津軽 - みる会図書館


検索対象: 街道をゆく 15 (北海道の諸道)
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1. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

住ーし・け・ . り . 。 と、新井白石 ( 一六五七 ~ 一七二五 ) が、『藩翰譜』第九巻下の「津軽」の項で書いている。 白石の右の文章は簡単すぎて機微までは言いあらわせていない。 「津軽氏はもともと南部氏の家来だった」 とい , つのはど , つも本↓ョらしい 。しかし江戸期の津軽人にいわせると、もっと微妙なものがある ようである。 第一、右のように言い切られることを嫌う。主家の南部氏を裏切って独立したということは、 つまりは江戸的倫理でいえば不忠ということで、差しつかえがある。さらに南部氏の側からいえ ば「津軽地方はわが領土だったのを家臣の津軽氏によって奪われた」ということになり、失地回 復の情念を江戸期を通じて捨てなかった。江戸期における津軽家・南部家の仲のわるさはすさま じいもので、その伝統的感情はごく最近まで根づよくのこっていた。あるいはいまでもあるかも しれない。 たしか石坂洋次郎氏に『われら津軽衆』というおもしろい題の作品があったと記憶するが、こ の場合の津軽衆という衆は、南部衆に対するときにのみ使われる。たとえば他の隣人である秋田 の場合、秋田衆とはよばれない。 以下、またしても、二十余年前、今東光氏の随行記者として北海道にきたときの思い出になる みさわ が、私どもの乗った小さな飛行機が津軽海峡をわたろうとして密雲のために青森県三沢の米軍飛

2. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

のだとい , っことらしい ばんきょ しつ - 」く ともかくも天正年間 ( 一五七三 ~ 九一 I) に津軽に蟠踞していた津軽為信は、南部氏の桎梏から脱 して独立の大名として公認されるために、いちはやく小田原陣の秀吉のもとにやってきて、 「津軽を領しております為信と申す者でございます。御大名衆の末座に加えてくださればこれほ どの仕合わせはございませぬ」 よみ と言い、秀吉に嘉された。この一挙でもって、それまでかの地域で自立大名たる資格があいま いだった津軽氏が豊臣大名になったばかりか、主家の南部氏が主張するところの「主従関係」を も脱し、同格になったのである。 津軽為信は、まことにぬけめがなかった。かれは遠い津軽の地にありながら、京都を中心とす カカ る政治情勢の変化を巨細となく見ていた。京都人の深浦勘助という者を抱え、その種の仕事をさ せていたらしい 一方、南部氏の当主信直もこの種のことに鈍感ではなかった。かれも京都の商人を盛岡にひき よせていて絶えず往来させ、中央情勢の変化を見つめていたが、とくに奥州へ鷹を買いにくる京 都商人の田中清六という者を対中央外交・情報要員として重く用いていた。鷹をあきなう商人と いうのは中央・地方の公家、武家の権門に出入りしてその消息にあかるいのである。 南部信直は、決定的にぬかったのではない。みずから秀吉のもとにゆき、その傘下に入った。 たか

3. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

行場 ( 当時 ) に不時着したときのことである。町の小さな旅館に泊まると、隣室の商人らしい泊 たかごえ ふすまご まり客何人かが酒を飲んで高声で話していた。襖越しにきこえてくるその言葉は、私などには一 語もわからなかったが、 今さんは、なっかしそうに声をひそめ、 「津軽衆だよ」 「あっははは、商談してやがる」 津軽衆も商談するであろう。ところが急に目を丸くして、 「おい、南部衆もいるよ」 といったのには、私のほうが驚いた 言葉でわかったらしい 。この人は方言の異才というべき人で、津軽弁の家庭にうまれ、函館、 横浜、神戸などで育ちながら、東京の下町言葉と山手言葉を同席する相手によって同時に使いわ けることができた。また初老以後に河内に住んであれほどみごとに河内弁を活字に定着させたの は、尋常な能力とは思われない 。この場合、襖越しに津軽弁と南部弁を聴きわけられるなど、異 道能というほかないが、しかし私がおどろいたのは「南部衆もまじっている」ということで、この å人が肩をすくめ、声をひそめたことであった。津軽衆と南部衆がいかに商利のためとはいえ同じ 酒を飲みあって一つ座敷で歓談しているというのは、異常事態であるようだった。 「やつばり、戦後なんだよ」 と、この人は真顔にもどっていった。太平洋戦争に敗けたおかげでこういう事態がおこりえた

4. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

く把握するという全国検地がくわわった。この一原理を六十余州にひろげるというのが「一統」 の実質的な意味であった。信長・秀吉が選択した近世の原理といっていし てんがびと しかし秀吉は天正十五年 ( 一五八七 ) に九州を平定して実質上の天下人になったが、その力は 関東に及ばす、まして奥州は手つかずであった。 理由はいくつも考えられるが、多年民心を得てきた関東の支配者である小田原の北条氏の底カ を怖れたためといっていし が、天正十八年 ( 一五九〇 ) 四月に、小田原攻めがおこなわれ、その七月、北条氏が屈服する ことによって、関東は豊臣の勢力圏に入った。 それまでは、奥州はそれなりの天地であった。西からの変化を、北条氏の箱根の嶮がふせいで くれていたのである。 が、小田原攻めの段階が、奥州を動揺させた。奥州での覇権を志していた伊達政宗がほば秀吉 さんか の天下がさだまったとみてやむをえず小田原まできて秀吉政権の傘下に入ったのは、小田原攻囲 の二カ月後であった。 この小田原段階で、奥州侍としては伊達政宗よりも先んじた者がある。いまの青森県を勢力圏 道 のとしていた津軽為信がそれで、奥州人としては政宗以上の外交的機略家であったろう。 。しばらく津軽氏についてふれてみる。 津軽地方は、蝦夷地にちかい 為信 ( 註・津軽 ) は、世々南部 ( 註・いまの岩手県を勢力圏とする ) が被官として、津軽の地に

5. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

「ここだよ、この矢不来だよ、箱館攻めのときおれのくにの津軽の藩兵が官軍に駆りだされてこ の坂をのばったんだよ」 と、今氏は唐突にいった。 明治二年の箱館戦争のときのことを今氏はいっている。榎本武揚・大鳥圭介ら旧幕の士が箱館 え著 ) し 東北郊の五稜郭にこもっていた時期、新政府軍が江差に上陸し、福山城 ( 松前城 ) を陥とし、榎 本軍の箱館にせまったのは明治二年四月二十九日であった。榎本軍の箱館西方の防御線は矢不来 にあった。かれらは街道にそう要所要所に塁を築いて「官兵」の来るのを待った。 この矢不来攻撃に、津軽藩が参加したのである。 さき 「先へやらされてな、薩長の弾ふせぎに使われたんだよ」 と、今氏は、道路改修中の悪路に揺れながら、度のつよい近眼鏡を車の窓ガラスに近づけてい 弘前を城下とする津軽藩は、幕末、西日本の政情にうとかった。このため薩長が幕府を押しつ ぶしたあと、奥羽列藩同盟 ( 越後をふくめて三十三藩 ) という佐幕同盟に加わった。そのあと方針 道を変更して新政府に加担するのだが、かっての佐幕主義の汚点をぬぐうために箱館戦争では大い がに働いた。が、その後の弘前での伝承では、今氏のいうように、 道 海 矢不来の激戦では薩長の弾よけがわりに先へ立さされた。 ということであったかもしれない。たしかにこの小さな一局面の戦闘での津軽藩の損害は戦死 小さくなかった。 九人、負傷二十八人で、この時代の戦闘形態からみれば、

6. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

低ければ、この季節、この小さな飛行機ではどうにもならない、という。雲の中を飛ぶことにな るが、夏ならともかく、十月という季節なら翼に氷がくつつくことがあり、そのために機体が重 ときかされた。 くなって落ちるかもしれない、 みさわ 「雲の様子をみて、もしだめなら青森県の三沢の米軍の空港にたのんで不時着するそうです」 この場合、航空用語として不時着が正確だそうである。ところが今さんの回路はべつなほうに 電流が流れるらしく、 「三沢かい」 , っ . れ - 1 し挈」 , つに、 「あれは津軽に近いんだよ」 と、 いった。べつに豪胆な人ではなく、異常事態についての感受性が、どこかひととちがって 結局、三沢の米軍の軍用飛行場に降りるはめになった。化物のように大きな軍用輸送機が何機 も腹を地にすりつけるようにしてならんでいた。この人はそれをふりかえりふりかえりして見て、 道ついには空港の柵によりかかって見、行きましよう、とうながすと、夢から醒めたような顔をし のてついてきた。 その日は三沢の町の宿で一泊し、翌朝、津軽海峡を越えた。 津軽海峡は想像していた以上に狭く、下北半島の突端の大間崎をすぎると、対岸の北海道の海 岸がみえて、大陸の大河の河口もこういうぐあいだろうと思われた。

7. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

しかし津軽氏が小田原にゆくよりわずかに遅れたことが、南部衆的感覚でいえば、津軽領をうし なうもとになった。 さて、蝦夷地の松前氏のことである。 ーー奥州の者どももつぎつぎときたが、蝦夷の者はまだか。 という思いが、小田原陣のときの秀吉の脳裏を多少はかすめたかもわからない。 蝦夷地の様子は、鎌倉・室町における日本海航路による交易活動によって、中央に相当知られ ている。室町初頭の足利尊氏の時代である延文元年 ( 一三五六 ) に信州の諏訪明神で成立した 『諏訪大明神絵詞』に、すでに蝦夷地・千島の概況記述が相当こまかく出ているのである。 ただ当時はコメが政治と経済の基礎にあったため、コメの穫れない地としての蝦夷は、中央に とって魅力がうすく、秀吉が押しひろげている検地や兵農分離などが適用される基礎がなかった。 秀吉は関東を平定したあと、遠く会津に入り、若松で一泊し、次いで白河に転じ、このあと小 田原にもどって諸将の論功行賞をおこなった。 道この間、奥州の鎮撫と検地のために多少の諸将をのこした。担当の諸将は、前田利家、上杉景 よしつぐ の勝、浅野長政、大谷吉継らで、凡庸なひとたちではない。 このうち前田利家は出羽の検地をし、現在の山形県、秋田県を転々しつつ、ついに津軽にまで 至った。 どうなん このときーー天正十八年 ( 一五九〇 ) 十月末ーー現在の北海道の道南地方の要地に割拠してい

8. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

「おえ、函館山だよ」 と、今さんは窓に顔をくつつけていった。函館湾を東から腕のように抱いている半島の先端に ある山で、かっては要塞地帯だった。 私には、べつに感慨はない。 が、この人にとっては幼稚園時代にしばしば登った山らしく、格別な思いがあるらしい 父武平は最後に日本郵船の欧州航路の船長となったが、勤めの関係で、函館、小樽、横浜、 大阪、神戸と転々し : ・ と、新潮社の『日本文学小辞典』の今東光の項にある。武平という人は明治の早々弘前を出て 函館商船学校に学んだという。 「おれの幼稚園のころ、この津軽海峡をロシアの軍艦が三隻とおったんだよ」 と、今さんがいったことがある。日露戦争など、世代がちがってしまうと、幻灯画の世界のよ うで、ふしぎな思いがした。 ちなみに、今さんがいうこの事態は、日露戦争の初期のころで、津軽海峡を通った軍艦という ウラジオ のは、当時日本が「浦塩艦隊」とよんでいた三隻の巨艦のことである。 当時、ロシアは本国の艦隊のほか、旅順に主力ともいうべき実勢の艦隊をもち、さらにウラジ オストックにも一等巡洋艦の艦隊をそなえ、あわせて極東の海をおさえていた。

9. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

るようで、その絵に顔を近づけてじっと見ていたが、やがて通りかかったスチュワーデスをよび とめ、 「なぜおれの家の紋がここに描いてあるんだろう」 と質問した。 スチュワーデスがどう応答したかわすれたが、彼女が立ち去ってから、今家の家紋のいわれを 私に話した。何代か前の人が功によって藩主からこの定紋を頂戴したという。そういえば津軽の 殿様の定紋は鶴丸である。しかしそれにしてもこの人の自我の質量は日本人離れしていて、たい ていの事物は自己の同心円のなかに入ってくるようであり、入らない事物があればそれは敵意と いう色で染色された。このことは今さんの小説のなかでの人間描写の明さと無縁ではないかも しれない。 羽田でいったん降り、空港の片すみの格納庫へ行って、六人乗りの小さな飛行機と乗りかえた。 「小さな飛行機に乗ろうよ」 と、今さんは出発前に希望したために、その当時、私の会社が持っていたそういう飛行機をつ かうように手配されていた。いま乗ってきた日航機からみればオモチャのように小さく、色も子 供がよろこびそうな緑色に塗られていた。双発だが、胴が小さく、飛びあがると、昭和十年代の ダットサンが飛んでいるようで、気味がわるかった。 「津軽海峡の雲が低すぎるそうですよ」 と、私は、出発のときに、航空部長が私に言いふくめたことを今さんに伝えた。あまりに雲が

10. 街道をゆく 15 (北海道の諸道)

それでは他の日本と区別されてしまう、という意識が、この式を採用することをはばんだので ーー奥羽や道南では、日本の他の文化と、家屋そのものからしてちがっている。 カこ というふうには見られたくないという意識ーーー逆にいえば中央と均一化したがる意識 れをはばんできたのではないか。日本には、本格的な意味で独自な地方文化が育ったためしがな いということは、この一事でもわかるような気がする。 幕末、幕府は、津軽、南部、仙台藩などに蝦夷地警備を命じたが、おどろくほど多数の者が短 期間に病死している。そのうちの津軽藩の数字をなにかで読んだことがあるが、溶けるように死 んでゆくという感じで、しかも原因の追及もされなかったという鈍感さにおいて文明史的な事件 であるといっていし むろん、原因は簡単で、家屋 ( 兵舎 ) にあった。どの藩の陣屋も板張り一枚の構造なのである。 いわば折り詰弁当のヘギのような建物に人間を入れて亜寒帯の冬を過ごさせる実験をしたような 道ものであった。この家屋構造は明治初年の屯田兵の兵舎にもうけつがれた。いま旭川市にその遺 が構が保存されているが、その防寒配慮のなさはヴェトナム南部の家なみといっていし 海 予約しておいた湯川の宿につくと、本格的な近代ホテルの建物であった。わすか十二年前、お なじ土地での自分の体験が、江戸時代のたれかの体験談を読んだ記憶だったかと思えるほどに、