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検索対象: 街道をゆく 15 (北海道の諸道)
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1. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

え、西鶴の文学などはその上に乗って、ときにはそれを謳歌し、ときには逆に義理という非合理 な倫理的緊張を恋しがったりしている。 そういう面での濃度の濃い社会が明治的近代国家にひきつがれた地方に私などは成人した。こ のため、つい、渡る世間に奴隷制などあるはすがないと心のどこかで思いこんできた。 が、北海道の土木工事や炭鉱労働のなかにそれがあった。 子供のころでも、なにかのたとえとして、 「タコ部屋のようだ」 と言いつつも、実態がわからず、たとえば大阪の釜ヶ崎などのかっての宿泊所で、丸太をタテ に割ったものを差しわたしておく、みながそれを枕にして寝るのだが、朝になると、係の者が丸 太のはしを木槌ではげしくたたいていっせいに目をさまさせる、といったぐあいの宿所の形態の ことだとおもっていた。 むろん、北海道での本物のタコ部屋はそうなっていた。ただその寝小屋に頑丈な扉がついてお り、タコとよばれる奴隷たちがいっせいに追いこまれると、重い錠がかけられるのである。 長じて、ざっとしたことを知るようになったが、まさかと思うことが多かった。それほど私に とって北海道は遠く、北海道に親戚もなく、この土地についての地下の情報が耳に入ることがな っこ。 、刀ナ′ 中年になって、北海道開拓時代の小説を二、三読み、タコ部屋についても多少は知ったが、知

2. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

230 当初は、水田はわずかしかひらかれていなかった。 最初に入植した人の子である泉谷さんがその母上からきいておられる話では、早々のころは米 は一年に二斗程度しかとれなかったという。 「私の高等小学校二年のころですが、親にいわれて餅をついた。暗がりの二時に起きて搗くので ようす すが、夕方までやっても四臼つくのがやっとでした。モチゴメにトウキビなどを入れるために粘 りが出ず、なかなか餅になってくれないんです」 「大和の十津川の暮らしも、貧乏の骨頂でしたよ」 十二歳まで十津川にいた青木さんがいった。 「平素は水ばかりの麦がゆです。米をたべるのは、盆と正月だけでした」 つづけて、 「そういう暮らしでしたが、 十津川の者はみな文字がありましたな」 低地の文化から孤立していながら江戸期以来、一村をあげて漢籍になじんできたのが、この地 で困難に遭遇したときの役に立ったのだろう、と青木さんはいうのである。 十津川大水害の翌年のうまれである青木さんは、ことし八十九歳になる。 髪をとどめていない円頂の下に濃い眉、白い口ひげが、顔の気品をたすけている。ずっしりと した声は、意味のたしかな言葉しか吐きださない。名刺を見ると、 いまは新十津川町に住んでお られず、白糠郡白糠町とあり、白糠町名誉町民とある。

3. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

174 弁使 ) 森有礼に就任を折衝させ、やがて黒田がみずから渡米し、森ともどもに交渉した。 「おはん、お出で賜はんか」 と、この戊辰戦争生き残りの男が説いている相手ーーケプロンーーーは、米連邦政府の農務長官 なのである。その後の日本でいえば大臣にも相当する男をスカウトしようというのは、明治の草 創期の人間らしい蛮勇といってよかった。 黒田には、ケプロンの能力などはよくわからなかったにちがいない。 かれが知っていることといえば、米国が、欧州からの移民による開拓でできあがった国である この時期の北海道をもって、開拓期の北米大陸に擬していたらしい ことと、その国の農 務長官であること、退役陸軍少将であるということぐらいだったろう。黒田はそれだけで北海道 に招ぶに十分ふさわしいと思ったようである。 ケプロンがもし東洋的権威主義をもっているなら、ことわったことであろう。米国の農務長官 たる者が、それを辞めて極東の新興国の一島嶼の開拓の顧問になれ、というのは、失礼を通りこ して滑稽ではないか。 黒田が、どういう段取りで説いたか、よくわかっていない。黒田がまずケプロンを説き、これ を動かし、次いでグラント大統領に会ってその承認を得た、という説が、ほば妥当のように思わ われる。が、グラントの承認は容易に得られなかった。かれはケプロンがそのまま米国の農務行 政にとどまることを希望していたのである。 「年俸一万ドル」 たも とうしょ

4. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

者については、これを差別してきた。 こういうーーーー南方的気候にくるまれた 北海道の広さは、九州の二倍はある。 というよりも、非稲作国でいえば、スイスとデンマークをあわせたよりやや小さい デンマークにくらべると緯度からいえばずいぶん南にある。気温は、冬季こそ札幌はコペンハ ーゲンよりやや低いが、春から秋にかけてはむしろ高い 十九世紀末期における条件としては、石炭の点で北海道のほうがデンマークより有利であり、 漁業、牧畜の点では条件はさほどかわらない。農業の場合、基礎条件として北海道では「火山性 地」や、それに伴って出来た泥炭地が多く、この点、デンマークに劣るが、大きく均していえば 著しく劣悪ということではない。 それでもなお、北海道はデンマークの経済や文化をもっことができないのである。決定的なこ とは、ヨーロッパ史と、二千年の稲作という単純な基盤ーーーそれがわるいというのではなく 道の上に成立してきた極東の孤島の歴史のちがいであるといっていし の 道 明治初年の北海道は、暮らしから農業、牧畜のはしばしにいたるまで開拓使庁が指導した。 その基本構想をつくったのは、開拓使顧問米国人ホーレス・ケプロン ( 一八〇四 ~ 八五 ) であっ た。ケプロンについては、開拓使次官である薩人黒田清隆が、米国駐在の公使 ( 当時の呼称は少務 民族に、北海道が手に合うはずがなかった。

5. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

なんとかいい方向に持ってゆこうと決意したためで、かれ自身の『遭厄自記』という文章のなか 此上は、両国和平の義、相願、何分にも宜敷取計申度心底。 ということばがある。武士階級には漢文調に壮語すれば大むこうがほめてくれるという意識が あったが、商人がそれをやったところでたれもほめない。嘉兵衛のこの文章はかれの皮下神経か ら出たものではなく、その肉質からにじみ出たもので、十分な重味がある。北洋漁業者でもあっ あつれき たかれにとって、日露の無用な軋轢でこの水域の平和がみだれることはもっとも望ましくなく、 そういう意味からもこの言葉には十分のリアリズムがある。 リコールドは、嘉兵衛以外に四人の人質を欲した。ゴローニンらが複数である以上、当然な処 置といえる。嘉兵衛は、 「私一人では、いかんか」 と、何度も主張したが、リコールドはゆるさなかった。結局、嘉兵衛自身、観世丸にもどって 一同に相談したところ、水主たちのうち十三人が人質を志願した。嘉兵衛の人望がどういうもの であったかがわかる。 そのうち、四人が選ばれた。 嘉兵衛の『遭厄自記』によれば、備前ノ金蔵、小豆島ノ文治、同所ノ平蔵、淡州ノ吉蔵である。 あひねがひ よろしくとりはからひまうしたき

6. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

と松ノ岱の上の保存室で、教育長の石橋さんがいった。この人は諸事控えめなひとで、終始微 笑は絶やさず、言葉かずを極度に吝しむようにしておられる。しかし脱塩作業のことになると、 つい多弁になった。もっともそれでさえ二分ばかりことばがつづいただけだったが。 「東京へ江差の者が参りまして」 その方面の科学技術の専門家たちをたずねまわったという。 やがて江差方式が確立した。 松ノ岱の上の建物のなかでその方式の説明をきかされたが、よく頭にのみこめなかった。とも かく松ノ岱を降りて、海岸の「現場」へ行ってみた。 むかし占領軍のキャンプにカマボコ兵舎がよく見られたが、あれと似た青い建物がいくつか地 に伏せていて、それが作業場だった。 入ると、遺物が性質ごとに類別されて、数多くの水槽に浸けられている。 塩ぬきのためのもので、それらの水槽を一基ずつのそいてゆくうちに、説明がすこし腑に落ち るよ , つになった。 「鉄より真鍮のほうが、塩ぬきに時間がかかります」 町長の本田さんがいった。鉄は一年、真鍮は一年半という。 金属系遺物は水槽につけて水道の水を流しこむだけだと、むしろ海底にほうっておくほうがま だ安定的であるらしい。町ではさまざまな試行錯誤のすえ、アルカリ溶液によって脱塩するとい

7. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

162 昭和四年にはじめて工学的な意味での港になった。防波堤ができたのだが、開陽丸にとってま ずいことに、港内の海底の様子が変ってしまった。 それまで江差の漁師仲間のなかで、海底に沈んでいる開陽丸を海面からのぞき見たという人が いたらしい 。ところが、防波堤ができたためにその内側への海底の流れがよどみ、土砂やヘドロ が集積して遺物をすべておおってしまい、船体を見たという故老もいなくなるとともに、沈没場 所がわからなくなったのである。 昭和四十年に入ってから、江差港はさらに大きな規模で築港されることになった。 その第一次の工事として″外東防波堤〃とよばれるものができた。江差の港域の北岸から腕を 海へつき出して南にむかってカギの手に伸ばしたもので、北からの風浪をふせごうという仕掛け であった。 が、開陽丸の沈没箇所がわからない。 わからないまま、右の工事に併行して開陽丸についての文献研究がはじめられた。諸官庁や各 ちょう 方面の応援を得たとはいえ、あくまでも江差町が推進の母体になりつづけたのは、自治体として みごとであったといえる。 たとえばオランダ大使館にたのみ、オランダ本国から資料を送ってもらうことにした。オラン こた ダ側は大きな好意でもってこれに応えてくれたが、ただ江差に送られてくる文献は当然なことな がらオランダ語であった。 この小さな町には、オランダ語学者がいない 。といって東京あたりの語学者にたのむというの

8. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

いま私が住んでいる町は大坂城跡から東南東へ直線六キロのところにあるが、江戸期はほんの わずかな集落が散在しているだけで、あとは一望の棉畑であった。とくに駅前にいまも大きな長 屋門をのこしている山沢さんという分限者の棉作地は、はるかに生駒山のふもとまでつづいてい たといわれる。 「棉をつくるより田をつくれ」 というのは、コメの減収をおそれた幕府の初期段階での方針だったが、この時代の熱病のよう な棉作盛行をおさえることができなかった。 棉作百姓たちはあらたに工夫して、田のウネに平行して大きく土を盛りあげ、棉をうえる床を つくって一枚の田からコメと棉とが穫れるようにした。 「棉は五倍」 などといわれたりしたのは、稲作をやっているよりもはるかに収益があるということであった。 とくにせま ただ棉は多くの「蝶」をつけるにはすさまじいほどの肥料を投入せねばならない。 い土地で多収穫を期待する江戸中期以後の畿内農業のやり方では、金銀を土のなかに埋めこむよ うな方法がとられた。肥料はすべて、 きんび 「金肥」 であった。はじめは干鰯が投入されたが、 それでも追っつかす、鰊が用いられるようになった。 大阪の市中に靱という問屋街がある。 えんかん 豊臣期から塩乾物の魚が売られる町であったが、江戸中期から船場と肩をならべるほどの商業 うつば にしん

9. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

みつつもそのようなことをせざるをえなかったのである。 蝦夷松前の領主松前慶広は、中国でいえば明代のひとであった。かれが文禄二年 ( 一五九三 ) 正月に名護屋の徳川家康をその陣屋に訪うたときに脱いだ蝦夷錦 ( とおもわれる ) の十徳は、以上 のような経路をつたって蝦夷地のアイヌが手に入れたもので、むろん松前慶広という蝦夷地の居 住者は、山丹交易の世界をよく知っていたはずであった。 ひるがえっていえば、その当時の蝦夷アイヌの交易世界がそれほどに広大だったということで もある。 かれらは樺太アイヌに、和人から得た鉄器を渡して山丹の錦を手に入れ、それをまた和人に渡 して鉄器その他必要なものを手に入れていた。 もっともこの経路図を考えると、中間にいる″商人〃としての蝦夷アイヌも樺太アイヌも、ど れだけ儲けていたか疑問である。儲けたのは錦を本土に持ち帰って高く売っていた和人の商人だ けではなかったか。 道「なるほど、世界は広大なものよの」 の と、家康は慶広から山丹交易のはなしをきいて、そのように感嘆したかどうか。 道 海 まくりよなんわ 明は漢民族の王朝で、さまざまな理由からさほどに豊かでない上に、当時、北虜南倭といわれ た北方の騎馬民族や南方沿岸の倭冦のわずらいになやまされつづけた。「南倭」の最大のものが、

10. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

ちどっている峰々が、うすく雪をかぶっていた。この高さで、なおも石狩川が消えずに存在して 午後五時四十分、石北峠近くにまでのばったとき、はじめて石狩川の水流を見なくなった。 石北峠を東にこえると石狩とは別世界になり、行政的にも網走支庁の管轄に入る。諸川の流れ も、すでに東方にむかっており、くだってゆく斜面の景観もひくい原生林になった。その緑の海 のなかを道路がかきわけていて、あとをふりかえると、そのまま航跡のようにみえる。 オンネュ その夜、温根湯にとまった。 この間、関寛斎のことを考えつづけてきた。 寛斎は、芦花に自分を紹介したように、「元来、医者」であった。 蘭学は、江戸文化という広大な画面にほそくするどくひっかくようにしてたてに走っている金 すじ 色の条であるといっていし オランダ医学を単に蘭方という。江戸期でも幾節かの発達の痕跡があるが、幕末に熟成した。 寛斎はその熟成期の代表者のひとりである。 ・スポーツといわれているように、江戸末期の蘭方とその徒の ボクシングや相撲がハングリー 関係も多分にそれに似ている。 蘭方家の多くが農民の出か、窮迫した下士層の出であることを思わねばならない。蘭方を習得 こだいみよう することによって士分階級に入ることができたし、できるどころか、小大名にひとしい位階をも せきほく いくふし