が、彼も往年の自分の部下等の惨状を知っていた筈である。「夜雨秋寒うして眠就らず残燈明滅 独り思ふ時には、或は死霊生霊無数の暗鬼を出現して眼中に分明なることもある可し」。 これを美文と間違えるのは愚かであろう。彼は、先入主なく、平静に、道徳というものを考え 詰め、人の心底にある一片の誠、いに行着いたまでだ。これは、普段隠れてはいるが、独り思う時 には、眼中に分明たるべし、と考えたのである。 「丁丑公論」も亦福沢の肺腑より出た名文だが、ここでは、「士道」は、はっきり「道徳品行」 と使われ、失敗者西郷が論じられる。道徳が言葉に移され、その是非が言われる時には、議論紛 糾し、意見もいろいろに対立するが、人物のうちに発動する時は、人々に黙々たる共感と反感と を促す。その限り紛乱はない。「大義名分は公なり表向なり、廉恥節義は私に在り一身に在り」。 一身の品行は破廉恥の甚しい者でも、能く名分を全うする者もあり、名分を破って始めて品行を 全うする者もある。 従って、福沢は「大義名分は道徳品行と互に縁なきものと云ふ可きのみ」とはっきり考える 歴史的実社会に於ける両者の混淆、一致不一致と、両者の原理的区別とは、自ら別事である。西 郷を、その自発的な「抵抗の精神」に思を致さす、賊とする者は、「恰も官許を得て人を讒謗す る者の如し」「西郷は、立国の大本たる道徳品行の賊」ではない。福沢は、推論の当然の帰結と して一一一一 0 う、「西郷は天下の人物なり。日本狭しと雖も、国法厳なりと雖も、豈一人を容るるに余 地なからんや。日本は一日の日本にあらず、国法は万代の国法に非ず」。では、変らないものは、
これに対するマス・コンミュニケーションの影響力に関し、あのように自信に満ちた、或は無邪 気な研究論文が続出するのだ。 あちらとこちらが似ているのは、紙と印刷機械の性能だけである。この性能の類似が、マス・ コミという新語を、これほど迅速に、生産し分配し得たというだけの話なら、これは文化現象と 、。上会学とは、物質を扱う学問ではあるまい。研究方法は借 いうよりも寧ろ物的現象に過ぎなしネ りもので済むとしても、研究の対象の吟味には自力が要る。而も、この吟味には、想像力と直覚 とが要る。文学者が、必要に迫られて、いつもやっている事だ。現に、どんな人間が、何処で、 自分の作を読んでいるのか。この読者の顔を、想い描くのは、外部的観察の能くするところでは ない。そして、日本の近代文学くらい、この事で奇妙な苦しみをなめて来た文学はないと言って よい。逍遙の「当世書生気質」以来、文学者という書生気質は、実社会の表面を浮動して止まな い。例えば、プロレタリア文学という最近の最大の書生文学は、書生という一一一一口葉を、インテリと いう言葉に代え、インテリの社会的浮動性を侮蔑する事によって、幻の読者という雲を掴んだ。 まことに詰らぬ事に念を入れたものだが、これは、文学者なら誰にも他人事ではない。 最近、中村光夫、臼井吉見、平野謙三氏による「現代日本文学史」を面白く通読したが、私は、 かねてから、この種の日本近代文学史は、誰かの手によって試みられるに相違ないと考えていた。 三氏の労作の特色は、例えば、フランスの近代文学史とは即ちフランス近代社会の選良の歴史に 。し力ないところがある、或は、パルザック的な 他ならないが、わが国では、そううまい具合こよ、
は、福沢の俗文に、福沢の魅力ある己れを嗅いでいた。嗅ぐという経験は確実だったが、嗅ぐと いう言葉は曖昧だった。それは今日とても変りはあるましオカ 曖昧な言葉しかなければ、そ の経験自体まで曖昧なものと見なしたがる、そういう病気は、今日の知識人の方が重くなったで あろう。 福沢全集の緒言に言及した序でに、其処に語られている一插話を挙げて置く。慶喜が東帰し、 きようきよう 東征が定まり、官軍が富士川、箱根を越えんとし、江戸市中には、デマが乱れ飛び、人情恟々 の有様であった。官軍乱暴の災を免れんとするものは、外国大使館領事館に縁ある者を頼って、 争って身分証明を得ようとした。 福沢としては、慶応義塾の学生等の為に、証明券を入手するのは易々たる事であったが、友人 の言を聞き、吾が意を得たりとしてこれを拒絶した。友人の言に日く、「米大使の深切は実に感 謝に堪へずと靴も、抑も今回の戦乱は我日本国の内事にして外人の知る所に非ず。吾々は紛れも なき日本国民にして禍福共に国の時運に一任するこそ本意なれ、東下の官軍或は乱暴ならんなれ ども、唯是れ日本国人の乱暴のみ。吾々は仮令ひ誤て白刃の下に斃るることあるも、苟も外国人 吉の庇護を被りて内乱の災を免れんとする者に非ず、西洋文明の輸入は吾々の本願にして、彼を学 沢び彼を慕ひ畢生他事なしと雖も、学問は学問なり、立国は立国なり、決して之を混淆す可らす」。 福 誰も知るように、「痩我慢の説」は、勝安芳と榎本武揚とを論じたものだ。ともに幕臣の身で ありながら、官軍と妥協し或は敵に降参した腰抜けであった。勝の智謀は、多くの人々の難を救
「さくらさくら弥生の空は見わたすかぎり霞か雲か匂ひぞ出づるいざやいざや 見に行かん」という誰でも知っている子供の習う琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開 の桜を見ていた。そよとの風もない、めずらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、 この歌が思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があ るまいという気持がした。 「しき嶋のやまとこころを人とはば朝日ににほふ山さくら花」の歌も誰も知るものだが、 これも宣長の琴歌と思えばよいので、やかましく解釈する事はないと思う。散り際が、桜のよう に、いさぎよい、雄々しい日本精神、というような考えは、宣長の思想には全く見られない。後 世、この歌が、例えば、「敷島の大和心を人問はば、元の使を斬りし時宗」などという歌と同類 に扱われるに至った事は、宣長にしてみれば、迷惑な話であろう。だが、この歌が日本主義の歌 、 : 月台の短歌復興にと でないとしたら、どういう事になるか。不得要領な単なる愚歌ではなしカ日、冫 もない、そういう通念が専門歌人を支配するようになった。これはおかしな話であろう。 、くら
スイスの人だって、無論、自然の美しさを知らぬわけはなかったろうし、日本にはお月見の習 しかし、そんな事は、みな大雑把な話であり、 慣があると説明すれば、理解しない事もあるまい 心の深みにはいって行くと、自然についての感じ方の、私たちとはどうしても違う質がある。こ れはロではいえないものだし、またそれ故に、私たちま、 。いかにも日本人らしく自然を感じてい るについて平素は意識もしない。たまたまスイス人といっしょに月見をして、なるほどと自覚す るが、この自覚もまた、一種の感じであって、はっきりした言葉にはならない。スイス人の怪訝 な顔附が面白かったで済ますよりほかはない この日本人同士でなければ、容易に通じ難い、自然の感じ方のニュアンスは、在来の日本の文 化の姿に、注意すればどこにでも感じられる。特に、文学なり美術なりは、この細かな感じ方が 基礎となって育って来た、といえば、これはまず大概の人々が納得している事だろう。ところが、 近代化し合理化した、現代の文化をいう場合、そんな話を持出すと、ひどく馬鹿げた恰好になる。 何か全く見当が外れた風になるのはどうしたわけか。細かな感受性の質などには現代文化は本当 に何の関係もないものになってしまったのか。それとも、そんな風な文化論ばかりが流行し、文 見化に関心を持っと称する人々が、そんな文化論ばかりを追っているという事なのか。 ってしま 月意識的なものの考え方が変っても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変らない。い お えば簡単な事のようだが、年齢を重ねてみて、私には、やっとその事が合点出来たように思う。 新しい考え方を学べば、古い考え方は侮蔑出来る、古い感じ方を侮蔑すれば、新しい感じ方が得
% 間の心事は、内には私語となって現れ、外には徒党となって現れる他に現れようがない。怨望家 の不平は、満足される機がない。自発性を失った心の空洞を満すものは不平しかないし、不平を 満足させるには自発性が要るからだ。 そこで、彼は、他人を、自分の不平状態にまで引下げて、彼我の平均を得ようと希うだけであ る。「富貴は怨の府に非ず、貧賤は不平の源に非」ず。これほど、不平家にとって、難解な言葉 はない。不平は、彼の生存の条件である。不平家とは、自分自身と折合いの決して附かぬ人間を つ。この怨望という、最も平易な、それ故に最も一般的な不徳の上に、福沢の「私立」の困難 は考えられていた。もし、そうでなかったら、彼は、「私立」を説いて、「独立の丹心」とか「私 立の本心」とかいう言葉が使いたくなった筈もなかった。「士道」が「民主主義」に変っても、 困難には変りはない。「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は、「私立」の内を腐ら せる。福沢は、この事に気附いていた日本最初の思想家である。 ( 文藝春秋昭和三十七年六月 )
123 言うまでもなく、福沢諭吉は、わが国の精神史が、漢学から洋学に転向する時の勢いを、最も 早く見て取った人だが、この人の本当の豪さは、新学問の明敏な理解者解説者たるところにはな かったのであり、この思想転向に際して、日本の思想家が強いられた特殊な意味合いを、恐らく 誰よりもはっきりと看破していたところにある。これは私の勝手な忖度ではなく、「文明論之概 略」の緒言が明らかにしているところだが、本文は緒言を隠し勝ちなものだ。彼は次のような意 見を述べている。 西洋の学者が、文明について新説を唱え、人の耳目を驚かすと言っても、これは先人の遺物を たくま 琢磨して、これを改進するという仕事であるが、今日わが国の学者の文明論という課業は全く異 なる。私達は、水より火に変じ、無より有に移ろうとするが如き卒爾の文明の変化に会して、一一一日 わば新しく文明の論を始造しなければならぬ窮地に立たされている。その点で、今の学者の課業 はまことに至難だと一「ロ、つ。 こういう処に、既にこの文明批評家の仕事の、はっきりした動機が覗える。彼は活路は洋学に 福沢諭吉
歴史 近ごろ読んだ本のうちで、河上徹太郎君の「日本のアウトサイダー」が大変面白かった。中原 中也、萩原朔太郎、岩野泡鳴、河上肇、岡倉天心、大杉栄、内村鑑三、そういう世に背いて、世 を動かした人々の簡潔な生き生きとした列伝である。平たく言えば、変り者列伝である。河上君 が、これを殊更アウトサイダーと変った呼び方をしたについては、いろいろ理由があり、その説 明もあるが、私は書評をするのではない。変り者というものは面白いものだと思っているうちに、 変り者という極く普通の言葉は、なかなか含蓄の深い言葉だと考え出した。 あいつは変り者で誰も相手にしないというように、変り者という言葉が、消極的に使われる場 合、この言葉は殆ど死んでいるが、例えば、女房が自分の亭主の事を、うちは変り者ですが、と 人に語れば、一一一〔葉は忽ち息を吹き返す。聞く者も、変り者という言葉に、或る感情がこめられて 生きている事を、直ぐ合点するだろう。そういう時に、変り者という言葉は、その真意を明かす ように思われる。変り者とは、英雄豪傑の事ではないが、不具狂人を指すのでもあるまい。そう かと言って、独創的人間と呼んでみても、叛逆者と呼んでみても、変り者という一一一〔葉の持ってい
155 踊 いつも附纏っている、科を作った曖昧な情感を、きれいさつばりと捨てたものがあった。女は、 殆ど直立して舞い、感情は、気持のよいリズムで動く白足袋の足にこめられた様子であった。そ の動きは、繰返し、不思議な形できまる。真っ直ぐにした片足が、斜にスイツと出て、踵で舞台 を、トンと突くようにして、足の裏を反らせる形で、繰返しきまる。それが、いかにも美しかっ 私の踊りに関する知識は浅薄で、特に好んで見に行くという事もないのだが、折にふれて見て 来たところから一一一口えば、日本の古い舞踊は、すべて、文学的なもの或は戯曲的なものの重荷を負 い過ぎている、と感じている。このどうしようもない重荷の解釈の為に、洗煉された処理の為に、 名人の肉体の動きは追われて、もはや踊ることが適わぬ。六郎の両袖が、鳥のように羽搏き、突 然、踊りの魂が現れて消える。これに出会う為に、私達は、どれほど長い間、文学の舞踊的翻訳 に附合わねばならないか。これは致し方のないものか。多分そうであろう。能好きなら、それが 能の面白さだというだろう。私は、近頃は、我慢が辛くなったので、能もあまり見ない。 ( 朝日新聞昭和三十八年四月二十一日 ) しな
意味で、文学の社会性という概念は、わが国の近代文学界では、捕えどころのない難かしいもの になっている、そういう悪条件の意識が、筆者達の仕事の動機のうちに、明らかにある、という 点である。 中村氏も書いていたが、一世代を三十年として、フランスの近代文学史と日本の近代文学史と を比べてみると、大体、わが国の方は三倍以上の速力で世代が変っている。先輩作家のついこの 間書いた作品が、今日の高校卒業生の特別の勉強を要する古典とな「ている。 もし、この目まぐるしい頭脳の変遷の大部分が、空想的なものでなかったならば、どうして人 人はこれに堪え得たか。併し、不平は、何処に持 0 て行きようもない。外部からの改良も革新も、 この文学者の苦痛を鎮めやしない。それはいつも隠された流れだからだ。 戦争による文壇の崩壊という通念の底にも、同じ流れがあるのを、感じる人は感じているだろ う。晩年の鵐外が、歴史物を書いていた時に、ひそかに想い描いていた理想的読者を想像してみ る事は、やさしくはない。だが、多数の現実の読者を掴んだ菊池寛が、これに対して、ひそかに どんな悲しみを抱いていたかを推察してみるのも、同様に、難かしい事だ、と私は思 0 ている。 ( 文藝春秋昭和三十四年九月 )