うとすれば、必ず人間生活を壊して了う。「ペリクレスの言う事なぞ、聞きたくなければ聞かな いでもよい もっと利ロな相談相手を待てばよい。時間である」。彼は、いつもそういう方針で あった。 。↑か。それをソフォクレスの羊飼が基本的な形に要約する。彼は羊の群 民衆という大問題とよ可 に向って言う、「俺達は、こいつらの主人でありながら、奴隷のように奉仕して、物も言わぬ相 手のいう事を聞かなければならない」。デマゴーグになるのもタイラントになるのも、この難問 の解決にはならない。一一「ロ葉にたよる或は権力にたよる成功は一時であろう。何故かというと、彼 等は、民衆の真相に基づいた問題の難かしさに直面していないからだ。彼等の望んでいるものは、 実は名声に過ぎず、抱いているものは名誉心だけである。彼等の政治の動機は必ずしも卑しくは ないし、政治の主義も悪くない場合もある。だが、 , 彼等は、この宙に浮いた名誉心にすがりつき、 これを失う恐怖から破滅するらしい。民衆から受けた好意を、まるで金でも借りたように感じ、 これを返さねばならぬと思う。返さないのは恥であり、不正であると思い込む。だから、直ぐ新 雄しい有益な政策を考え、もっと大きな名誉という借金をする。止め度がない。「彼等は、民衆に ク負けまい、民衆も彼等に負けまいという風に、名誉心が駟り立てられる」。宙に浮いた正義心と いうものも、この宙に浮いた名誉心と結びやすいもので、同じ運動をするのである。 プ ペリクレスは、政治的イデオロギイを信用しなかった。彼が信用したのはむしろ政治、い理学で ある。無論、当時、そんな言葉はない。プルタルコスに従えば、彼は、先生のアナクサゴラスの
意識された自我とは、自我という大海の海上に、立ったり消えたりする波に過ぎない。意識と 呼ばれるものは、無意識と呼んでいい心的実在に、後から附け加わったり、附け加わらなかった 。この精神分析学が立っ基本的な考えは、フロイトの「自伝」 りする事の出来るものに過ぎない のなかで語られているように、心的事実の、何の先入主もない、前提を廃した、忍耐強い観察に 基づくものであった。彼の劃期的な発見は、理窟の上から一一一一口えば、意識の自己欺瞞を解くべき筈 だったが、実際には、欺瞞の糸をいよいよ縺れさせて了ったのではないか、と私は疑う。発見者 の誠意などが、発見の勝手な利用者達にとって無意味なのは、普通の事だろうか。それとも、責 めはフロイトにもあったのだろうか。 意識以前の無意識も、意識による説明をまたねばならぬ。意識から独立した心の構造も、理性 的意識による再構成、それも遠い迂路を踏む、あれこれと手段を尽さねばならぬ再構成をまたな ければならない。 この厄介な手法にフロイトが堪えたという事は、心という実在の気味の悪い拡 がりに関する彼自身の体験と離す事は出来ない。それは、「自伝」から、はっきりわかる事だ。 彼には、心の世界が、物質の世界と同様に、確乎たる存在である事について、常人の思いも及ば ぬ切実な経験があったのである。微量の毒物が人を殺すように、ささやかな観念が人を発狂させ る。衝動の起原は、物的エネルギーの起原同様に暗い。私の心は、私の自由になるような、私に 見透しの利くようなやくざな実在ではない。私は、自分の心という、或る名附けようもない重荷 ペンハウアーにもニイチェにも を背負わされている。フロイトは、この全重量の経験が、ショー もっ
戦後、文壇というものが崩壊して、文士という民主的職業人が、氾濫するに至「た。いかにも そんな風に見える光景である。というのは、そんな風な、物の譬えも出来よう、というだけの話 なのだ。物の譬えなら、戦争が、俺達を、ローラーで平べったくしてくれたとでも言って置く方 が増しだろう。全く別の光景が眼に映っても少しも差支えない。戦争というような大事件は、成 るほど、いろいろと大きな事を仕出かしたが、これを経験する人間の心は、事件の大きさに準じ て、大きくなりようがなかった事も忘れまい 心の受けた傷の深浅は、事件の大小公私などに何 の関係もあるまい。人間の心の出来とはそういうものと観ずる知見はあるのだ。この知見が、私 情を脱して、言わば純化され、一種の精神と化するところに、文学は生れると考えても、 しいだろ う。いや、そういう筋道から考えなければ、私には、文学が勝手に独特なものを創り出して、而 も世人に訴えるという理由がわからなくなる。 人間の内部は、外部の物が規制するという考え方が、現代では非常に有力であるから、戦争と 文学との関係も、も「ばらそういう展望の下に、見られ、論じられる。戦前派、戦後派という言 葉も、戦争の影響という漠然たる概念から誕生したと言「てよい。それはそれでよいとして、で 者は、戦争の影響力の最も顕著なものは何かと言えば、戦争が文学を、一時、破滅させた事だろう。 戦争が、文学を殺す手つきは、人を殺す手つきと全く同じであ「て、それなら、戦争は、文学に 読対して暴力しか振えなか「たと考えてよいわけだ。戦争は、文学を生む事は出来ないのは無論の 事だが、文学を本質的に変化させる力も戦争にはない、何も彼も文学者たる自分の心がするのだ、
% ない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。 , 。 彼ま、自己を主張しもしなけ れば、他人を指導しようともしないが、どんな人とでも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。 すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出 す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、 ソグラテスに一一一口、つ。 「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」 ソグラテスは大口える。 いかにもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事 が出来る、私が、人の心に疑いを起させるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。 これは、「忘れ河」で水を呑んだ事を、かすかに思い出したという意味である。プラトンは、 この徹底的に疑った男の最期を見とどける。懐疑主義とかシニスムとかいうものも、女々しいゼ スチャーに過ぎぬ、それほど徹底して疑った男が掴んだ信仰について語る。其処に、プラトンの 神秘説を読みたければ読んでもよい。併し、これは、人間の最下等の状態から決して眼を離さな かった人の得たものだという事を忘れない方がいいだろう。そういう人の強い内観が、一種の神 秘説めいて、私達に映るのも無理はない、と見る方がいいだろう。人間の最下等の状態が、現在 でも尚歴然としているなら、ソグラテスの信仰は死ぬ事は出来まい。ただ、それは、古くなった から捨て、見つけたから拾えるような、ドグマの姿をしていないだけなのである。彼は、狂信か
ll 0 にはまるで無関心な十五夜の月が上る。彼は月の光を頼りに悪戦するので、月を眺める暇はない。 しかし、何と両者は親しげに寄添うているか 芭蕉は義仲が好きだ「た。何故この優れた自然詩人が、自然を鑑賞した事など一度もなか「た 義仲を好んだか。この理由を彼に教えたのは「平家」以外のものではあるまい。「木曾殿と背中 合せの寒さかな」は「さてこそ粟津の軍はなかりけれ」と続くのである 私達は、社会は思うだけ改良できるものだし、自然は心のままに利用できるものだ、という考 えに溺れて暮している。しかし、私達の心のなかで、「平家」は死んではいない ( 文藝春秋昭和三十五年七月 )
145 天の橋立 しらすでも一向差支えのない名歌であって、余計な伝説など少しも必要としていないように思わ れる。 大江山と言われれば、山はいかにも大江山のような姿をしているし、生野の道とは何処にある か知らないが、京から丹波路を行く旅人は、行けども行けども大江山が追いかけて来るような道 を歩いた事であろう。阿蘇の海に辿りつくと、一の宮から、白砂青松の不思議な参道が、海を延 びて来ているのを見て、驚きもし安堵もしただろう。天の橋立という名は、、、 し力にも自然に、誰 かの心に浮んだのであろう。歌を思い出すだけで、もはや現代の私の心を去ったと思われる旅情 が蘇る。名歌は橋立より長生きするだろう。 ( 朝日新聞昭和三十七年十月二十日 )
152 れる傾向だそうである。「風景で言えば、冬の野の感じで、カラッとしており、雪も降り、風も , 吹く。 , : つい、つところも ししが、人の住めるところではない」と岡氏は一一一一口う。「そこで私は一つ 季節を廻してやろうと思って、早春の花園のような感じのものを二、三続けて書こうと思立った。 その一つとしてフランス留学時代の発見の一つを思い出し、もう一度とりあげてみたが、あのこ ろわからなかったことが、よくわかるようになり、結果は格段に違うようだ。これが境地が開け るということだろうと思う。だから欧米の数学者は年をとるといい研究が出来ないというけれど も、私はもともと情操型の人間だから、老年になればかえっていいものが書けそうに思える。欧 米にも境地が深まっていく型の学者がいるが、それをはっきりとは自覚していないようだ」。 大分以前の事だが、 ある時、田舎にいて、極めて抽象的な問題を考えていた事があった。晩春 であった。夜、あれこれと考えて眠られぬままに、日 丿瀬の音を聞いていると、川岸に並んだ葉桜 の姿が心に浮んで来た。その時、私たち日本人が歌集を編み始めて以来、「季」というものを編 み込まずにはいられなかった、その「季」というものが、やはり、私の抽象的な考えの世界にも、 川瀬の音とともにしのび込んで来る、そういう考えが突然浮び、ひどく心が騒ぎ、その事を書い た事がある。私の思索など一一一口うに足らぬものだが、岡氏の文を読んでいて、ふと、それが思出さ れ、私の心は動いたのである。 ( 朝日新聞昭和三十七年十一月三日 )
まま言うものではない事に気が附くであろう。 宣長は、理より情を重んじ、人為より自然を重んじた人だが、彼の歌論を感情主義、自然主義 と言い去るのは、大きな誤解である。又、歌には歌の独立した価値があるというだけの説なら、 ま、もっと深いところを見て 彼の嫌った当時の儒者達も既に言っていた事だ。彼の並外れた認識。 。彼こ言わせれば、歌人達は歌の独立的価値を知らぬどころではない、むしろ知り過ぎて孤 立している。技芸の一流と化して社会から孤立し、仲間同士の遊びを楽しみ、社会の常識も歌の かなしいかな 事は知らぬですましている、悲哉と考えるのである。彼の歌の道とは、歌をこの誤った排他性か ら解放する事におった。歌の道を知るとは、歌は言葉の粋であると知る事だ。一一「〔葉は様々な価値 意識の下に、雑然と使用されているが、歌は凡そ言葉というものの、最も純枠な、本質的な使用 法を保存している。それを知る事だ。これが宣長の根柢の考えであったと私は考えている。 自然の情は不安定な危険な無秩序なものだ。これをととのえるのが歌である。だが、言葉とい うもの自体に既にその働きがあるではないか。悲しみに対し、これをととのえようと、肉体が涙 を求めるように、悲しみに対して、精神はその意識を、その言葉を求める。心乱れては歌はよめ 葉ぬ。歌は妄念をしずめるものだ。だが、考えてみよ、諸君は心によって心をしずめる事が出来る か、と宣長は問う。言葉という形の手がかりを求めずしては、これはかなわぬ事である。悲しみ 言泣く声は、言葉とは言えず、歌とは言えまい。寧ろ一種の動作であるが、悲しみが切実になれば、 門この動作には、おのずから抑揚がっき、拍子がつくであろう。これが歌の調べの発生である、と
184 ネヴァ河 ある時、正宗白鳥氏と雑談していた。なくなる数カ月前のことだったと思う。何かのことでロ シャ旅行の話になったが、正宗さんは、話の中途で、ふと横を向き、遠くの方を見るような目に なって、「ネヴァ河はいいな、ネヴァ河はいいな」と独語するように言った。無論、正宗さんの ーリニコ 、い中は知る由もなかったのだが、どうしてだか、私は、勝手に、ああ、この人はラスコ フのことを考えているのだ、と感じた。そして、その時の正宗さんの、ふいに現代社会が眼前か ロフスグからモスグワに ~ 打くシ ら消え去ったような表情から、妙に心に残る印象を受けた。ハ・ハ べリアの上空で、私は、それを思い出していた。モスグワのホテルの大食堂で、ジャズの騒音を 聞き、男女の踊るのを見ながら、ネヴァ河を見たい、としきりに思った。 ソヴェット作家同盟から招待を受けて、私の心に、ばくぜんたる旅情の如きものが動いたとい ねが うまでのことで、私は、特に、ソヴェットを見たいと希ったことはなかった。私の現代ソヴェッ トについての関心や知識は、全く月並で、浅薄であったし、また、そのことが気になったことも 一見もありようがない なかった。百聞一見に如かずと言うが、言ってみれば、百聞もないのに、
いるのである。 何故かというと、この自負は、新しい心理学が与えてくれる自我の不在証明に、しがみ附いて いるだけだからだ。フロイトは、「夢判断」で、人間の心という「冥府」を動かそうとしたのだ が、「冥府」を覗くには、「強い自我」が要るとは警告しなかった。恐らく、そんな事は、彼には 自明な事だったし、科学者としてそんな忠告の必要も認めなかったのである。彼は恐るべき仕事 の為に、自己を「抑制」した。彼はこの仕事の為の心の準備を自慢するような馬鹿ではなかった から、抑制は自分には体質的に容易であった、と言うに止めたのである。この言葉は心理学では ない。彼の良心と意志とを語っている。フロイディスムはこのフロイトという人間を欠いている。 彼が自伝で語った「抑制」は無視され、彼の学説の「抑圧」という言葉だけが流行したと言って 反省が「冥府」までとどかないから、要もない「天上の神々」を作り出す。意識が意識を反省 する事に甘んじていては、自我が生れて来るもう一つの自我という基盤は眼に入らぬ。意識は、 様々な仮面を被る。新しい心理学が試みた仮面の破壊作業が、もし、一層真面目な内的経験に人 人を誘う力を蔵していないのなら、それは全く無意味な仕事だ。フロイディスムに、命があるか ないかは、その点に、ただその点だけにかかっているように思われる。だが、現代の心理的文学 が、最も明瞭に示すところは、内的経験への侮蔑なのである。大した事なそ一つもない、みんな 心理の問題に還元出来る、と言っているのだ。