幻 0 ターナショナル」のメン・ハーであり、「インターナショナル」の運動で、マルクスやエンゲルス と大衝突をした人物です。・ハクーニンの伝記というものは、実に面白いもので、いかにもロシャ の天才という印象を受けるのですが、マルクスに気に入らなかったのは、まさにこのロシャ的な ものであった。・ハクーニンは、ニヒリストと称する大学生達を組織すれば革命には充分だ、と豪 語していた。マルグスには、そんな空想的な野人は、「インターナショナル」という合理的合法 的組織をたたき壊す為にやって来たとしか思えなかった。・、 ノクーニンは・ハクーニンで、剰余価値 だとかプロレタリアートの意識だとかと理窟ばかりこね廻しているドイツの学者などに、革命な んか出来るものかと思っていた。マルグスは、革命がプロレタリアートのいないロシャに起る可 能性なそ、生涯、夢にも考えなかった。むしろ、アメリカで起るであろうと考えていました。 「破壊のパッションは、即ち創造のパッションである」とは、・ハグーニンの有名なモットーです。 、クーニンにしてみれば、これ 合理主義者マルグスには狂人のたわ言と見えたかも知れないが、ノ はロシャの現実によって鍛錬された最上の革命理論だと言うでしよう。これは決して狂気ではな 、インテリゲンチャの現実的な怒りであり、嘆きである、これを最も早く、又深く見抜いたの は、ドストエフスキイというロシャ作家でした。まあ、このような事情については、私は、七八 くわ 年前書いた事があるし、精しくお話する暇もない。ただ、ここで申し上げて置きたいのは、レー ニンの革命が、どうして・ハクーニンの革命精神と無縁な事がありましようか、そういう当り前な 事実なのです。レーニンは、ロシャの現実に即して事を行ったロシャ人である。レーニンという
と言った方がよい。ゴーゴリとかトルストイとかいう大作家を、遂に、断食で死なせたり、のた れ死をさせたりしたのも、それが為だ インテリゲンチャに、最も強く作用した外来思想は、ソシアリズムであった。と言っていいカ ロシャの悲劇に登場する最初のソシアリスト、 ・ヘリンスキイがロにしたのは、「ロシャは社会で 。ない」という科白であった。「解放された民衆は、議会などには決して行かない。大急ぎで、 酒屋に飛び込んで飲み出すだろう。窓を毀し、旦那どもの首を吊し上げるだろう」。彼も亦プー シュキンのように言えた筈なのです、「私を、ロシャで、ソシアリストにしたのは悪魔の仕業で ソシアリズ ある」と。孤独なソシアリストなどというものは意味を成さぬと言ってはならない。 ムなどという一一「〕葉は、世界語にすぎませぬ。それは、どういう現実の条件の下で生きられるかだ けが問題なのです。ロシャには、ソシアリズムを研究によって学問化する道も、政治的実践によ って訓練する道もなかった。急進的なソシアリストに残されたたった一つの活路は、あの・ハクー ニンが歩いた道でした。ロシャの革命思想としてのソシアリズムは、アレグサンドル二世暗殺執 旅行委員会という形に、行き着かざるを得なかったのです。この委員会の地下運動は執拗につづけ られて、遂に七回目の加害が成功する。次は、アレクサンドル三世の暗殺計画である。レーニン ヴ の兄は、これに加って処刑された。一九一七年の大革命で、レーニンが、兄の敵を討ったのは、 誰も知る事です。 周知のように、く ノクーニンは、当時のロシャの革命的勢力の代表者であり、マルグスの「イン
人物は、恐らく、マルグスやエンゲルスには遠いが、バグーニンやビヨートル大帝には近いので ある。やがて、レーニンというロシャ的天才の姿を、生き生きと描き出して見せてくれるロシャ 作家も現れて来るでしよう。現代ソヴェットに関心を持つ大多数の人々が、ロシャの過去につい て、ひどく無関心に見えるのが、残念なのであります。 ・ヒョーー、レ ノ大帝は、改革者ではない。旧を棄て新につくについては凡そ徹底していた革命家で ある。これはフランス革命以前の事だから、ロシャは、どこの近代国家にも見られないような、 この国家は国民を欠 大革命を断行した最初の国家だと一一一口えます。だが、前にもお話したように、 いていたのです。私は、今度、レーニングラードで、ピヨートレ、 ノカ人間もいない、従って歴史 もない フィンランドの広漠たる召也こ、。 、冫土。へテルプルグという新都市を建設する為に働いたとい う木造の小屋を見物して、強い感慨を覚えました。ビヨートルの革命は上部からの、強引な専制 革命であって、国民は、これに、嫌悪と無関心とを以て対立しただけだ。ロシャは広いのです。 外来思想の有効性を信じた知識人の一団には、、 どんな政治的技術を以てしても、地平の果てを越 旅え、何処までも拡がっている無言の国民の意識を目覚ます術はなかったであろう。二十世紀の大 鵜てツアーの政府が頑覆した時、このロシャの大勢は一変していたか。そんな事は考えられま せぬ。専制政治は、ロシャ国民の意識の糾合にかけては、ただ失敗を繰返して来ただけなのです。 ヴ レーニンが目指したものは、コンミュニズムの勝利ではない。革命の成功である。彼は、マル グシズムの理論家ではない。 ロシャは、今、何を必要としているかを、誰よりもよく知った不抜
究者等の創作も、私には嘘とは一一「〕えなかった。 空は青く晴れ、ネヴァ河は、巨きな濁流であった。私は、デカプリストの広場に立ち、ベトロ パヴロフスグ要塞の石のはだを見ていた。背後には、名高い「青銅の騎士」が立っている。プー シュキンが歌ったのは、この濁流だ。ニヴゲーニーをのみこんだこの同じ濁流である。それは、 「青銅の騎士」という謎めいた詩に秘められている詩魂をながめるような想いであった。プーシ 彼ま、。 へテルプルグという都会を信用して ユキンの詩魂は、ドストエフスキイに受けつがれた。 , 。 いなかった。歴史のないフィンランドの沼地に、強引に、全く人為的に築かれた街の不安定性を、 プーシュキンと同じように直覚していた。「この世界中で最もファンタスティックな街」を「人 人はどんな風にして捨てることが出来るか。政治的破局あるのみ」と「悪霊」を書き上げた年に 書いている。レーニンは、。 へテルプルグを見捨てた。私は、ドストエフスキイの予言の的中とい うような詰らぬことが言いたいのではない。 歴史家が、普通、ピヨートレ ノ大帝の改革と呼んでいるものは、全く新しい輸入観念による、徹 底的な過去の否定という点で、どこの国の歴史にも見られない革命である。この天才的な革命技 河術専門家の血を受けずに、レーニンは現れない。二十世紀の「青銅の騎士」は、マルクシズムの ヴ大家ではない。それが歴史の持続性というものだが、この血統のロシャ的性格は、ソシアリズム 、不一 とかコンミュニズムとかいう一一「ロ葉を世界語のように使っている者の目にはいるものではない革 命的思想は、ロシャ十九世紀文学の動脈であり、作家たちには、だれにもプルジョア文学など書
。向うに黒花崗岩の堂々たる殿堂が立っている。 所で所定の食物を当てがわれると言った方がいい ナチの手よりの人民の解放を記念する為のものだ。私はモスクワのレーニン廟の前の広場に、雨 の中を、蜿蜒と打続く参拝者の列を思い出していた。ここのレーニン廟の支部は、訴えるべき人 民を、全く欠いていた。 何も彼も退屈であった。私は今日は日曜日であるのを憶い出し、案内の人に、公園があるなら、 公園に行って欲しいと言った。公園は、清潔で美しかったが、やはり博物館の一部であった。・ハ スから吐き出され、忙し気な足どりで、戦勝記念碑を一廻りして行く団体の他には、日曜の午後 を楽しむ市民の姿は、絶えて見られなかった。サイダーや菓子の類を売る売店が、たった一軒あ るが、客もない。傍に、爺さんが一人、テープルに小さな笛を並べて腰かけている。誰の為に売 るのか。やがて、ソヴェット兵の一団がやって来た。シベリアのどこかの辺境から、はるばると 連れて来られたのであろうか、皆、蒙古人のような顔附きをした、子供のような兵士達であった。 爺さんは、笛を口に含み、小鳥の鳴き声をしてみせる。兵士等は彼を取巻く。ガャガャ言うだけ で、なかなか買わない。公園には子供なぞ見えもしなかったが、何処から現れたか、二人現れて 人笛を買った。明らかに、爺さんの連れて来たサグラである。笛は忽ち売れ出した。めいめいが、 物大きな手で、ビニール の小袋から、笛をつまみ出すと、頬をふくらませ、ビイビイと無器用な音 見を出し始めた。 ( 朝日新聞昭和三十八年十一月三日と十日 )
2 に の実行家です。彼は、敗戦が、革命の最大の機会である事を、マルクシズムが、革命の最大の手 段である事を見抜いた人です。レーニンの怒りには、・、 ノクーニンの怒りのようにロマンチッグな ものはない、全く冷静透徹した怒りだと言えましようが、「破壊のパッションは、即ち創造の ッションである」というモットーは、・ハクーニン直伝のものである。彼は、破壊を目指さぬ、あ らゆる改良主義、漸進主義を敵に廻して戦った。彼が、戦術上、一番頼みにしたのは、戦場から 続々と引上げて来る兵士、つまり農民であって、インテリゲンチャではない。彼の革命が壊した ものは、資本でも資本主義でもない、当時のロシャ社会の上部構造一切である。私は、誇大な言 を弄しているのではない。革命を美化する事など、私には真っぴらなだけです。 これを、心に入れて置けば、彼の死後の有名な「鉄のカーテン」時代も、よく理解する事が出 来るでしよう。スターリンは、何も奇怪な人物ではないし、「鉄のカーテン」という政策も、少 しも非常識なものではないでしよう。政治を動かしているものは、理論ではない、必要である。 「鉄のカーテン」でも下さなければ、到底収拾のつかぬような事態を、革命は遺して行ったのだ。 スターリンが、必要から行わねばならなかったのは、コンミュニズムの普及とか、一一一一〕論の統制と かいう生やさしい事ではなかったでしよう。敢えて言えば、それは国家の設計であり、国民意識 の製造である。先刻、ソヴェットという国は、目下建国最中で、大変忙しいと言ったら、諸君は お笑いになったが、私の言う意味は、そういう意味なのだ。古くから国家的観念というものが普 及し安定した国に暮している人々には、ある政治理論を信仰したポルシエヴィキという政党が、
気持であった。しかし、自分が文学者になったについては、ロシャの十九世紀文学から、大変 話になった。この感情は、私には、きわめて鮮明なものであり、私には、私なりのロシャという 恩人の顔が、はっきりと見えていたのである。ネヴァ河が見たい、というのも、一言うまでもなく、 ここから発する。ドストエフスキイの墓詣りはして来たいものだ、そんな事を思う。 だれも白紙で物を見る人はない。私の抱いた感情も、先入観と一一一一口えば、先入観であろうか。と もあれ、私は、自分の先入観に従い、ドストエフスキイの墓と言われる黒花崗岩に、極く自然に 頭を下げ、また、極く自然に、レーニンのミイラを蔵すると言われるガラス箱を、物珍し気に見 て過ぎた。 旅行の前、知人にすすめられて、ソルジェニツインの「イワン・デニーソヴィチの一日」とい う作品を読み、非常に面白かった。革命後のロシャ文学については、ほとんど無智な私は、訳者 木村浩氏の言を、そのまま受納れる他はないのだが、それによると、この作は、革命後のきびし い文化統制の酷寒に閉されて、萎縮していた作者たちの芸術的才能の新しい開花だと言う。恐ら くそうであろう、と私も思った。作品はスターリン時代の監獄で得た作者の経験の上に立ってい るとともに、明らかに、ゴーゴリやドストエフスキイの貴重な文学的遺産の上に立っていた。 ヴ「イワン・デニーソヴィチの一日」が発表されたのは去年だが、作者はよほど前に、作品を書き 上げていたそうで、この異常な人生記録が陽の目を見たのは、スターリン以後のいわゆる「雪解 け」のおかげであると言われる。ドストエフスキイの「死の家の記録」が出版されたのは、ちょ
188 のは、二十年前の作者自身であり、その苛烈な革命心理の分析も、作者の青年期の体験に基づい ていたことを、だれ一人知るものはなかったのである。ちなみに、・ハ クーニンのシ・ヘリア流刑は、 このよく偽装された最初のネチャアエフ事件と本物のネチャアエフ事件との間に起った。 トストエフスキイの任務は、秘密印刷物の配布にあったが、無論、これは当時、死刑を賭けね ば出来ることではなかった。ノ。 彼よ、これを実行に移そうとする直前、ベトラシェフスキイ会員と して捕えられた。彼が銃刑を免れたのは、ニコライ一世の気まぐれによったのではない。彼が仲 いんめつ 間とともに証拠湮滅に成功し、決して口を割らなかったがためだ。これは容易なことではなかっ ただろうが、文学者ドストエフスキイにとって、むつかしいことは、それから先にあった。 オムスクの徒刑囚の生活が、ドストエフスキイの思想に、大きな転機をもたらしたについては 疑う余地はない。獄中生活は、彼に何を与え、ために、彼の思想はどう転回したか。これは伝記 作者の好奇心をそそる問題だったから、私もいろいろと考えたことがある。しかし、この大作家 の内省や創造の世界をのぞき込むわナこま、 。。しかないのだから、明答が得られたわけもない トエフスキイには、イデオロギイ上の転向作家に見られるような簡明な性質は少しもない。 私が、再び同じ想いを新たにしているのは、前に書いたように、たまたま、二つの監獄小説を、 重ね合せるようにして読んだがためである。二つは、もちろん、大変趣の違った作品であるが、 その中心点は重なって見える。少くとも重ね合して見ることも出来るようだ。アレグサンドル二 世は、「死の家の記録」を読んで泣いた。フルシチョフは、「イワン・デニーソヴィチの一日」に
彼ま無実ではなかったどころか、過激派であった。 日では、先す確一言できると言っていいのだが、 , 。 ベトラシェフスキイ事件においても、彼は自分で告白しているように、「いつも限度を踏越える」 人間であった。 彼は、表面では、ベトラシェフスキイ会に属していたが、ベトラシェフスキイという文学青年 の性格は見抜いていた。「何一つ実行しない、ロだけは達者な馬鹿者、偽善者」と呼んでいた。 彼が結んでいたのは、実は文学などは歯牙にもかけぬスペシュネフという、スイスから来た、・ハ ストエフスキイは、後世、精神 クーニンの仲間と称する革命家であった。だれも知るように、ド 分析家の研究対象になったほど、きわめて複雑な心の持主であったが、この複雑な心の持主は、 暴動とツアーの暗殺とを目がけ、他一切を意に介しない簡明なテロリストの性格に、どう仕様も なくひきつけられていた。そして、彼は、スペシュネフという首領を、「私を占領してしまった 私のメフィストフェレス」と呼んでいた。 トストエフスキイの逮捕には、判決文によれば、危険思想を抱くべトラシェフスキイ会員とし て、不穏な言辞を弄したという以外の理由はなかったのだが、実際には、彼は、「わがメフィス こ乍っていた。彼はこの結社が、 トフェレス」の忠実な仲間として、極く少数の秘密結社を、別。イ ヴジュネーヴこ、。、 リに、ロンドンに、本拠を有する国際的革命組織の最下部細胞であることを信 ネじて行動してした。 , 。 、 ' 彼ま、後年「悪霊」を書き、・ハクーニンの配下の、モスクワ大学生ネチャア エフが組織した革命的秘密結社の活動を扱った。だが、この種の革命的地下運動のロ火を切った