施を行い僧正の生活を支え ることは、信者にとって歓びに満ちた行為と一言える。 人々の尊敬を集めるバッダンタ・クタラ僧正。 アラハンを支える信仰心 第三章徳を積む人々の暮らし 106 と々 へは 布列 をな ' ぶて ロ伝えで僧正のうわさは国中 に広まり、遠くャンゴンから も信者か訪れる。 僧院前の広場を埋め尽くす 信者たち。
ナッガドーと呼ば れる霊媒が儀式を ナッ信仰とは仏教伝来以前から、ミャンマーに存在している土俗司る。ナッガドー はナツの妻という の精霊信仰である。もともとは自然物に宿る精霊を祀ったことに 意味で、霊媒か男 始まる。現在ては、物質的欲望の実現と日常生活の守護を祈願す 性の場合には女装 る対象となっている。 する。 鮮やかに彩色されたナッ像に供物を捧げる。 精霊は木や土地などに宿るもののほかに三七 に分類されたものかある。 ナッ信仰 第三章徳を積む人々の暮らし 108 集へ商 まの売 つ礼に たの成スはるナこ 人気功状呪。ツこ 々持し態文精にで にちたにを霊対は 金を者陥唱かす村 を込は つえ憑るの まめナ て続依儀入 くてツ いけし式ロ っ次たかの た第ナ行巨 。にツわ木 トガれに
現代のタイと仏教 に通い瞑想を教えてもらっています。寝る前にも毎日瞑想をしています。もう少し年をと ったら、私も出家するつもりでいます」 私たちにはこの家族の過去を詮索するつもりもない。しかし、かって大きな間題を抱え たこの家族が、母と息子が出家することで、癒されつつあることは確かなようだった。 三か月後、再びワット・サンガタンを訪ねると、ラッタナーさんは相好を崩し、頭陀行 中の息子・スパーンさんがバンコクに来ていると教えてくれた。今後二、三年は遍歴の修 行を続けることにしたスパーンさんは、住み慣れたワット・サンガタンに立ち寄って決心 が揺らぐことを恐れ、別の僧院に滞在しているという。 私たちは、早速彼を訪ねた。かって麻薬におばれた青年は、見違えるほど立派な僧侶に 成長していた。 「俗人の頃は、ずいぶん無茶なことをして母を悲しませました。出家した今は、生活はと ても静かで快適です。家族のことを重荷に感じることもなくなりました。そして、何処に 行くにも何をするにも、一人で孤独な生活ですが、逆に言えばとても自由です、と、今で は生涯僧侶として生きる決むをしたと彼は一一一口、つ。 苦しみは執着する心から生まれる。人は修行をし執着を断っことによってしか救われな これは、ブッダの教えの原点である。ラッタナーさん一家も、家族という執着を離 れることで癒されようとしていた。家族崩壊、麻薬、あまりに現代的な間題にブッダの古 い教えが目に見える形で効果を発揮していることに、少しでき過ぎの感がないわけではな 。ラッタナーさんの出家には、夫への仕返しの意味も多少はあったかもしれない。夫の 179
いた。一八三三年に発行されたイギリス領シンガポールの英字新聞に以下のような記事が ある。その記事はタイとタイ人の後進性を説明したうえで、以下のように続く。 「 ( シャムに ) 学校を二つ三つ建ててやるならば、それはシャムにとって大きな祝福とな ろう。そこで上人たちは有益な知識を学び、その知識が、ひいてはキリスト教徒を生 み出すことにもつながるのである。シャム人が異教徒であるのは、つまるところ、彼 らが無知であるからなのだ」 ( 石井米雄著『タイ仏教入門』めこん社の引用より抜粋 ) 周辺諸国が徐々にヨーロッパ諸国の手に落ちていった一九世紀前半、バンコクの王室寺 院ワット・ポーウオンニウェートには、モンクート親王という王族が住職として僧籍にあ った。後の国王ラーマ四世で、映画「王様と私 . のモデルになった人物である。モンクート 親王は一八二四年、二〇歳で出家してから王位に就くまでの二七年間を、僧侶として過ご ヾーリ語の習得に励み経典研究の第一人者となったが、 している。親王は僧籍にある間、 次第にタイの仏教の在り方に大きな疑念を抱き始めたという。タイ仏教がその内に含み持 っていた呪術的な部分、つまり迷信めいた儀式や僧侶たちの超能力などは本来の仏教の教 義とは大きく矛盾していると感じたのである。ヨーロッパ人たちがタイの後進性を主張す る時にいつも指摘するのも、仏教のそういった部分であった。親王は、仏教に見られる非 合理的な俗信の部分は密教やヒンドウー教、精霊信仰などが後の世になって仏教に混入し た付加物であり、それを取り除けば科学的で純粋な本来の仏教の姿が得られると考えた。 モンクート親王は、自分が住職を勤める王立寺院ワット・ボーウオンニウェートでタイ 仏教の改革に取り組み始める。タマュット運動と呼ばれる宗教改革である。〃タマュット〃 第六章仏教の救済と癒し 182
タイの「森の寺」 森の僧の修行作法は歴史的に見れば、五世紀に南インドからスリランカに来島したブッダゴー サ ( 仏音 ) の著になる『清浄道論』に求められる。そこには、衣食住の執着を払い、身心を鍛練する ふんぞうえ ずだ 出家者の修行規律として一三種の頭陀ーー ( 1 ) 糞掃衣のみを着る。 ( 2 ) 三衣のみを着る。 ( ろ ) 乞食して得たもののみを食べる。 ( 4 ) 家を順番に托鉢して回る。 ( 5 ) 一日一食。 ( 6 ) 鉢中のも 。 ( 8 ) 森にのみ住む。 ( 9 ) 樹下 のを食べる。 ( 7 ) 食べ終わった後で献じられたものは食べない にいる。 ( ) 露地にいる。行 ) 墓地にいる。宿 ) 人が設けた所にいる。 ( い ) 眠らすに座る が挙げられている。上座仏教の僧侶は托鉢を日々の行動としているので、特に森の僧をほかの僧 侶から区別する行動は、森に住むこと、墓地や洞窟での瞑想修行、一日一回の食事である。それ らは厳格な規律をもって修行する、僧侶の中の僧侶と言われる指標ともなっている。 スコータイ、アユタヤの時代にかけて、林住部はサンガの分布を示す範疇として、その名をと 瞑想修行の場としての森。仏教 にちなむ標語か木々に掲げられどめていたが、タイでは林住部は前世紀半ば以降制度上の意義を失っている。タイの上座仏教 は、前世紀末以来進められてきた地方行政制度の中央集権化と近代国家形成過程の中で、教義、 畴」。一新サンガ組織を全国的に標準化する制度を整備してきた。一九〇一一年の「サンガ統治法、は、寺院や , ー僧侶の登録、実践作法をも全国的に均質化し、単一の集権的統治機構の下に統制管理する最初の 法律である。同法が公布されて以来、地方を管轄する僧長は、教理と観法の双方を実践すること ーリ聖典への回帰を目指したタマュット派の が義務づけられた。しかし現実には、教理学習がパ 王族エリートによって制度的に整備されていったのに対し、一方の止観・瞑想の修法は組織的に 制度化されることがなかった。その実践は、個々の歴史経験を持っ地域や民族の中で、個人的な 師弟関係を通じて存続することになった。すなわち、止観・瞑想を重視する僧侶たちは、制度的 な統制をすり抜ける形で地方周縁の人々に直接その影響を莎えた。なかでも、前世紀末から今世 紀初頭にかけて観法の徹底した修行を森林山野で行った、東北地方出身の頭陀行僧 ( マン師とその弟 145