始める。 「伊勢三郎義盛、与一が後に歩ませ寄って、御諚にてあるぞ、仕れ、と言ひければ、与一、今 度は中差とって番ひ、よっ引いて、ひやうと放つ。舞ひ澄ましたる男の、真只中を、ひやうと射 てば、舟底へ真倒に射倒す。あ、射たり、と言ふ者もあり、いやいや情なし、と言ふ者もあり、 今度は、平家の方には音もせず、 」、射倒された無名戦士も、齢五十ばかりに見えて、「黒革 しころび 縅の鎧著たる」とは書かれている。これに、直ぐ続いて語られるのが、「景清の錣引き」である 事は、言うまでもない。 つるばしり 私はその当時、源平時代のものと言われる、絵模様ある弦走の革切れだとか、黒漆の小札だと ざんけっ か、そんなものを、道具屋から見附けて来ては持っていた。そんな怪しげな残闕も、手元に置い て打返し眺めていると、私の空想を支える不思議な力を持っていた。たまたま、伊予の今治に行 く機があったので、大山祇神社の甲冑を見ようと思った。 宿屋で、翌朝の大三島行の船の時間を調べ、心を躍らせていたところ、ふと新聞を見ると、神 社の国宝館に泥棒が押入り、太刀数口が盗まれた、当分のうち休館するという記事が出ていた。 語私は新聞を叩きつけて、ひっくり返った。それから十余年経ち、先月講演を依頼され、四国に行 家った。今治は全く様を変えていた。しかし、大三島はやはり以前の通り静まり返っているだろう、 と思わざるを得なかった。鎧の残闕など、今はもう何処へやらやって了ったし、「平家」に対す る往年の熱も、もはやないが、それにしても、このまま還る気にもなれなかったから、他の講師 つかまっ こざわ
先日、街を散歩していたら、映画館で、井伏鱒二君の「貸間あり」を上映していたのではいっ てみた。無論、映画は、原作に忠実に作られる必要もなし、又、そんな事は出来ない相談でもあ ろうが、商売第一とは言え、これほど程度を下げて制作しなければならぬものか、と訝った。現 代小説の映画化されたものを、いくつも見ているわけでもなし、近頃流行の学問めかしたマス・ コミ論議に大して興味を寄せてもいない。私は、ただ、この映画を井伏君が見たら、かなり辛い 気持ちになるのではあるまいかと考えた。井伏君にも久しく会わないが、もし、彼と一緒に見た ら、彼はどんな顔をするだろうか。さて、どんな顔をしてみたものだろうか、暫くためらうであ ろうが、直ぐ気を取り直して、普段の笑顔になり、眼をパチパチさせながら、井伏鱒二という小 説家は、聞きしに勝るエロだなあ、とでも言うかも知れない。 以前読んだ時には、気づかなかったが、「貸間あり」には、序言が附いている。どういう坊さ んか知らないが、悠了上人という人の言葉である。「つばくらは末なき旅をば家となし更にこれ をも煩ひとせず空たかく羽ばたき軽げにひるがヘり候。 ( 中略 ) 人は軒場に佇みて目しる鼻しる垂 井伏君の「貸間あり」 いぶか
前面の壁に向って首は固定されていて、背後にある光源が見られないから、壁に映じた自分達の 影の動きだけを実在の世界と信ぜざるを得ない。そう語るソクラテス自身も、プラトンの劇作法 に従って読めば、洞窟の中にいるので、神様のような口を利いているわけではないし、所謂プラ トニスムを講釈しているわけでもない 。もし囚人のなかに一人変り者がいて、非常な努力をして、 背後を振りかえり、光源を見たとしたら、彼は、人間達が影を見ているに過ぎない事を知るであ ろうが、闇に慣れていた眼が光でやられるから、どうしても行動がおかしくなる。影の社会で、 うろん 影に準じて作られた社会のしきたりの中では、胡乱臭い人物にならざるを得ない。人間達は、そ んな男は、殺せれば殺したいだろう、とソクラテスは一「ロう。つまり、彼は洞窟の比喩を語り終る と直ぐ自分の死を予一言するのである。 「国家」或は「共和国」とも一一一一口われているこの対話篇には、「正義について」という副題がつい ているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであ るのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした一一 = ロ 葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われ ているものも、恐ろしい、無法な欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、 それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソグラテスは、そう いう話をくり返すだけだ。 そういう人間が集って集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、
179 花 見こ 0 に見えぬ大敵であ「た事を、は「きり知「たのではあるまいか。私は、そんな事を思った。 暗い、込み入った、油断も隙もなかった生活を、彼は、「世は平かにして白髪多し」、という簡 明な文句で要約してみた。一体、要約は出来たのだろうか。「残嶇は天の許すところ」ーー彼が 残驅という一言葉を思い附いた時、この言葉は、彼の心魂に堪えたであろう。この詩の季を春とし ても差支えあるまい。残驅は桜を見ていたかも知れない。「楽まずんば復如何せん」。 : 、、ムま、この扁 中川一政さんは、ただ好きな歌を、思いつくままに書連ねたのかも知れなし力不ー 額を肴に飲んでいるうちに、三人の心が、互に相寄って、一幅の絵を成すような感に捕えられた。 これを領するものは、飾り気のないあわれとも言うべきもので、一種清々しい感じなのだが、そ のイメージは描けない。酔眼を閉じると、春が来て、斑雪を乗せ、海に臨んだ鳥海山の昼間見た 姿が眼に浮んだ。やがて、会場に呼ばれたが、講演にはひどく不都合な気持であった。鳥海山が 離れない。 これは弱ったと思っていると、ええ、只今、伊達政宗の詩を読んでおりまして : : : と 口に出て了った。楽ますんば復如何せんと繰返したが、もう一一一一〕う事がない。仕方がないから、 い文句ですな、と言って黙って了った。聴衆は笑い出した。私は、笑われて、やっと気を取直し この辺の桜は、もう散っている。弘前の桜は、間に合うか知らん。一昨年は、これも城址の桜 一門親族の変心や内応によって全く孤立無援 で有名な信州高遠の「血染めの桜」を見に行った。 になった武田勝頼の最期は、まことに気の毒なものであった。ただ弟の仁科信盛一族だけが、高
作家達から、文学に関する意見は勿論、ユネスコについても、原子爆弾についても、たつぶり意 見が聞かれるであろう。さて、サルトルは次のように述懐する。 自分達が、作家という天職を発見したのは、中等学校の中庭で、ラシーヌやヴェルレーヌを読 み過ぎた為である。自分達は、既に出来上った文学で養われて来た。という事は、未来の文学も 完成した状態で、自分達の精神から、やがて飛び出すという確信を育てて来た。作品とは、めい めいの孤独を発表する手段という考えに慣れて来たが、アメリカに来てみると、事はあべこべら しい。例えば、西部で農場を経営している一人の女性が、孤独に堪えかねて、或は、自分の孤独 の独創性を単純に信じ込み、これをニューヨークのラジオ解説者にぶちまけたら、どんなにせい せいするだろうと考える。アメリカの小説家達のやり方は、ほばこれに似ているらしい。つまり、 作品とは、孤独から解放されんが為の機会なのである。文学の仕事は、学校とも聖職とも何の関 係もない。彼等の求めているものは、名誉ではなくて、寧ろ友愛と言った方がいいのではあるま いか。フランス文学が、まさしくプルジョア文学なら、アメリカ文学をプルジョア文学と呼べる かどうかは疑わしいと一一一一〔う。私は、アメリカ文学には不案内だが、こういう観察は、何か腑に落 ちる気持を起させる。 近頃、週刊誌の流行について、いろいろな事が言われている。これは全く日本的な風景である。 サ . ル -z. レ。、 ノカ見たらさぞ驚くであろう。そんな事を考えても仕方がないか。仕方がないと思うが、 やはり私は考えて了う。先日も、ある週刊雑誌の記者が、週刊誌プームについて論じて欲しいと
であった。学塾三年間三百円の元手は、月給五、七十円の正味手取の利益となる、洋学が「高利 貸と雖ども、これに三舎を譲る可き」官許の商売と化さんとするのを見たから、彼は、学問の 「私立」を、「学者は学者にて私に事を行ふ可き」事を、すすめたのである。 西洋者流は時流には乗ったが、自覚を欠いていた。彼等には、福沢に言わせれば、「独立の丹 心の発露」というものが見られない。彼等を、俄に咎める事も出来ないのは、彼等が、世間の気 風に酔って自ら知らないからであるが、この「無形無体の気風」に大事があると福沢は言う。 「に一個の人に就き、一場の事を見て、名状す可きものに非ざる」「所謂スビッリット」なるも のを看取する事が、文明の論を成す大切な前提である、そういう考えは、早くも「学問のすゝ め」のうちに現れているのである。ところで、洋学を学びながら、この「スビッリット」せ られ、今の洋学者流はどういう事になっているか。「恰も一身両頭あるが如く、私に在っては智 なり、官に在っては愚なり、これを散ずれば明なり、これを集めれば暗なり、政府は衆智の集る 所にして、一愚人の事を行ふものと云ふ可し、豈怪まざるを得んや」。そういう事になっている。 この「恰も一身両頭あるが如」き空想的な人間達には、「恰も一身にして二生を経るが如」き 吉実情に置かれているという自覚がない。従って、「其形影の互に反射するを見」るという事がな 沢い。彼等の人格は分裂しているのだ。そういう福沢の考えを見ていると、思想上の転向問題とい 福 うものが、極めて本質的に考えられている事がよくわかる。イデオロギイの衣替えでは、人間は わ転向出来ない。分裂するだけだ。 而も転向者等はこれに気附かない。最近の転向問題にも、同じ にわか
ところが、間違った。兄貴は、弟に対して、恥かしい事だが、まことに浅はかな観察をしてい た。外で、「のらくろ」発禁事件が起ったのと同時に、彼の内では、愛犬失踪事件が起った。こ の二つの画を重ねて、透して見る事は、実に難事だったのである。前の事件は、消えたが、後の 事件は、彼の心のうちに、尾を引いていた。いや成長をつづけたと言っても、 しいかも知れない。 彼とは、たまに会うと、酒を呑み、馬鹿話をするのが常だが、或る日、彼は私に、真面目な顔 をして、こう述懐した。 「のらくろというのは、実は、兄貴、ありや、みんな俺の事を書いたものだ。」 私は、一種の感動を受けて、目が覚める想いがした。彼は、自分の生い立ちについて、私に、 くわしくは語った事もなし、こちらから聞いた事もなかったが、家庭にめぐまれぬ、苦労の多い 孤独な少年期を過した事は、知っていた。言ってみれば、小大のように捨てられて、拾われて育 った男だ。 「のらくろ」というのん気な漫画に、一種の哀愁が流れている事は、私は前から感じていたが、 彼の言葉を聞く前には、この感じは形をとる事が出来なかった。まさに、そういう事であったで あろう。そして、又、恐らく「のらくろ」に動かされ、「のらくろ」に親愛の情を抱いた子供達 うかっ は、みなその事を直覚していただろう。恐らく、迂闊だったのは私だけである。 そこで、言えるが、例えば「フグちゃん」は横山隆一自身であり、「カッパ」は清水崑その人 に違いない。 まことに、はっきりした話だ。これは、芸術の上での、極めて高級な意味での自己
102 平家物語 おおやまつみ 芸予海峡の中程に、大三島という島があり、島の西海岸に、大山祇神社という社がある。現存 する甲冑で、国宝や重要文化財に指定されているものの八割はこの古い社にある。古甲冑のほん 物、一流品を見ようとするなら、あそこへ行かなければ、先ず駄目な事だ。これは予てから承知 していた。 私は戦争中、「平家物語」を愛読していた。誰も知る通り、「平家」の語る合戦とは、華やかに 着飾った鎧武者の一騎打ちであり、先ず彼等の「共の日の装東」が慎重に語られなければ、合戦 は決して始まらない。夕日のさす屋島の浦に、紅と金色の扇が、与一に射られて落ちる。海に乗 もえおどし り入れたこの若武者の着ていた鎧は、萌黄縅であったと知らされる。与一に射よと下知した義経 むらみ、きすそ′一 の鎧は、紫裾濃だったと言われる。 えびら 「冲には平家、ふなばたを扣て感じたり、陸には源氏、箙を扣てどよめきけり」。すると、此処 らが「平家」のまことに面白いところだが、突然曲の転調が行われる。「余りの面白さに、感 , 堪へずと覚しくて」、一人の男が、舟の中から出て、扇の立っていたところに立ち、静かに舞い かっちゅう かね
「さくらさくら弥生の空は見わたすかぎり霞か雲か匂ひぞ出づるいざやいざや 見に行かん」という誰でも知っている子供の習う琴歌がある。この間、伊豆の田舎で、山の満開 の桜を見ていた。そよとの風もない、めずらしい春の日で、私は、飽かず眺めていたが、ふと、 この歌が思い出され、これはよい歌だと思った。いろいろ工夫して桜を詠んだところで仕方があ るまいという気持がした。 「しき嶋のやまとこころを人とはば朝日ににほふ山さくら花」の歌も誰も知るものだが、 これも宣長の琴歌と思えばよいので、やかましく解釈する事はないと思う。散り際が、桜のよう に、いさぎよい、雄々しい日本精神、というような考えは、宣長の思想には全く見られない。後 世、この歌が、例えば、「敷島の大和心を人問はば、元の使を斬りし時宗」などという歌と同類 に扱われるに至った事は、宣長にしてみれば、迷惑な話であろう。だが、この歌が日本主義の歌 、 : 月台の短歌復興にと でないとしたら、どういう事になるか。不得要領な単なる愚歌ではなしカ日、冫 もない、そういう通念が専門歌人を支配するようになった。これはおかしな話であろう。 、くら
「おたあさん、今日浄願寺の森で、モズが啼いとりましたよ。もう秋じゃ」 このせりふ一つ で、急に見物は舞台に秋を感ずる。それを、弟の奴、フグロが啼いとりましたよ、とやって了った。 妙な事だが、と言って、考えてみれば少しも妙な事ではないのだが、見物にはモズでもフグロ でもどっちだって構わないのである。事実、見物はフクロが啼いとりましたでは笑わなかった。 せりふとい、つものはそ、つい , つものらし い。「もう秋じゃ」というこなしがあればよい菊池寛の ような写実のせりふでも、写実主義は台本の上にあるだけなので、とばけていれば何の事なくす んだのに、あッモズだと訂正したからどッと来た。 これが切っかけで、「父帰る」という芝居の幕は下り、「父帰る」をやる文士劇の幕が開いて了 ったのである。見物は大喜びで、こんどは何を笑ってやろうかと身構えて了った。この辺りから 賢一郎の深刻なせりふがつづくのだが、こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいもの はない。芝居が進んで、父親が登場し、父親から賢一郎と呼ばれて、「賢一郎は、二十年前、築 港で死んどる」と恨みをこめて発言すると、何がおかしいのか、未だゲラゲラ笑われるのには驚 いた。私はこの時はど、芝居というものの不思議さを、身にしみて味った事はない。 この状態は 長くつづいた。 見物が再び「父帰る」という芝居のうちに、這入り込んで来るのには、ずい分長い時間がかか った。この間の状態とは何だろう。私達素人役者の失敗によって、たまたまかもし出されたこの 特別な状態とは何だろう。なるほど見物は芝居を見ることを止めたが、決して我れに還ったので