蝦夷地 - みる会図書館


検索対象: 街道をゆく 15 (北海道の諸道)
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1. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

者については、これを差別してきた。 こういうーーーー南方的気候にくるまれた 北海道の広さは、九州の二倍はある。 というよりも、非稲作国でいえば、スイスとデンマークをあわせたよりやや小さい デンマークにくらべると緯度からいえばずいぶん南にある。気温は、冬季こそ札幌はコペンハ ーゲンよりやや低いが、春から秋にかけてはむしろ高い 十九世紀末期における条件としては、石炭の点で北海道のほうがデンマークより有利であり、 漁業、牧畜の点では条件はさほどかわらない。農業の場合、基礎条件として北海道では「火山性 地」や、それに伴って出来た泥炭地が多く、この点、デンマークに劣るが、大きく均していえば 著しく劣悪ということではない。 それでもなお、北海道はデンマークの経済や文化をもっことができないのである。決定的なこ とは、ヨーロッパ史と、二千年の稲作という単純な基盤ーーーそれがわるいというのではなく 道の上に成立してきた極東の孤島の歴史のちがいであるといっていし の 道 明治初年の北海道は、暮らしから農業、牧畜のはしばしにいたるまで開拓使庁が指導した。 その基本構想をつくったのは、開拓使顧問米国人ホーレス・ケプロン ( 一八〇四 ~ 八五 ) であっ た。ケプロンについては、開拓使次官である薩人黒田清隆が、米国駐在の公使 ( 当時の呼称は少務 民族に、北海道が手に合うはずがなかった。

2. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

商店の軒下に自転車が一台乗りすてられている。そのそばに荷物の空箱がつみあげられている が、そういう面ざしが深川に似ている。 つる また軒下に土を入れた古い石炭箱が置かれていて、花をすぎた朝顔の蔓がそのままになってい とちょう る。小竹ほどに徒長したひまわりが一本植えてある家もある。この広大な田園地帯のなかで、軒 下に朝顔やひまわりを植えなくてもよさそうなものだが、どうしてもそれを植えないと生活文化 として落ちつかないというのが、深川ぶりというのではあるまいか。 「深川湯」 という銭湯もあった。この銭湯のたたずまいなどは、そのまま東京の深川の一角にあってもお かし′ない 午後一時二十五分、景勝とされる神居古潭の渓谷をすぎた。 「もうすぐ旭川です」 運転手さんがいったが、すぐ山中に入ってしまった。 二十分ほども山中を蛇行するうちに、旭川の西郊の台場 ( 地名 ) にとりついた。 かみかわ 地図でみると、旭川の市街地とそのまわりの田園は上川盆地の底にある。私どもはすりばちの ふちの西の一点に達したわけで、ここから市街地は、吸いこまれるようなくだり坂である。 上川盆地には四方八方の山々から大小の川が旭川にむかって流れこんでいて、その点、盆地底 は大人口を養うに足るが、水害の危険が多いにちがいない。坂をくだってゆくうちに、目の下に カムイコタン

3. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

でなくなってしまう。 月形の北方に入植した新十津川村のひとびとも、それをやった。 しまここで想像するだけでもつらさが先立つ。 かれらの入植が冬であったことは、、 この地上に雨露を凌ぐ 春を待っという贅沢がゆるされなかった。十津川渓谷で家をうしない、 屋根をもたないひとびとにとって、たとえ氷を割ってでも目的地に身をおちつけるほかなかった。 たまたま現在の新十津川村の北方の空知太に、百五十戸という多数の屯田兵兵舎が建てられた ばかりで、二千四百八十九人はそこを借りて越冬することになった。 この屯田兵の兵舎と類似のものが旭川に一戸保存されているが、板屋根に外界を隔てる壁は板 ひとえ 張り一重という粗末なもので、家屋そのものが隙間風でできているようなものであった。私は西 洋のウサギ小屋というものを見たことがないが、西洋のウサギなら凍死するのではないか。 幕末、幕命によって松前警備に行った津軽藩士が初年度で大量に死んだことがあるが、空知太 の屯田兵兵舎に借りずまいした十津川人も、最初の冬を越すうちに百人ちかくが風邪や肺炎で死 んだ。 道私有地が、くじびきで決められた。 の兵舎を出て、それそれの土地に入ったのは六月になってからで、このあと、密林をひらく作業 であけくれた。初年度は三反ほどの平地をひらいて自家用の作物のたねをまくのがやっとだった という。その作業も、まき付けの時期が遅かったためにそばと大根だけであった。

4. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

とくにガラス窓をつかったところがみそであった。それまで寒気をふせぐために窓を穿たない カラスはむろん、 家が多かったこの地で、ガラス窓は採光と防寒を一挙に兼ねるものであった。・ 輸入品であった。この第一号官舎は「人民ノ模範」にするために、建った早々、一般を見学させ た。ひとびとはガラスにおどろき、 「ガラス邸」 と通称したというが、容易に普及しなかった。本州から身一つでやってきたひとびとが、その 住居を洋館にし、窓に舶来のガラスをはめるなどは、夢に見ようと思ってもできない相談であっ たろう。 建築については、大工の手間賃が大変であり、とりわけ板を挽き割ることには時間がかかった。 黒田はこれを機械化して建築という作業を手つとりばやいものにしようとした。 このため動力 ( 蒸気と水力 ) による製材機械を米国から買ってきて、札幌に据え、官庁の建物 はすべてこの材をつかい、民間にも放出した。 蒸気の機械鋸が札幌に据えられたのは明治五年八月十日で、ケプロンによると「直径二呎、 道長さ一四呎もある材木がわずか一〇分間で板になってしまったことにひとびとは目をみはった」 のとい , つ。 海 札幌では機械鋸が旋回しても、それ以外の地は絶望的なほどに未開であった。 さきにケプロンが、小樽から石狩海岸を縫ってタ刻銭函の漁村に入ったということに触れた。 ひ

5. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

半島そのものが大山塊で、山が海へ落ちるきわを削りとったのがこの道路だが、それでも途中、 山中に入る。知内町から山へ入り、福島町に入るのがそれで、福島町からふたたび海ぎわを走る。 「松前町へは、ずいぶん遠いですな」 運転手さんに声をかけてみた。遠い、というのは、早くから人文のひらけた函館湾周辺の平野 からの距離のことである。当時″広場恐怖症〃だったかと思われる和人たちが、できるだけ広濶 地をさけ、断崖海岸のはるかな彼方にかくれすんでいた感じもしないではない。 カラスは、もう一羽もいない。人里を恋しがるかれらは、人煙のすくない地には棲まないので ある。 松前氏がアイヌの反乱をおそれることの甚だしさが、この道路をゆくにつれ、肌身でわかって くる感じがする。松前氏の居城である福山城 ( 松前城 ) が、城郭の構造としても、その恐怖をよ くあらわしている。 かくない 戦国末期以後のいわゆる城というものは、その郭内に多数の重臣の屋敷を置くことによって大 要塞の内部の小要塞の役目を負わせるのだが、松前城 ( 福山城 ) は郭のまわりにわすか数軒の家 道臣屋敷があるのみである。城下にはふつうの城下町のように下級武士が武家町を形成するという がことはなく、それらは商家や漁家と雑居していた。 海高級武士の屋敷は城下の平地にはなく、城郭とならぶ丘々の上に、高のばりするようにして営 まれているのである。 要するに、アイヌの襲撃があった場合、丘ならば防戦に役立っということであろう。 しりうち だいさんかい

6. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

という。おなじ苛酷な条件のなかで、開拓民ならまだしも多少の自由も自主もあり、ときに創 意をこらすよろこびもあったかもしれないが、軍隊組織のなかではそういうものは期待できない そのことは、私のような者の軍隊経験を通してかすかに想像できる。 榎本守恵氏の『北海道開拓精神の形成』 ( 雄山閣 ) からその一部をひくと、 にな 屯田兵ハ重キ護国ノ義務ヲ負ヒ、且拓地殖産ノ任務ヲ担フモノニシテ、其ノ責任軽カラザル ハ言フマデモナク、世ニ比類ナキ政府 ( 註・筆者傍点 ) ノ保護ヲ受クルモノナレバ、官ノ規則 ヲ厳重ニ守ルベキハ勿論、猶此教令ニ従ヒテ本務ヲ完ウシ : いへども 汝等ハ当初 : : : 厚キ給与ヲ受クルト雖其ノ給与ノ止ミタル後ハ、拓地殖産ノ事業ニョリ得ル 収益ヲ以テ一家ノ生計ヲ立ツルモノナレバ、若シ其ノ事業ニシテ発達セザルトキハ一家ノ生 計立タザルニ至ル・ヘシ。 だから懸命に働け、という。 しかしながら、年季がおわると逃げだす者が多かった。北海道全体の屯田兵の定着率は戦前 おいて二割ぐらいしかなかったという。 榎本氏は、前記著作のなかでいう。 屯田兵と囚人とは、名誉と汚名との違いがあり、程度の差はあるが、共に検束労働力である。 なは まった

7. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

ぜ建てなかったのだろうか。 とりなほ 「屯田兵ノ一家ハ取モ直サズ往昔ノ武門武士ノ列ニ加ハリタルニ等シケレバ」 と、一方で近代的な法社会をつくりながら、北海道の原生林のなかでは、過去の封建的身分に なそらえてもちあげている。「武門武士ノ列」ならば玄関のひとつもあるべきものなのだが、そ うではなくて出入り口は便所の戸板のようなもの一枚でふさがれているだけである。ひとを寒地 に追いやって美辞麗句でおだてあげる体質とはどういうものであろう。徴兵令という、半面にお いて百姓蔑視の精神をともなっている明治以後の陸軍の基本的な性格と無縁ではない。 ささ かみ 「汝等ノ身命ハ、上天皇陛下ニ捧ゲ奉リシモノニシテ、自身ノ生命ニハアラザルナリ」 ( 「教 令」 ) と、たれもそういう契約をしたおばえもないのに、とんでもない修辞をやってのける。こ ういう美文で封建期以来ひとびとがもちつづけている忠誠心を刺激し、万事を解決しようという のである。最初にこういう文章を書いて、屯田兵という本質的には世帯もちの農民であるひとび とに押しつけた人間というのは、どういう神経の、どういう顔をした人物だったのだろうか。 お前はある人の所有物であって、お前自身のものではないぞ。 道というのは、自分一己の個人的信条ならともかく、第三者にいえるものではないし、たとえば の戦国時代の武将で、もし士卒にこういうことを言った者があるとすれば、狂人としてあっかわれ ヒるか、さもなくば即座に没落したにちがいない。 ともかくも、なま身の人間をこういう小屋に入れて寒冷地開拓をやらせた政治家や役人どもの おそろしさを記念するという意味でも、この標準兵屋はながく保存されていし

8. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

日本の伝統的な住居が、多分に南方的であることは、どこかで触れた。 そのとき触れたことを繰りかえすと、朝鮮や北中国で古くから用いられてきたオンドル ( 焼 ) でさえ日本に入らなかった。 日本列島の西南端で興った稲作文明が、多分に古代江南型 ( と想像する ) の南方的な住居思想 を付帯しつつ津軽にまでひろまったわけであり、その後、住居のカタチこそ変化すれ、建築の基 本思想が夏むきであることには変りがなかった。 道このことは、最初に主食の生産とともに根付いた文化というものが民族の歴史のなかでいかに の変化しがたいものであるかを思わせる。 海 開拓使次官黒田清隆に委嘱されて北海道開拓計画をつくった米人ケプロンが、最初にこの地に 上陸したのは明治四年 ( 一八七一 ) である。 ように残っている昼の名残りの空のほうが美しかった。 住居と暖房

9. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

「冬は寒いですか」 そのことについても、寒いです、とはいわれず、 「旭川とならんで、道内では最極寒の地といわれています。気温はマイナス三〇度までさがりま というふうで、こういう客観主義的な説明法は、ながくアメリカでしごとをされた経験と無縁 ではないとおもわれる。 ついで経験的に 「私どもこどものころ、冬、ふとんをかぶって寝ていますと、いつのまにかふとんのえりに霜が びっしりつきます」 「ですから」 ですから。 と、つづけられて、 「米はとれません。町はいまでも材木と酪農でたべています」 と、 いう。話をきいて私が想像したのは、陸別とは原生林の大樹海がまるくきりひらかれた円 内に、原生林を城壁のようにして町が息づいているというふうなものであった。幸い、この想像 はのちに現地に行って裏切られなかった。 。しうまでもなく七十三歳で入植した寛斎であ このあたりをひらいて人里にした最初のひとよ、、 る。かりに寛斎がべつの土地を選んでそこをひらいたとすれば、陸別はいまなお原生林のままで

10. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

前記『みゝずのたはごと』のそのくだりをさらに引くと、 元来医者で今もアイヌに施療して居る話、数年前亡くなった婆さんの話などして、自分は婆 の手織物ほか着たことはない。此も婆の手織だと云って、木綿羽織の袖を引張って見せた。 面白い爺さんだと思ふた。 自然と人間という思想的な話題がつづいているときだけに、寛斎が、自分の袖をひつばってみ といったのであろう。 せて、わしは亡妻の織ったもの以外の着物を着たことがない、 私はこの北海道旅行までの数年、『胡蝶の夢』という連載小説のなかに登場する関寛斎につき あってきた。その連載がおわろうとする時期に、道内の各地を歩いている。 りくべっ この旅の最後に、寛斎が拓き、そこで死んだ陸別の地をたずねるつもりで、旭川を経由した。 旭川を出たのは、午後三時半ごろである。 ( 陸別は遠い ) というおもいが、地図を見るたびにかぶさってくる。 途中、大雪山の大山塊を東にこえねばならない。 「大雪山の山中で夜になると、たいへんですね」 上川町を経て、大雪山に入ったのは、五時ごろである。 ひら