「函館のあと、オロフレ峠へゅこうよ。今頃、すごい黄葉だぜ」 その旅は、函館が目的地であった。 今さんが『お吟さま』という小説で直木賞をもらったのはその前年ーー昭和三十一年ー・、・だっ たような記憶がある。当時、私がっとめていた新聞社がこの人に小説の連載をたのんでいて、そ の取材のために担当者の私が同行させられた。 今さんは、幼年時代の一時期を函館ですごした。 「函館にプロテスタント系の遺愛女学校というのがあってな。おれはその付属幼稚園に通ってい たんだよ」 今さんは一八九八年のうまれである。このときすでに数えて六十だったと思うが、この人が可 愛いスモックを着て幼椎園に通っているというのが、なんとなくおかしかった。 「日露戦争がはじまった年だよ」 私が幼稚園に入ったのは昭和恐慌のころで、今さんとは二十五歳離れている。 このときの函館ゆきは、思い出が多い 大阪から羽田まで日本航空の便で行ったが、私は飛行機がはじめてだったし、今さんのように 世間のひろい人でも、二度目だった。 「あれは、窓から顔を出すと、あぶないんだよ」
172 ってくれないように思われる。異国的ではあったが、大正時代の女給の洋装のようにひどくチャ チな感じがしないでもなかった。 日本というのは、明治初年の一時期以後、北海道を忘れてしまっていたのかもしれない。 と、道内を歩きながら思ったりした。 古典的な地理的感覚での日本とは、この列島の稲作と稲作文化の北限 ( 青森 ) までをさし、稲 作の及ばない ( いまは大いに及んでいるが ) 北海道は別天地とされた。 えぞち たとえば、蝦夷地は寒いとされた。 この寒さの感覚には、肉体的なものよりも、元来亜熱帯の植物である稲に即した感覚のほうが そと 濃厚だったにちがいなし不イし。 、。旧乍こよ不向きという絶望の思いが」 ヒ海道を外ケ浜 ( 青森 ) のかな たーー地理意識の上でーー・・に追いやっていた。 われわれの日本についての歴史地理や社会意識は、多分にそうしたものに根ざしている。たと あまみ えば近世の薩摩藩が稲作の可能な種子島までは直轄領とし、稲作に不適な奄美などの西南諸島は しまもん しまごろ 藩の植民地とし、この諸島の住民を「島者」「島五郎」として差別し、人頭税を課して搾取のみ の対象とした。まことに、稲作だけでできあがった単純な社会が、紀元前三世紀ごろに弥生式農 耕が入ってきて以来の日本であった。生産も宗教も、日常の道徳や規範も、むろん政治も、さら には近世で成立した商品経済さえも、稲作から出、稲作にもどるという単純な構造をもっていた。 稲作を支配する者は律令貴族であり、中世以後の武家であり、一方、稲作にまったく参加しない
東岸に家を建てて土着した。 おうさかしん′ ) 以上のことは、逢坂信恐の『黒田清隆とホーレス・ケプロン』を読んで知った。さらには江戸 ノ ) も、この志村鉄一の豊平川東 末期におけるもっともすぐれた探険家松浦武四郎 ( 一八一八 ~ 八、 岸の家にとまったらしい。松浦武四郎には日記、報告書、書簡が多いから、丹念に読めば何か出 てくるかもしれない。が、ざっと目を通したところでは、志村の名は出ていないようである。 おやとい ついでながら幕府の御雇だった松浦武四郎は明治政府にも一時期出仕 ( 明治元年から同三年まで ) このとき、明治政府の諮問にこたえ、北海道という名をつけた。 かれの「道名の義につき意見書」によると「夷人 ( 註・アイヌ ) 自ラ其国ヲ呼ンデ加伊ト日フ」 おん とあり、その音をとったのが、命名発想の根拠という。 発想の順は、はじめ北加伊道とし、次いで加伊を海に変え、北海道とした。ちなみに武四郎は 文章だけでなく絵もよくした。旧幕時代、すでに北海道人という雅号をつかっていたことを見る と、かれ自身、早くからこの地をそのようによびたい気持があったのかもしれない。 さらにいうと、武四郎は卓越した地理探険者である一面、ユーモリストでもあった。もっとも らしく理由をのべつつ、結局は自分の雅号を地名にしたのかとも思えたりする。 道路は、石狩平野を北上して石狩町で海岸に出る。この国道号線は、ふつう石狩街道とよば れている。 まわりはまことに北海道らしい大平野である。しかし、農業や林業においては、見かけほどの
222 明治二十三年の国会開設、帝国憲法の発効に置かれるが、それが実質的に完了したのは、明 治三十一年の民法施行、同四十一年の刑法施行の時期まで下るとしなければならない。 従って行刑制度のごときも、それが純ヨーロッパ風な近代的なものになったのは、明治四十 一年三月廿八日、法律二十八号を以て監獄法が公布された時以後であって、それまでは所謂 過渡の時代である。 と、される。 樺戸集治監ができた明治十四年というのは欧米を参考にした改正監獄則が施行された年だった から、受刑者にとってそれ以前よりすこしはましだったかもしれないが、しかし行刑思想そのも のが陰惨な江戸期の思想を遺伝的にうけついでいる以上、やはり「官」がつくるこの世の地獄だ ったにちがいない。樺戸には、佐賀ノ乱や西南ノ役の政治犯も入っていた。 私の手持の本で、明治初期にこのあたりを旅行した人の紀行がないかとさがしてみると『明治 初年・北海紀聞』 ( 清野謙次・編。岡書院、昭和六年刊 ) というのがみつかった。内容は、福岡県士 族で各県の県令を歴任した安場保和という人物が官命で北海道を巡回したときの日記が中心にな っている。 明治十七年八月九日午前八時、札幌を出、途中、駅馬車に乗ったり、騎行したりして、同日午 後五時に当別に着き、一泊している。 翌朝、当別を出て「午後十一時四十分、樺戸集治監ニ達ス」とある。「コノ間ノ里程六里、山
っ将軍の侍医 ( 奥御医師 ) になる例もすくなくなかった。 寛斎も、九十九里浜にちかい土地の貧農の子としてうまれた。飢餓が、学問習得についての克 己心と、身分上昇へのあこがれを持続させたということも、寛斎のある時期、あったかもしれな が、成人後にその形跡がみられない かれは、十九歳で佐倉の蘭学塾順天堂に入り、五カ年まなんだ。この間の学資は、かれの故郷 で寺子屋をひらいていた養父が出してくれた。 業をおえて銚子で開業し、やがて土地の富商で先学者でもあった浜口梧陵のすすめをうけ、さ らにはその援助をもうけて長崎に留学した。 長崎では、ポンべが開講していた。 この時期までの江戸期の蘭学は、ひとびとが私的に師匠をもとめ、各自が非組織的に読みかじ ホンべの来日によってはじめ った、いわば西洋科学という茶碗の細片のようなものであったが、。、 て西洋の医学校と同じ内容でもって組織的に教授された。 道この間、ほんの一時期ながら墓府の軍艦臧臨丸の軍医をつとめたり、またポンべの指導のもと のに患者を診たりした。この患者のなかに、熊本から出てきて治療をうけた芦花の父がいて、芦花 は父からその名医の名をきいていたが、初対面のとき、とっさにはむすびつかなかった。 長崎での業を卒えてから阿波徳島藩 ( 蜂須賀家 ) にまねかれ、医官の筆頭の座につく。ほどな おくおい
机上で見れば徳川 ( 旧幕 ) 方が負けるはずがなかった。 ただし日本の変動期というのは奇妙なもので、源平決戦のときもそうであり、関ヶ原のときも そうであったように、旧時代を背負う勢力が兵力も多く、決戦場における地の利の点でも有利で あったのに、あたらしい時代を背負う兵力寡少の側に負けてきた。歴史の生命現象かと思えるが、 このことを珊じはじめるときりがない たけあき ともかくも、榎本武揚は徳川方は不敗だとおもっていた。 けっすべく 戦ふ節は、三日位ニて決可 : ・ と、榎本は十二月十四日 ( 慶応三年 ) の日付で、江戸の家族にあてて書き送っている。末尾に、 かいやうおふね したた 夜、兵庫港開陽御船一一て認む。 道とあるのが、印象的である。 の この時期、かれの職名は軍艦頭並で、これはすでにアドミラルであろう。実務的には開陽丸を 道 海 旗艦とする四隻の艦隊の司令官であった。 かれの開陽丸に対する愛情と信頼のつよさは、かれ自身になってみなければわからないほどの ものであった。
120 たろう。 ついでながら幕府が鉄製軍艦を米国と購入契約するのは、開陽丸注文の時期から五年後の一八 六七年 ( 慶応三年 ) である。わざわざこのために勘定方吟味役の小野広胖という者を渡米させて 契約するという熱心さであった。 これがのちに明治政府の資産になってしまう「甲鉄艦」であった。このふねは米国籍時代はス トーンウォール・ジャクソン号とよばれ、日本の横浜に到着したときは幕府瓦解直後で、戊辰戦 争の最中というわるい時期だった。このひきとり方について、海軍力の薄弱な京都の新政権がっ よく要請したが、米国は内乱に対する局外中立を守る上から、米国籍のまましばらく港内に繋留 した。「甲鉄艦抑留事件」というのは、新政府が体験した最初の外交事件として著名である。 新政府がこの艦をひきとるべく固執したのは、この一艦の威力で榎本武揚がひきいる旧幕艦隊 と対抗できると思ったからであり、また米国側が国際法をたてにひきわたしを保留したのも、こ の艦の威力が大きかったからである。 もし幕府第一号の巨艦開陽丸がホイへンス大佐の忠告どおりに鉄製艦になっていたとすれば、 幕府瓦解前後の混乱はさらに大きかったにちがいない。 し、よげ・ん 開陽丸の諸元は、つぎのとおりである。 ーク型三本マスト。補助エンジン ( 四〇〇馬力蒸気機関 ) つき。 排水トン数二五九〇トン
いま私が住んでいる町は大坂城跡から東南東へ直線六キロのところにあるが、江戸期はほんの わずかな集落が散在しているだけで、あとは一望の棉畑であった。とくに駅前にいまも大きな長 屋門をのこしている山沢さんという分限者の棉作地は、はるかに生駒山のふもとまでつづいてい たといわれる。 「棉をつくるより田をつくれ」 というのは、コメの減収をおそれた幕府の初期段階での方針だったが、この時代の熱病のよう な棉作盛行をおさえることができなかった。 棉作百姓たちはあらたに工夫して、田のウネに平行して大きく土を盛りあげ、棉をうえる床を つくって一枚の田からコメと棉とが穫れるようにした。 「棉は五倍」 などといわれたりしたのは、稲作をやっているよりもはるかに収益があるということであった。 とくにせま ただ棉は多くの「蝶」をつけるにはすさまじいほどの肥料を投入せねばならない。 い土地で多収穫を期待する江戸中期以後の畿内農業のやり方では、金銀を土のなかに埋めこむよ うな方法がとられた。肥料はすべて、 きんび 「金肥」 であった。はじめは干鰯が投入されたが、 それでも追っつかす、鰊が用いられるようになった。 大阪の市中に靱という問屋街がある。 えんかん 豊臣期から塩乾物の魚が売られる町であったが、江戸中期から船場と肩をならべるほどの商業 うつば にしん
27 北海道の諸道 寒 冷 と 文 どこの国でも、箱館におけるあの年老いた遠藤や藤原以上に気心の合う、暖かみのある人に は出会わなかった。 記録者は「この二人の高官の紳士的な態度と知的な物腰に、われわれ一同は大いに気に入っ た」としている。かれらは松前勘解由と三人の随員の記念写真を艦上で撮り、それを木版画にし たものを、右の本にかかげている。以下は私自身の驚きだが、勘解由の顔が私の古い知人と瓜二 つであった。その知人も松前姓で、先祖は家老かなにかだったときいている。 初期の松前衆はともかく、江戸期のある時期から松前文化というべきものが沈澱し、蒸溜され ていたらしいことが、アメリカ人がみた右の人々の印象でも想像しうる。印象のすべてが「南方 ( 註・下田奉行所 ) の友人とはちがう」、と記録者はのべているのである。 函館空港の空港ビルは出入りの客でごったがえしていた。
戦国期から、貴重なものとしてほんの少数の武将たちに用いられはじめたのである。 こんろん 説明的には、平安初期に三河の海岸に漂流してきた崑崙人 ( インド人 ? ) がこの熱帯植物の種 子をもっていたというが、栽培法に通じなかったせいか、ひろまらなかった。 鎌倉期においては対宋貿易を通じてのごく少量の輸入品にすぎず、したがって庶民の手にはわ たっていない。 室町期の十五世紀には、朝鮮から輸入された。朝鮮は中国の陸つづきであるためにインドから 中国を経たこの植物の種子と栽培法が早い時期に入っていたのである。それでもなおこの輸入モ メンは奢侈品で、高級な具足製作などの軍需用につかわれるにすぎなかった。 国産化は戦国期にはじまるといっていいが、民需化できるほどの量ではなかった。 棉作が大いにさかんになるのは江戸初期以後のことで、この盛行が、十七世紀以後の生活史、 経済史さらには政治史にまで影響したことはおどろくばかりである。 話は、蝦夷地から離れて棉になっている。しばらく江戸期における棉のことを考えねば、蝦夷 地の勃興のことがわかりにく、 につばんえいたいぐら 西鶴の名作に『日本永代蔵』がある。 まめいちりう この町人物の連作のなかに「大豆一粒の光り堂」という短編があって、大和の佐保庄の小さな くすけ 在所に住んでいた小百姓の九介が主人公になっている。 九介は五十歳あまりまでは貧農だったが、勤勉なたちで、しだいに田畑がふえた。よく働くか ら稲のみのりもよく、それに、棉作をやると、ひとの棉畑よりもたくさんの「蝶」がついた。棉