問題 - みる会図書館


検索対象: 考えるヒント [1]
55件見つかりました。

1. 考えるヒント [1]

う》 ( 『役者し と、小林氏はいっているが、実はここに収められた文章に接すること自体が、読者の思考をご く自然に促すのである。「ヒント」はしたがって無数にある。一つの文章に一つの「ヒント」が 仕掛けられているというふうには、でき上っていないのである。 それと同時に、この本には、ト / 林氏が繰り返しいろいろなところで語っているいくつかの主題 がある。その一つは、文章には「形」、あるいは「姿」があるという主題である。 《「貸間あり」が大小説だというのではない。そんな事を言ったら、井伏君自身が笑うだろう。 だが、私は繰返して言いたいのだが、これは、極めて純枠な散文なのだ。 : かって、形という ものだけで語りかけて来る美術品を偏愛して、読み書きを廃して了った時期が、私にあったが、 文学という観念が私の念頭を去った事はない。その間に何が行われたか。形から言わば無言の言 葉を得ようと努めているうちに、念頭を去らなかった文学が、一種の形として感知されるに至っ たのだろうと思っている。私は、この事を、文学というものは、君が考えているほど文学ではな いだとか、文学を解するには、読んだだけでは駄目で、実は眺めるのが大事なのだ、とかいう妙 な言葉で、人に語った事がある。それはともかく、私が、「貸間あり」が純粋な散文だというの 説は、その散文としての無言の形を一言う。何が書いてあるなどという事は問題ではない、 とでも一一一口 いたげな、その姿なのである》 ( 『井伏君の「貸間あり」し 解この主題は、本居宣長の「姿ハ似セガタグ、意ハ似セ易シ」という言葉を冒頭に掲げた「言 葉』では、次のように発展させられている。

2. 考えるヒント [1]

か。道徳の相対性は、道徳原理の客観性の必然の帰結ではないか。現実を直視せよ。良心の朦朧 性などを信じているのは、現実逃避である。そんな事を言っている。よく出来た嘘をつくものだ。 道徳の客観的原理などに、誰が刃向えよう。みんな屈従するより他はない。一つの原理に反抗 する事が出来るのも、別の原理に屈従すればこそだ。道徳が、外部から来る権威の異名なら、道 徳は破壊か屈従かの道を選ぶ他はあるまい。手間を省いて考えれば、道徳の問題は、カと力との 争いの問題になり下る。 人生を簡単に考えてみても、人生は簡単にはならない。道徳の問題を考えるに際し、良心の問 題を除外し得ても、良心とは問題ではなく、事実なのであるから、彼が意識するとしないとを問 わす、彼の心のうちに止まるであろう。例えば、あの男はスパイだと聞いて、私達は、何故一種 の嫌悪の情を覚えるのだろうか。スパイのうちにも正義の士があって、弁解するだろう。「社会 の正義の為なら、嘘もっこう、仮面もかぶろう。それに、一体、社会の不正と慣れ合った自己尊 重などがどうして信じられよう。人格などというものは、一種の己惚れに過ぎないではないか。 自分はむしろ出来るかぎり自己を軽んする。何が悪いか」。しかし、無駄だろう。彼が上手に弁 解すればするほど、私達の嫌悪の情は強くなるだろう。何やらおかしい、何かが間違っている。 人間は、彼のように生きられる筈はあるまい。彼の心には平安の一とかけらもあるまい。感情の 良呟く言葉は、その種の不明瞭な言葉に相違なかろうが、良心の言葉とは、そういうものではある 亠まし、カ 、、 0

3. 考えるヒント [1]

端と答える。「しかし、これは理解できぬという性質も必ずあるはずだろう」「必ず在る。だが、そ れはただつまらん、と言っておけば、私には足りる事だ」。 あるいはまたこんな風に聞かれる。「君の青年時代に照らして、今日の青年をどう考えるか」。 どう答えたらいいのかしらん。私は、自分の失われた若さを、時として痛切に想う事はあるが、 若い時代に生きた環境は、うまく思い出せない。あのころは、今に比べたら余程のん気な時代だ っただろうと言われても、そうかなと思うだけで少しも実感が伴わない。どうやらはっきり言え る事は、私としては、十分に不安時代であったという事だけだ。どいつもこいつも、のん気に 構えているなら、おれは不安になってやる、きっとそんな気だったのだろうと思う。不安がなけ れば不安を発明してやる、これが青年の特権である。その成果がどんなものであったかは、私と してはあいまいな問題だが、私が、この青年の特権を出来る限り行使した事は、先ず確な事らし 今日の青年を見ても、ただうらやましいと思うのは、私にはもう失われてしまった、あふれる ような若さの力だけである。現代の世界不安とやらいう代物なら私にだって与えられているのだ。 若さのカの環境への投影力は、環境の若さへの影響力よりはるかに強いものである。もしそうで なければ、人生に青年期があるとは無意味なことであろう。 今日の世代を表現した代表的文学は何かと問われても返答はむつかしいが、今日の青年文学な ら、直ちに挙げる事が出来る。堀江謙一「太平洋ひとりばっち」である。今日のように、文学が

4. 考えるヒント [1]

子供は意によって言葉を得やしない。真似によって一一一一〕葉を得る。この法則に揺ぎはない。大 人が外国語を学ばうとして、なかなかこれを身につける事が出来ないのは、意から言葉に達しょ うとするからだ。一一一一〕葉は先ず似せ易い意として映じているからだ。言うまでもなく、子供の方法 は逆である。子供にとって、外国語とは、日本語と同じ意味を持った異った記号ではない。英語 とは見た事も聞いた事もない英国人の動作である。これに近附く為には、これに似せた動作を自 ら行うより他はない。まさしく習熟する唯一つのやり方である。 広く言語の問題を考えるにせよ、国語問題という目下の問題を扱うにせよ、言葉の機能は、大 人風のものであると思い込むのは浅薄な考えである。何故かというと、言葉に関する子供のやり 方は、社会に生きているあらゆる言葉に、その歴然たる印しを残しているし、誰も言葉に対し、 子供のやり方を止めるわけには、、 力ないし、実際止めてもいないからだ。例えば、「お早う」と いう一一 = 〔葉を、大人風に定義して誰が成功するか。「お早う」という一言葉は、平和を意味するのか、 それとも習慣を意味するのか、それとも、という具合で切りがあるまい。その意を求めれば切り がない言葉とは即ち一つの謎ではないか。即ち一つの絶対的な動作の姿ではないか従って 「お早う」という一一一一〕葉の意味を完全に理解したいと思うなら、 ( 理解という言葉を、この場合も使 いたいと思うなら ) 「お早う」に対し、「お早う」と応ずるより他に道はないと気附くだろう。子 供の努力を忘れ、大人になっている事に気附くだろう。その点で、言葉にはすべて歴史の重みが かかっている。或る特殊な歴史生活が流した汗の目方がかかっている。昔の人は、言霊の説を信

5. 考えるヒント [1]

良、いは、はっきりと命令もしないし、強制もしまい。本居宣長が、見破っていたように、恐ら く、良心とは、理智ではなく情なのである。彼は、人生を考えるただ一つの確実な手がかりとし て、内的に経験される人間の「実情」というものを選んだ。では、何故、彼は、この貴重なもの を、敢て「はかなく、女々しき」ものと呼んだのか。それは、個人の「感慨」のうちにしか生き られず、組織化され、社会化されたカとなる事が出来ないからだ。社会の通念の力と結び、男ら しい正義面など出来ないからだ。「物のあはれを知る心」は、その自発的な力で生きていれば、 充分な何かである。彼の有名な「物のあはれの説」は、単なる文学説でも、美学でもない。それ は寧ろ良心の説と呼んでいいものである。彼は、歌の道をたずねる事から始めて、はっきりと命 の敬皮に到達した、徹底した思想家である。 もし、集団的良心というようなものは誰にも考えられない事なら、それは、何か社会の規約や 。この考え方は、少しも新しい考え方ではない。どんなに現代の流行 規範以上のものに違いない ストエフスキイは、「悪霊」という小説の に反するように見えようとも、古くはなり得まいド なかで、ネチャアエフという青年革命家をモデルとして、何故、あのような高邁な思想を抱いて、 あのような卑劣な残酷な行為が出来たか、という問題を、力を尽して究めようとした。歴史は、 昔からこの同じ問題を、様々に異った形で、提出して来たが、これからいよいよ頻繁に、烈しい 形で提出するようになると思われる。どうして、これが問題として映るのか。一一一一口うまでもなく、 人は、其処に、思想と感情との驚くべき懸隔を見るからだ。思想の高邁を是認するものは思想で

6. 考えるヒント [1]

- 一と′一と これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能で あり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだ 手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っている が、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨 獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。 プラトンは、社会という一「〔葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に 広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人々が手 を焼いている事もない 。小さい集団から大国家に至るまで、争ってそれそれの正義を主張して互 いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獸の手にあるからだ。ただ社会という言葉を 思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。 ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死 であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、 家巨獣の欲望そのものの動きは、ソグラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに の過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしよ、 オしただ、彼は、物の動 ン きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィス プト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソグラテ スが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じて おお

7. 考えるヒント [1]

批評 私は、長年、批評文を書いて来たが、批評とは何かという事について、あまり頭脳を労した事 はないように田 5 う。これは、小説家が小きを、詩人が詩を定義する必要を別段感じていないのと 一般であろう。 文学者というものは、皆、やりたい仕事を、ます実地にやるのである。私も、批評というもの が書きたくて書き始めたのではない。書きたいものを書きたいように書いたら、それが、世間で 普通批評と呼ばれるものになった。それをあきもせず繰り返して来た。批評を書くという事は、 私には、いつも実際問題だったから、私としては、それで充分、という次第であった。しかし、 書きたいように書くと、批評文が出来上ってしまって、それは、詩とか小説とかの形を、どうし ても取ってくれない。 という事は、私自身に批評家気質と呼ぶべきものがあったという事であり、 この私の基本的な心的態度とは、どういう性質のものか、という問題は消えないだろう。 回顧すると、と一一一一口うが、この回顧するという一種の技術は、私にはまことに苦手なのであるが、 実は、ごく最近、ある人が来て、批評家として立ちたいが、これについて具体的な忠言を熱心に

8. 考えるヒント [1]

1 さくら 人が、桜に関する実際的理論や技術を、最高度に身に附けた時期は、丁度、宣長が生きていた頃 と考えていいようである。宣長は、歿後、塚の上に植えさせる桜につき、「山桜之随分花之宜き 木を致吟味植可申候」と言っておけば、何の心配もなかったであろう。桜への無関心と無智とが、 すっかり蔓延して了った今日では、国内の桜の八割九割までが、ソメイヨシノという桜とは言え ぬ桜の屑ばかりになって了った、と笹部氏は言う。桜の専門家がそう言うのなら、私達素人は返 す言葉もないわけだが、やはり、それは、急激な文明の進歩の問題と桜の問題とを一緒に解く事 がひどくむつかしかったという次第であって、桜を好む私達の子供らしい心に、異変が生じたと いう事ではあるまい。私の家の向うの山には、桜が沢山咲く。これは、とてもソメイヨシノどこ ろの段ではないらしい。青い葉っぱを無闇に出し白っぱい花をばらばらにつける。それでも、毎 年花が待たれ、咲けばやつばり桜であって、きれいである。 ( 朝日新聞昭和三十八年四月二十七日 )

9. 考えるヒント [1]

嘘発見機という機械が出来たという事は、大分前に聞いていた。存外便利な機械だとみえて、 其の後、警察で広く利用されるに至「た事を知「た。ところが、その内に、まさかと思う事が起 0 た。数カ月前の事だが、或る男が、詐欺、風紀上の違反、窃盗で起訴された。彼は、窃盗の事 実だけは、固く否認し、福知山の裁判所の公判で、アリバイを主張して譲らなか「た。証拠があ がり、有罪とな 0 たが、判決で、証拠の一部として、裁判所は、嘘発見機による検査記録を採用 した。私は、「朝日ジャーナル」誌上に、そういう記事を読んだ。こうなると、もう、ばかば しい話とも一一一〕えぬ。又、単なる嘘発見機の利用の行き過ぎという問題でもないだろう。共処には、 人間の良心という深い問題の頭が現れているように思われた。 嘘発見機の構造が、どういうものにせよ、心の動揺に伴う生理的な動きだけが頼みの綱だ、と いう事でなければ、凡そ機械というものが出来上る筈はない。従「てこの装置が指示するものは、 仮定された心的エネルギーの運動の量の変化であ 0 て、嘘か真かという心理的質の相違ではあり 得な、。 嘘発見機という名前は、拙い洒落どころではない。機械は嘘もっく筈だ。被疑者が、真 良

10. 考えるヒント [1]

艸して屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身 の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒッ トラーは、この根本問題で、ドストエフスキイが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な 「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、 合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。 大衆は議論を好まぬ。ドイツのマルグシズムの弱点は、それを見損っている処にある。無邪気 な客観主義は、新しい理論を生み出すに過ぎず、人心の扉を開けて、そこに眠っている権力への 渇望に火をつける事を知らぬ。マルクシズムの革命の成功者は、科学的教義によって成功したの ではない。大衆のうちにある永遠の欲望や野心、怨恨、不平、羨望に火を附ける事によってであ る。これらは一階級の弱点ではない。人間の弱点だ。問題は弱点の濃厚になっている場所を捜す 事だ。ドイツ共産党は、この利用すべき原動力を忘れている。 だが、マルクシズムにも学ぶべき点がないわけではない。それは、ある世界観を掲げていると いう事だ。・ ヒスマルクの社会主義弾圧法以来の政治家どもの失敗は、世界観というものを粗末に していたからだ。 では、世界観とは何か。獣物の闘争という唯一の人性原理を信じたヒットラーには、勿論、科 学的であろうとなかろうとあらゆる世界観は美辞に過ぎない。だが、美辞の力というものはある。 この力は、インテリゲンチャの好物になっている間は、空疎で無力だが、一般大衆のうちに実現