ったことは一個の証拠といくつかの傍証がある。この国の支配者であるはずの慶喜はじつは物蔭 にいる大久保一蔵という者と、大きな外交問題について対決していたことになる。 幕威は、衰弱していた。 こういう時期に、幕府にとって長城ともいうべき新造艦開陽丸が横浜に入ったのである。 当時、横浜と品川沖に各藩あるいは各国の艦船があつまっており、さまざまな国旗や船旗をか かげていた。 東京・湯島の「日蘭学会」の幹事ャン・デ・フリース氏によれば、日本への回航のための航海 中、開陽丸は便宜上、オランダ国旗をかかげていた ( このためにオランダ政府は大蔵大臣をして 特別立法させたという。軍艦にかかげる国旗が、国内的にも対外的にもいかにむずかしいものか がわかる ) 。 回航のためのオランダ側の乗員は百九人である。榎本ら日本人は九人であった。操艦はむろん オランダ側がやったであろう。 道ャン・デ・フリース氏の文章 ( 「開陽丸の航跡」 ) は多くのオランダ側の資料にもとづいているが、 の横浜に入ってからオランダ国旗がおろされ、日本国旗がかかげられた、という旨、オランダ側の 回航要員の『寄港日記』によってあきらかにしている。さらに幕府の神奈川台場から二十一発の 礼砲がとどろいたという。こういう記録は日本側にない ( くり返すが、この記述の年月日は旧暦 によっている ) 。
横浜につくと、オランダ公使館がすべて面倒を見てくれた。赤松が旧幕臣であるために、オラ ンダ国がかれを保護するかたちをとらねば、身辺が危険だったのである。オランダ側が新政府に はん 交渉して「鎮守府」という判のある通行手形をくれて江戸へ入ることができた。 赤松が江戸の家に落ちついて数日してから、横浜のオランダ公使館から秘密の連絡があった。 「あなたの大砲がとどいている」 という。赤松は帰国にあたり、クルップ会社の最新式の連発砲を大小二門買ったのである。そ の「大」のほうがます着いた。 赤松は横浜へゆき、その物騒な荷物をうけとり、品川沖の榎本に、内密で連絡した。 「ぜひ、開陽丸にのせよう」 ということで、官軍の目をのがれつつ、夜陰、この大きなコモ包みをいくつにも分けて和船に 積んでは開陽丸に運んだ。和船の船頭や人夫は、このコモ包みが何であるかついに知らなかった という。大砲の組立ては造船家である赤松自身が開陽丸へゆき、艦上で作業した。使用法も士官 たちに教えたはすである。 赤松は終始、海軍の先輩であり、新政府に対する旧幕代表である勝海舟に相談していた形跡が あるらしいから、この大砲積みこみも勝は知っていたにちがいない。 薩にわからぬようにしてやればかまうまい と、勝はいったのではないか。 ほうち ただし、榎本軍に参加することだけは、勝はとめた。赤松は結局、徳川家のあたらしい封地で さっ
心を攬るようなこともいっさいしていなかった。なにしろ新政府は薩長土肥の田舎侍と政治的に 痴呆にちかい公家のよりあいである上、攘夷世論に乗っかって政権を奪ったためにその点の身動 きがさまをなしていなかった。 このため横浜で発行されている外字紙で新政府びいきのものはなく、このせいか、徳川方がい ずれ政権を回復するという観測をもつ者もあった。前項で引用した若いころのニコライ神父の文 章 ( 中村健之介氏・訳 ) でも、 ーーー慶喜がいずれ栄光につつまれて再来するのではないか。 という意味の、期待とも願望ともっかぬものをまじえて書かれているのは、ニコライだけでな 、横浜在住の外国人一般のそれでもあった。 新政府側は、旧幕艦隊をひきいる榎本に対し、手をつけずにいたわけではなかった。もともと 江戸開城 ( 西郷隆盛と勝とのあいだの交渉の成立は三月十三日、江戸城の武器引渡しは四月十一日 ) にあた って、江戸城と兵器だけでなく車艦のいっさいを新政府に渡すということになっていた。 道 が、海上の榎本だけは、 の「二百数十年の恩顧、武士の情」 海 という二点をたてにとって承知せず、品川沖でつねに臨戦態勢をとっていた。 勝は薩長に食言したことになり、窮してしまった。 ところがさらに驚いたのは江戸城の兵器をひきわたした翌日 ( 四月十二日 ) の末明、全艦隊が
道 の 道 榎本武揚 ( 釜次郎 ) ら留学生がオランダの海軍軍人の指導をうけつつ開陽丸を操艦して横浜に 帰ったのは、慶応三年 ( 一八六七 ) 三月二十六日 ( 旧暦、以下同 ) である。 開陽丸が日本の海にうかんだこの時期の政治状勢をすこしふれておきたい。 咸臨丸が太平洋を横断したときも、水夫のほとんどは塩飽のひとびとである。 その塩飽人が、オランダにまで行っている。榎本らにまじって留学した古川庄八の任務は、水 ・」がしら 夫小頭として海軍下士官のことをまなぶことにあった。さらにはかれは開陽建造現場で働き、職 工長としてのしごとも学んだらしい 帰国後、古川は榎本とともにかれが作った開陽丸に乗って品川を脱走し、蝦夷地で転戦したが、 のち海軍技師になり、横須賀造船所の製鋼工場や船具工場の工場長をつとめたといわれる。 これらのひとびとが、開陽丸の進水式のあと、晩餐会にのそんだのである。幕府は正規の海軍 武官の服装をきめていなかったから、やはり紋服に大小という姿で出席したのではなかろうか。 政治の海
140 えさし 幕末以来、江差港で沈没するまでの開陽丸ほど、政治の風浪のはげしい海を漂いつづけたふね もめすらしい 慶応三年 ( 一八六七 ) 末は、幕末における国内的緊張が発火点に達したときであった。 きか むか 徳川慶喜はその麾下をひきいて大坂城におり、京都で少年帝を擁している薩長と対いあってい る。人数の実数はこんにち推量しがたいが、大坂の旧幕軍がざっと五万、京都側は五千内外とい う推定数字もある。 しかも慶喜は開陽丸以下四隻の艦隊を大坂湾 ( 兵庫港や天保山沖 ) にうかべている。純軍事的に おおラシャ すべて大羅沙仕立てのもので、士官は榎本自身の写真でもわかるように、袖に金筋の入ったフ ロックコートにズボンという姿である。 艦内で仕立てたらしい このためラシャも裁縫ミシンもすべて横浜の商館から買い入れた。仕 立師がどういう人であったかよくわからないが、江差港内の海底からひきあげられたケレート・ マークル ( 仕立職 ) 亀吉と墨書された木札のぬしもそのひとりだったのではないか。 開陽丸の航跡
タイクン この文章においてニコライは、大君である徳川慶喜の資質を大きく評価していた。このことは 薩長の側でさえ「家康の再来」 ( 木戸孝允 ) として怖れていたようだから、この当時のごく一般的 な世評でもあった。 たとえばこの文章におけるニコライは、徳川幕府が瓦解したあとというのに、 前将軍には深謀があるのだといわれているし、彼が舞台に登場するのが、それも威風堂々栄 光につつまれて登場して来るのが待たれている。 と予測している。このあたり、若者であるニコライは、西洋的政治観でしか、当時の日本事情 を見る尺度をもっていなかったのであろう。 訳者中村健之介氏の「あとがき」によると、一八六九年にこの文章が載った『ロシア報知』と いうのは、この当時、ロシアでは有力な雑誌だったという、この三年前の六六年にドストエフス キーの『罪と罰』がこの雑誌に連載されたというのである。若いニコライの日本報告は幅ひろく 道知識人に読まれたに相違なく、そのなかには、この論文によって徳川国家が再興するとおもった の読者もいたにちがいない。 海 榎本武揚らが、世界第一級ーー木造であることを除いてーーの軍艦である開陽丸に乗って横浜 に帰ってきたときは、繰りかえしいうがまだ幕府は瓦解していない。その前月の二月六日には徳
「おえ、函館山だよ」 と、今さんは窓に顔をくつつけていった。函館湾を東から腕のように抱いている半島の先端に ある山で、かっては要塞地帯だった。 私には、べつに感慨はない。 が、この人にとっては幼稚園時代にしばしば登った山らしく、格別な思いがあるらしい 父武平は最後に日本郵船の欧州航路の船長となったが、勤めの関係で、函館、小樽、横浜、 大阪、神戸と転々し : ・ と、新潮社の『日本文学小辞典』の今東光の項にある。武平という人は明治の早々弘前を出て 函館商船学校に学んだという。 「おれの幼稚園のころ、この津軽海峡をロシアの軍艦が三隻とおったんだよ」 と、今さんがいったことがある。日露戦争など、世代がちがってしまうと、幻灯画の世界のよ うで、ふしぎな思いがした。 ちなみに、今さんがいうこの事態は、日露戦争の初期のころで、津軽海峡を通った軍艦という ウラジオ のは、当時日本が「浦塩艦隊」とよんでいた三隻の巨艦のことである。 当時、ロシアは本国の艦隊のほか、旅順に主力ともいうべき実勢の艦隊をもち、さらにウラジ オストックにも一等巡洋艦の艦隊をそなえ、あわせて極東の海をおさえていた。
行場 ( 当時 ) に不時着したときのことである。町の小さな旅館に泊まると、隣室の商人らしい泊 たかごえ ふすまご まり客何人かが酒を飲んで高声で話していた。襖越しにきこえてくるその言葉は、私などには一 語もわからなかったが、 今さんは、なっかしそうに声をひそめ、 「津軽衆だよ」 「あっははは、商談してやがる」 津軽衆も商談するであろう。ところが急に目を丸くして、 「おい、南部衆もいるよ」 といったのには、私のほうが驚いた 言葉でわかったらしい 。この人は方言の異才というべき人で、津軽弁の家庭にうまれ、函館、 横浜、神戸などで育ちながら、東京の下町言葉と山手言葉を同席する相手によって同時に使いわ けることができた。また初老以後に河内に住んであれほどみごとに河内弁を活字に定着させたの は、尋常な能力とは思われない 。この場合、襖越しに津軽弁と南部弁を聴きわけられるなど、異 道能というほかないが、しかし私がおどろいたのは「南部衆もまじっている」ということで、この å人が肩をすくめ、声をひそめたことであった。津軽衆と南部衆がいかに商利のためとはいえ同じ 酒を飲みあって一つ座敷で歓談しているというのは、異常事態であるようだった。 「やつばり、戦後なんだよ」 と、この人は真顔にもどっていった。太平洋戦争に敗けたおかげでこういう事態がおこりえた
う方法をとった。 結局、鉄は 2 バーセントの水酸化ナトリウム溶液、銅や真鍮は 5 バーセントのセスキ炭酸ナト リウム溶液、鉛は 2 バーセントのセキス炭酸ナトリウム溶液を用いるようになっている。 革、繊維、木材、和紙といった有機系遺物および陶器などは特別な溶液を用いず、水道水に一 定期間浸けるだけでいいらしい 町は、これらの技術指導を東京国立文化財研究所にたのんでいるが、現場での実施責任者は江 差高校の化学の先生である小林優幸氏であり、実際に作業をするのは江差高校の生徒たちである。 引きあげられた遺物のなかで、すぐには見当のつきにくいものもあるらしい たとえば体長の長い魚が蛇のように体をひとまきして尾ビレを跳ねあげている真鍮製の遺物が あった。装飾品であることはわかるが、何に使われたものかわからない。町で、オランダに問い あわせたところ、アムステルダムの国立海事博物館に所蔵されている船舶用のランプの装飾品と 同じものであることがわかった。本体のランプのほうは、まだ引きあげられていない 道この処理場の各棟を歩きつつ、赤松大三郎 ( 則良 ) の『半生談』の記述をおもいだしていた。 の榎本とともにオランダに留学した赤松は、榎本が開陽丸とともに帰国してからもなお残留して 海 いた。かれが横浜に帰ってきたときにはむろん幕府は瓦解し、上野の彰義隊もその二日前に潰滅 しており、品月沖には榎本が、艦体をひきいて天下の形勢を観望していた。赤松は榎本の旗艦開 陽丸を見て懐しかったにちがいない。
146 八日夜、慶喜座乗の開陽丸は江戸にむかって出港した。慶喜という日本最大の軍事勢力のぬし が、再戦をとなえてやまない味方 ( とくに会津兵 ) をだまして自軍を脱出したのである。類のな いことであった。 そのあと榎本は陸上で異変を知って海にもどった。かれは十二日、第二艦である富士山丸以下 をひきいておなじく江戸へむかった。 その年の四月十一日、江戸城が開城し、慶喜は水戸へ去った。かれはあとの処置いっさいを勝 海舟に一任した。 江戸城および幕府施設のいっさいは官軍のものになったが、ところがおどろくべきことに、榎 本が指揮する開陽丸以下の幕艦隊のみは官軍の思いのままにならず、江戸湾にうかんだ無言の威 圧を薩長に加えていた。 五月十五日、上野の山にこもる彰義隊が官軍によって攻めつぶされたが、榎本の海上勢力はそ のまま手つかずであった。薩長土肥の貧弱な海軍力ではとうてい榎本艦隊を撃っことができなか ったのである。 七月十七日、江戸は東京と改称された。しかし北越では河井継之助のひきいる長岡藩軍が頑強 に新政府に抵抗し、奥州には会津藩があり、また旧幕陸軍が江戸を脱走して各地で勢威を張って いる時期であった。横浜あたりの外国人の目からみれば、眼前に開陽丸の威容を見ていることで もあって、新政府に対する信用など持ちょうがなかった。 その上、新政府は親薩長の英国公使でさえうんざりするほど外交が拙劣で、居留地の外国人の