である。何故かというとこの人物だけが合理的に生きようとしているからだ。逆説ではない。多 くの人が劇的という言葉を誤解している。でたらめな事と劇的な事とは違うのだ。偶然は事故を 生むが、決して劇を生みはしない 。この婆さんだけが人間らしい意識を持っている。偶然は彼女 をとりこにする事が出来ない。彼女は、金を溜めようと自身に誓い、その誓いのとりことなって いる。彼女の性格が劇を生む。「がめつい奴」の芝居の魂は婆さんが独占している。あとは抜け がらだ。動物的な悶着と騒動とがあるだけだ。 さて誤解しないで欲しいが、私は作者菊田一夫を悪く言っているのではない。私の言った事な そ劇評のいろはである。恐らく作者は百も承知で仕事をしたのだ。戦後の解体的な風俗図は、見 世物になっても、芝居にはなりにくい 。芝居の伝統的な血を通わせるスイッチを何処かに取りつ けねばならない。作者がそうはっきり計算したとは言わないが、菊田という苦労人には、その点 は本能的にわかっていたものと察せられる。或る友人が、芸術祭賞は主役と作者とに分割すべき であったと言った。正説であろう。 だが、私はやはりあの通りでよかったという考えである。何故かというと、私は前々から芝居 では役者第一という考えだからだ。作者は芝居の裏にかくれていた方がい、 。毎日新しく幕があ 。役者はその日その日の出来不出来で、気心の知れぬ見物と協力して、まことに不安定な、 じゃく 弱な、動き易く、変り易い、又それ故に生きている世界を創り出す。芝居は其処にしかない。 ( 文藝春秋昭和三十五年三月 )
「おたあさん、今日浄願寺の森で、モズが啼いとりましたよ。もう秋じゃ」 このせりふ一つ で、急に見物は舞台に秋を感ずる。それを、弟の奴、フグロが啼いとりましたよ、とやって了った。 妙な事だが、と言って、考えてみれば少しも妙な事ではないのだが、見物にはモズでもフグロ でもどっちだって構わないのである。事実、見物はフクロが啼いとりましたでは笑わなかった。 せりふとい、つものはそ、つい , つものらし い。「もう秋じゃ」というこなしがあればよい菊池寛の ような写実のせりふでも、写実主義は台本の上にあるだけなので、とばけていれば何の事なくす んだのに、あッモズだと訂正したからどッと来た。 これが切っかけで、「父帰る」という芝居の幕は下り、「父帰る」をやる文士劇の幕が開いて了 ったのである。見物は大喜びで、こんどは何を笑ってやろうかと身構えて了った。この辺りから 賢一郎の深刻なせりふがつづくのだが、こうなれば見物にはもう深刻なせりふほど可笑しいもの はない。芝居が進んで、父親が登場し、父親から賢一郎と呼ばれて、「賢一郎は、二十年前、築 港で死んどる」と恨みをこめて発言すると、何がおかしいのか、未だゲラゲラ笑われるのには驚 いた。私はこの時はど、芝居というものの不思議さを、身にしみて味った事はない。 この状態は 長くつづいた。 見物が再び「父帰る」という芝居のうちに、這入り込んで来るのには、ずい分長い時間がかか った。この間の状態とは何だろう。私達素人役者の失敗によって、たまたまかもし出されたこの 特別な状態とは何だろう。なるほど見物は芝居を見ることを止めたが、決して我れに還ったので
170 山見ているが、この町は一流に属する、と激賞しながら、せかせかと懐中からグーポン券を取り 出して私に見せた。パンは幾ら、茶は幾らと書いてあるのを示し、君、これをどう思う、高いで 。なしか、むさばりだ、実に不埒だ、と卓上の皿をガタガタやる。 旅行シーズンのソヴェットの大都会の大ホテルは、モスクワ観光局を通じた、この種の見物人 で恐らく満員なのである。彼等は、議論などには耳もかさず、ただ自分の快不快に準じて、はっ きり感じ、勝手放題の事を喋りちらして去って行く。その数は毎年急増するであろう。これは大 変面白い事である。少くとも、今日まで、ソヴェットという「謎の国」は成心ある知識人達の好 餌になり過ぎていた。この考えは、甚だ精彩を欠くのだが、関門通過を待っ間の、車の中の私に は、適当なものであった。 私は、有名なベルガノンの遺跡が見たかったので、美術館に直行してもらったのだが、見てい て一向に気乗りがして来なかった。期待が大き過ぎたせいではない。 ここに来るまでに、私は、 街の一種の空気を充分に吸って了ったが為だ。死の街という在り来りの言葉がロに出かかるが、 ざっとう 死の街は、見物人で、見物人だけで、雑沓していた。この異様な印象に即して言うなら、私は、 既に人々とともに政治的博物館の内部に在ったのだ。巨大な陳列物のように静まり返った家々の 中には、市民達がひっそりと暮しているに違いない。見物人を見物に、家を出て来る馬鹿がある ものか。 レストランで昼食をとる。と言っても、ここではグーポン券は通用しないのだから、所定の場
はあるまい。芝居をやる文士というもう一つの新しい芝居を見る事にしたのである。これは言葉 を代えれば、見物席の見物が主役となり、舞台の役者が端役となって、新たな芝居が演じられる 事にな 0 た、そういう状態に他なるまい。場内全体を舞台とする、このような芝居を見る人は無 言しない。だが精神の眼には見えている。という事は、この特別な状態は、普通に芝居が行われ ている時にも、いつも潜在的に存する状態だと考えられるという事だ。劇場内の見物も亦役者と 共演する一種の役者である。芝居を見る楽しさはそこにある。私達は芝居を見に行くのではなく、 心のなかで役者と共演しに行くのである。 私は、新劇というものを見に進んで出向いた事は殆どない。理由は全く簡単で且っ消極的なも のだ。新劇ファンではないからだ。例えば私は相撲ファンではないが、相撲のテレビなら毎日見 るので、相撲ファンへの道はいつでも開いているのだが、新劇ファンへの道となると、私にはし め出されているという気持がしている。実際にしめ出された事もある。 いっか俳優座が「ウインサーの陽気な女房たち」をや 0 た時、見ていて少々退屈して来た。と いうのは、酒を呑んでいたので、私は上機嫌であったが、舞台も観客も一向上機嫌ではないと感 者じて来たからでもある。千田是也が何やらぶつくさ一言うので、「も「とはっきり言ってくれエー」 と声援したら、見物達が怒 0 たような顔で私を見た。やがて誰やらが仲々うまい仕草をするので、 役「その調子だゾー」と声を張上げたら、外に引張り出されて了「た。新劇というものは、築地 劇場以来、相も変らず、誰にでも芝居を見せるのを目的としてはいない。新劇ファンという同志
学生時代、好んでエドガー・ポーのものを読んでいた頃、「メールツェルの将棋差し」という 作品を翻訳して、探偵小説専門の雑誌に売った事がある。十八世紀の中頃、ハンガリーのケンプ レンという男が、将棋を差す自働人形を発明し、西ヨーロッパの大都会を興行して歩き、大成功 を収めた。共後、所有者は転々とし、今は、メールツェルという人の所有に帰しているが、未だ 誰も、この連戦連勝の人形の秘密を解いたものはない。ある時、人形の公開を見物したポーが、 およ その秘密を看破するという話である。ポーの推論は、簡単であって、凡そ機械である以上、それ は、数学の計算と同様に、一定の既知事項の必然的な発展には、一定の結果が避けられぬ、そう いう一言わば、答は最初に与えられている、孤立したシステムでなければならぬが、将棋盤の駒の 動きは、一手一手、対局者の新たな判断に基づくのだから、これを機械仕掛と考えるわけには、 かない。何処かに、人間が隠れているに決っている。だが、人形が勝負を始める前、メールツェ ルは、人形の内部も、将棋盤を乗せた机の内部も、見物にのそかせて、中には機械が充満し、機 械のない処は、空つばである事を証明してみせるから、半信半疑の見物も、すっかりごまかされ、 常識
人物は、恐らく、マルグスやエンゲルスには遠いが、バグーニンやビヨートル大帝には近いので ある。やがて、レーニンというロシャ的天才の姿を、生き生きと描き出して見せてくれるロシャ 作家も現れて来るでしよう。現代ソヴェットに関心を持つ大多数の人々が、ロシャの過去につい て、ひどく無関心に見えるのが、残念なのであります。 ・ヒョーー、レ ノ大帝は、改革者ではない。旧を棄て新につくについては凡そ徹底していた革命家で ある。これはフランス革命以前の事だから、ロシャは、どこの近代国家にも見られないような、 この国家は国民を欠 大革命を断行した最初の国家だと一一一口えます。だが、前にもお話したように、 いていたのです。私は、今度、レーニングラードで、ピヨートレ、 ノカ人間もいない、従って歴史 もない フィンランドの広漠たる召也こ、。 、冫土。へテルプルグという新都市を建設する為に働いたとい う木造の小屋を見物して、強い感慨を覚えました。ビヨートルの革命は上部からの、強引な専制 革命であって、国民は、これに、嫌悪と無関心とを以て対立しただけだ。ロシャは広いのです。 外来思想の有効性を信じた知識人の一団には、、 どんな政治的技術を以てしても、地平の果てを越 旅え、何処までも拡がっている無言の国民の意識を目覚ます術はなかったであろう。二十世紀の大 鵜てツアーの政府が頑覆した時、このロシャの大勢は一変していたか。そんな事は考えられま せぬ。専制政治は、ロシャ国民の意識の糾合にかけては、ただ失敗を繰返して来ただけなのです。 ヴ レーニンが目指したものは、コンミュニズムの勝利ではない。革命の成功である。彼は、マル グシズムの理論家ではない。 ロシャは、今、何を必要としているかを、誰よりもよく知った不抜
立ち替り出て行く天狗どもが、負かされる毎に、大喝采という事になる。 ポーは、この機械の目的は、将棋を差す事にはなく、人間を隠す事にあるという最初の考えを 飽くまでも捨てないから、内部のからくりを見せるメールツェルの手順を仔細に観察し、その一 定の手順に応じて、内部の人間が、その姿勢と位置とを適当に変えれば、外部から決して見られ ないでいる事は可能だという結論を、遂に引出してみせる。 東大の原子核研究所が出来た時、所長の菊池正士博士が知人だったので、友達と見物に出掛け た事がある。私達素人が、核破壊装置なぞ見物しても、何の足しになるわけでもないのだが、連 中の一人に、好奇心に燃えている男がいて、それが見物を熱心に主張したのである。 彼の一一一口うところによると、研究所には、「電子頭脳」があって、将棋を差すそうだ、今のとこ ろの性能では、専門家には負けるそうだが、 し勝負らしい、一番やるのが楽し 俺くらいなら、、、 みだ、と言う。馬鹿を言え、と言ったものの、実は、みんな、半信半疑なのである。 彼は、研究所に着いて、早速、手合せを申し出たが、うちでは将棋の研究はやっておりません と言われて、大笑いになった。大笑いにはなったが、併し、私達に、所長さんと一緒に笑う資格 があったかどうか、と後になって考え込んだ事がある。ポーの昔話を一笑に附する事は、どうも 出来そうもないようである。 常常識で考えれば、将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としている筈である。名人達の 読みがどんなに深いと言っても、たかが知れているからこそ、勝負はつくのであろう。では、読
と前に言ったのはそういう意味だ。恐らく、この初歩的経験はどんな名優にも通じているものだ と推察する。 「父帰る」をやっているうちに、だんだん巧くなった。大阪まで来ると、幕が下りても誰も手を たたかない。みんな泣いている。これはちと大袈裟だが、まあそう言った具合で、大阪がすむと 気がゆるんだ。今までも、芝居は何も芸で持って来たわけではない、ただ一所懸命で持って来た のであるから、気がゆるんだ途端に大失敗をした。 京都には井上君の知合いが多いらしく、「友チャーン」などと出ない前から騒々しい。私はちゃ ぶ台の前に坐り、お燗をしながら、弟の帰りを待っている。すると弟の奴、只今アと玄関から草履 をはいたまま上って来た。あわてて脱いだが、これは幸い見物には見えない。着物に着かえる時、 袖も一緒に結んで了った。今日はちょっと様子がおかしいぞ、だが、これも大した事ではない。弟 は、ちゃぶ台の前に坐り、一一十年前に家を出た父親らしい人物を近所の人が見たという話をする。 一一一一口わばこのせりふで芝居が始まる、そういう大事なせりふで、やってみると、その切っかけと 間とが容易でない事がわかった。二人で相談の上、兄から酒をついでもらい、一杯のんでから始 者めるという事にし、それでまことにうまくやって来た。ところが、今日は、盃などに目もくれず、 坐るや否や、兄さんと来た。こりや 、いけねえと私は思った。弟の意外な話を聞き終り、母親と 役兄弟と妹と四人がめいめい違った想いに沈み、しばらく舞台は沈黙する。ここで、弟は取って置 おきの名ぜりふを言わねばならぬ。菊池寛の芝居は大雑把のようでいて、実は細かいので、
四季 人形・ : 樅の木 : ・ 天の橋立 : ・ お月見 : ・ 季 スランプ : さくら・・ 批評・ : 見物人 : ・ 青年と老年 : ・ 花見 : ・ ネヴァ河 ソヴェットの旅 解説江藤淳 】 67 162 172 185 197
菊池寛の「父帰る」をやった事がある。私が兄の賢一郎をやり、井上友一郎が弟の新二郎をや った。彼には初対面であったが、稽古をやり、東京で二回やり、大阪でやり、京都でやりしてい るうちに、お互いに妙に情のうつるものだ。個人的感情を越えた芝居の感情が作用するらしい 芝居がすんで、しばらくして、新二郎にばったり出くわしたら、「今度、桃中軒雲右衛門という 本を出すから、序文を書いてくれ、兄貴」と言われた。仕方がないから、中身はよく知らないが、 弟がカ作だというから面白いものだろう、どうぞよろしくと言った風な事を書いた。芝居がつづ いているようなものである。 彼は舞台で、私とのやりとりで、感情がたかぶって来ると眼に涙をためる事があった。それが 直ぐこちらに反射して、おやおやと思うほど妙に調子が合う事がある。夢中でやってはいるのだ が、頭の何処かが覚めていて、しめたうまく行っていると感じている。無論こんな事は、玄人か らみれば、ほんの役者の、ろまこ違、よ、 し。しオしが、私にはやってみて初めて感じられてひどく面白い 事に思えた。舞台で役に成り切るなどという事は嘘で、何かが覚めているものだ。玄人が新二郎 をやれば、眼に涙なぞ溜めなくても、もっとうまくやるに決っている。だが、私の一一 = 〕うのは、役 者のいろはである。感情がたかぶらなければ、井上君は眼に涙を溜めやしないが、たかぶるのは 日常現実の感情ではあるまい。芝居の秩序に従って整頓された感情であろう。泣いてはいるが、 心を乱してはいまい。新二郎に成り切りながら、見物の眼をはっきり感じとっている。そういう 時に、私はなるほど役者とはこれだなという言いようのない快感を覚えた。見物を瞞着する快感