に身をささげる人間には、どのような個人的前提条件が必要とされるであろうか。 さて、それが与えるものの第一は権力感情である。形式的にはたいした地位にない職業政治家 彼らに対する権力にあずかっているのたという意識、 でも、自分はいま他人を動かしているのた、 / とりわけ、歴史的な重大事件の神経繊維の一本をこの手で握っているのだという感情によって、 - 」うよ ) 日常生活の枠を越えてしまったような一種昂揚した気分になれるものである。しかし、この場合 次のような問題が出てくる。一体どんな資質があれば、彼はこの権力 ( 個別的に見てそれがどんな に限られた権力であっても ) にふさわしい人間に、また権力が自分に課する責任に耐えうる人間 になれるのか。ここにいたってわれわれは倫理的問題の領域に足を踏み入れることになる。どん な人間であれば、歴史の歯車に手を掛ける資格があるのかという問題は、たしかに倫理的問題の 領域に属している。 政治家にとっては、情熱 (Leidenschaft) 。ーー責任感 ()e 「 antwortungsgefühl) ーーー・判断力 (Augen ・ maß ) の三つの資質がとくに重要であるといえよう。ここで情熱とは、事柄に即するという意味 ツへ 「仕事」「問題」〕への情熱的献身、その事柄を司っている神ないしデーモ での情熱、つまり「事柄」〔「対象」「現実」 ンへの情熱的献身のことである。それは、今は亡き私の友ゲォルク・ジンメルがつねづね「不毛 マハト・材フュール
囲ってこの地上に絶対的正義を打ち立てようとする者は、部下という人間「装置。を必要とする。 そのためにはこの人間装置に、必要な内的・外的な。フレミアムーーあの世またはこの世での報奨 を約東しなければならない。そうでないと装置が機能しない。内的な。フレミアムとは、現代 の階級闘争という条件下では、憎悪と復讐欲、とりわけ怨恨と似而非倫理的な独善欲の満足、つ まり敵を誹謗し異端者扱いしたいという彼らの欲求を満足させることである。一方、外的なプレ 、、アムとは冒険・勝利・戦利品・権力・俸禄である。指導者が成功するかどうかは、ひとえにこ の彼の装置が機能するかどうかにかかっている。従って指導者自身の動機ではなく、この装置の いいかえれば赤衛軍・ス。 ( イ・アジテーターなど、その指導者が必要とする部下に、上 動機に、 に述べたようなプレミアムを永続的に賦与することができるかどうかにかかっている。指導者が このような活動の条件下で実際に何を達成できるかは、彼の一存でいかず、その部下の倫理的に まったく卑俗な行為動機によって最初から決まってしまっている。部下の動機は、指導者の人柄 と仕事に対する誠実な信頼が、少なくとも仲間の一部をーーー大部分を、ということもこの地上で はまずありえないーー・ー鼓舞するかぎりにおいて、セーブできるに過ぎない。しかもこの信頼は、 それが主観的に誠実であっても、たいていは復讐・権力・戦利品・俸禄などに対する欲望の倫理
公の法律で認められたわけではないが、多数党が事実 の内閣はその時々の多数を制した政党 上唯一の決定的な政治権力であ 0 た、ーー・の委員会のようなものであ 0 た。官制上の合議体尸〕 そのものは、イギリスでは、政党という現実の支配権力の機関ではなく、従って現実の統治の担 当者たりえなかった。むしろ与党の方では、国内において権力を主張し、対外的に強力な政策を 推進できるために、党内の実力者たけで構成され、内輪の相談ができる強力な機関、つまり内閣 を必要としたわけたし、さらに国民、とくに議会に代表された国民との関係でも、内閣の一切の 決定について責任を負う一人の指導者、すなわち首相を必要としたわけである。このイギリスの システム 制度はその後、議院内閣制という形で大陸で採用されたが、たたアメリカとその影響をうけた民 主制国家では、それとまったく異質の制度 , ーー直接国民投票によって選出された多数党の指導者 統〕が自分の任命する行政機構の頂点に立ち、予算と立法を除いて、議会の同意に拘東されない が採用された。 ベトリープ * 政治が「経営」にまで発展し、近代政党制の下でおこなわれたような権力闘争と闘争方法の トレーニングが必要になってくると、公務員が専門官吏と「政治的」官吏の二つの範疇に分かれ この区別は決して厳格なものではないが明らかに別の範疇である。本来の意味での て来た。
スポイルズ・システム 高めた「猟官制」によって、一層強化された。 この猟官制ーー大統領当選者の追随者に連邦のすべての官職を分け与える制度ーーーは、今日の 政党構造に対してどういう意味をもっているか。まったく定見のない政党、純粋な猟官者の組織 同士が対立し、票集めの見込み次第で選挙戦ごとに綱領を変える これに似た例は他の国にも あるが、これほど目まぐるしく変わるところはない といった事態が起こってくる。アメリカ の政党は何から何まで、合衆国大統領と各州知事といった、官職任命権にとって特別に重要な意 味をもっ選挙戦に向けて編成されている。綱領と候補者は党の「全国大会」で決定され、議員は これには加わらない。つまりこの全国大会には代議員会から代表が出、さらにその代議員会のメ プライマリー イハーは「予選会」、すなわち政党の第一次選挙人会の委託をうけて出てくるわけで、形式的には きわめて民主的な体裁がとられている。代議員はすでに予選会の段階から大統領候補の名で選ば ノミネーション れるので、「指名」問題をめぐる各党内部の戦いは熾烈をきわめた。大統領の手にはいずれに せよ三〇万から四〇万という数の官吏の任命権がゆたねられているが、その実施には各州上院議 員の承認が必要である。だから上院議員は政治家としてなかなかの実権をもっている。それに比 べれば下院の方は政治的にはいたって無力である。これは下院が官吏任命権から外されており、
凵な形態の政治的支配ーー伝統的支配、合法的支配、カリスマ的支配ーーについても当てはまる。 どんな支配機構も、継続的な行政をおこなおうとすれば、次の二つの条件が必要である。一つ はそこでの人々の行為が、おのれの権力の正当性を主張する支配者に対して、あらかじめ服従す るよう方向づけられていること。第二に、支配者はいざという時には物理的暴力を行使しなけれ ばならないが、これを実行するために必要な物財が、上に述べた服従を通して、支配者の手に掌 握されていること。ようするに人的な行政スタッフと物的な行政手段の二つが必要である。 行政スタッフは、政治的支配機構が存在しているという事実をーー政治以外のどの機構 ( 経営 ) でもそうだがーーー外に向かって表示するものである。もちろん彼らも、いま述べた正当性の観念 だけで権力者への服従に釘づけされているのではない。そうではなく物質的な報酬と社会的名誉 レーエン * という、個人的関心をそそる二つの手段が服従の動機となっている。封臣における封邑、家産官 プフリュンデ * 僚の俸禄、近代の国家公務員における俸給・ー、、・それに騎士の名誉、身分的特権、官吏たること の名誉を含めた広い意味での報酬と、それらを失うことへの不安。これが行政スタッフと権力者 との連帯関係を支える究極的・決定的な基礎である。カリスマ的指導者の支配の場合でもそうで、 戦士には従軍の名誉と戦利品があり、デマゴ 1 グの追随者には「スポイルズ」、つまり官職の独占
のが普通である。つまり、政治「のために」生きる人も精神的な意味では「政治によって生きて いる」わけだし、さらに彼は、自分の行使する権力のむき出しの所有そのものを享受するか、そ ザッへ れとも、自分はある「仕事」に打ち込んでいるのだから自分の生活には意味があるのだ、とそう 思い込むことによって、精神的な。 ( ランスと自信を駆り立てているか、そのどちらかである。あ る仕事のために生きているどんな真面目な人でも、このような精神的な意味では、この仕事によ って生きているといえよう。したがってこの〔「のために , と「によって」の〕区別は事態のもっと 実質的な側面、すなわち経済的な側面に関係している。政治を恒常的な収入源にしようとする者、 これが職業としての政治「によって」生きる者であり、そうでない者は政治「のために」という ことになる。ひとがこういった経済的な意味で政治「のために」生きることができるためには、 いってみればはなはだ俗な , ーー前提が必要である。 今の私有財産制度の支配下では、若干の つまり当人がーーノーマルな状態ではーー・・・政治から得られる収入に経済的に依存しないですむこ と、ずばり言えば、恒産があるか、でなければ私生活の面で充分な収入の得られるような地位に あるか、そのどちらかが必要である。少なくともノーマルな状態ではそうである。もっとも武侯 とちらも や街頭の革命的英雄の追随者になると、ノーマルな経済条件などほとんど眼中にない。・
ないようなーーーの中にはめ込まれていたので、職業によって、最高の宗教的救済との距離にも当 ラモン 然格差が生じた。こうしてヒンドウ教の生活秩序では、苦行者や婆羅門から、泥棒や娼婦にいた るまで、それそれの職業に内在する固有法則に基づいてカーストごとの法がつくられ、政治や戦 争もその生活秩序の中に含まれていた。戦争が生活秩序全体の中に完全に組み込まれていたこと ギーター』の中のクリシュナとアルジュナの対話から知ること を、われわれは『。ハガヴァッド・ ダルマ ができる。「必要なーーーすなわち、戦士カーストの法と所属カーストの規則に基づいて義務づけ られ、戦争目的から見て客観的に必要なーーー『仕事』をなせ」。つまりヒンドウ教では、そうする ことが宗教的救済の妨げにならす、役立っと考えられていたのである。インドの戦士は戦死すれ ゲルマンの戦士がかのワレ、ラ ・はイン・トラ ノノ殿堂 雄〕の極楽に行けると堅く信じていた。 入りを信じていたように。しかしゲルマン人が天使の合唱隊のいるキリスト教の天国を軽蔑した ねはん ように、インドの戦士も涅槃を軽蔑していたに違いない。倫理がこのように分化していたため、 インドの倫理では、政治の固有法則にもつばら従うどころか、これをとことんまで強調した まったく仮借ない・ー・ー統治技術の見方が可能となった。本当にラディカルな「マキアヴ = リズム アルタシャーストラ * 通俗的な意味での、ーーはインドの文献の中では、カウティルヤの『実利論』 ( これはキリ ザッハリッヒ ・タルマ
な興奮」と呼んでいた、例の精神態度のことではない。インテリ、とくにロシアのインテリ ( もち ジンメルの言葉がびったりなーー・態度、 ろん全部ではない ! ) のある種のタイプに見られた ーニヴァル また現在「革命」という誇らしげな名前で飾り立てられたこの乱痴気騒ぎの中で、ドイツのイン どうけし テリの間でも幅をきかせているあの精神態度。そんなものはむなしく消えていく「知的道化師の ロマンティシズム」であり、仕事に対する一切の責任を欠いた態度である。実際、どんなに純粋 に感じられた情熱であっても、単なる情熱たけでは充分でない。情熱は、それが「仕事」への奉 仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、は じめて政治家をつくり出す。そしてそのためには判断力ーーこれは政治家の決定的な心理的資質 であるーーーが必要である。すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けと める能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。「距離を失ってしま うこと」はどんな政治家にとっても、それたけで大罪の一つである。ドイツのインテリの卵たち の間でこうした傾向が育成されれば、彼らの将来は政治的無能力を宣告されたも同然である。実 際、燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしつかりと結びつけること ができるか、これこそが問題である。政治は頭脳でおこなうもので、身体や精神の他の部分でお
ない存在である。組織は彼らの手にがっちりと握られている。ポスは資金の大部分を調達する。 どのようにしてそれを手に人れるのか。一部は党員の献金であるが、大切なのは、ポスとその政 党のカで官職にありついた官吏の俸給に割り当てるという方法である。それに、賄賂とチッ。フ。 法網をくぐって処罰を免れようと思えば、ポスに見逃してもらわねばならず、それには謝礼が要 る。そうしないと、必す面倒なことが起こるというわけである。しかし、それたけではまた必要 な党運営資金は調達されない。ポスは財界の大物からじかに金をうけとる人間として、どうして マンの党職員や正式の会計係などに直接手渡す も必要である。彼ら大物が、選挙資金をサラリー ことはあるまい。金銭の問題にかけて万事慎重で抜け目のないポスなら、選挙を賄う資本家連中 にとって当然、自分たちの仲間内とみられるわけである。典型的なポスは徹頭徹尾冷静な人間で ある。彼は社会的名誉を求めない。「。フローのポスは「上流社会」では軽蔑されている。彼は権力 だけを求める。財源としての権力を、しかしまた権力のための権力だけを求める。彼は闇の中で 仕事をし、その点ではイギリスの指導者と対照的である。われわれは公の場所でポスの演説をき くことはないであろう。何をどうしゃべったら目的に適うか、演説者に入れ知恵することはあっ ても、自分自身は黙っている。彼は普通、連邦の上院議員以外の職には就かない。上院議員は憲
「政治的」官吏は普通、彼らの異動・罷免・「休職」がいつでもおこなわれ、任意におこなわれる という点で、外から見分けがつく。フランスの知事やこれと似た他の国々の官吏の場合がそれで、 司法関係の官吏の「独立性」と、きわだったコントラストをなしている。イギリスでは議会の多 数党が入れ替わり、従って内閣が史迭するたびに、厳格な慣例に従って辞任する官吏が出てくる が、これが「政治的」官吏である。とくに、一般「内務行政」を統轄する権限を持った官吏がこ れに数えられるが、彼らの権限はとりわけ国内「秩序」の維持、つまり現存支配関係の維持を任 務としている点で、「政治的」要素を含んでいた。プロイセンではこの種の官吏に対する処分を 避けるため、「ブットカンマーの告示」によって、官吏には「政府の政策の支持」が義務づけられ、 フランスの知事と同じように、選挙干渉のための「政府の道具」として利用された。ドイツの制 度ではーーー他の国々と違ってーー「政治的、官吏の場合でもたいてい、大学教育、専門試験、一 定の見習勤務が就任の条件とされ、その点では他のすべての官吏と同じ性格を持っていた。ドイ ツでは、政治機構の長である大臣だけが、このような近代的専門官吏制度に特有のメルクマール を必要としない。すでに旧制度下の。フロイセンでも、文部大臣には大学教育をまったくうけなく てもなれたが、本省の首席参事官には原則として所定の試験に合格していることが必要であった。