ったことは一個の証拠といくつかの傍証がある。この国の支配者であるはずの慶喜はじつは物蔭 にいる大久保一蔵という者と、大きな外交問題について対決していたことになる。 幕威は、衰弱していた。 こういう時期に、幕府にとって長城ともいうべき新造艦開陽丸が横浜に入ったのである。 当時、横浜と品川沖に各藩あるいは各国の艦船があつまっており、さまざまな国旗や船旗をか かげていた。 東京・湯島の「日蘭学会」の幹事ャン・デ・フリース氏によれば、日本への回航のための航海 中、開陽丸は便宜上、オランダ国旗をかかげていた ( このためにオランダ政府は大蔵大臣をして 特別立法させたという。軍艦にかかげる国旗が、国内的にも対外的にもいかにむずかしいものか がわかる ) 。 回航のためのオランダ側の乗員は百九人である。榎本ら日本人は九人であった。操艦はむろん オランダ側がやったであろう。 道ャン・デ・フリース氏の文章 ( 「開陽丸の航跡」 ) は多くのオランダ側の資料にもとづいているが、 の横浜に入ってからオランダ国旗がおろされ、日本国旗がかかげられた、という旨、オランダ側の 回航要員の『寄港日記』によってあきらかにしている。さらに幕府の神奈川台場から二十一発の 礼砲がとどろいたという。こういう記録は日本側にない ( くり返すが、この記述の年月日は旧暦 によっている ) 。
118 ダ海軍の軍艦が航海する時の装備一式。すべて最新の発明をとり入れ、最高の性能を持ち、 せじようほう 最良の品質でなければならない。 ・ : 武装は施条砲二十六門。その口径は造船技師長の判断 に任せられる。 日 という条件をつけた、という。このことは、私の知るかぎりでは日本関係の史料にはない。 蘭交渉史の研究者であるフリース氏がオランダ側の史料からさがしだしたものにちがいない。 さらに、フリース氏の発見がある。この軍艦を建造するにあたって、顧問として当時蒸気機関 の設計者として高名だったホイへンス (). Huygens) 大佐が就任した。このホイへンス大佐は、 幕府がなぜ時代遅れになりつつある木造艦を望み、鉄製艦を望もうとしないのか、という点で疑 問をもっていたらしい 幕府が木造艦を注文したことに対して、彼 ( 註・ホイへンス大佐 ) はかなり早い時期から疑問 を呈していた。三月二十四日付の Z ・・ ( 註・建造をひきうけたオランダのヒップス造船会社 ) 宛ての手紙でこう言っている。「しかし小官の愚考いたしますところ、鉄造艦の方が建造に 要する日数が少なく、耐久性があり、しかも木造艦よりも造船が簡単であります。幕府は木 造艦より鉄造艦を採用すべきかと存じております」。 ( フリース氏「開陽丸の航跡」 ) 幕府は注文にあたって、「最新の発明をとり入れてもらいたい」と要求していながらこの件に
そういう時期もあったであろう。 明治三十三年の「群来」が最絶頂だったらしく、以後下降線をたどっていまはまったく獲れな い。いまの江差町が出している諸資料をみても、ニシンという要素がまったくなく、かっての江 差の歴史にない諸要素によって町が成立しているようである。 ひょう 江差町の町民が従事している産業別の表を見ても、ニシンどころか漁業そのものの比率からし てひくい 。また魚種別の漁業の表をみても、ニシンという魚はいっぴきも数字になって出ていな いのである。 それにひきかえ、江戸期にはほとんど無かった農業が、就業人口が全人口のうちの七〇・五バ ーセントを占めるというぐあいになっている。 江差の性格が、ながい不漁とのたたかいの歴史を経て変ってしまっているのである。 こあんざい やがて上ノ国町の小安在のながい海岸線にさしかかった。浜の砂の黒いのがめずらしかった。 その黒い浜のむこうに無数のカモメが上下しているが、同時にこの鳥のむれが道路の右の人家の 道近くまできてさわいでいた。 のカモメが人家のあたりでさわぐときはしけが近いという話を、函館できいたから、今夜は雨か 海 もしれなかった。 と思っているうちに、沖の雲間から陽が射しはじめ、やがて長い砂嘴を持った江差の町が黄色 つばい斜陽を浴びて前方にひろがってきた。遠望すると町に白いコンクリート建築が多いらしく、
でなくなってしまう。 月形の北方に入植した新十津川村のひとびとも、それをやった。 しまここで想像するだけでもつらさが先立つ。 かれらの入植が冬であったことは、、 この地上に雨露を凌ぐ 春を待っという贅沢がゆるされなかった。十津川渓谷で家をうしない、 屋根をもたないひとびとにとって、たとえ氷を割ってでも目的地に身をおちつけるほかなかった。 たまたま現在の新十津川村の北方の空知太に、百五十戸という多数の屯田兵兵舎が建てられた ばかりで、二千四百八十九人はそこを借りて越冬することになった。 この屯田兵の兵舎と類似のものが旭川に一戸保存されているが、板屋根に外界を隔てる壁は板 ひとえ 張り一重という粗末なもので、家屋そのものが隙間風でできているようなものであった。私は西 洋のウサギ小屋というものを見たことがないが、西洋のウサギなら凍死するのではないか。 幕末、幕命によって松前警備に行った津軽藩士が初年度で大量に死んだことがあるが、空知太 の屯田兵兵舎に借りずまいした十津川人も、最初の冬を越すうちに百人ちかくが風邪や肺炎で死 んだ。 道私有地が、くじびきで決められた。 の兵舎を出て、それそれの土地に入ったのは六月になってからで、このあと、密林をひらく作業 であけくれた。初年度は三反ほどの平地をひらいて自家用の作物のたねをまくのがやっとだった という。その作業も、まき付けの時期が遅かったためにそばと大根だけであった。
ある。 『松前家記』には、 松前氏、本武田氏、源義光ニ出ヅ。義光ノ曾孫ヲ信義ト日フ、武田ヲ氏トス。 とある。源義光を祖とする甲斐武田氏の右の家系の述べ方というのは江戸初期の定型で、当時、 けいづしり 『広辞苑したちが、 稼業として成り立った「系図知」 ( 諸家の系図を偽作する者。 あなたの御家はむかし甲州におられたとききますから、甲斐源氏武田家の裔ということに 致しき ( しょ , つ。 といって、右のように書き出すのである。 よしのり さらに武田氏は足利期の六代将軍義教のころに若狭を領した。若狭武田氏というのだが、この 系譜も公認のものだから、万人が使用していし 『松前家記』によると、その家系から信広という者が出た。父に忌まれて数人の家来をつれて関 道東に出奔し、いったん足利在に住み、次いではるかに陸奥へゆき、蛎崎という在所に住んだとい のうのである。 海「たぶん若狭あたりの商人かなにかであろう」 と、『北海道の歴史』に北海道教育大の榎本守恵教授が書いておられるのは、するどい推量と いっていい。室町期は海外をふくめた日本史上最初の貿易時代であった。日本海航路の一要衝で もと かきぎき すえ
はやりを 逸男 ( 註・気合のかかった男 ) の佐々倉桐太郎 ( 註・明治四年病死 ) に対しては不平の態度を表 さはぎ なだ はして、或時の如きはピストルを持出すといふ様な騒などもあったので、勝頭取は之を宥め るのに余程苦心の様子であった。 赤松は長崎海軍伝習所の三期生で、この咸臨丸乗組の時期、右の学校を出たばかりであり、わ ずか十八歳であった。 一方、一八二六年うまれのプルック大尉は三十三歳で、早くから測量艦フェニモア・クー 号の艦長として中国や日本沿岸の測量に従事していた。のち米国海軍の海軍工廠長、海軍大学教 授などを歴任している。十八歳の学校出たての未熟な少年が、航海の経験の豊富なプルックに対 して、頭から前掲のような態度で見るということが、技術者とは別個の精神の反応とおもわざる をえない。要するに、職人の心で相手の職人を見ず、武士的な突っ張りのほうが過剰だったとい さらにいえば、日本人ーーとくに士族階級ーーが体で海軍を覚えようとする姿勢をとるには、 幕府がつぶれ、江戸的な身分容儀の文化が、明治維新で打撃をうけてからでなければならなかっ たといえる。 おなじことをいうと、ヨーロッパで成立した海軍というもっともヨーロッパ的なものを、素直 にヨーロツ。ハ式のやり方で身につけるには、旧文化の形式が過去のものにならなければならなか
152 「どうも、敵も味方も居そうにない」 榎本は望遠鏡をのそいてはつぶやいた。 たしかにそうであった。この時期、味方の土方軍は江差まであと五、六キロという上ノ国付近 で松前兵の抵抗に遭って行軍が手間どっていたし、江差を守る敵の松前藩兵は状況の不利に堪え かねて撤退してしまっていた。 かもめ 江差港は、港外の鵐島 ( 弁天島 ) が港を風浪からまもっている。松前藩はかってこの島に砲台 を築いていたが、この朝、その砲台も沈黙していた。ためしに射ってみようと榎本はおもい、砲 門をひらき、砲弾を送ってみたが、応射して来なかった。 このあと榎本は短艇を出して兵員を上陸させると、町に敵も味方もおらず、難なく諸役所を占 領した。榎本自身も、上陸した。多くの者が、ぞろそろと上陸した。 からうま 艦は、ちょうど門外につながれた空馬のように、港外に錨をおろして停泊した。 本本し。、いくつもの美質があった。しかし海軍を学んで幕府の提督だったわりには、すぐれ た航海者とはいえなかったのではないか。 もし彼が練達の航海者なら、江差の町で休息しているあいだに、寸刻を惜しんで江差港の内外 を測量させていたであろう。江差付近については、むろん海図などはない。そういう不案内な港 口付近に悠々と大艦と停めておくということに榎本は不安を感じなかったのかどうか。 いまひとつは、気象に注意すべきであった。 かみくに
144 逆に慶喜のほうが海上にのがれた。 かれはロシアのニコライ神父が期待したとおりの男だったし、もしかれがこのとき英雄的行動 をとれば薩長に対して圧倒的な兵力ももっていたから、たとえ先鋒同士の戦いで敗れても結局は 勝っことができたはずであった。 しかし慶応四年 ( 一八六八 ) 正月六日、先鋒が山崎方面で決定的に潰走したということをきく ) うえい と、大坂城の後衛をふくめた全軍をすて、たれにも告げず、夜十時ごろ、大坂城の後門を脱け出 たのである。 この慶喜の行動についてのとやかくはここでは述べない。 ただ慶喜における厄介さは、薩長人がかついでいるイデオロギーと同じものを持っていたとい うことである。薩長人のイデオロギーは水戸学イデオロギーであり、かれらが水戸を「精神の故 郷」 ( 土佐の田中光顕の回想録 ) とし、この当時は鬼籍に入っている水戸侯徳川斉昭 ( 烈公 ) を尊崇 することが甚しかった。慶喜はその水一尸徳川家の出であり、しかも斉昭の子であった。いわばイ デオロギーの本山の出身なのである。慶喜がそのイデオロギーに傾倒していたかどうかは疑問で あるとして、実父の遺訓という形でのつよい拘束があった。慶喜としては、戦いの途中で薩長の 側に「錦旗」がひるがえったということで、みずからころんでみせる必要があった。 もっともこの時期の慶喜はただで起きるつもりはなかった。 かれ自身の構想の中にある大名連合の新政体の統領もしくは議長ぐらいになるつもりだったの ではないか。
きこまれ、やがてはアイヌが奴隷的な賃銀労働者に転落してゆくきっかけになった。 直接、アイヌや流浪の漁民をとりあっかう手代というのは、間接的に藩権力を笠に着、どうい う悪辣なことをやったか、想像に難くない 江戸末期になると、松前藩の強烈なアイヌ搾取の実情は探険家を兼ねて蝦夷地に入りこんでく る幕吏たちの知るところとなり、幕閣に報告され、 蝦夷地を松前藩にまかせておけない。 という考え方が、幕閣を圧倒的に支配するようになる。探険家たちのほとんどがアイヌへの同 情者であり、松前藩への痛烈な批判者であったことは、明治以前の蝦夷地史を考える上でのわず かな救いといっていし 天明八年 ( 一七八八 ) に幕府が恒例の巡見使を出したが、この一行の供をした俳人の古川古松 軒 ( 一七二六 ~ 一八〇七 ) が『東遊雑記』を書いている。 かれらは、松前城下では三人の家老の屋敷に分宿した。その屋敷の規模は「門構、玄関に至る 道迄、江戸にて云はば諸侯の館の如し」と古松軒は松前藩の重臣の富におどろいている。 の家老でもない松前貢の居宅についても、江戸にひきあわせていえば、 「一万石の館程はあり」 レニ = ロ , つ。 古松軒と似たような時期に松前城下にきた江戸の狂歌師平秩東作 ( 一七二六 ~ 八九 ) は、城下一 へずっとうさく
辞書に責めを負わせる気はない。私自身、この国に五十数年も生きてきながら、知識のなかで、 この言葉も、この言葉のもとでかって息づいてきた動態も、ほとんど現実感をもっていないので ある。 他人を奴隷にして、おなじ人間である親方がかれらの生殺与奪の権までもってしまう制度は、 日本にはながく生きていた。 じ ) むらい 社会の基幹の部分では、豊臣政権の成立が、中世的な地侍とその下の小作人、名子の制度を断 ちきって、近世大名と自作農の関係を成立させたが、しかし、奴隷制の遺習は、江戸期ではたと えば吉原遊廓の楼主と娼妓の関係として生きつづけ、その名残りが昭和三十年代までつづいてき とはいえ、あらましは、室町期の応仁の乱といったふうななしくずしの革命というべき下剋上 現象によって中世はあらかたほろび去ったようでもある。 たとえば秀吉の大坂城築城は奴隷労働によったものではなく、近郊の百姓に米という通貨を支 払い、かれらが労働を売ることに十分功利的満足を得させることの上に成立している。アジア史 のにおける巨大土木が、農民をかりだして遠くへ連れ去り、その奴隷労力の上で成立したことをお 海 もうと、大坂城の土木工事は近世的なあかるさをもっている。 このことは、江戸期にひきつがれた。 さらには江戸初期から商品経済が発達し、中期以後、そのことによる前近代的合理主義が芽ば