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検索対象: 職業としての政治
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1. 職業としての政治

慎むがよい。まさか福音の倫理が、内乱だけが唯一の正しい戦争だなどと説くはずはないからで ある。福音書に従って行為する平和主義者は、この戦争を、従って一切の戦争を終わらせるため ドイツ国内で奨励されたようにーー倫理的義務として、武器をとることを拒否するか抛 棄するであろう。これに対して政治家は言うであろう。ここ当分の間、戦争の信用を失わせる唯 一の確実な方法は現状凍結の講和であったはすだ、と。しかし、もしそうだとしたら、一体何の ための戦争だったのか。釈然としないのは、この戦争を戦った各国の民衆であろう。そして確か にこれでは戦争は無意味におこなわれたことになる。しかし無意味な戦争ーー・・そんなことは今の ところありえない。現に戦勝者、少なくともその一部分にとって、戦争は政治的に儲かったはず だから。そしてそうなった責任はといえば、われわれに一切の抵抗を禁じた例の態度にあったの である。やがてーー疲弊の時期が過ぎてーー・・・そこで信用を失うことになるのは、戦争ではなく平 和の方であろう。しかもこれは絶対倫理の一つの結果なのである。 最後に真実を述べる義務の問題がある。絶対倫理にとってこれは無条件のものである。つまり 一切の文書、とりわけ自国に不利な文書もすべて公表し、この一万的な公表に基づいて、一方的、 無条件的に、結果を考えすに罪の告白をなすべきだ、というのがそこから引き出された結論であ

2. 職業としての政治

にもなったのである。福音の掟は無条件的で曖昧さを許さない。汝の有てるものをー・・・・、そっくり そのまま・ー・・・・与えよ、である。それに対して政治家は言うであろう。福音の掟は、それが万人の よくなしうるところでない以上、社会的には無意味な要求である。だから課税、特別利得税、没 収ーーーようするに万人に対する強制と秩序が必要なのだ、と。しかし、倫理的掟はそんなことを まったく問題にしないし、そこにこの掟の本質がある。さらにそこでは「汝のもう一つの頬も向 〕である。一体他人に殴る権利があるのか、そんなことは一切問わず、無条件に頬を けよ ! 」 向けるのである。それは聖人でもないかぎり屈辱の倫理である。人は万事について、少なくとも 志の上では、聖人でなければならぬ。キリストのごとく、使徒のごとく、聖フランチェスコらの ごとく生きねばならぬ。これが掟の意味である。これを貫き得たときこの倫理は意味あるものと アコスミッシュ なり、〔屈辱ではなく〕品位の表現となる。そうでないときは、逆である。な・せなら、無差別的な てむか 愛の倫理を貫いていけば「悪しき者にも力もて抵抗うな」となるが、政治家にはこれと逆に、悪 しき者には力もて抵抗え、しからずんば汝は悪の支配の責めを負うにいたらん、という命題が妥 当するからである。福音の倫理に従って行為しようとする者は、ストライキをやめーーというの はストライキは強制だからーー・・・、、御用組合に入るがよい。しかし「革命」を口にすることだけは てむか

3. 職業としての政治

すら「仕事」に仕えるのでなく、本筋から外れて、純個人的な自己陶酔の対象となる時、この職 業の神聖な精神に対する冒漬が始まる。政治の領域における大罪は結局のところ、仕事の本筋に 、しばしば重なって現われるーー虹 即しない態度と、もう一つーーーそれといつも同一ではないが 責任な態度の二種類にしぼられるからである。虚栄心とは、自分というものをできるだけ人目に 立つように押し出したいという欲望のことで、これが政治家を最も強く誘惑して、二つの大罪の 一方または両方を犯させる。デマゴーグは「効果」を計算しなければならないだけに、この危険 もそれだけ大きくーーー演技者になったり、自分の行為の結果に対する責任を安易に考えたり、自 分の与える「印象」ばかり気にするといった危険に不断にさらされている。デマゴーグの態度は 本筋に即していないから、本物の権力の代わりに権力の派手な外観を求め、またその態度が無責 任たから、内容的な目的をなに一つ持たす、たた権力のために権力を享受することになりやすい 権力は一切の政治の不可避的な手段であり、従ってまた、一切の政治の原動力であるが、という よりむしろ、権力がまさにそういうものであるからこそ、権力を笠に着た成り上がり者の大言壮 語や、権力に溺れたナルシシズム、ようするに純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させ歪める 一」、つ了い、つ - ものはない。単なる「権力政治家」 人間を、祭り上ける儀式がドイツでも熱心に営 シャイン

4. 職業としての政治

まれているーー・・、・の活動は派手かも知れないが、実際には空虚で無意味なものに終わってしまう。 その点で「権力政治」の批判者の言うところは完全に正しい。こうした〔権力政治的〕心情の典型 的な持ち主が突然精神的に崩れてしまった実例を見るにつけ、われわれは彼らの思い上がった、 しかし空虚なジェスチュアの背後に、どんな精神的な弱さと脆さが隠されていたかを体験できた。 彼らの空虚なジェスチュアは、人間の行為の意味に対する、いとも貧しく、いとも皮相な尊大さ 一切の行為、わけても政治行為を現にその中に巻き込んでいる悲劇性について、なに一つ知 るところのない尊大さーーーの産物である。 政治行為の最終結果が、往々にして、いや決まって、当初の意図とひどく喰い違い、しばしば 正反対なものになる、というのはまったく真実で いまその立ち入った証明をしている余裕は ないがーー一切の歴史の根本的事実である。しかしそうだからといって、行為にとって内的な支 とし、つことに 柱が必要である以上、この本来の意図、つまりある事柄への奉仕なそなくてよい はならない。 ところで政治家がそのために権力を求め、権力を行使するところの「事柄」がどう いうものであるべきかは信仰の問題である。政治家が奉仕する目標は、ナショナルなこともあれ ば人類的なこともある。社会的で倫理的なこともあれば、文化的なこともあり、現世的もしくは もろ

5. 職業としての政治

な興奮」と呼んでいた、例の精神態度のことではない。インテリ、とくにロシアのインテリ ( もち ジンメルの言葉がびったりなーー・態度、 ろん全部ではない ! ) のある種のタイプに見られた ーニヴァル また現在「革命」という誇らしげな名前で飾り立てられたこの乱痴気騒ぎの中で、ドイツのイン どうけし テリの間でも幅をきかせているあの精神態度。そんなものはむなしく消えていく「知的道化師の ロマンティシズム」であり、仕事に対する一切の責任を欠いた態度である。実際、どんなに純粋 に感じられた情熱であっても、単なる情熱たけでは充分でない。情熱は、それが「仕事」への奉 仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、は じめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力ーーこれは政治家の決定的な心理的資質 であるーーーが必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けと める能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしま うこと」はどんな政治家にとっても、それたけで大罪の一つである。ドイツのインテリの卵たち の間でこうした傾向が育成されれば、彼らの将来は政治的無能力を宣告されたも同然である。実 際、燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしつかりと結びつけること ができるか、これこそが問題である。政治は頭脳でおこなうもので、身体や精神の他の部分でお

6. 職業としての政治

招いているという事実に、われわれは気づいていないのだろうか。権力を掌握した者の人柄とデ イレッタンティズムという点を除いて、労兵評議会の支配と旧制度のどれか任意の権力者の支配 と、一体どこが違うのか。たいていのいわゆる新しい倫理の代弁者たちが、彼らの批判する敵に 対しておこなう抗議は、デマゴーグのその敵に対する抗議とどの点で違っているのか。高貴な意 し。だがここで問題なのは手段である。高貴 図において違う、とそう人は言うであろう。よろし、 な究極の意図なら、彼らの攻撃する敵の方でも、主観的には完全な誠実さをもって、同じように 〕であって、闘争はどこでお 主張している。まさに「剣をとる者は剣によって減ぶ」〔音書」断一六章 こなわれようと、しよせん闘争である。それではーーー・山上の垂訓の倫理ということになるのか。 ベルク・プレデイヒト 山上の垂訓ーーーとは福音の絶対倫理のことであるが , ー、・は今日、この掟を好んで引用する人々の 考えているより、もっと厳粛な問題である。それは本当に笑いごとではないのである。科学にお ける因果法則について、それは思うがままに停めて自由に乗り降りできるような辻馬車ではない、 と言われてきたが、同じことは山上の垂訓についてもいえる。一切か無か。もし陳腐なものとは 違った意味がそこから出てくるとすれば、これこそ垂訓の意味である。だからたとえば、富める と、 ) こと 若者は「この言葉を聞きて悲しみつつ去りぬ。大いなる資産を有てる故なり」い

7. 職業としての政治

こなうものではない。ではあるが、もし政治が軽薄な知的遊戯でなく、人間として真剣な行為で あるべきなら、政治への献身は情熱からのみ生まれ、情熱によってのみ培われる。しかし、距離 への習熟 , ーーあらゆる意味での , ーーがなければ、情熱的な政治家を特徴づけ、しかも彼を「不毛 な興奮に酔った」単なる政治的ディレッタントから区別する、あの強靭な魂の抑制も不可能とな る。政治的「人格」の「強靭さ」とは、何を措いてもこうした資質を所有することである。 だから政治家は、自分の内部に巣くうごくありふれた、あまりにも人間的な敵を不断に克服し ていかなければならない。 この場合の敵とはごく卑俗な虚栄心のことで、これこそ一切の没主観 ふぐたいてん 的な献身と距離ーー・この場合、自分自身に対する距離ーー、・にとって不倶戴天の敵である。 虚栄心は広くゆきわたって見られる性質で、これがまったくないような人間はいない。そして 大学や学者の世界ではこれが一種の職業病になっている。ただ学者の場合には、その表われ方が どんなに鼻持ちならぬものであっても、普通、学問上の仕事の妨げにならないという意味では、 比較的無害である。政治家だと、とてもそうはいかない。政治家の活動には、不可避的な手段と と一般に呼ばれている しての権力の追求がっきものたからである。その意味で「権力本能」 ところがこの権力追求がひた 四ものー・・・ーは政治家にとって実はノーマルな資質の一つである。

8. 職業としての政治

119 切の「政治が権力ーーーその背後には暴力が控えているーーー・というきわめて特殊な手段を用いてお こなわれているという事実」は、政治の実践者に対して特別な倫理的要求を課するはずである。 主観的にどれほど「高貴な意図ーから出たにせよ、それだけでは、おのれの権力行使を倫理的に免 責できぬはずである。たしかに行動が虚無におちいらないための内的な支えとして、信念 ( 理想 ) をもっことは必要である。しかし政治の手段が暴力であり、権力が一切の政治行為の原動力であ る以上、「信念」だけではすまされない。キリスト教的絶対倫理 ( 福音の倫理 ) と相容れない政治の 目的と手段の緊張関係は、 世界に身を投じた者が「魂の救い」まで期待することは許されない。 ここでは他のどんな生活領域におけるよりも厳しい。善からは善のみが生ずるといまだに信じて いる者がいるとすれば、それこそ政治のイロハもわきまえない「政治的未熟児」である。指導者 のよき動機もしばしばその仲間の、あるいは部下 ( 「人間装置」 ) の余りに人間的な動機によって裏 切られるというのが、政治の現実である。「政治にタッチする人間は、権力の中に身をひそめてい る悪魔の力と手を結ぶもの」である。しかもこの悪は恐ろしくしつこく老獪である。「もし行 為者にこれが見抜けないなら、その行為だけでなく、内面的には行為者自身の上にも、当人を無 惨に減・ほしてしまうような結果を招いてしまう」。可測・不可測の一切の結果に対する責任を一

9. 職業としての政治

タクス主義でも、およそどんな種類の革命的社会主義でも、この事情に変わりはない。彼らが旧 制度の「権力政治家を、自分と同じ手段を用いたからといって倫理的に非難するのはーーその 目的に対する彼らの拒否がどんなに正当なものであっても もちろん滑稽きわまる話である。 この目的による手段の正当化の問題にいたって、心情倫理も結局は破綻を免れないように思わ れる。実際、この心情倫理にはーー・論理的につきつめればーーー道徳的に危険な手段を用いる一切 の行為を拒否するという道しか残されていない。論理上そうなのであって、もちろん現実の世界 では、心情倫理家が突然、千年王国的預言者に早変わりするといった現象を、われわれは始終経 験している。たとえば、今の今まで「暴力に対しても愛をー説いて来た人々が、次の瞬間には一 転して暴力の行使 , ーーー一切の暴力の絶減状態をもたらすであろう最後の暴力の行使ーー・・・を呼びか けるような場合がそれで、ドイツの将校が出撃のたびに兵士たちに向かって、さあこれが最後の 攻撃た、これで勝利が訪れ、ついで平和が来ると言ったのと似ている。心情倫理家はこの世の倫 コスミッシュ 理的非合理性に耐えられない。彼は宇宙論的な倫理的「合理主義者」である。諸君の中でドスト 『カラマーゾ エフスキーを御存じの方なら、この問題が的確に展開されている例の大審問官の場面〔 フの兄弟』 を覚えておられるであろう。心情倫理と責任倫理を妥協させることは不可能である。またかりに

10. 職業としての政治

諸君の希望でこの講演をすることになったが、私の話はいろんな意味で、きっと諸君をがっか りさせるだろうと思う。職業としての政治をテーマとした講演である以上、諸君の方ではどうし たって、今のアクチ、アルな時事問題に対する態度の表明というものを期待なさるだろう。しか し、その点は講演の最後の方で、生活全体の営みの中で政治行為がもっている意味について、若 干の問題を提起する際に、ごく形式的に申し述べるだけになると思う。一方、どういう政治をな すべきか、つまり、どういう 内容をわれわれの政治行為に盛るべきか、といった種類の問題とな きよう というのは、そんな問題は、職業としての ると、今日の講演では一切除外しなければならない。