ンの文章によると、かれはフォストフの一件を知っていて、それによる日本の側の反発も予想し ていた。そのためこんどの測量航海にあたり、できるだけ日本人に遭遇すまいと注意していたが、 命じられた測量を遺漏なくおこないたかったことと、薪水が尽きたというような事情があって、 やむをえずこの島にやってきたらしい 日本側も緊張していたとはいえ、幸い、愛国的なヒステリーの発作をおこす者はいなかった。 ゴローニンの船が近づいたとき、日本側は多少発砲したが、その後、ゴローニンと最初に接触し たとき、日本側の責任者のひとりが、その発砲をわび、 「先年、ロシア船二隻が乱暴なことをしたために、同様の者がきたかと思い、発砲したのである。 しかしあなたがたの様子を見るのに、先年きた者とはまったくちがっている。われわれの敵意は まったく消えた」 と一一 = ロったらしい やがて美服を着たこの島の長官と会い、りつばな昼食のもてなしも受けた。やがてゴローニン は艦にもどりたいといって海岸へ去ろうとしたが、長官はそれだけはゆるさなかった。 道ゴローニンはやがて松前へ護送され、入獄の身になった。 の この間、ディアナ号の副長リコールドは、・ コローニン艦長を救助すべくあらゆる努力をはらっ 海た。いったんカムチャッカに帰り、イルクーックに在留中の日本の漂流民から希望者をつのり、 みかげかこ 一人を得、さらに前年にカムチャッカに漂着した摂津御影の水主七人をつれて国後島へ再来し、 日本側の好意を得るためにかれらをひきわたし、かっ文書をもってゴローニンをかえしてもらい
和人という、すでに本州で広域社会を形成していた闘争心のさかんなひとびとが組織的に移住 しはじめたのは文献では十三世紀ごろからである。先住者として、いうまでもなくすでにアイヌ が住んでいた。 最近の市町村の郷土史に対する態度は先住者としてのアイヌを尊重し、和人たちを割りこんで きた者として冷静に位置づけている。松前町の天守閣の博物館も松前氏の盛衰を物で見せるより もむしろ古い時代のアイヌの暮らしを民俗資料によって語るということに重点がおかれているよ うに思われた。 江差町が出している町勢要覧のバンフレットも、似たような態度をとっている。その冒頭に、 むかしこの地方 ( 註・江差町 ) は、静かで、豊かな平和郷であったことが、町内から発掘さ れる先住民族の遺物からうかがわれます。 しかし、約七百年前、本州各地の戦に敗れ、のがれてきた者や、難破船の漂流などで和人が 住みつくようになって平和な社会が乱され、長い間先住民族と和人の争いがつづきました。 と、書かれている。こういう姿勢で自分の土地の歴史を見るというのは、そのぶんだけわれわ れの社会の民度があがったとみていい。 ただ厄介なことは、先住民族時代が平和であったという規定が、詩としてはわかっても、物事 としては実証されにくいことである。
識にはもともと粘液質の実感がこびりつかねばならないのに、それが容易にできあがらなかった。 「タコ釣り」 とい , っ 農村からはみ出て東京へ出てきた若い者がぶらぶらしている。いまならあたり前の現象だが、 がん 募集人はそういう者に眼をつけ、甘言でだまし、周旋屋と結託して北海道のタコ部屋へ売りとば たまだ すのである。送り出すことを玉出しという。対象は当時多かったルンペンや家出人などだが、と きには大学生もいたし、まれには然るべき家の旦那もいたらしい。路上で仲よくなり、酒色を共 にし、あっというまに「玉出し」のために何輛か客車を借りきったいわば専用といっていい列車 にのせられて運ばれてゆく。 こんにちともなれば、それほどうまくゆくものかと思われたりするが、釣る者にとってさほど むずかしい仕事ではなかったらしい 貧困がずっしりと居すわった社会においては、あてどもなく東京へ出てきた農村の潜在失業者 に甘い息をふきかけるのはなんでもなかった。こんにちでも、結果のわかりきった・・ーーさらには 道生活に困っているわけでもないのにーーーサラリーマン金融の金を借りるひとが多いことをみても、 の人間というのは本来あまくできているのである。 海 日本史は、史料の多さからいっても、また人情が通うという点からいっても、室町期ぐらいか らほば見えやすくなってくる。
文禄二年 ( 一五九三 ) 正月二日、慶広は肥前名護屋についた。北海道人が九州へ行ったのは、 記録としては慶広とその従者が最初である。 「よくきた」 秀吉は、驚いたであろう。 慶広が到着して三日後に志摩守に任じさせる ( 前記『南部根元記』には松前志摩守とあるが、 九戸合戦のときは慶広は民部大輔だけで、志摩守ではない ) 。 秀吉は、朱印を捺した公式書類もあたえた。 松前において、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し、地下人に同じく、非分の儀申かける べからず。 松前は漁業地であるとともに、日本海貿易圏の最北端であった。松前氏は漁業と商業で食って いるのだが、その利益吸いあげの基礎には島人であるアイヌの協力もしくは労働がなければなら 秀吉は松前へやってくる和人どもがアイヌを地下人 ( 一般人 ) 同様にあっかうことを命じ、 道オし å非分を禁じ、もしそれにそむけば「速かに御誅罰を加えらるべき者なり」と、刑罰をもってのぞ んでいる。つまりは、松前氏をアイヌの保護者であるとし、あわせてアイヌに非分を働く外来者 に対する司法権も与えた。島主である資格をあたえたといっていい 徳川の世になると、幕府は右の公的資格のほかに「諸国から松前にくる者は、志摩守の許可な くのヘ
フォストフの艦隊には、六十余人 ( うち女が二人 ) の人員がいた。そのうち、フォストフ以下十 七人が三隻のポートに分乗して浜にむかってきた。それを陸上から、シャナ駐留の二百余人の両 藩のサムライどもが薄ばんやり見物していた。 「なぜ機先を制して射撃しないのか」 と、たまたま地理調査のために来島していた幕吏間宮林蔵が、この島での上級者 ( 会所下役取 締 ) の戸田又太夫という者にいったが、戸田はきかなかった。冒険家である林蔵と、平凡な藩吏 として日常の感覚の中にある戸田とのちがいである。 フォストフがえらんだわずか十六人の兵士というのは、勇敢というほかない。 それだけの人数で二百余人に戦いを仕掛け、射撃、突撃をくりかえし、これを追っぱらってし まった。津軽・南部兵は気の毒というほかなかった。島内の他の所にいた百余人をもふくめて島 こぎつけ じゅうを逃げまわった。っし 、に「命からがらクナシリ島 ( 国後島 ) へ漕付」 ( 箱館奉行所の田中伴四 郎が、江戸の知人に書き送った手紙 ) て息をついたという者もいた。この田中の手紙によれば指揮者 かよくない とい , つ。 「うつかりひょんとした人斗り三人行て居り候」 というふうに言い、くやしがっている。しかし江戸期の武士というのは、ほばこうしたもので あった。組織が戦闘を目的とするようにとぎすまされていないし、藩組織では命令系統があいま いな上に、西洋の軍隊のように常時戦闘の訓練がなされるというふうにはなっていないのである。 この箱館詰めの田中伴四郎という下級幕臣 ( 小普請役 ) は「日本は開けて以来、他国に負けたる
あいま 道路そのものの上を大波が飛んでいる。その合間を掻いくぐって走るのだが、この夜、銭函の小 屋でケプロンもさすがに気が滅入ってしまったらしい このときのかれには仲間の米国人が同行していない。数人の日本人従僕のほかに、通訳を兼ね て開拓使大主典という高等官が随行していた。若い薩人であった。 「こんな所で」 と、かれはなげく。 前途の見通しについて語りあう一人の友もなく、通訳が一人居るが、ロ数がすくないばかり か、頭のほうはもっとすくない ゅじさだもと この通訳を兼ねた随行者のことをケプロンは Eugee とよんでいた。湯地定基という人物のこ とである ( 薩摩ではユをイユと発音する ) 。天保十四年 ( 一八四三 ) うまれだからこのとき二十九歳 いもづる ( 一九二八没 ) であった。芋蔓といわれた薩摩閥の仕組みにあっては、凡庸な者でも高官にして、 他県出身者の上に立たせるのである。 薩人大久保利通を頂点とした明治初期政権というのは、一面において文明開化を造成する唯一 の機関であった。その主要部に薩長人がすわっていたが、かれら自身が有能だったというよりも、 かれらそれぞれの下部組織に、幕末からすでに能力の点で試験済みだった旧幕人や旧諸藩人が配 置されていたことが、この政権にプラスした。
のだとい , っことらしい ばんきょ しつ - 」く ともかくも天正年間 ( 一五七三 ~ 九一 I) に津軽に蟠踞していた津軽為信は、南部氏の桎梏から脱 して独立の大名として公認されるために、いちはやく小田原陣の秀吉のもとにやってきて、 「津軽を領しております為信と申す者でございます。御大名衆の末座に加えてくださればこれほ どの仕合わせはございませぬ」 よみ と言い、秀吉に嘉された。この一挙でもって、それまでかの地域で自立大名たる資格があいま いだった津軽氏が豊臣大名になったばかりか、主家の南部氏が主張するところの「主従関係」を も脱し、同格になったのである。 津軽為信は、まことにぬけめがなかった。かれは遠い津軽の地にありながら、京都を中心とす カカ る政治情勢の変化を巨細となく見ていた。京都人の深浦勘助という者を抱え、その種の仕事をさ せていたらしい 一方、南部氏の当主信直もこの種のことに鈍感ではなかった。かれも京都の商人を盛岡にひき よせていて絶えず往来させ、中央情勢の変化を見つめていたが、とくに奥州へ鷹を買いにくる京 都商人の田中清六という者を対中央外交・情報要員として重く用いていた。鷹をあきなう商人と いうのは中央・地方の公家、武家の権門に出入りしてその消息にあかるいのである。 南部信直は、決定的にぬかったのではない。みずから秀吉のもとにゆき、その傘下に入った。 たか
152 「どうも、敵も味方も居そうにない」 榎本は望遠鏡をのそいてはつぶやいた。 たしかにそうであった。この時期、味方の土方軍は江差まであと五、六キロという上ノ国付近 で松前兵の抵抗に遭って行軍が手間どっていたし、江差を守る敵の松前藩兵は状況の不利に堪え かねて撤退してしまっていた。 かもめ 江差港は、港外の鵐島 ( 弁天島 ) が港を風浪からまもっている。松前藩はかってこの島に砲台 を築いていたが、この朝、その砲台も沈黙していた。ためしに射ってみようと榎本はおもい、砲 門をひらき、砲弾を送ってみたが、応射して来なかった。 このあと榎本は短艇を出して兵員を上陸させると、町に敵も味方もおらず、難なく諸役所を占 領した。榎本自身も、上陸した。多くの者が、ぞろそろと上陸した。 からうま 艦は、ちょうど門外につながれた空馬のように、港外に錨をおろして停泊した。 本本し。、いくつもの美質があった。しかし海軍を学んで幕府の提督だったわりには、すぐれ た航海者とはいえなかったのではないか。 もし彼が練達の航海者なら、江差の町で休息しているあいだに、寸刻を惜しんで江差港の内外 を測量させていたであろう。江差付近については、むろん海図などはない。そういう不案内な港 口付近に悠々と大艦と停めておくということに榎本は不安を感じなかったのかどうか。 いまひとつは、気象に注意すべきであった。 かみくに
きこまれ、やがてはアイヌが奴隷的な賃銀労働者に転落してゆくきっかけになった。 直接、アイヌや流浪の漁民をとりあっかう手代というのは、間接的に藩権力を笠に着、どうい う悪辣なことをやったか、想像に難くない 江戸末期になると、松前藩の強烈なアイヌ搾取の実情は探険家を兼ねて蝦夷地に入りこんでく る幕吏たちの知るところとなり、幕閣に報告され、 蝦夷地を松前藩にまかせておけない。 という考え方が、幕閣を圧倒的に支配するようになる。探険家たちのほとんどがアイヌへの同 情者であり、松前藩への痛烈な批判者であったことは、明治以前の蝦夷地史を考える上でのわず かな救いといっていし 天明八年 ( 一七八八 ) に幕府が恒例の巡見使を出したが、この一行の供をした俳人の古川古松 軒 ( 一七二六 ~ 一八〇七 ) が『東遊雑記』を書いている。 かれらは、松前城下では三人の家老の屋敷に分宿した。その屋敷の規模は「門構、玄関に至る 道迄、江戸にて云はば諸侯の館の如し」と古松軒は松前藩の重臣の富におどろいている。 の家老でもない松前貢の居宅についても、江戸にひきあわせていえば、 「一万石の館程はあり」 レニ = ロ , つ。 古松軒と似たような時期に松前城下にきた江戸の狂歌師平秩東作 ( 一七二六 ~ 八九 ) は、城下一 へずっとうさく
182 ある。空気の流通などをよくすれば、たとえ肺結核をまぬがれてもたちまち肺炎になってしまう。 佐渡の人で、司馬凌海という幕末の医学者がいた。長崎でポンべに学んだ。学んだなかでもと くに病人には病室の空気をつねに新鮮にしておく必要があるということを肝に銘じ、佐渡にかえ って開業したときそれを実践した。かれは患家へゆくとやにわに窓を開け放ってしまうのである。 他に火鉢程度の採煖法しかない日本の住居装置では病人が寒風にさらされてしまい、ついにたれ も凌海に診てもらうものがなくなった。 このことは西洋と日本という大げさな課題にもなりうる。西洋医学の臨床を日本で実施すると きには、家屋からして変えねばならないということになる。あるいは物としての家屋以前の住居 思想を一変させねばならず、さらにいえば住居思想の点でまだ弥生式段階であった十九世紀の日 本において、北海道だけを米国式に仕立てようとする黒田・ケプロンの期待がいかに困難なもの であったかが想像できる。 黒田たちは、ストーヴというものがこの世にあるということから驚かねばならす、それを普及 することからはじめねばならなかった。 日 , ・に つまり北海道にーー・ストーヴが導入されるのは、じつは先例がある。 しもつけやすのり 安政元年 ( 一八五四 ) に箱館奉行として赴任した竹内下野守保徳は幕臣としては多少先見性を あやさぶろう もった人物であった。安政三年、五稜郭の設計者である蘭学者武田斐三郎 ( 伊予人 ) に命じスト ーヴをつくらせたというのである。