うはっきりした考えを持っていたと言う。私は、トインビーもッキディデスも知らないが、面白 し = = ロオと田 5 った。 これは極めて常識的な考えである。歴史に関する哲学や理論とか主義とかに無関心な一般の生 活人の歴史意識、世の中は移り変るが、人間というものは変らぬものだという感慨に大へん近い ものだ。歴史は鑑であり或は鏡であるという考えは、東西を問わず、人生に深く根ざした考えと 見える。現代の優秀な歴史家が、近代の歴史の諸理論に疲れ、昔ながらの鏡を磨く事で、新しい 活路を見附けた。そこから、彼がどのような学問的方法を発展させたかは知らないが、根柢にあ ったものが、生活人の感慨或は芸術家のヴィジョンであったというところが、私には面白い。そ れが、学問と言っても、歴史の学問が一種特別なものである所以であろう。例えば、近代の美術 の歴史を読んでいると、人為的な技巧や理論が行きつまる毎に、自然に還るという考えが、優秀 な画家達に生じた事がわかる。いろいろな画家が、いろいろな時期に、還って行った自然は、そ れぞれ異っていたであろうが、聞いた声は、誰も同じであった。近代史学の歴史をくわしく読め ば、歴史家達の間にも、同じような具合に、人性に還れという声を、又しても聞いて来た人があ った事が見られるのではなかろうか。この場合の自然とか人性とかいう言葉は、決して定義ある 概念を指してはいない。画家や歴史家の或る内的な経験を指す。恐らくトインビーの開眼は、人 性に還れという天来の警告の如く経験された内観によったものであろう。 プルタルコスにも、同じ考えがあった事は、「英雄伝」の到るところから推察される。ただ、
宣長・は考えている。この考えからすると、彼の歌論で好んで使われている、「おのづから」とい う言葉は、自然の動きにつかず離れす、これを純化するという意味合いに自然となって来る。そ の点で、彼の歌論には、アリストテレスの詩学にあるカタルシスの考えと大変よく似た考えがあ ると一言える。 歌とは情をととのえる行為である。言葉はその行為の印しである。言葉は生活の産物であり、 頭脳の反省による産物ではない。定義として生れたものでもなければ、符牒として生れたもので もない これが、宣長が、「古事記伝」を書いた時の根本の一一一〔語認識である。「その意も事も言も 相称ふ」とはそういう意味だ。彼は何も不明になった語義の解釈に三十年もかけたのではない。 死んだ文字による記述と翻訳との裏に、生活され経験された言葉の一大組織のある事をはっきり 見定めたかったからだ。 彼は、生活され経験される言葉にしか興味を持たなかったし、言葉とは本来そういうものと確 信していた。一人で生活するものはない。生活するとは人と交わる事である。無論、社会という 言葉は彼の語彙にはなかったが、一一一一口葉の社会性は彼には深く見抜かれていた。歌は人に聞かすも のである。人に言い聞かせでは止み難きものが歌である。人が聞いても聞かなくても、そんな事 はどうでもよい、むしろ真実の歌は、そのような事を考えぬ歌である、というような説を尤もら しく言う者があるが、説。 ま、「ひとわたりは、げにと聞ゆれども、歌といふ物の真の義をしらぬ ・也」と一一一口い この問題は「かりそめの事にあらず」と言っている。秩序のないものの動きに、秩
59 良 あり、行為の卑劣残酷に堪えないものは感情である。良心は思想を持たぬが、或る感受性を持つ。 ( 註 ) ネチャアエフ事件は、もし見る人に良心が働かなければ、ネチャアエフ自身におけるが如く、問 題とはなり得ない。良心の針は秘められている。 だから、私達は皆ひそかにひとり悩むのだ。それも、悩むとは、自分を審くものは自分だとい う厄介な意識そのものだからだ。公然と悩む事の出来る者は、偽善者だけであろう。良心の持っ 内的な一種の感受性を、孟子は、「心の官」と呼んだ。これが、生きるという根柢的な理由と結 ばれているなら、これを悪と考えるわけには行かないので、彼は「性善」の考えに達したのであ る。私には、少しも古ばけた考えとは思えない。彼の思想を、当時、荀子の性悪説は破り得なか ったが、今日の唯物論も、やはりこれを論破する事は出来ない。 ( 文藝春秋昭和三十四年十一月 ) ( 註 ) 一八六九年十一月二十一日にモスクワのある公園の池でイヴァーノフという学生の惨死体が発見 された。のちに、これは個人的な殺人事件ではなく、伝説的な青年革命家ネチャアエフを中心とす る組織の政治的なリンチと判明し、ヨーロ ッパにまで大きな衝動をまきおこした。
152 れる傾向だそうである。「風景で言えば、冬の野の感じで、カラッとしており、雪も降り、風も , 吹く。 , : つい、つところも ししが、人の住めるところではない」と岡氏は一一一一口う。「そこで私は一つ 季節を廻してやろうと思って、早春の花園のような感じのものを二、三続けて書こうと思立った。 その一つとしてフランス留学時代の発見の一つを思い出し、もう一度とりあげてみたが、あのこ ろわからなかったことが、よくわかるようになり、結果は格段に違うようだ。これが境地が開け るということだろうと思う。だから欧米の数学者は年をとるといい研究が出来ないというけれど も、私はもともと情操型の人間だから、老年になればかえっていいものが書けそうに思える。欧 米にも境地が深まっていく型の学者がいるが、それをはっきりとは自覚していないようだ」。 大分以前の事だが、 ある時、田舎にいて、極めて抽象的な問題を考えていた事があった。晩春 であった。夜、あれこれと考えて眠られぬままに、日 丿瀬の音を聞いていると、川岸に並んだ葉桜 の姿が心に浮んで来た。その時、私たち日本人が歌集を編み始めて以来、「季」というものを編 み込まずにはいられなかった、その「季」というものが、やはり、私の抽象的な考えの世界にも、 川瀬の音とともにしのび込んで来る、そういう考えが突然浮び、ひどく心が騒ぎ、その事を書い た事がある。私の思索など一一一口うに足らぬものだが、岡氏の文を読んでいて、ふと、それが思出さ れ、私の心は動いたのである。 ( 朝日新聞昭和三十七年十一月三日 )
である。何故かというとこの人物だけが合理的に生きようとしているからだ。逆説ではない。多 くの人が劇的という言葉を誤解している。でたらめな事と劇的な事とは違うのだ。偶然は事故を 生むが、決して劇を生みはしない 。この婆さんだけが人間らしい意識を持っている。偶然は彼女 をとりこにする事が出来ない。彼女は、金を溜めようと自身に誓い、その誓いのとりことなって いる。彼女の性格が劇を生む。「がめつい奴」の芝居の魂は婆さんが独占している。あとは抜け がらだ。動物的な悶着と騒動とがあるだけだ。 さて誤解しないで欲しいが、私は作者菊田一夫を悪く言っているのではない。私の言った事な そ劇評のいろはである。恐らく作者は百も承知で仕事をしたのだ。戦後の解体的な風俗図は、見 世物になっても、芝居にはなりにくい 。芝居の伝統的な血を通わせるスイッチを何処かに取りつ けねばならない。作者がそうはっきり計算したとは言わないが、菊田という苦労人には、その点 は本能的にわかっていたものと察せられる。或る友人が、芸術祭賞は主役と作者とに分割すべき であったと言った。正説であろう。 だが、私はやはりあの通りでよかったという考えである。何故かというと、私は前々から芝居 では役者第一という考えだからだ。作者は芝居の裏にかくれていた方がい、 。毎日新しく幕があ 。役者はその日その日の出来不出来で、気心の知れぬ見物と協力して、まことに不安定な、 じゃく 弱な、動き易く、変り易い、又それ故に生きている世界を創り出す。芝居は其処にしかない。 ( 文藝春秋昭和三十五年三月 )
200 お断りして置くが、私は、腹が立ったから、こんな話をするのではありません。私は、世話に 、。こど、面白い事だと思うからお話し なった事に感謝こそすれ、腹なぞ一ペんも立てた事はなしオオ ているのです。と言うのは、私は、なるほどソヴェットという国は目下建国の最中で、実に忙し い国だと合点したと申すのです。今更馬鹿気た事を合点するとおっしやらないで下さい。オリン ビッグの準備などで忙しがってる国にいては、建国の忙しさというものは容易に合点のいかぬも のです。私の常識からすると、ほんと言えば、ソヴェットには、文士なそ呼ぶ暇はないと思う。 ソヴェットを旅行して、例えば、文士はこんな事を言いたがる。自分はシベリア鉄道で行きた いと言ったが許可しない。飛行機に乗せられて了って残念である。これにはシベリアを見せたく ない何か訳があるに違いない、と。どうも私にはわからぬ考えである。フルシチョフ氏は、スハ イは警戒しているだろうが、文士なぞ警戒する筈はない。文士にわかるような秘密は、国家の秘 密ではあるまい。私がフルシチョフでも、鉄道なんか許可しません。さっさと飛行機で来てもら う。理由は簡明だ。忙しいからです。旅行前に、ある人は、こんな事を私に言った。ソヴェット に招かれても、どうせいい処ばかり見せてもらうだけだろうと。これも妙な考えです。客に悪い ところを見せる馬鹿が何処にいるか。客としてもいい処ばかり見せてもらって有難う、というの が常識でしよう。 又ある文士は、ソヴェットを旅行して、ソヴェットには地図がないと一一一一〔う。モスグワの街を見 これは、明らかに、 物しようと思っても、一流ホテルで、街の地図さえ手に入れる事が出来ない
Ⅱ 8 ンドロスの全体を現わす。政治への参加とか、政治への無関心とかいうやかましい言葉は、「英 雄伝」時代の教養人達には全く不可解な一「ロ葉であった。これは、考え直してもいい事だ 人性は変らぬという一一「ロ葉は、少しばかり割引きすれば、現代人は未だ許すだろうが、政治は変 らぬと言えば、これは許すまい。しかし、政治は人性に基づくものだ。それなら、政治というも のを眺める観点が、大変変って来たという事になろう。観点は、人性を離れて烈しく変る物的生 産の技術や機構に、或はもっと変り易い法律や制度や党派の綱領や組織の方に移ったと言えよう。 ペリグレスの時代、アテナイの民主主義国家の市民は一万五千に満たなかったそうだ。スパルタ の共産主義或は社会主義国家の人民は、もっと少かったろう。これを現代の二大国家と比較する など、一見飛んでもない話だろうが、実行に移された、根本の政治的観念は同じものだ。そう見 るのを、観念論的な見方と軽視する風があるが、それは風であって、よく考えられた根拠に立っ ものではないのであろう。少くとも、一万五千人相手の政治が、幼稚だったとか簡単だったとか いう通俗な考えは、はっきり捨てる方がよいだろう。進歩したのはデモグラシイの理論であって、 その実行の困難には進歩なぞあり得まい。プルタルコスの語り方から推察すれば、ペリクレスの 成功は、彼がその事を誰よりもよく知っていたところにあったように思われる。 ヘリクレスは、 プルタルコスの英雄たちを一番悩ませた大問題は、・いつも民衆の問題であった。。 そんたく ともかくこの難題を始木した優れた政治家として描かれている。作者の考えを、忖度してみれば、 彼がこの難題を、ともかく何とか始末をつけたというところが貴重なのである。一挙に解決しょ
であった。学塾三年間三百円の元手は、月給五、七十円の正味手取の利益となる、洋学が「高利 貸と雖ども、これに三舎を譲る可き」官許の商売と化さんとするのを見たから、彼は、学問の 「私立」を、「学者は学者にて私に事を行ふ可き」事を、すすめたのである。 西洋者流は時流には乗ったが、自覚を欠いていた。彼等には、福沢に言わせれば、「独立の丹 心の発露」というものが見られない。彼等を、俄に咎める事も出来ないのは、彼等が、世間の気 風に酔って自ら知らないからであるが、この「無形無体の気風」に大事があると福沢は言う。 「に一個の人に就き、一場の事を見て、名状す可きものに非ざる」「所謂スビッリット」なるも のを看取する事が、文明の論を成す大切な前提である、そういう考えは、早くも「学問のすゝ め」のうちに現れているのである。ところで、洋学を学びながら、この「スビッリット」せ られ、今の洋学者流はどういう事になっているか。「恰も一身両頭あるが如く、私に在っては智 なり、官に在っては愚なり、これを散ずれば明なり、これを集めれば暗なり、政府は衆智の集る 所にして、一愚人の事を行ふものと云ふ可し、豈怪まざるを得んや」。そういう事になっている。 この「恰も一身両頭あるが如」き空想的な人間達には、「恰も一身にして二生を経るが如」き 吉実情に置かれているという自覚がない。従って、「其形影の互に反射するを見」るという事がな 沢い。彼等の人格は分裂しているのだ。そういう福沢の考えを見ていると、思想上の転向問題とい 福 うものが、極めて本質的に考えられている事がよくわかる。イデオロギイの衣替えでは、人間は わ転向出来ない。分裂するだけだ。 而も転向者等はこれに気附かない。最近の転向問題にも、同じ にわか
られる、それは無理な事だ、感傷的な考えだ、とやっとはっきり合点出来た。何の事はない、私 たちに、自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく 似たところがあると合点するのに、随分手間がかかった事になる。妙な事だ。 お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ 事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。古いものから脱却す る事はむすかしいなどとロ走ってみたところで何がいえた事にもならない。文化という生き物が、 生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在る よ、。ムよ、自然とそんな事を考え込むようになった。年齢のせいに違いないが、年をと っても青年らしいとは、私には意味を成さぬ事とも思われる。 ( 朝日新聞昭和三十七年十月二十七日 )
「さくらさくら弥生の空は見わたすかぎり霞か雲か匂ひぞ出づるいざやいざや 見に行かん」という誰でも知っている子供の習う琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開 の桜を見ていた。そよとの風もない、めずらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、 この歌が思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があ るまいという気持がした。 「しき嶋のやまとこころを人とはば朝日ににほふ山さくら花」の歌も誰も知るものだが、 これも宣長の琴歌と思えばよいので、やかましく解釈する事はないと思う。散り際が、桜のよう に、いさぎよい、雄々しい日本精神、というような考えは、宣長の思想には全く見られない。後 世、この歌が、例えば、「敷島の大和心を人問はば、元の使を斬りし時宗」などという歌と同類 に扱われるに至った事は、宣長にしてみれば、迷惑な話であろう。だが、この歌が日本主義の歌 、 : 月台の短歌復興にと でないとしたら、どういう事になるか。不得要領な単なる愚歌ではなしカ日、冫 もない、そういう通念が専門歌人を支配するようになった。これはおかしな話であろう。 、くら