みつつもそのようなことをせざるをえなかったのである。 蝦夷松前の領主松前慶広は、中国でいえば明代のひとであった。かれが文禄二年 ( 一五九三 ) 正月に名護屋の徳川家康をその陣屋に訪うたときに脱いだ蝦夷錦 ( とおもわれる ) の十徳は、以上 のような経路をつたって蝦夷地のアイヌが手に入れたもので、むろん松前慶広という蝦夷地の居 住者は、山丹交易の世界をよく知っていたはずであった。 ひるがえっていえば、その当時の蝦夷アイヌの交易世界がそれほどに広大だったということで もある。 かれらは樺太アイヌに、和人から得た鉄器を渡して山丹の錦を手に入れ、それをまた和人に渡 して鉄器その他必要なものを手に入れていた。 もっともこの経路図を考えると、中間にいる″商人〃としての蝦夷アイヌも樺太アイヌも、ど れだけ儲けていたか疑問である。儲けたのは錦を本土に持ち帰って高く売っていた和人の商人だ けではなかったか。 道「なるほど、世界は広大なものよの」 の と、家康は慶広から山丹交易のはなしをきいて、そのように感嘆したかどうか。 道 海 まくりよなんわ 明は漢民族の王朝で、さまざまな理由からさほどに豊かでない上に、当時、北虜南倭といわれ た北方の騎馬民族や南方沿岸の倭冦のわずらいになやまされつづけた。「南倭」の最大のものが、
珍重された蝦夷錦でなければ、家康がわざわざほめもしなかったし、慶広も献じもしなかった。 慶広は家康が目をみはるにちがいないということを計算の上でーーーその場合は献ずるつもりで 蝦夷錦を着て行ったのである。 蝦夷錦は、言葉どおり蝦夷地からもたらされた錦のことをいう。 豪奢なもので、室町期は能衣装につかわれたこともあったらしい。身分の高い武将の陣羽織に もっかわれることもあったが、数がすくないために普通目にふれるものではなかった。江戸期に はすこしは輸入量もふえたのか、袈裟や女帯につかわれたりしている。 元来、アイヌが持っているものであった。 かれらが、本土から航海してくる商人に売りつけたり、ときに松前氏に献上したりする。 アイヌの酋長でも有力な者になると、蝦夷錦の明の官服仕立のものを着て儀礼に出てきたりし しゆす た。最初、本土からきた和人の商人がこれをみて驚いたに相違ない。ふつう繻子地で、色は紺で もよう あったり、萌黄であったり、赤であったりする。文様は多くは雲竜で、金糸や銀で縫いだされて 道いる。 が「どこで手に入れた」 と、狡猾な和人がたずねたにちがいない。 からふと アイヌは正直という定評があった。かれらは樺太アイヌから買うと答えたはずであった。その 樺太アイヌはどこの何者から買うのか、ときくと、 もえぎ
しかし津軽氏が小田原にゆくよりわずかに遅れたことが、南部衆的感覚でいえば、津軽領をうし なうもとになった。 さて、蝦夷地の松前氏のことである。 ーー奥州の者どももつぎつぎときたが、蝦夷の者はまだか。 という思いが、小田原陣のときの秀吉の脳裏を多少はかすめたかもわからない。 蝦夷地の様子は、鎌倉・室町における日本海航路による交易活動によって、中央に相当知られ ている。室町初頭の足利尊氏の時代である延文元年 ( 一三五六 ) に信州の諏訪明神で成立した 『諏訪大明神絵詞』に、すでに蝦夷地・千島の概況記述が相当こまかく出ているのである。 ただ当時はコメが政治と経済の基礎にあったため、コメの穫れない地としての蝦夷は、中央に とって魅力がうすく、秀吉が押しひろげている検地や兵農分離などが適用される基礎がなかった。 秀吉は関東を平定したあと、遠く会津に入り、若松で一泊し、次いで白河に転じ、このあと小 田原にもどって諸将の論功行賞をおこなった。 道この間、奥州の鎮撫と検地のために多少の諸将をのこした。担当の諸将は、前田利家、上杉景 よしつぐ の勝、浅野長政、大谷吉継らで、凡庸なひとたちではない。 このうち前田利家は出羽の検地をし、現在の山形県、秋田県を転々しつつ、ついに津軽にまで 至った。 どうなん このときーー天正十八年 ( 一五九〇 ) 十月末ーー現在の北海道の道南地方の要地に割拠してい
すこしは、想像できる。 ひた かれらが身を浸していた時勢は、ペ リーによるショックが拡大し、深化していたころである。 攘夷論の沸騰とともに「北門の鎖鑰」ということばが志士のあいだで流行していた。 一方、幕府は箱館を開港し、安政二年 ( 一八五五 ) にとくに箱館奉行の人選を厳重にして経綸 と抱負をもった人材を送るようにつとめた。その下役たちも、気骨を持った者が多く、幕吏荒井 金助などもそういうひとりだったにちがいない 荒井は江戸を発っとき、当時蝦夷地に赴任する幕吏の多くがそうであったように、従者として 異能の人を選んだ。 「志村という浪人の剣客がいる」 と、たれかが教えたか、あるいは志村が荒井家に出入りしていたのか。 荒井金助が石狩役所に着任したのは安政四年 ( 一八五七 ) 三月であった。雪どけを待ち、志村 をつれて管内の原野を視察した。 道現在の札幌の南西方山地から水をあつめて東流してくるのが豊平川で、この流れが石狩平野に の出たところで土砂を大きく扇状に堆積させ、このため他の土地よりもやや高い。これがいまの札 海 幌の地である。荒井は、今後、このあたりが交通の要衝になるとみて、 「志村よ、この豊平川のこのあたりで渡し守をせんか」 つうこうや 渡し守を兼ねて「通行屋」という宿泊所を経営させるのである。志村はその言葉に従い、川の 一やく
資本の町になったのは、この界隈の問屋が棉作用の干鰊を肥料としてあっかうようになってから であった。 鰊はすべて蝦夷地から運ばれてくる。 それまで蝦夷地の漁業は主として食料資源として認識されていたものであったが、棉作の盛行 以来、認識も実態も一変してしまった。鰊をとることが、日本中の老若男女にモメンを着せると いう因果関係になって行ったのである。上代以来、冬でも麻を着ていた庶民は、かっては絹以上 に珍重されたこの繊維をごく安価にもとめて寒中のしのぎとした。 モメンの無制限というにちかい需要に対して、五畿内にほばかぎられていた棉作地が、棉の適 地をことごとく覆いつくすほどの勢いでひろがって行った。モメンをめぐる国民経済の発熱状態 というものが、まわりまわって個人生活にとってどのように苛烈なものであったか、それを想像 させる文献史料がない。 しかし、海運は飛躍的に盛大になった。蝦夷地から鰊を運んで日本海まわりで大坂の河口港に 入る北前船は、広域経済の成立の上で大きな役割をはたしつつ、日本中の船乗りの晴舞台の航路 かみがた 道にもなり、また日本海諸港を商港として繁栄させ、さらには上方文化を出羽から松前にかけてひ ろめる上でも動脈の機能を持った。 道 海 当時、二千万近い人口があったとして、このことごとくに綿製品を着せるとなると、大変であ
れいろう かうざん 江山を望み、諸人欣然奮躍。・ : : ・甲板上に出で、四方を望むに、積雪山を埋め、人家も玲瓏 として実に銀界の景也。 なんか と、陸軍部隊の将である旧幕臣大鳥圭介 ( 一八三三 ~ 一九一一 ) がその著『南柯紀行』に書いて いる。大鳥は播州の村医者の子で、大坂の緒方洪庵塾で蘭学をまなび、幕府瓦解の二年前に幕臣 になり、歩兵奉行として洋式歩兵の訓練にあたった。その文章は論旨が明晰で表現が的確である。 甲板上で見た白銀の山は、駒ヶ岳であったろう。 えぞち ( 蝦夷地には、雨露をしのぐべき人家もないにちがいない ) と、大鳥たちは思っていた。 江戸中期以後、蝦夷地への認識が高まり、すぐれた探険家たちが入り、地理の調査や測量など が大いにすすんでいたし、その上、幕末になって志士のあいだで北辺の開拓と警備論が大いに流 行した。たとえば、土佐脱藩浪士の坂本竜馬などは大政奉還ののち、持説の北辺開拓をとなえ、 すでに世が定まった以上、京都に充満している浪人志士のゆきどころがなくなった。大挙 道 のして蝦夷地の開拓をしよう。 海などといっていたが、一般の認識はひくく、たとえば道南の地に、松前藩が古くから江戸的体 制を布いていたということさえ知らない人が多かったはすである。当時の代表的知識人である大 鳥圭介でさえ、
きこまれ、やがてはアイヌが奴隷的な賃銀労働者に転落してゆくきっかけになった。 直接、アイヌや流浪の漁民をとりあっかう手代というのは、間接的に藩権力を笠に着、どうい う悪辣なことをやったか、想像に難くない 江戸末期になると、松前藩の強烈なアイヌ搾取の実情は探険家を兼ねて蝦夷地に入りこんでく る幕吏たちの知るところとなり、幕閣に報告され、 蝦夷地を松前藩にまかせておけない。 という考え方が、幕閣を圧倒的に支配するようになる。探険家たちのほとんどがアイヌへの同 情者であり、松前藩への痛烈な批判者であったことは、明治以前の蝦夷地史を考える上でのわず かな救いといっていし 天明八年 ( 一七八八 ) に幕府が恒例の巡見使を出したが、この一行の供をした俳人の古川古松 軒 ( 一七二六 ~ 一八〇七 ) が『東遊雑記』を書いている。 かれらは、松前城下では三人の家老の屋敷に分宿した。その屋敷の規模は「門構、玄関に至る 道迄、江戸にて云はば諸侯の館の如し」と古松軒は松前藩の重臣の富におどろいている。 の家老でもない松前貢の居宅についても、江戸にひきあわせていえば、 「一万石の館程はあり」 レニ = ロ , つ。 古松軒と似たような時期に松前城下にきた江戸の狂歌師平秩東作 ( 一七二六 ~ 八九 ) は、城下一 へずっとうさく
じきのり 辰悦丸の初航海は、寛政八年 ( 一七九六 ) 春である。かれみずから直乗船頭になり、兵庫から 酒、塩、綿布などを積み、出羽の酒田では米を積みこみ、遠く箱館へ行った。帰路は蝦夷地の物 産が積まれた。翌年は呉服も積まれた。持船の数もふえ、五年後には十一隻になり、どの船もた えず稼動していた。 嘉兵衛は、内国交易の蝦夷地における根拠地として箱館を最初に見出した人物といっていい。 どのように粗雑な地図をひろげても、北海道で対本州関係の良港は函館以外にないことがわか るが、初期の松前藩はここに城下を置くことをおそれた。内陸のアイヌが反乱をおこして襲って きた場合、箱館の後背地が広濶で防御しにくいことに難を感じたのであろうということは、すで に触れた。松前藩ほど単純な保守性をつらぬいてきた藩もめすらしい。歴世アイヌを搾取する以 外にどういう思想も態度も見出せなかったこと、その反乱をおそれるという姿勢が、草創以来、 明治の瓦解まで変らなかった。海港としても箱館を重視せす、福山 ( 松前藩の城下 ) のような自然 条件のわるい港に固執してきた。むろん藩に依存する ( というより松前藩の場合、藩が全面的に 道依存している ) 大商人の資本は福山に集中し、それにともなって船舶の出入りも多い えさし が蝦夷地では江差港がこれに次ぎ、箱館はその半分に満たなかったといわれている。 海嘉兵衛がこの箱館で商業権を確立しただけでもこの町の恩人といっていい。 嘉兵衛は航海者としてもすぐれていた。
85 北海道の諸道 くなった。宮崎氏は、清の『雍正珠批諭旨李衛四』という文献での「従前七、八千人あまりであ ったが、近頃また二千人あまりふえた」という旨の記述に注目しておられる。 これら蘇州の盛大な生産力と技術による製品が、はるかに黒竜江の下流にまで行っていたとい うのは驚嘆すべきことであろう。 タイガ それらが、平素、シ・ヘリアの森林で小動物を獲っている狩猟民族の手に入り、それが樺太アイ ヌ、蝦夷アイヌの手を経、やがて本州にきてあざやかな蝦夷錦になって珍重されていたというの は、「サンマは目黒にかぎる」というおかしさ以上に数奇である。 もっとも、この現象も、帝政ロシアのシベリア征服の活発化とともに衰えてしまう。自然、江 戸期のある時期から蝦夷錦というものも日本の本州に入りにくくなり、さらに日本の万延元年 ( 一八六〇 ) 、清国がロシアに対してウスリー江以東を放棄したことで、まったく絶えてしまった。 カラスが多いことにおどろいた。 「あいつが、函館の名物のようで」 松前の孟宗竹
と、ほめたとい , つ。 榎本に残されたのは、開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田丸の四隻であった。 八月十九日、榎本はこれらをひきいて品川沖を脱走し、北にむかった。 若いニコライ神父は、この榎本の行動が好きであったらしい。一八六九年、本国で発表した前 掲の論文のなかで、 タイクン イナモト ただ大君 ( 註・徳川将軍 ) の海軍大将榎本のみは、最後までその任務をまっとうした。一一艘 の戦艦と五〇〇〇の勇猛果敢な戦士を率いて彼は、箱館にあった天皇政府出先機関を駆逐し マツマエ 松前の侯も逐ってしまって、蝦夷全島を支配下に置いた。 、、かにも痛快げに書いている。 えのもとたけあき 榎本武揚が開陽丸以下の艦隊に陸兵を満載 ( 海陸兵三千五百人 ) し、厳冬の蝦夷地へむかったの と 江差の風浪