行政 - みる会図書館


検索対象: 職業としての政治
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1. 職業としての政治

なすべきである。この非党派的な行政という原則は、「国家理性」、すなわち現存支配 派的に 体制の死活的利益がとくに問題になっている場合は別として、少なくとも建前としては、いわゆ る「政治的」行政官についても当てはまる。官吏である以上、「憤りも偏見もなく」職務を執行 すべきである。闘争は、指導者であれその部下であれ、およそ政治家である以上、不断にそして 必然的におこなわざるをえない。しかし官吏はこれに巻き込まれてはならない。党派性、闘争、 エレメント 激情ーーらまり憤りと偏見ーー・は政治家の、そしてとりわけ政治指導者の本領だからである。政 治指導者の行為は官吏とはまったく別の、それこそ正反対の責任の原則の下に立っている。官吏 自分の意見具中にもかかわらずーー・。・自分には間違っている にとっては、自分の上級官庁が、 と思われる命令に固執する場合、それを、命令者の責任において誠実かっ正確にーーあたかもそ れが彼自身の信念に合致しているかのように・ーー・執行できることが名誉である。このような最高 の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。これに反 して、政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任を自分一人で負うところ にあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし、また許されない。官吏として 倫理的にきわめて優れた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間で

2. 職業としての政治

に基づく被治者の搾取や政治的な役得があり、それに虚栄心の満足という。フレミアムまでくつつ いている。 次に、暴力を伴う支配関係の維持のためには、〔行政スタッフと並んで〕ある種の外的な物財が ところですべての国家秩序 必要である。そしてこの点でも、経済経営とまったく変わりはない。 は、権力者の側でその服従を当て込んでいる人的行政スタッフ ( 官吏であれ、その他、何であれ ) が行政手段 ( 貨幣・建物・武器・車輛・馬匹など ) を自分で所有するという原則の上に立っている か、それとも行政スタッフが行政手段から「切り離されている。かーー、今日、資本制経営内部の 職員や労働者が物的生産手段から「切り離されている」のと同じ意味でーー・・によって分類できる。 ちょうしん つまりそれは、権力者が行政を自分の直轄下におき、個人的な使用人や任用官吏、個人的な寵臣 この場合の行政スタッフは、物的行政手段の所有者、つまり、 や腹心を使って統治しているか 、あるい それを自分の権利として占有する者ではなく、その点で支配者の親政に服している はそうでないか、という問題である。この区別は過去のすべての行政組織を通じてみられる。 物的行政手段の全部ないし一部が、権力者に仕える行政スタッフ自身の手に直接握られている 政治団体を、「身分制的」に編成された団体と呼ぶことにする。たとえば、封建制下の封臣は、 プ戸レタリア

3. 職業としての政治

序はすべてこの型に入る。とくに官制的国家秩序は、しかも最も合理的に完成された形でのそ れは、近代国家の特徴でもある、というよりずばり近代国家に特徴的なものである。 近代国家の発展は、君主の側で、自分と肩を並べている行政権力の自立的で「私的な」担い手 に対する収奪が準備されるにつれて、どこでも活発化して来た。この場合の「私的な」担い手と は、行政手段、戦争遂行手段、財政運営手段その他の・政治的に利用できるあらゆる種類の物財 を、自分の権利として所有している者のことである。この全過程は独立生産者層が徐々に収奪さ れていって、資本制経営が発展してくる過程と完全に併行している。結局、近代国家では、政治 運営の全手段をうごかす力が事実上単一の頂点に集まり、どんな官吏も自分の支出する金銭、自 分の使用する建物・備品・道具、兵器の私的な持ち主ではなくなる。こうして、今日の「国家」 ではーーそしてこの点こそ近代国家概念にとって本質的なことなのだがーーー行政スタッフ、つま り事務官僚と行政労務者の・物的行政手段からの「分離、が完全に貫かれている。ところがいま この点できわめて新しい発展が始まり、現にドイツでも、国家という収奪者から政治手段と政治 権力を収奪しようとする動きが見られる〔一九 1 八年 + 一〕。これまでの合法的政府に代わ 0 て指導者 さんだっ が現われ、簒奪や選挙という方法で政治上の人的スタソフと物的装置に対する支配権を手に入れ

4. 職業としての政治

凵な形態の政治的支配ーー伝統的支配、合法的支配、カリスマ的支配ーーについても当てはまる。 どんな支配機構も、継続的な行政をおこなおうとすれば、次の二つの条件が必要である。一つ はそこでの人々の行為が、おのれの権力の正当性を主張する支配者に対して、あらかじめ服従す るよう方向づけられていること。第二に、支配者はいざという時には物理的暴力を行使しなけれ ばならないが、これを実行するために必要な物財が、上に述べた服従を通して、支配者の手に掌 握されていること。ようするに人的な行政スタッフと物的な行政手段の二つが必要である。 行政スタッフは、政治的支配機構が存在しているという事実をーー政治以外のどの機構 ( 経営 ) でもそうだがーーー外に向かって表示するものである。もちろん彼らも、いま述べた正当性の観念 だけで権力者への服従に釘づけされているのではない。そうではなく物質的な報酬と社会的名誉 レーエン * という、個人的関心をそそる二つの手段が服従の動機となっている。封臣における封邑、家産官 プフリュンデ * 僚の俸禄、近代の国家公務員における俸給・ー、、・それに騎士の名誉、身分的特権、官吏たること の名誉を含めた広い意味での報酬と、それらを失うことへの不安。これが行政スタッフと権力者 との連帯関係を支える究極的・決定的な基礎である。カリスマ的指導者の支配の場合でもそうで、 戦士には従軍の名誉と戦利品があり、デマゴ 1 グの追随者には「スポイルズ」、つまり官職の独占

5. 職業としての政治

吏は、他方で、みずからの廉直の証しとして培われた高い身分的な誇りをもっている。もし彼ら にこの誇りがなかったら、恐るべき腐敗と鼻もちならぬ俗物根性という危険が、運命としてわれ われの頭上にのしかかり、それによって、国家機構の純技術的な能率性 ( 経済に対するこのような 国家機構の重要性は、とくに社会化の進展につれて絶えす高まり、今後もますます高まっていく であろう ) までが脅かされることになろう。アメリカ合衆国では、猟官政治家による素人行政に よって、下は郵便配達夫にいたるまで数十万の官吏が大統領選挙の結果如何で替えられてしまい 終身の専門官吏も存在しなかったが、このような状態は「公務員制度改正法」によってかなり前 から通用しなくなっている。こうした発展は、純技術的な行政に対する不可避的な要請によるも のである。ヨーロ ツ。 ( における分業的な専門官吏制度は、五〇〇年の歳月をかけて徐々に成立し たもので、その端緒は、イタリアの都市国家とそこでのシニョ ーリア制であり、王政ではノルマ ン人の征服国家が最初であった。このような近代的な官吏制度の進展を決定的に促したのは、と くに諸侯の財政問題であった。彼らからこの財政面での実権を取り上げることが、官吏にとって どんなに困難であったかは、マクシミリアン帝の行政改革一つをとってみてもよく分かる。極度 の窮乏とトルコ人の支配という重圧下にありながら、しかもこの財政が、支配者 ( 当時はまた騎士 あか

6. 職業としての政治

に通じた仲間同士としてお互いに許し合っていた。一人の政治指導者が、内政を含む一切の政治 を形の上で統一的に指導することがどうしても必要であり、また避けられなくなったのは、立憲 政の発達以後のことである。もちろんそれまでも、このような大物の政治家が個人の資格で君主 の相談にのり、というより実質的にはむしろ君主を操る指南番として、活躍した例はいくらもあ った。が、官庁組織の方は、最も進んだ国々でもさし当たっては別の道を歩んでいる。まず登場 といっても、 したのが合議制をとる最高行政官庁である。これは理論的にはもちろん実際上も 実際上はだんだん名目化していくわけだが , ーー・君主の親臨の下に開かれ、君主個人が最後の決定 ディレッタント を下すことになっていた。日ましに素人の地位に陥りつつあった君主は、一方ではこの合議制 を利用し ( この合議制では出席者にいろんな意見と反対意見を述べさせ、最後に多数派と少数派 双方にそれそれ理由を付して投票させた ) 、他方では、公式の最高官庁とは別にまったく個人的な カビネット 腹心 ( 当時のいわゆる「内閣」 ) を側近に置き、彼らのロ添えで枢密院 ( 名称は何であれ、ようする に国家の最高官庁 ) の決議に対する決裁を下すことによって、官僚たちの不可避的に増大する専 門訓練の圧力から逃れ、最高指導権を手離すまいとしたわけで、この専門官僚と君主親政との間 の潜在的な闘争はいたるところでおこなわれた。このような状況は、議会とそれをックにした

7. 職業としての政治

授封された所領内における行政や司法を自分の財布で賄い、戦争のための装備も自分の手でとと のえていたし、その部下である下級封臣〔毯の場合もそうであ「た。このことは当然、君主の権力 的地位にも影響があった。もともとその地位は、主従間の個人的な誠実の盟約をまず前提し、封 レ 1 エン 臣のもっ封邑や社会的名誉の正当性も遡れば君主に由来するという、もう一つの条件が加わって、 はしめて成立しうるものだからである。 ところで、もう一つの君主の直轄支配の方も、最古の政治形態にまで遡って、いたるところに けにん みられる。この場合の君主は、自分に隷属する人間 ( たとえば奴隷、家役人、家人、「寵臣」、ある いは自分の備品倉庫からの現物給与や貨幣給与で雇っている俸禄保有者など ) を使って行政の 掌握を図り、その行政費用は自分の財布や家産領地からの収益で賄い、また軍隊の装備や糧食も 自分の穀倉・火薬庫・兵器庫から調達して、完全に自分の意のままになる軍隊を創ろうとした。 「身分制」団体の君主が自立性の強い「貴族。の助けを借りて支配し、したがって貴族と支配権 を分け合っているのに対し、ここでの君主は、家僕や平民、ーー財産も固有の社会的名誉もなく、 物質的にも完全に君主に縛りつけられていて、自力でこれに対抗する力をもたない階層ーーをみ すからの支えとしている。家父長支配や家産制支配、スルターン制的専制政治、官僚制的国家秩 プフリュンデ

8. 職業としての政治

109 一二世紀ころから北部および中部イタリアで成立した都市コムーネ ( 都市 一穴 2 シニョーリア制 Signorien. 自治共同体 ) は類型的にいって、コンソリ制の段階ーー - 。ボデスタ制 ( 後出 ) ーーカビターノ・デル・ポポロ ーリア制の段階に到達し、や 制の段階を経て、一三世紀末ころから門閥独裁の時代、すなわちこのシニョ がてこれらの門閥が世襲的専制君主に転化することによってコムーネの時代は終わりを告げるが、このコ ムーネの門閥独裁の時代の支配者をシニョーレと呼んだ。彼らは名門の出ではあるが世襲君主ではなく、 市民より成る自治的諸機関も形式的にはなお存続し、コムーネの外観たけは維持されていた。 ヴェ ー・ハーはこのシニョーリア制を、任命制官吏による合理的行政の端緒と考えていたようである。 マクシミリアン帝 Kaiser Max; MaximilianI, 1459 ー 15 一 9. 神聖ローマ皇帝 ( 在位一四九三ー一五一 九 ) 。目前に迫ったトルコ人の侵入の危険に直面して、帝国の改造、ことに行政改革に着手。教会との関係 においては、みずから教皇となって帝国と教会の一体化を実現すべく種々画策したが、ヤーコプ・フッガ ーらの財政援助が得られず失敗。 元カール五世 Kar 一 V , 1500 ー 1558. ハプスプルク家から出た神聖ローマ皇帝 ( 在位一五一九ー一五五六 ) 。 宗教改革を弾圧、のちルッター派のドイツ諸侯とアウグスプルクで和を結び、信仰の自由を公認。 ベトリー・フ 三一一肥「経営」 Betrieb とは「一定種類の継続的な目的行為をいい、経営団体とは行政 ( 管理 ) スタッフを中 ー ) 。したがって近代国家の官庁・政党・ 心に継続的に目的行為をおこなう利益社会関係をいう」 ( ヴェー 大学・会社はいずれも「経営ーないし「経営団体ーである。たたし「経営ーの代わりに「運営」と訳した

9. 職業としての政治

間がーーーを満足させるためにできたことといえば、せい。せいこれくらいのものであった。この議会 の無力を生み出した条件として、次の第二の事情が加わった。それは、専門的に訓練された官僚 層がドイツでは圧倒的な重要性をもっていたという事実である。その点ではドイツは世界のト プ・クラスである。こうした官僚層の重要性の結果、ドイツの専門官僚は閣僚の地位まで要求す るようになった。昨年のことたが、・ハイエルン州議会で議会制の強化の問題が討議された際、も し議員を大臣にしたら、今後、有能な人材は官吏にならなくなるだろうという趣旨の発言があっ た。ドイツの官僚行政はその上、イギリスの委員会討論を通しておこなわれたようなコントロー ルを、制度的に免れていたので、実際に抑えのきく行政長官を議会内部で養成することもーー若 干の例外を除いてーーーできなかった。 第三に、ドイツにはアメリカと違って、政治上の主義をもった政党が存在した。それらの政党 では、少なくとも主観的には大真面目に、わが党の党員は一定の「世界観」の信奉者であると主 張していた。そのうち最も重要なのは、カトリックの中央党と社会民主党の二つであるが、どち らも生まれながらの少数党、しかも、それそれの狙いがあっての少数党であった。帝国の中央党 幹部は、われわれは議会主義に反対する、議会主義になればわれわれは少数党になり、これまで

10. 職業としての政治

立場であった。といっても社会主義者たちはすでに当時からまったく別の考え方をしていたが。 しかしもうこの状態ではどうにもならなくなっている。素人行政では間に合わなくなり、公務員 法改正によって、年金のつく終身ポストの数は確実に増え、ドイツの場合と同じく、清廉で有能 な大学出の官吏が官職に就くようになってきた。約一〇万の官職は、すでに今日では選挙のたび に喰い物にされる餌ではなくなり、年金がっき、任用の条件として資格証明書を必要とするよう になっている。こうして、猟官制は徐々に後退を余儀なくされ、それとともに、おそらく政党指 導の仕方も変わっていくであろう。ただし、それがどう変わるのか、これたけはまだよく分から ドイツでは今までのところ、大体つぎのようなものが政治運営の決定的な条件であった。第一 は、議会の無力という現象で、そのためドイツでは長い間、指導者の資質をもつ人間が議会に入 ってこなかった。彼らが議員を目指したところで、 一体議会で何ができるというのか。官庁 のポストに空席が生じた時、そこの長官に向かってこう言うことはできた。「実は、自分の選挙区 に大変できる男がいる。適任だと思うんたが、君一つ使ってみてくれないか」。そしてこんなこ たたしそれを持っていての話た とならよくあった。しかし、ドイツの議員が自分の権力本能